「セクハラ」雑考

 「セクハラ」が、日々あちこちで喧伝されております。

 テレビや新聞、週刊誌といった既成のマス・メディアは言うに及ばず、いまどきのweb環境での各種情報発信、既成メディアにぶら下がる、あるいはそうでないものも含めて公的私的入り乱れての複合環境で、とにかくもう各種「セクハラ」が同時多発に語られるようになっている。こういう情報環境のさかりのついた犬猫並みの発情っぷりは、メディア・スクラムなどと小賢しく言うまでもなく、そうやって報じられているのがいかに大事なできごとであろうとも、受けとる側にしてみたらみるみるうちに辟易させられるのがお約束。報道されることとされないことの間にこういう鈍麻感、食傷感覚が広く横たわるようになっている経験も、思えばもう日常化して久しい。

 つらつら眺めていて感じるのは、あれこれ取り沙汰されている各界御仁、政治家や官僚、芸能人その他の個々のやらかし具合はさておき、それらをとにかく「セクハラ」というもの言いに反射的に紐付けるようになってしまっている、メディアも含めたその発情ぶりの方です。字義通りの「セクシャル・ハラスメント」という以上に、何か別の意味あいが、騒いでいる人がた自身も意識せざるところも含めて、込められているとしか思えない。言ってしまえば、生身のニンゲンというやつは存在しているだけで平然と性的である、というあたりの〈リアル〉について、われら同胞たちが昨今どれくらい混乱せざるを得なくなっているのか、さらにていねいに言うなら、そういう種類の〈リアル〉を意味づけて安定させ制御させてゆくためのことばともの言いの作法それ自体が、すでに〈いま・ここ〉と乖離したまんま役に立たなくなっているということの反映のように見えます。

 たとえば、政治家にせよ財界人にせよ、いずれそういう「エラい人」なら妾のひとりも持って何も不思議はなかった。「蓄財」と同じように「蓄妾」というもの言いもあったし、そのようにして生きてゆく人生もまた当たり前にあり得た。それらが現在のものさしからして不適切なものであったとしても、かつてそういう〈リアル〉もあり、それでまわっていた現実は確かにあったということは、まず認めねばならない。その上で、オトコとオンナが別の現実、異なる世間をそれぞれ生きていて、それもまた言わずもがなの当たり前として共有されていて、だからこそわざわざつぶさにことばにしなくてもよかった状況からすでに遠く、それら棲み分けられてきたそれぞれの〈リアル〉を「翻訳」してゆくためのことばやもの言いが切実に求められているという現在を認識することから、共に始めねばならないはずです。

 なのに、未だそんなことばは見つかっていない。性的存在としてのニンゲンということを、いまの時代のこのような情報環境で生きている感覚にできるだけ即したところでことばにしてゆくことができないまま、それらに由来する不快感や違和感、不信感などいずれネガティヴな感覚だけが、正当に意味づけられないモヤモヤとして〈いま・ここ〉に鈍く充満している。「セクハラ」というもの言いだけがこうまでお手軽に氾濫するようになった背景というのも、ある水準ではそのような「穏当なことばやもの言いの不在」がどうやら横たわっている。

 かつて戦争に負けた後、「封建的」というもの言いが流行したらしい。あ、それって封建的だよね、というひとことで何かわかった気になれた、〈いま・ここ〉の感覚にそぐわない不愉快な感じを当座ひとまず「そういうことだよね」と意味づけて流してゆくことができた、そんなものだったようです。「セクハラ」もまた、その「封建的」とよく似た当座しのぎ、急場を間に合わせる絆創膏(これももう説明しないとわからないかも)的なもの言いとしてだけ、web含めた最先端の情報環境に蔓延している。その程度にわれら同胞、母語であるはずの日本語環境の「改革」には未だこれといった成果をあげられていないまま、21世紀の〈いま・ここ〉を不機嫌な顔で生きているようです。

「貧しさ」の語られ方について――「サムライの子」をめぐる〈リアル〉の諸相

*1

――つねにわたしたちの論拠は〈児童文学〉という限定された、しかも複雑怪奇とまでいわれるほどに特殊な分野であって、そこに生起するさまざまの事象は文学一般の概念規定とはくい違うほどに独自の、偏狭な意味内容をもつ曖昧なことばによって表現されることが珍しくないのだ。*2

――これはこの世におよそ存在すべくもない物語である。この一家のような善意が存在しないというのではない。そういう善意ならむしろこの世にはありふれていて、人がよくて感傷的な人間がそういう善意の発作にとらえられるのはめずらしくもない出来ごとである。しかし、そういう善意の発作が最後まで貫徹されることがけっしてありえないことを、人びとはわが身の経験として知っている。*3

――要するに、現在、われわれは、説話の具体の世界から、文学の抽象の世界へ到達し、さらにまた、文学の世界を踏まえて映画やラジオやテレビの具体の世界へ飛躍しつつあるのではないか。*4


はじめに――ひとつの「おはなし」、三つの出力

 手もとに、どれも同じ「サムライの子」と名づけられた「おはなし」のテキストが三種類あります。ひとつはいわゆる児童文学、もうひとつはマンガ、そして残るひとつが映画の脚本、いわゆるシナリオになります。どれも今からもう60年ほど前、1960年代の始めに書かれ、作られたものです。*5

 それぞれが創作作品として作られた時系列は、以下の通り。

山中恒『サムライの子』講談社、1960年。(1960年第1回講談社児童文学新人賞 佳作)


つのだじろう『サムライの子』虫プロ商事、1969年。(初出『なかよし』講談社、1962年1月号〜12月号連載)


今村昌平『サムライの子』日活・映画脚本、推定1962年。(映画公開、1963年2月)


 最初のテキストが「原作」として、その後のマンガにも映画脚本にも著者名の山中恒と共にクレジットされています。そういう意味での「オリジナル」は、この文字の「おはなし」であると見るべきでしょう。それがマンガになり、映画へも転生してゆく際に何がどう変わってゆき、「おはなし」としての輪郭がどう移り変わっていったのか、について見てゆこうとすることで、その過程でそれぞれの作品に対して当時宿ったであろう「読み」のあり方の違いと共に、その背後にどうやらジャンルを越えて共有されていたらしい〈リアル〉のあり方について考えてみます。*6

 この「サムライの子」については、もとの「原作」自体も、そしてそこから転生していったマンガも映画脚本も、どれもそれぞれのテキストの向こう側に当時の具体的な社会相に対してそれぞれの作り手たちが実際に現地に赴き、現場に寄り添った見聞や体験を下敷きにしながら自覚的に行なわれた「取材」を介して創作されている点で共通しています。それは単に「原作」に対する2次、3次的改変というテキストの水準での表層的な手入れや手直しだけでなく、個々それぞれの「取材」体験を介在させながら同時代人としての彼らが想定していたらしい何らかの〈リアル〉に対してどれだけ接近・肉薄できるか、というモティベーションと共に各々に課された作業に向かっていったらしい。三者の間にある共有された〈リアル〉が宿ってもいたらしい、というのはそういう文脈においてになります。

 児童文学―マンガ―映画、というこれら三方向の異なるメディアを介した同じ「おはなし」としての出力を引き比べながら、それぞれに求められていた当時の状況――個々の創作物に負荷としてかかってくる商品という性格ゆえの市場的な要求や、当時の情報環境における各々の創作ジャンルに伴っていた各種の制限や特質、その他――もできるだけ補助線として織り込みつつ、そこに共通して宿ったらしい当時の〈リアル〉が、ひとまずこの場での問いの焦点になります。




児童文学としての「サムライの子」

 「サムライの子」とは、ひとまず次のような「おはなし」です。

 舞台は北海道、敗戦後のおそらく小樽とおぼしき港町です。わけあって北見紋別の祖母のもとで育っていた主人公の少女田島ユミは、離れて暮していた父親がこの港町の市営住宅に入れることになったから、と呼び寄せられます。市営住宅と聞いて当時もてはやされ始めていたハイカラな集合団地を想像してわくわくしていたユミですが、いざその港町に着いてみると街はずれのゴム工場の裏のバラックに毛の生えたようなもの。しかも父親の仕事は地元で「サムライ」と呼ばれているバタ屋で、まわりも同じような人たちの住む「サムライ部落」でした。地元の小学校に編入し通うようになったこのユミが、転校生として新たな環境になじんでゆこうとする時に、この「サムライ部落」に住むバタ屋の娘としての属性が港町に住むまわりの人間たちとの関係にさまざまに影を落としてゆく。そんな中で、ユミがそのような周囲の視線を意識しながら、あれこれ起こる身の回りのできごとに巻き込まれながらも、しかしいじけることなく貧しいバタ屋の娘として胸を張って生きてゆこうと思うまでに変わってゆく、敢えてひとくくりに言うならそういう少女の社会的自我の「自立」の過程が主題となっている作品です。
 作者の山中恒は、戦後の児童文学を語る上でも、あるいはもう少し拡げた思想史的文脈においても、独自の存在感を示してきた書き手です。生まれたのは北海道の小樽で、戦時中は神奈川県の平塚に転居、空襲が激しくなってくると疎開という意味あいで敗戦前に再び北海道に戻ってくるといった生活歴を持つ家庭に育っています。この「サムライの子」の少し前、「赤毛のポチ」で注目を集め、当時の児童文学の世間で気鋭の若手作家として知られるようになっていました。*7赤毛のポチ」はもともと、彼が在籍していた早稲田大学児童文学研究会から生まれた同人誌『小さな仲間』に三年間にわたって連載されていたもので、炭坑住宅に住む一家とその周囲の人々を主人公にした内容と共に、最終的に600枚にも及ぶというその頃の児童文学として異例のボリュームの長編読物になっていたという意味でも、連載中から話題を呼んだようです。*8そんな彼が一躍、大手出版社である講談社の児童文学新人賞に応募し、佳作入選したのがこの「サムライの子」でした。

 児童文学という分野は戦後の過程で一時期、大きくなり、大学以下いわゆるアカデミズムの世間でも確かな居場所を確保するようになりました。特に高度成長期の「豊かさ」を前提にもたらされた高等教育機関の拡充期には、全国各地に新設されていった私立大学や短期大学の教員養成課程や一般教養教育といった場所に、児童文学とそれに関連する分野を専門とする教員ポストも増えてゆきました。近年、日本語環境での人文系の学問領域の例に漏れず、それらの経緯もまた改めて「歴史」として見直される時期にさしかかりつつあるようですが*9、それら児童文学という領域における通史的な脈絡において、山中恒の名前は良くも悪くも異端児的な、ある種の「しるしつき」で流布されるようになっていたようです。それは先にも触れたように彼自身、戦後の言語空間において隆盛期を迎えつつあったそれら児童文学の世間から自ら離脱し、独立独歩の書き手として「児童文学」でなく「児童読物作家」という肩書きを敢えて使い始めるようになった経緯なども含めて、その後の経歴において顕著になってゆきます。その背景には戦後の政治的な状況や、それに伴う児童文学という限られた分野の内情などが大きく関わっていたと思われますが、そのあたりの経緯がいわゆる通史的な語りの水準では必ずしも明示的に示されてきていないことも含めて、やはり独特の立ち位置を占めてきた書き手であるということでしょう。*10

 この「サムライの子」については、「赤毛のポチ」での経験を下敷きに書かれた同系統の作品、といった評価がある時期までは一般的でした。肯定的にせよ否定的にせよ、彼の作品に対してその頃投げかけられていた評言は、「歴史的には、従来の民主的短編童話のワクを破った、リアリズムを基調にした本格的な少年小説」*11という言い方に代表されるような、「リアリズム」や「社会派」といった系列のもの言いに収斂してゆくようなものでした。*12

「現実社会には、貧困を初めとして、さまざまな矛盾が数多く点在していたといえる。そして、その現実に対して、主人公に「なぜだろう」という問いかけを発させながら、社会矛盾を引き起こしている原因にまでせまって行こうとするこの作品は、ともすれば、現実社会の問題から眼をそむけようとしがちであった従来の児童文学作品とはちがって、現実をリアルに捉えようとしたものであったといえよう。」*13

 一方で、批判的な意見も当初からあった。山中とその作品に対するものというより、当時急速に姿を現わしていた若い世代のひとりとして先行世代からとりあげられ、時に名指しの批判や糾弾をされてもいます。たとえば、こんな具合に。

「社会的テーマといえば貧乏、貧乏といえばどん底の生活を描かなければ、これからの児童文学の進む道はないのだろうか。わが国の貧乏物語には、ユーモアが、明かるさ(ママ)が、はちきれそうな、そしてしみじみと胸を打つ人間の美しい心が存在し得ないのだろうか」「未明的ロマンチシズムを否定し、近代的小説精神の理想を目ざして進んできた「社会派児童文学」ともいうべき作家たちが、その理想とはうらはらに、時代遅れの錯覚にとらわれた露骨な正義感だけで、社会の不正や体制に批判を加えてゆく」*14

 と同時に、同じ世代を中心として熱い共感や同志的な同伴者も出てきて、ある時期までは何かと議論の焦点になることが多かった。*15後に山中自身、自らも身を置いていたこの時期の児童文学をめぐる状況について、このように振り返っています。

「一九六〇年を中心に前後数年に亘って、ようやく変化のきざしが見え始めた。それまで同人誌によって状況批判を続けながら、新しい方向を模索していた若手たちの作品が一せいに提出されだしたのである。この時点で、日本の児童文学は初めて質的戦後を迎えたのである。それは永い間、童心派伝統にとりこまれていた日本の創作児童文学に於けるルネサンスを思わせるものがあった。」*16

 自身その渦中にあった立場でありながら、この説明は概ね妥当で均衡のとれた穏当なものと言えるでしょう。戦前の童心主義以来の「童話」の流れをそのまま引き継いだかのような敗戦後の児童文学の世間に、それらを含めて全部一度精算することを求める彼も含めた若い世代の動きが現れ始めていました。

 そのような意味で、彼はいずれそのようなもの言いで表現されるような何かのっぴきならない「現在」、激しく蠢動する〈いま・ここ〉の現実の手ざわりを、いわゆる児童文学の領域に導き入れようとしていた当時の若い世代のひとりでした。そしてそれは、ひとり児童文学だけでなく当時の時代状況、「文学」とひとくくりにされていた日本語を母語とする環境での表現のあり方と眼前の状況との関係の変貌を鋭く察知し、表現に反映しようとする時代精神の大きなうねりの中にありました。彼らが希求したそのような新しい確かさ、ことばと表現が〈いま・ここ〉の現実と関わってゆくその切羽のところに否応なく宿ってゆく同時代の〈リアル〉の手ざわりが、初発の時点ではことばのテキストとして提示されていた「おはなし」がマンガ表現に、そして映画へと転生してゆく過程で、当時の商業的要請やあれこれの人脈、政治的なしがらみなど日々の日常に埋め込まれている個別具体の水準のさらに向こう側に、同じ時代を生きていた者たちのなけなしの絆、切実な媒介項として働いていたらしいことは、注目しておくべきでしょう。




「バタ屋」ということ

 「サムライの子」では、「バタ屋」が主な登場人物たちの重要な属性になっています。路上のボロや屑を拾って回収してまわる、当時はどこも街なかで普通に見かけることのあった稼業で、今だと廃品回収業といったところですが、前作「赤毛のポチ」でも「軍艦長屋」と呼ばれている炭坑街の住宅を舞台にしていたように、この頃の山中恒は好んでこのような北海道の、敗戦後の世相に即した題材をとりあげています。当然、ここでも、彼が生まれ育った小樽での見聞が下敷きになっているところが少なくないようです。

「じつは、ユミの父の住む家はサムライ部落にあり、ユミの父は、サムライであった。(…)この、人口十八万の港町の東のはずれ、ひろい市立公園のおかの下に、赤れんがのへいをまわしたゴム工場がある。その建物のかげに、両手で土をすくいとったようなくぼ地があって、そのかたすみに、サムライ部落があった。屋根と、かしいだえんとつがあるから、どうやら家らしいと思われるような、長屋が三むね。屋根のところどころに、石油かんをたたきのばしたのが、うちつけてあったり、大きな石がのっけてあったりしている。このあたりに、ながく住んでいる人なら、それが、暁部隊の仮り兵舎であったことを知っている。(…)かぶとに、大小、旗さしものと言いたいのだが、ほんとうは、ほおかぶり、金ばさみ、せなかにナンキンぶくろか、せおいかごである。つまり、それは、ふつう「ばたや」とよばれる人たちである。それを、この町では、「サムライ」、あるいは敬称(?)をつけて、「サムライやさん」とよんでいた。」*17

 このバタ屋が北海道でなぜ「サムライ」と呼ばれるようになったのかについては、竹などでこしらえたハサミを腰にたばさんでいる姿からそう呼ばれた、といった説明が一般的ですが、その一方で、かつて開拓黎明期の入植者であった元武士階級たちがその後没落し、系図をダシにして民家に物乞いをしてまわっていた、そこから家々を来訪する乞食や物乞いに対して特にサムライと呼ぶようになった、という北海道独自の来歴も、山中は別のところで触れています。

「小樽地方の方言では、前にあげた2種類の乞食をきちんと分類していた。祭礼の際などに、通行人にぺこぺこやってお恵みをいただくのを「ホイド」と呼び、各個(戸?……引用者註)を巡回して喜捨を強要するのを「サムライ」と呼んだ。(…)彼らは、古色蒼然たる系図を竿の先にからげ、町の商家の門口で大音声をはりあげた。(…)髭面の上、腰に大小をたばさんでいる。うっかり断ったら「無礼者!」などとばっさりやられるかもしれない。(…)それが転じて、いつしか門口を巡回する乞食を「サムライ」と呼ぶようになった。その後、腰の大小から、金ばさみを持ったバタヤが「サムライ」と呼ばれるようになる。ぼくの小説『サムライの子』は、このバタヤの別称の方である。」*18

 つまり、見知らぬ相手に物乞いをしてまわる以上、いずれ「乞食」として認識されている存在ではあるものの、祭礼などに際して往来で喜捨を乞うて回るような、いわゆるもの貰い系の乞食と、平時に一軒一軒回って門付けをしながら、時に恐喝まがいのこともしつつ物品を強請する乞食とはそれぞれ別の存在であったこと、少なくともそれが戦前の北海道における小樽のような都市部での世間の認識だったことを示しながら、その上にさらに敗戦後の混乱状況で生み出された困窮層の生きる術としての「バタ屋」稼業が当時の小樽で現前化していたこととを、共にひとつの過程として彼は見ようとしている。だからこそ、バタ屋=「サムライ」は一般市民的な視線からは「乞食」としてひとくくりに見られる存在でありながら、しかしその内実にはある輪郭確かな「個」の主体も宿り得る、そんな視線が「おはなし」の手前、語る主体としての書き手山中のものになっています。

 戦後、空襲などで破壊された都市部において簇生したこれら廃品回収業としてのバタ屋を描いた「おはなし」としては、同じ頃、東京で話題になった「蟻の街」などが知られています。*19ただ、それら戦後のバタ屋は明らかに廃品回収業に特化した/された存在であり、それまで都市部の盛り場などを徘徊していた乞食や浮浪者などと総称される存在とは少し性質が違ってきています。たとえば、山中には自身幼い頃の小樽での見聞として「手宮のアニ」と呼ばれる街の名物男だった風変わりな乞食のことを記したものもありますが、この「手宮のアニ」などは記述を読む限り、小樽に限らず戦前の都市部の共同性にゆるく内包されていた典型的な「馬鹿」の類であり、「浮浪者」といった行政目線からの俯角の意識が濃厚なもの言いにまるごと包摂してしまう動きから否応なくはみ出してくる何ものかを感じさせざるを得ない、そんな民俗的な背景の色濃い存在のように見受けられます。*20それらとは別に、路上に落ちているさまざまなモノを回収してきてはそれらを分別し、再利用のサイクルに流してゆく仕組みの末端で働くクズ屋たちは、先の残飯に特化した雑業などとはまた別の生活圏を持っていたようで、おそらくこちらの成り立ちが戦後に簇生したバタ屋のあり方を規定していったのではないかと思われます。

 一方で、このサムライに対してノブシという存在が、対抗的に描かれてゆきます。これは「ばたやのようにきまった仕事をもっていない。祭りを追ってゆくこじきや、どろぼう。競輪や競馬を追う馬券ひろい、のみや。それに、よく新聞や、テレビに出る麻薬売買……といった、たいへんなれんちゅうなのである。」つまり、サムライの方は廃品回収や沖仲仕といった「きまった仕事」を持っているのに対し、彼らノブシはそうでなく、しかも定住しておらずにあちこちの町を「ジプシーのように、わたり歩く」連中であり、サムライよりもさらに生活程度も民度も一段下の者ということになっています。「ただ、ひじょうにざんねんなことは、町の人たちが、このノブシとよばれる浮浪者たちをも、サムライとよんでいることであった。」*21

 ユミの父親はバタ屋とは言いながら、戦争で足に障害を持つわけありの身で根っからのバタ屋というわけではない。また、サムライ部落に住む者の中にはバタ屋ばかりでなく、港湾労働の日雇いで食べている者も混じっています。その他、年寄りながらも善良でおとなしい隣人のバタ屋たちのあり方なども含めて、根っからの都市部の雑民ではないらしいことが何となく感じられる。それに対して、ノブシたちのたたずまいは一段と荒んだもので、戦前以来のさまざまな記録や記述に現れる「貧民」「雑民」のあり方にもよくなじむようなものになっています。おそらく、これはマチの市民の側から一律に「サムライ」と呼ばれていた中にも、当時の社会状況を反映した階層の違い、そもそも出自の異なる人たちが流れ込んでいたことを表わしているのでしょう。

 町の一般的な住民である市民的視線からは共にひとくくりに「サムライ」と呼ばれるような存在ではあるけれども、その中にバタヤや沖仲仕などの一応決まった仕事のある者たちと、それもなく文字通りの浮浪者的な乞食暮らしをしている者たちのふた通りが含まれている現実を、このように山中はさりげなく、しかしひとまず的確にとらえています。このあたりは自身の生活体験からの観察や見聞に基づく「細部」を集約して〈リアル〉を宿らせ得る回路を設定してゆく、その手つきの確かさを感じさせるところです。




マンガとしての「サムライの子」

 マンガ版の「サムライの子」は、つのだじろうの手によって描かれています。

 つのだじろうは、戦後、昭和20年代後半から高度経済成長期にかけて、戦前からの子ども向け月刊誌が軒並みその内容を変えてゆき、事実上マンガ専門誌的な性格の週刊誌へと姿を変えてゆく時期に登場し、その後も青年誌なども含めた活躍を続けている描き手です。70年代以降に手がけたホラーないしはオカルト的風味の強い作品「うしろの百太郎」や「恐怖新聞」などを代表作として語られることが多くなっていますが、世代的にもまた経歴的にも、子ども向けの漫画(カタカナ表記でない)、それも少女向けのものから頭角を現わしてきたひとりで、戦後マンガ史的にはいわゆる「トキワ荘」組にも含まれる存在です。

 とは言え、藤子不二雄石森章太郎赤塚不二夫などいわゆる「トキワ荘」を語る時に中心的に言及される描き手と違い、手塚治虫にあこがれて上京した、といった経緯を持たない人です。マンガ家として師事したのは島田啓三。戦前、田河水泡の「のらくろ」などと並んで少年向けマンガで人気を博した「冒険ダン吉」の描き手として知られる人で、これは手塚治虫が切り開いたとされる比較的長編のストーリーマンガなどと違い、それまでの漢字表記の「漫画」の脈絡に位置する人でした。つのだ自身、藤子や石森のような地方出身者でなく東京市下谷区の生まれで、生家は理髪店だった由。自宅から毎日スクーターに乗ってトキワ荘へ入りびたるようになった、と言っているように、そういう意味では今語られているようなトキワ荘組の周縁的な位置にいたと考えていいでしょう。*22

 山中恒の作品をマンガ化することになった経緯については、つのだ自身、このように語っています。

「『サムライの子』は一九六二年一月号から十二月号まで、雑誌『なかよし』に連載したもので、私が児童文学の山中恒氏の同名作品に、ひどく感動して、直接、山中氏のもとへ出むき、わたしに漫画化させてくださるようにおねがいし、また雑誌の方をも説得して連載にこぎつけたといういわくつきの作品……」*23

「本編にでてくるサムライ部落、また小樽市内の風景は、すみずみのワン・カットまで、実際の小樽市の風景の写実です。さすがにサムライ部落の取材は身体がブルいましたが、たまたまズダ公(作中の登場人物のひとり……引用者註)みたいな、気さくなサムライ氏がいて、親切にしてくれましたのでうまくいきました。」*24

 どちらも世代的に同じ当時の若手、共に新進気鋭で、版元の講談社としてもそれぞれ将来を嘱望して売り出しを画策していただろう期待のふたりのコラボレーションは、営業的な思惑をひとまず抜きにしても、当時の状況からはいずれ自然にあり得るような組み合わせだったかも知れません。

 とは言え、活字(と挿画)によって構成される児童文学と違ってマンガであること、それも当時の少女向け雑誌に掲載されることを前提にしたものである以上、その文法に沿ったキャラクターの描き方などは徹底されています。当時のつのだの作風である、それまでの少女向けマンガの定型とは違った闊達で素朴な「かわいい女の子」の主人公は、彼の出世作となった「ルミちゃん教室」以来共通する造形でまとめられ、またまわりの登場人物にしてもかなりの程度、その頃の彼の初期作品の中に頻出している類型的なキャラクターで描かれています。このへんは、元の山中版「サムライの子」の挿絵を手がけた市川禎男の造形と比べても明らかに単純化、類型化されていますが、それは当時の子ども向けマンガとしての表現のルーティンに沿ったものと言っていいでしょう。





 つのだのこのようなキャラクター造形の手癖は、この後、彼が北海道を舞台にしたいくつかの連作を描いてゆく際にも存分に使い回されることになります。この時期、60年代の半ばから後半にかけて「あかね雲のうた」*25「すみれ雲のうた」*26「おれの太陽」*27と、どれも北海道の競走馬生産牧場とその周辺に取材した一連の作品が続きました。「おはなし」の独自性や創造性といった面からだけ見れば、これら一連の作品は正直、陳腐でもあり、また使い回しの印象が拭えないものですが、しかし別の角度から見れば、少女誌から少年誌へと活躍の場を拡げてゆく当時の彼の軌跡の中で、「サムライの子」を機縁に北海道に惹かれて何度も取材で足を運んだことを自ら強調して語るようになっていたほどに、「現場」に即したある種の〈リアル〉を子ども向けのマンガ家としての彼なりに何か熱っぽく希求していた、その痕跡として読めるものになっています。



 この時期のマンガ表現、殊に新たな市場がみるみる広がってゆくのを眼前にしていた子ども向けマンガにとっての〈リアル〉のあり方を考えると、このような作者自身の「取材」を介して「現場」「現地」の〈リアル〉をどう反映させてゆくか、といった問題意識はまだ萌芽的にしか宿っていなかったでしょう。それらマンガ表現における〈リアル〉への志向は、いわゆる「劇画」的な表現を足場にすると共に、描き手たちの中に「作家」としての主体性が良くも悪くも自覚されるようになって、それまでは「子どものために良いマンガを描く」といった、それ自体は当時の児童文学界隈とも地続きな職業意識に規定されることで作家性といった部分はそれなりに安定していたものが、そこから離脱して新たな作家性の輪郭を整えてゆくようになる過程ではっきり現れてくるものでした。そういう意味では、この時期のつのだじろうのこのような「現場」を介した〈リアル〉志向は、いささか性急で粗っぽいものであったにせよ、早い時期での覚醒の事例だったと言えるかも知れません。*28

 このような彼の〈リアル〉志向もまた、当時のマンガ表現をより芸術的に認められるものにしてゆこうという情熱に裏打ちされたものだったはずです。戦後、マンガで育った世代が10代半ばにさしかかることに伴う読者のリテラシーと市場の変化、そしてそれに応じて起こってきた「劇画」の前景化に刺戟されて、作者としての自らのアイデンティティに内向的に合焦するようになった描き手たちが、結果的にせよ「私小説」的方向に活路を見出し始めていました。*29それに対し、そのような同時代の空気の中でつのだは、彼自身の〈リアル〉を、彼とあまり年格好の変わらない当時の若い世代による新しい流れが現れ始めていた児童文学の中に見出したのでしょう。

 とは言え、つのだの場合の〈リアル〉志向は、「劇画」的表現の前景化経由での「私小説」的方向への開き方とは対照的に、創作された作品の上では作家性を帯びた「私」を消す方向が前提になっていました。描き手の主体的な自己表現としてのマンガという新たな目的意識は共通にあって、だからこそあそこまで「取材」という新たな手法に前のめりになっていったはずですが、しかしその一方では、やはり「子どものため」の表現というそれまでのマンガ表現や児童文学における作家性もしぶとく優先されていて、その双方の不安定な均衡の上での〈リアル〉を介入させようとしていた、だからこその定型とその上に立った表現が彼の創作としての至上命題になっていたのだろうと推測します。そしてだからこそその分、「取材」を介して「現場」に寄り添う手法に邁進する新しい作家性を伴った自分を、作品そのものとは別の回路で表現し、伝えようとしていたのではないか。

 そのような選択の結果、提示された創作たちは、先にも触れたように、今の時点から見れば正直、陳腐さの拭えないものであり、同時にそのように定型に忠実であることに必然的に伴ってくる冗長さなどから逃れられていないものに見えます。しかしだからこそ、あの「トキワ荘」組の中で最も不遇だったと言われる早世した寺田ヒロオよりも今となってはある意味影の薄い印象すらあるつのだじろうが、当時なぜそういう表現を選択していったのか、というあたりの問いについては、もう一度立ち止まって考えてみる必要があるでしょう。背伸びと言えば背伸び、試行錯誤と言えばそうかも知れない、後付けの評価からは何とでも言い得るようなものだったかも知れないにせよ、しかしそれは、山中恒たちが同じ頃に児童文学の間尺で希求し始めていたものともどこかで重なってくるものだったはずです。



■そして、映画としての「サムライの子」

 映画へと転生した「サムライの子」はどうだったでしょう。

 映画版「サムライの子」は、監督若杉文夫、脚本今村昌平、という布陣で日活が制作し、1963年2月に公開されました。

 児童文学の領域から「原作」を拾ってゆくことが盛んになっていた時代でもありました。脚本を手がけた今村昌平はこの前年、やはり児童文学畑の早船ちよの作品を原作にした「キューポラのある街」の映画化に際しても、監督の浦山桐郎と共同で脚本を担当していましたし、制作会社も同じ日活、そういう意味ではすでにある程度下地があっての企画だったのでしょう。*30原作となった早船ちよキューポラのある街」は、1962年の第2回日本児童文学者協会賞を受賞、映画も同じ年に公開され、大きな評判を呼びます。巷間、吉永小百合出世作として知られていますが、在日朝鮮人とその帰国事業など当時の世相や社会情勢を反映した要素をうまく盛り込んだ「おはなし」としての結構が、戦後の日本映画史の脈絡でも未だにそれなりに語られる理由のひとつではあるでしょう。

 「子ども」を対象とした市場の広がりがより強く意識されるようになり、今ならばメディアミックスと名づけられるような、活字/文字と視聴覚メディアとの間に相互の転生、読み替え、インスパイアなどの関係がそれまでよりもずっと広汎に行なわれるようになり始めていました。日本映画に関して言えば、テレビが登場して翳りが見え始めていたとは言え、未だ「娯楽の王者」としての地位が揺らぐまでには至っておらず、1961年に新東宝が倒産して六社協定五社協定になったとは言え、企画制作のレベルでは、当時新たに勃興してきていた中間小説からも「原作」的に借りてくることを精力的に行なっていましたし、そういう意味で児童文学からの「原作」化も、それら当時の動きと基本的に同じ脈絡で現象化していたものと考えていいでしょう。

 脚本を手がけた今村昌平は、おそらく山中の他の作品も併せて読んでそれらも素材にした上で、大胆な再構成を「おはなし」としてやっています。彼もまた、戦後の日本映画史上のビッグネームであることは言うまでもなく、殊に、戦後の日本映画において「リアリズム」を執拗に追い続けた映像作家としてよく知られています。この「サムライの子」も、そんな彼が大きく羽ばたき始めた時期の作品のひとつですが、ここでは彼自身メガフォンをとっていないとは言え、その「おはなし」としての組み立てには、当時の彼の社会観や創作における〈リアル〉追求の文法が色濃く反映されていて、元の小説やマンガなどとまた大きく異なるものになっています。

 まず、主人公ユミをめぐるまわりの設定そのものに大きな違いがある。原作では父ひとり娘ひとりの父子家庭的に描かれていたのに対し、ここで今村は一応、両親共に存在する家庭として設定し、なおかつその父親像についても原作から大きく変え、ろくでなしで女癖も良くないだらしない父親に変えています。また、新たに付け加えられた妻やすも健常者でなく、明らかに「少し足りない」性格として描かれていますし、何よりユミの実際の母親でもなく、二歳になる男の子を連れ子として連れてきて父の後添いとして一緒に暮らしているという設定で、さらに実は元ノブシだったことも途中で明かされます。*31

 何より、父親が先の女房、つまりユミの本当の母親を「殺したと噂されている」ことまでも冒頭からほのめかす始末。*32

 この父はそれ以外にも、別の後家さんとも関係を持とうとするし、競輪で大穴をあてて10万円手に入れたら入れたでみんなでどんちゃん騒ぎをした挙げ句、商売道具のリヤカーを残ったカネごと盗まれたりもする。それを一緒にいるやすが盗んだのではと疑いをかけてやすを追い出そうとしたり、それはもう「おはなし」の重心はこの父とそのまわりに起こってくるさまざまなできごとにかかっていて、もともと主人公だったはずのユミという存在は、ある意味狂言回し的な位置に留められているようにも見えます。*33

 主人公ユミをとりまく関係、特に肉親をめぐるそれにこのような性的な要素や具体的なカネにまつわる事情など、いずれミもフタもない個別具体な日常の細部を平然と放り込むことで、良くも悪くも当時の児童文学としての制約がかけられていた原作からも、そして基本的にその延長線上に成り立っていたマンガ版からも共に離れたところに、映画という映像表現としての〈リアル〉を求めた結果でしょう。いわゆる児童文学としての「おはなし」の結構とは違う、想定される観客が「子ども」ではない当時の一般的な娯楽市場の「大衆」に焦点を合わせたところにしっかり足場を固めながら、しかしそれでもやはり〈リアル〉という意味では同時代的に共有されていた何ものかをテコに「おはなし」を組み立て直している。もちろん、そこでも個人の映像作家としての作家性や主体性が介在しているのでしょうが、商品としての市場の規模が活字やマンガなどよりずっと大きく、また創作物としても生産点におけるそのような「個」に根ざした主体の意志の成り立ちがはるかに複雑で複合的であるのは、言うまでもなく映画という媒体の突出した特性です。それまでも在日朝鮮人の家族を描いた『にあんちゃん』や、先に触れた『キューポラのある街』など、当時の世相や社会的情勢に沿った〈リアル〉を映像作品として描き出そうとしていた今村昌平の、映像作家としての明確な視点ゆえの思い切りの良さと凄みが感じられます。*34

 映画化されたことで「サムライの子」は活字の児童文学という領分から、「おはなし」としての航路をそれまでよりはるかに可能性の方へと踏み出してゆくことになります。子ども向けの雑誌が月刊誌から週刊誌主体へと大きく変わり始めていた時期で、その中身も活字の読物主体の誌面から、絵物語やマンガといったビジュアル的要素の強い「おはなし」やグラビア構成の特集企画なども含めた多角的なものに姿を変え始めていました。映画を足場にして、宣伝という意味も兼ねて二次的な情報が複数の雑誌に掲載されるようになる。いったん映像作品へと転生した「おはなし」は、今度は再度スチール写真などと組み合わせたある種の絵物語的な再構成を受けて、もう一度それぞれ少女向け雑誌の側に投げ返され、語り直され、読み直されてゆきます。『少女ブック』(集英社)は見開き8ページにわたって映画版のスチール写真をあしらったあらすじ紹介を、地の文中心の童話的な「おはなし」文体でやっていますし、『少女』(光文社)に至っては主役ユミ役の田中鈴子を大きくフィーチュアし、グラビアの見開き16ページにわたってこれも映画の内容を別途起こした誌面に、こちらはせりふ的な会話体を活かしたまた少し違った調子の「おはなし」文体で展開しています。*35活字の作品からマンガに、そして映画へと転生されていった「おはなし」が再度、このように活字の媒体へと向かう先は、やはりこのような少女向けの雑誌だった、そのことの意味もまた、〈いま・ここ〉から敢えて振り返っておかねば見えにくくなっているようです。




■何のための「おはなし」――さらに大きな問いへ

 これまでも触れてきたように、山中恒は「少年小説」という言挙げと共に戦後、児童文学をさらに大きく発展させることを夢見た当時の若い世代のひとりでした。1953年、彼もそこに加わっていた早大童話会の名で出された「少年文学の旗の下に」という宣言は、戦後の児童文学の歴史において画期的な声明だったとされています。

「いまここに、新しきもの、変革をめざすものが住まれた。「少年文学」の誕生、すなわちこれである。「少年文学」のめざすところ、それは、従来の児童文学を真に近代文学の位置にまで高めることであり、従ってそれはまた、一切の古きもの、一切の非合理的、非近代的なる文学とのあくなき戦いを意味する。」

 続けて、それまでの「童話」「児童文学」が内包してきた属性である「メルヘン」「生活童話」「無国籍童話」「少年少女読物」をそれぞれ克服すると宣言した後、「近代文学に不可欠の合理的、科学的批判精神及びそれに裏付された文学上の創作方法の欠如」を総括して、最後にこの宣言はこう結んでいます。

「我々が、従来の「童話精神」によって立つ「児童文学」ではなくて、近代的「小説精神」を中核とする「少年文学」の道を選んだゆえんも実はそこにある。」*36

 この「少年文学」という言挙げをなぜ、どういう内実と共に当時選んだのか。この場で見てきたような問いを抱懐しながら改めてこの宣言を読み返してみると、やはりどうしてもそこが気にかかってきます。

 もちろん、この「少年文学」は、昨今言われるような意味あいとは違っている。それもわかる。それまでの童心主義的な童話とは別の、戦後的な状況に否応なく生きる/生きざるを得なくなっていた当時の子どもたちの〈いま・ここ〉にとって、より必要で役に立つ「おはなし」の枠組みとして、それは提起されていたらしい。ならば、その提起している彼らは何者だったのかというと、これまた言うまでもなく、そんな子どもたちを客体として見る、考えることのできる「おとな」だった、少なくともそういう自覚と自意識の下に提起していたものらしい。

 その「おとな」であった彼が、それから23年の後に、こんなことも言っています。

「戦争が終わったときに、ぼくは山中峯太郎の本などを自分の日記と一緒に燃やしているんです。あとになって、民主主義で山中峯太郎が書けないだろうかという、非常に教条主義的な発想がありました。(…)『赤毛のポチ』は、吉屋信子に対するアンチテーゼとして書かれたものです。つまり、貧乏というのは吉屋信子の書くようなきれいでにおいのしないものではないというかたちで、作品で反論したかったんです。」*37

 つまり、こういうことなのでしょう。書き手としての山中恒個人としては、そして当時その宣言に名を連ねた者たちとしても、少年ももちろんだけれども、むしろ戦前以来の当時の少女小説の読み手であり、いわゆる少女趣味に埋没しているような当時の標準的な普通の少女たちにも、もっと社会的な眼を開いてもらいたい、それによって確かな〈リアル〉を共有してもらいたい――どうやらそういう初志があったらしい。「少年小説」と言い、その言挙げに新たな世代の新しい児童文学のあり方を込めていながらも、しかし書き手として一次的に想定したのは、うっかり「少女」でもあった、と。

 なるほど、そう言われてみれば「赤毛のポチ」も、そしてこの「サムライの子」も、共に主人公は少年ではなく少女です。そして、そのような少女主体の「おはなし」造形は、マンガとなってゆく際にも当時の少女向けマンガの枠組みにスムーズに引き写してゆけるものでしたし、その限りでは当時の少女向けの「おはなし」の、出力先が児童文学であれマンガであれ、それら個々の媒体を越えた複合的な拡散というのもまた、半ば必然的だったのかも知れません。そしてそれは、マンガに転生されてゆく時の描き手つのだじろうの意識とも、おそらく地続きになっていたようなものでした。闊達でおてんばで元気が良くて、素直でものおじせずものを言い、直面したできごとにも前向きにぶつかってゆく「女の子」。確かにそれは、吉屋信子的な戦前の少女小説、いや、それに限らず女の子向けに想定される「おはなし」の定型からすれば、仮に存在はしていたとしても「おはなし」の水準としては表に出てはきにくいキャラクターではあったでしょう。そして、そのようなキャラクターは「貧乏」という属性と複合して、より〈リアル〉を輪郭確かに宿してゆくようなものだったようです、どういうわけか。

「いままで、おおくの少年少女の物語には、たくさんのまずしい子どもたちが登場しました。これらの物語を書いた作家たちは、まずしい子どもたちを、深い愛情と、あたたかく、美しい目でえがいてきました。もちろん、中には、まるでまずしいことが正義であるみたいな、へんてこな気持ちになるようなものもありましたが、とにかく、心のこもった、りっぱな物語が、たくさん書かれました。(…)それにもかかわらず、ぼくが、このようなびんぼう物語を書こうと思ったのは、いままでの、どのびんぼう物語にも登場しなかったような、ものすごい子どもたちを、まぢかに見、いろいろと話しあう機会がおおかったからです。」

 「サムライの子」が世に出たちょうどその同じ頃、『日本残酷物語』というシリーズが評判となり、ちょっとしたベストセラーになっていました。にわかに流行りのもの言いともなったらしいこの「残酷」を使ってひとくくりに評されるようなったその現実とは、それまでなら都市部の貧民窟やスラムなどの生活実態であり、マルクス主義的な枠組みからすれば乗り越えられるべき資本主義の矛盾の発露であり、あるいは近代化に伴い繁栄を謳歌する「都市」に対して虐げられ搾取される「田舎/地方」の現実であったりしたようなものでした。もちろん、それらは何もこの時期になって新たに出現したものではない、しかしそれらを「残酷」とくくってしまう/しまえることによる効果というのは、良くも悪くも当時の情報環境を生きる者たちにとって何かしら無視できないものでもあったようです。

 おそらく、山中の言う「びんぼう」「まずしい子」というのも、そのように当時そろそろ「残酷」とひとくくりにされ始めていたような現実の側に含み込まれていた存在だったはずです。そして、それらの「残酷」を対象化してとらえることのできるだけの意識や枠組みを持っていた彼らは「おとな」であり、だからこそ彼らがその児童文学を介して働きかけようと想定した側にあったのはまずは「子ども」だったのかも知れません。けれども、その「子ども」は単なる記号や概念としてのっぺりとした存在というだけでもなく、否応なく生身でもあった彼ら「おとな」がその身の裡に宿してしまう形象としてはうっかりと「少女」の姿かたちを伴ったりもしていたものらしい。

 つのだじろうの描いたユミが、彼が当時すでに定型として獲得していた「ルミちゃん教室」以来の女の子キャラクターのヴァリエーションであったのと呼応するかのように、元の活字の「原作」においても主人公のユミは、姉さん的な存在として彼女と関わってくることになる恵まれた開業医の娘で女子高校生の石川恵子から、出会ってまもなく「あんたの顔、野生的ね。キレイだわ。」と言われています。と同時に、そのことばに対してむっつりとだまりこむような性格であり、また、そんなユミを妹として扱おうと躍起になる恵子たちに対しても、しょせんは自分をおもちゃにしているおじょうさんだと思い「石川恵子の妹にはなるまいと決心」するような自意識を持ってもいる。このように描き出されてゆくユミの「内面」についての描写は、特に具体的に描かれずともそれら「内面」に見合った外貌もまた「読む」行為の裡に宿らせてゆくものらしい。

「サムライの子」の最初の書籍版で挿絵と装画を担当した市川禎男が1921年生まれで当時30代後半、対して山中が1931年、つのだが1936年生まれの共に20代半ばあたり、そして映画化に際して脚本を手がけた今村昌平は1926年生まれの30代前半でした。いずれこの世代の違いによるユミというキャラクターの輪郭の違い、殊に視覚的な部分も含めてどのような生身のありようをそれぞれの「読み」を介して想定していたのか、というあたりのこともまた、これらの中でおそらく山中とつのだが共にこのユミというキャラクターにそれほど互いにズレのない性格づけをしていたらしいこと、そしてそのような少女のキャラクターは戦後の過程で日本の大衆文化においてかなりの普遍性をある時期まで持つようになっていったらしいこと、などのより大きな問いを考えてゆこうとする上で重要な補助線になってくるはずです。

*1:どうやら1回の投稿可能な分量上限を超えるようなので、註の一部は割愛してアップしてある。為念。

*2:佐野美津男「戦後児童文学を調べ直す」、『児童文学セミナー』所収、季節社、1979年、p118。

*3:渡辺京二「義理人情という界域」、『朝日ジャーナル』1973年1月19日号。『小さきものの死』所収、葦書房、1975年、p.233。

*4:花田清輝柳田國男について」(初出、1959年)『花田清輝著作集?』所収、未来社、1964年、p.202。

*5:「ぼくが日本児童文学者協会の会員であることを辞し、純粋に児童読物の創作を志向してから三年になろうとしている。しかし一般的にぼくは現在でも児童文学者とみなされ、作品は児童文学の場からの批評対象とされている。」(山中恒「児童読物作家を自称して」『日本読書新聞』1969年10月20日号、『児童読物よ、よみがえれ』所収、晶文社、1978年)「児童文学」という言い方にはその定義などを含めて、いろいろ議論や異論もあろうし、何よりこの「サムライの子」の作者、山中恒自身がそのように呼ぶことを潔しとせず自ら忌避してきている経緯もあるのだが、ひとまず便宜的にこうくくっておくことにする。

*6:この場合の〈リアル〉とは、ひとまず同時代の情報環境との相関で個々の創作物を介して発動されていったであろう「読み」に宿った、「おはなし」の水準も含めたある確かさの手ざわり、といったところで仮留めしておく。それは、冒頭に置いた花田清輝がかつて提起していたような意味での、情報環境とメディアの複合の中で宿ってゆく創作物を介した「読み」のあり方をできる限り「まるごと」としてとらえようとする問題意識と地続きであり、また、筆者自身の作業としても、かつて「無法松の一生」を素材にして、「原作」とされる小説「富島松五郎伝」が映画になり、その後舞台その他さまざまな媒体に転生していった過程について歴史/民俗学的な考察と記述を試みた(拙著『無法松の影』毎日新聞社、1995年)のと基本的に地続きの問題意識に基づいている。「おはなし」と〈リアル〉の関係を、ある時代状況や情報環境との関わりの中で〈いま・ここ〉から、言わば望遠鏡をさかさまにのぞき込むようにしながら探ってゆく試みは、このように複線的な補助線を方法として組み合わせながら、多面的に模索してゆく必要があるらしい。

*7:彼自身の生い立ちについては、自伝的な要素の強い『青春は疑う』(三一新書、1967年。加筆手直し後に理論社、1976年)、『餓鬼一匹』(毎日新聞社、1972年)などを参照。書き手としての彼は、1960年の上半期に「赤毛のポチ」「飛べたら本こ」「サムライの子」の三作品を一気に連続して刊行し、そのような意味で単に児童文学の世間を越えて広く注目を集めるようになっていた。たとえば、個人名を掲げて特集されている『図書新聞』1960年8月20日号の紙面などは「“慢性的不況”などといわれてきた創作児童文学も、このところだいぶ活況を呈している。その中でも、山中恒は『飛べたら本こ』『赤毛のポチ』『サムライの子』の順で、約半ケ年の間に3冊の長編作品を世に送った。驚嘆に値する旺盛な筆力である。」というリードから「児童文学界の“怒れる若者”」「主人公はすべて貧乏人/世代的な共感」と見出しを打ち、塚原亮一署名で三冊の内容紹介と短評を掲載している。ただし、この三作はそれぞれ執筆時期が異なっていて、「飛べたら本こ」などは「新安保六〇年の前年十一月、山中恒が失業中、デモに行く電車賃すらままならぬ状態の中でかかれたもの」で「当時の児童図書出版の状況からして、おそらく陽の目を見ることはあるまいという予測のもとに、なかばやけくそ気味で」書かれたものというが、そういう意味で「サムライの子」による講談社児童文学新人賞への応募にしても、このような当時の彼自身の生活環境などからなされたと考えていい。これら執筆時期の異なる三作が一気に単著として刊行されるようになった背景には、やはり大手出版社の講談社の賞を受賞したことから派生して、彼自身が児童文学の世間のみならずそれら出版界も含めた話題になりつつあったことなども関わっていたのだろう。このあたりの事情の詳細については、同じ時期、少年/少女雑誌がそれまでの月刊誌から週刊誌体制へ激変してゆくことで、マンガに代表されるようなそれまでと違う「視聴覚文化」の伸長を反映した誌面や企画の需要が一気に高まることで、それらに対応できる新しい感覚の執筆者や描き手が不足していたことなどとも併せて、より広い視点から見てゆく必要がある。

*8:「作品が書きはじめられたのは、一九五四年で、それから二年余にわたって、「小さな仲間」というガリ版ずりの同人雑誌に連さいされたのです。したがって、この作品を読みつづけることができた人は、もしかすると、百人もいなかったろうと思われます。にもかかわらず、この作品を注目する声は、同時代の若い作家たちや、児童文学の研究家たちのあいだにひろまり、まだ作品におわらないうちから、「問題作」と呼ばれるようになりました。そして、思いがけなく、一九五五年には、遠く中国の文芸雑誌までが「現代日本の現実からうまれた、もっともすぐれた作品だ」というような批評をかかげるほどになり、一九五六年には、日本児童文学者協会によって、「新人賞」がおくられたりしました。」(「はじめに」『赤毛のポチ』所収、理論社、1960、p.1)理論社編集部署名によるこの「はじめに」の一節の「中国の文芸雑誌」とその評価の中身についてはまだ調べがついていないが、当時の情況から察して、このような新生中国経由の「評価」もまた、政治的文脈も含めて国内の児童文学界隈での山中への注目度に貢献していた可能性は考慮しておきたい。

*9:日本語環境におけるいわゆる人文系の分野におけるこのような意味での「歴史」の自省や見直しの機運は、概ね90年代半ば頃からそれぞれの分野で現れるようになっていて、それは当時進められていた大学設置基準大綱化とそれに伴う大学院重点化政策により高度経済成長期以降に生まれた若い世代の研究者が「学界」に大量に流れ込み始めたことも一因と思われる。児童文学/文化の分野では、たとえば宮川健郎・横川寿美子・編『児童文学研究、そして、その先へ(上)(下)』(久山社、2007年)などに見られるような仕事が代表的なようだが、ただ同時に、それまでの人文系における学問領域間の垣根自体がなしくずしに崩れてゆくことで固有のディシプリンが共通基盤として成り立たなくなっているといった事態もまた見てとれるのは、単に児童文学/文化といった部分を越えた、この時期から日本語環境での学術領域一般に顕在化してきた普遍的な課題として指摘しておきたい。

*10:昭和35年からは放送台本作家としてラジオドラマやテレビドラマを担当し、児童文化に貢献したことは言いそえておかねばならない。六全協の前に日共路線を去り、60年及び70年安保闘争をたたかって、今日なお左右の体制を撃つ姿勢を追求していることにも触れなければならない。」(田宮裕三「子供と手を携え明日を変える――山中恒の相貌」『児童文芸』25-14、1979年、pp.106〜107)「いま私は児童文学者佐野美津男、久保村恵及び若い児童文学研究グループの仲間たちとミニコミ誌「児童図書館」を刊行し続けている。(…)この小冊子に対する評価はさまざまであるが、日共系及びその同調者の児童文学関係者から、まさにダカツのごとく忌みきらわれていることだけでも、評価は明らかであろう。この「児童図書館」誌は一九七〇年六月、反安保街頭行動に参加した児童文学者と児童文学研究グループの結社六月社の事業の一環として計画されたものである。」(山中恒「私はいま……、児童文学はいま……」『日本読書新聞』1972年4月17日号。『児童読物よ、よみがえれ』所収、晶文社、1978年、p.88)その後、井上光晴主宰の『辺境』誌の慫慂に応じて始めた仕事が『ボクラ少国民』(辺境社、1974年)以下、一連のライフワーク的な規模で刊行されてゆくことになるは周知の通りだが、それらの仕事も含めた書き手山中恒の全体像やその評価などについては、また別の機会を待ちたい。

*11:万屋秀雄「「赤毛のポチ」論」『児童文学評論』5、大阪新児童文学会、1972年9月。『現代児童文学の可能性』所収、大阪教育図書、1979年、p.196

*12:赤毛のポチ」をひっさげての山中の登場は、?散文による長編という方法を獲得したこと、?現実の矛盾をリアルに告発すると共に、その中における変革への志向性を描き出すという戦前のプロレタリア文学の課題を、児童文学の分野ではじめてなしとげた、という2点において「リアリズムという言葉が、手法と思想とを統一させるべき内容として初めてあらわれた」(藤田のぼる「「赤毛のポチ」のリアリズム」『日本児童文学』20-10、1974年、p.46)といった評価が概ね最大公約数的な共通理解になってはいたようだ。「児童文学のリアリズムの道は、新人の間からも、強烈な問題意識で提起されている。早大童話会の、いわゆる「少年文学宣言」(昭和二十八年九月)は、その代表的なものであった。機械的な童話(メルヘン)否定の論議と受けとられるような表現ではあったが、この問題提起をきっかけに、児童文学評論の世界で活発な論争もまきおかった。この発言をした人ひどは、いま同人雑誌「小さい仲間」に拠っているが、そのほかの多くの同人差しの主要な関心も、リアリズム児童文学の問題にそそがれていることは今日の大きな特徴で、明日の児童文学の飛躍的な発展を予言しても、おそらくいいすぎではあるまい。」(菅忠道『日本の児童文学』大月書店、1956年、pp.291-292)この10年後の増補改訂版(大月書店、1966年)になると「児童文学における社会主義リアリズムは、戦中の抑圧下に生活主義・集団主義童話へ屈折した以後、戦後にも本格的な達成をみせぬままだったが、山中恒の『赤毛のポチ』を先頭に状況はきりひらかれた」といった表現に変わっていて、はっきりと山中の名前が「赤毛のポチ」と共に出されるようになったことが見てとれる。この時期、60年代半ば頃から児童文学とリアリズムの問題は、改めてクローズアップされるようになっていたらしい。神宮輝夫「日本児童文学の現状――児童文学におけるリアリズムとは何か」(『日本児童文学』10-7、1964年、pp.2-8)、横谷輝「リアリズムの可能性(上)――リアリズム論の深化のために」(『日本児童文学』10-9、1964年、pp.14-23)、「子どもをどうとらえるか――リアリズムの可能性(下)」(『日本児童文学』10-12、1964年、pp.4-11)、「児童文学におけるリアリズムとリアリティの問題」(『日本児童文学』14-4、1968年、pp.24-35)など参照。

*13:大岡秀明「山中恒――大衆性と社会性」(猪熊葉子・神宮輝夫、他・編『講座日本児童文学8――日本の児童文学作家3』明治書院、1973年、p.248

*14:西本鶏介「児童文学の伝統と創造――新しいロマンチシズムを求めて」(初出、1963年)『児童文学の創造』所収、大阪教育図書、1986年、P.48〜49。西本はまた「いくらエネルギッシュな子供を登場させようと、本能的で思想のない動物的エネルギーともいうべき絶望的児童像しか浮かんでこない」「社会環境の残酷さに踊らされている哀れな道化役者の姿には、現実を生き抜くエネルギーというより、一律の政治的悪観念に甘えた作者の感傷しか見えてこない」と、かなり手厳しく山中の作品のみならず作風自体に批判を加えているが、このような山中への、ひいては山中に代表される当時台頭してきた若い世代に対する批判は、いわゆる共産党系の児童文学研究者の定型でもあったようだ。その他、浜野卓也山中恒の作品――児童文学におけるリアリズムの問題」(『日本児童文学』18-6、1972年、pp.83-87)、しかた・しん「山中恒――トータルな視点に欠けるその目の位置」(『日本児童文学』21-16、1975年、pp.67-70)、なども参照。これら一連の山中作品に対する当時の批評において主な争点・論点になっていた部分、たとえば「個」と「組織」の関係に対する政治的な観点からの評価の違いなどについては、別途考察してゆく機会を持ちたい。

*15:山中に対する同志的共感も含めた立場からの比較的穏当な批評としては、註9の万屋秀雄、註11の大岡秀明の他、上野瞭「バンチョウの文学――山中恒覚書」(『戦後児童文学論』所収、理論社、1967年、pp.145-166)、佐々木守「児童文学は読み捨ての文学である――山中恒とべたら本こ」論」(『日本児童文学』19-10、1973年、pp.82-89)、田宮裕三「子供と手を携え明日を変える――山中恒の相貌」(『児童文芸』25-14、1979年、pp.103-109)、砂田弘山中恒――異議申し立ての児童文学」(『国文学 解釈と鑑賞』61-4、1996年4月、pp.134-136)、などを参照。60年代の前半から半ばにかけて、いわゆる児童文学の世間の外に本格的に足を踏み出すようになってからは、佐野美津男らとマス・メディア関連の仕事を介したグループを結成したり、あるいはまた、当時同じくメディアの舞台で華々しく登場し「教育評論家」の看板で活躍し始めていた「カバゴン」阿部進などと共に、折りからの高度経済成長期の社会の変貌に伴う「子ども」のありようの現在について積極的に関わり、発言するようになってゆく。その過程で山中恒の名前は良くも悪くも広義の読書人層において知られるようになっていったし、またそれに見合ってより広汎な読者を獲得し、活動の幅も広がっていったと言える。ただ、いずれにせよ、自ら現場に身を運ぶ「取材」の作法を介して〈いま・ここ〉と関わってゆこうとする姿勢については、少なくとも1970年代後半あたりまではずっと一貫している。

*16:山中恒「子ども観の歴史を越えて」『情況』1976年7月号、『児童読物よ、よみがえれ』所収、晶文社、1978年、p.29。

*17:山中恒『サムライの子』講談社、1960年、p.20。

*18:山中恒『餓鬼一匹』毎日新聞社、1972年、pp.200、202〜203。

*19:北原玲子『蟻の街の子供たち』(三笠書房、1953年)、松居桃楼『蟻の街の奇蹟――バタヤ部落の生活記録』(国土社、1953年)、『貧乏追放――蟻の街の経済学』(産業経済新聞社、1956年)、『北原玲子――アリの町のマリア』(1963年)など参照。ポーランド人修道士「ゼノ神父」と北原玲子との出会いを契機に始まったバタ屋の自立救済活動と共に、これらは当時、ある種の社会的「美談」として報道され、また映画や舞台などさまざまなメディアに転生されて広まった「おはなし」となっていった。同じ頃、社会問題化していた戦災孤児や浮浪児といった事象が、CIEを背景にしたフラナガン神父来日を機に再公開されたアメリカ映画『少年の町』や、それを敷衍したような形で制作されたNHKのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』(作・菊田一夫)などを介して「おはなし」化されてゆくことで社会に広く注目されていったのと同じように、ある社会的な事象が「おはなし」になることでさまざまなメディアを介して公共的な〈リアル〉へと転生してゆく事例だったと言える。はしと「蟻の街」も『鐘の鳴る丘』もそのような「おはなし」としては共に、「バタヤ」や「戦災孤児」「浮浪児」といった敗戦に伴うネガティヴな社会相が「キリスト教」――それぞれ「フラナガン神父」や「ゼノ神父」という当時としてはトリック・スター的「異人」の関与による――を介して救済されてゆく、というプロットにおいて共通していることは指摘しておきたい。一方、それらの事象は、学術研究的な視線からは、それまであった社会問題研究の一環としての都市部の貧困層や「雑民」「細民」「窮民」研究の脈絡にも包摂されてゆく。萩野半麓『浮浪児とともに』(岡山県社会事業協会、1949年)、宮出秀雄『ルンペン社会の研究』(改造社、1950年)、梶大介『バタヤ物語』(第二書房、1957年) 須田寅夫『ニコヨン物語』(第二書房、1957年)、磯村英一・木村武夫・孝橋正一・編『釜ヶ崎――スラムの生態』(ミネルヴァ書房、1961年)など参照。

*20:「乞食といっても、祭礼のときに通行人に頭をさげて喜捨を願うといったふうな陰湿なものでもないし、また、各戸を巡回して喜捨を乞うといったものでもない。(…)このアニにはかなりの奇行があり、多少頭もあやしかったらしい(…)とにかく「手宮のアニ」のまわりにはいつも笑いが渦巻いていた。彼がたとえごくあたりまえのつまらないことをしていても、それが滑稽で、街の人たちに「きょう、アニがね」と、それだけで話題を提供した。原因不明で、アニが顔つきを変えてとんでいったりすると、それはそれで結構ミステリアスな話題をふりまいた。」(山中、註15に同じ、p.199、204、208)これはそのような「アニ」自身と共に、それらを「見る」世間の視線や意識なども含めての存在の仕方だったと言える。同様の名物的な「馬鹿」は、それこそ仙台四郎から浅草キヨシなどに至るまで、各時代それぞれの土地に語られ、記憶されているような「民俗」レベルも含めたある普遍性を持っていた。これに対して、バッタ屋とは満州などにある「小盗市場」(盗品市場)と同じような闇取引市場に直接関わることで、バタ屋(拾い屋)やヂミ屋(いずれも路上に落ちているボロ屑その他のモノを拾う稼業だが、時に民家の軒先の日用品を盗んできたりもする)が収穫した獲物の中で、正規の捌きルートである屑ものを仕切る立て場に流さずに別途現金化する方が明らかに利益になるような換金価値の高い「オタンチン」(お駄賃、からの転訛らしい)を捌く際に、彼らは必ず関与してくるという。「バッタ屋には、この仲間で一番の腕利き屋が多いので、ヂミ屋や拾ひ屋は常に彼等に相當甘い汁を吸はせねば、立つて行かない」し、「見様によつては、これ(バタ屋)はバッタ屋の下働きの様にも見得られる」そうだが、これらから見て、要は換金価値の有無を鑑別できる相場眼、別の言い方をすれば「市場」を視野に入れたモノの選別能力を持っている度合いに従って、それらを売り捌き現金化してゆく市場を中心にした、バッタ屋>ヂミ屋>バタ屋(拾ひ屋)という序列が、同じ浮浪者や乞食の間に成立していたことがわかる。逆に言えば、バタ屋はそれら序列の末端に位置しているがゆえに、最も外部から新たに流入しやすいポジションにあったとも言えるわけで、それゆえ経済状況の変動や、戦災なども含めた災害による一時的な生活困窮者がとりあえず日々の暮らしを成り立たせてゆこうとする際の選択肢のひとつとしてあり得たことが推測できる。

*21:山中、註14に同じ、p.46。作中、新たにサムライ部落に移り住んできたこのノブシの子どもたちとユミは、半ば仕方なく仲良くなってゆく。彼らは學齢に達しているのに学校にも通っておらず、身なりは不潔で不衛生、親は親で当たり屋で稼いでいたり、ちょっとカネを儲ければ酒や競輪で使ってしまい、何かというとすぐ女房も子どもを殴るし、子どももまた殴られ慣れていてある種達観している。何かあっても概ね即物的な反応しかしないし、語彙なども直感的な範囲にとどまっているが、そのくせ街なかのどのあたりにうまい残飯が出るのか、など妙に情報通だったり、抜けた乳歯や王冠などを大事にためこんで内輪で交換財にしていたりと、どこか「市場」的生活世界へのそれぞれのなじみ具合が、ユミやそのまわりの大人たちも含めたサムライたちとは違う肌ざわりを感じさせるものになっている。先に触れたサムライとホイドの違いで言えばホイドの側なのだろうが、さらに内地における浮浪者や乞食のあり方や、彼らの世間の微細な仕切りや区分けのありさまも補助線としながら推測すると、これは戦後の混乱で余儀なく流入してきた困窮層などではない、ある程度根の生えた言わば未組織の乞食、先にあげたバッタ屋やヨナゲ屋などに近い独立性の強い一群だったように見える。もちろん、北海道ゆえの特質、たとえば没落した戦後開拓民や困窮したアイヌなどの流れも入り込んでいて不思議のない、少なくともそのような描かれ方もまたされてはいる。

*22:「ぼくが仲間と違ったのは、他のみんなが手塚治虫先生の影響だったのに対して、ぼくは『冒険ダン吉』の島田啓三先生門下の最後の徒弟弟子だった。師匠は4コマの描けないものに長編は描けないという教えで、4コマの勉強以外やってはいけない!と厳命されていた。へたにページものなど長編を持っていこうものならとたんに不機嫌になって、原稿を部屋の隅にブン投げるんだ。同じ漫画を1年も描き直し描き直しして、やっと『漫画少年』を紹介してもらったんだ。作品を持ち込んだんだけど、もちろんボツだよ。でも編集部に居続けて、空いたページのカットや穴埋め原稿を描いてたなあ。そのころトキワ荘の連中と知り合ったんだ。」(「つのだじろう氏に聞く昭和30〜40年代」『本の窓』22-6、小学館、1999年、P.87)「ときわ荘時代も後期になると「まじめ派」と「不まじめ派」にわかれるようになった。前者は寺田ヒロオ藤本弘藤子不二雄の一人)、鈴木伸一など。そして後者が石森章太郎安孫子素雄(藤子の一人)、赤塚不二夫つのだじろうなどだった。夜十二時になると「不まじめ派」は連れだって、新宿区役所通りの「お茶漬」という店へ出かける。三人娘がいて、「末の娘がおれに気があるんだ」と、つのだががんばるが、他の連中には、全くそんなふうには見えなかった。」(「ときわ荘貧乏伝説」『底辺絵巻の画工たち』所収、産報、1972年、p.145。)))この時代の描き手のご多分に洩れず、最初は少女向けマンガの描き手として仕事を始め、1956年頃から「トキワ荘」に出入りするようになってからほどなく、『りぼん』(集英社)に連載した「ルミちゃん教室」(1958年)が評価されるようになり、その後も仕事が舞い込むようになっていたので、彼らの仲間うちでは石森章太郎などと共に、世に出るのが早かったひとり、という位置づけになっていたようです。((当時のつのだの仕事を追ってゆくと、その掲載誌が『日の丸』『幼年ブック』『少女ブック』『少年』『女学生の友』『漫画王』『ぼくら』『野球少年』『こばと』『少年クラブ』『ひとみ』など、月刊誌最末期の子ども向け雑誌に少年向け少女向け問わず広く描いていることが見てとれる。これらの多くがその後、週刊誌への転換をうまくできずに休刊、廃刊して姿を消している。つのだが「サムライの子」を描く前年、1961年1月から7月にかけて同じ『なかよし』誌に連載し、その年の第二回講談社児童漫画賞(現在の講談社漫画賞)を受賞した「ばら色の海」は、横浜のダルマ船に住む水上生活者の子どもたちに取材した作品で、すでにこの段階で彼の「取材」を介した創作作法が現れている。「ある日、ぼくは横浜に行き、夕映えの港の停泊する大きな外国の貨物船の間を、いそがしげに働いているダルマ船の群れをみた。その船の中に、ぼくは子供がいるのに気がついた。いったい、あの子たちは、どんな生活をしているんだろう?学校は……? そして、ぼくは横浜にかよった。水上生活の子供たちの学校は、横浜の丘の上、山手町にある「水上学園」だ。ぼくは、職員の宿直室に、先生と一緒に寝、そして子供たちと仲よしになった。学校一のかわいい女の子(?)りよ子ちゃんの家(ダルマ船)へも遊びに行った。」(「あのころの思い出――“あとがき”にかえて」つのだじろう『ばら色の海』所収、朝日ソノラマ、1968年、p.238。)この単行本の巻頭に清水慶子(社会学清水幾太郎の妻として当時、翻訳家・評論家として活躍していた)による推薦文が掲載されていて、そこに当時のつのだじろうの颯爽とした新進気鋭ぶりを彷彿させるこんな一節がある。「今、私は一枚の写真を見ています。それは、つのだじろうさんが美しい人とならんで、大空の斜めに回転展望台の上から笑っている写真です。「私どもこの度結婚いたしました。どうぞよろしく。」と添え書きしてあります。これは、昭和三十六年秋のことです。その秋の彼は、「三冠王」と友人たちにいわれました。新居新築、結婚、そして講談社第二回まんが賞をみごと受賞したからです。彼は、まだ二十五歳でした。」(清水慶子「つのだじろうさんと「ばら色の海」」、つのだ前掲書所収、p.7)これに続けて、彼女自身がこの時の選考委員でもあり、つのだの作品を強力に推したことも紹介されているのだが、そのほぼ同じ頃、清水は「日本の子どもを守る会」の「悪書追放運動」の一環としての当時の児童漫画に対する抗議集会に「母親」代表的な立場で参加し、出版社や作家たちに当時の児童漫画に対する不満を投げかけたりしていることなどを考えあわせると、そんな彼女の当時の眼につのだの表現がどうやら圧倒的に素晴らしいものに映ったらしい、そのことの内実や背景など含めて、いろんな意味で興味深い。ちなみに、彼女は1906年生まれで当時すでに55歳、1936年生まれで25歳だったつのだとは30歳の年齢差があったことになる。「やはり「ばら色の海」は、当時の少女まんがの分野にさわやかに新風を吹き送った異色の力作だったのです。(…)あの頃も、そして今でも、どうして多くの少女マンガはレベルが低いのでしょう。どれも同じようなグロテスクな大目玉と細い手足をした少女の絵。暗く、さびしく、なげきと涙のそらぞらしいお話。いったい作者たちは、新しい教育で育っている今の少女たちをどう受けとめているのでしょうか。こうした少女ものが氾濫する中で、つのだじろうさんがつぎつぎと描いていった少女まんがは、新鮮でした。」(清水、前掲、pp.7-8)

*23:つのだじろう(原作・山中恒)『サムライの子』虫プロ商事、1969年、p.186。

*24:つのだ、註24に同じ、p.186。

*25:つのだじろう『あかね雲のうた』虫プロ商事、1969年。(初出、『りぼん』1964年2月号ふろく「りぼんカラーシリーズ」11、集英社

*26:つのだじろう『すみれ雲のうた』、『りぼん』1964年10月号ふろく「りぼんカラーシリーズ」18、集英社

*27:つのだじろう『おれの太陽』虫プロ商事、1967年。(初出、『少年サンデー』1965年9月〜1966年1月連載、小学館)ちなみに、1967年にNET系列で連続テレビドラマ化もされている。つのだとしては「サムライの子」以来、なじみのある北海道にその後も足を運んできた「取材」行の総決算的な意味あいがあったらしい。「その間の取材は北海道、九州、東京と十分におこなったつもりです。おかげで、私は馬が大好きになりました。自分で馬券を買って、ずいぶんソンもしました。(…)この作品を描くにあたって、親切に指導協力をしてくださった中央競馬馬事公苑の木村教育課長、鹿児島県牧園牧場の赤塚牧場長、宮崎県延岡市の矢野獣医(矢野一騎手のお父さん)、その他のみなさまにあつくお礼を申上げたいと思います。」(つのだ、註27に同じ、p.255。)これ以外にも、単行本『あかね雲のうた』カバー裏には「本編のできるまで」と題した執筆から刊行までの経緯が絵入りで記載されていたり、当時のつのだの「取材」を介した「現場」への執着は随所に現れている。

*28:つのだのこのような「取材」を介した「現場」志向がいつ頃から胚胎していったのかについては、「サムライの子」を手がけるようになる少し前から、少女月刊誌の『ひとみ』(秋田書店)で「ひとみの漫画訪問」という取材ものの連載企画を担当していたことなどが、ひとつの手がかりになるかも知れない。これは、今で言えばイラストつきのルポのようなもので、雑誌名を冠した「ひとみ」というキャラクターが主人公で芸能人などさまざまな人に会いに行ったり、何かの現場に赴いたりする企画だったが、「ルポルタージュ」や「ドキュメンタリー」が「リアリズム」の前景化に伴って注目されるようになってもいた当時、このような企画につのだが従事していたことは、「取材」の面白さや有効性に気づいて眼を開いてゆくひとつの契機になっただろう。もっとも、このような仕事は古くは岡本一平や小池夢坊などの漫画漫文の類から、戦前以来の横山隆三から近藤日出造、戦後の清水崑などに至るまで、マンガ家ならぬそれまでの流れにあった「漫画家」にとっては、ずっとあり得てきたひとつの仕事のスタイルではあった。当時の若い新しい世代の描き手たちの梁山泊だった「ときわ荘」組の中でも、手塚治虫由来でなく島田啓三という「古い」タイプの「漫画」描きの、それも雑誌を介した投稿者経由の「ファン」からでなく徒弟的にじかにその下について修行していた出自などとあいまって周縁的な立ち位置にいたことが、このような仕事を早くから手がけられるようになる上でプラスに働いていたと思われる。ちなみに、『ひとみ』は1961年に休刊している。

*29:このような「私小説」的な方向への転回は、「子どものために良い作品を」といったそれまでの児童文学的な、少なくともそれらと地続きな作家性に基づいた自意識を乗り越えようとしてゆく中で、永島慎二に代表されるようなそれまでの貸本劇画系で仕事をしてきた一群の中から主導的に出てきた流れだったが、ただ、それは単に描き手の側の要因だけによるものでなく、それらを受容することのできる読み手の側のリテラシーの成熟との相互関係の中に宿っていったと考えるべきだろう。

*30:早船ちよは戦前からの児童文学作家で、「キューポラのある街」は1959年から雑誌『』連載、1961年に彌生書房より刊行。 1959年(昭和34年)より1960年(昭和35年)にかけて『キューポラのある街』を雑誌「母と子」に連載。

*31:当時の映画評などでもこのやす役、南田洋子の熱演として好評なのだが、残念ながら実際の映画作品を観ることができないままなので、そのあたりは現認できていない。DVD化などもされていないようなのは、何か事情があるのかも知れない。

*32:シーン1「原野」で、ユミの面倒を見ていたばあちゃん(前の女房の母親らしい)の葬列における、父(太市、と名前がつけられている。原作では名前はなかった)と、同じくユミをかわいがっていたらしい地元の松下すぎ(60)(原作では、ユミと祖母とが世話になっていた地元で料理屋を経営している「祖母のおさなともだち」にあたるか)の会話から。小沢昭一と武智豊子である。すぎ「始終聞かされたもんだ。太市は娘と孫の仇だって。いぐら百姓辛えからって女房子供放っぽって逃げるような男なら、見だごどねえって」太市「したって俺あこの身体だ。何時までもあんな熊の出る開拓でやれるわけがねえ」すぎ「黙って行くことはあるめえ。え、こゝらじゃ皆、五年前に女房殺した太市が、今度は女房のお袋まで殺したって云ってるぞ」太市「んでも俺あ仕送りしてたんだぞ、僅かだが」すぎ「僅かすぎるで、月千円来るか来ねえかじゃお前。とに角、ユミは引きとって貰うかんな」父という存在について、もともと開拓に失敗した出自らしいこと、ユミを死んだ女房の実家に預けて働きに出ていて、そのユミの面倒を見ていた実家の義母が亡くなったので致し方なくユミを引き取らざるを得なくなったこと、が見事にこの冒頭のシーン一発で「説明」されている。原作での父は、ユミと離れて暮らしてはいるものの、彼女にとって「港町にいる父のことは、じまんのタネ」だったし、紋別で一緒に暮らしていた祖母が亡くなったので小樽で働く父のもとへ引き取られるに際しても、その料理屋の女主人に連れられて小樽までやってきたことになっていた。何より、「おはなし」としては、父の名前も最後まで明かされないままだったし、バタ屋稼業をやっているといいながら、その性格や言動などはいわゆる「リアリズム」的な意味では実際にはあり得ない、まさに定型的な「善意の傍観者」だった。とは言え、だからと言ってそれが「おはなし」としての〈リアル〉を阻害する要因になるわけでは必ずしもない、そのへんが「おはなし」の一般的な特性でもあるのだが、しかし映画というメディアを介した「おはなし」という意味においては、また違ってくる。少なくとも、映画という出力を想定した脚本家今村昌平にとっての〈リアル〉とは、そのような活字の「おはなし」の文法に従ったところとは違う地点に宿るはずのものだったということだろう。

*33:太市を演じたのは小沢昭一。今村作品に限らず、この時期の日本映画が可能にしていった〈リアル〉にとってある意味欠かすことのできない役者ではあり、まただからこそ、彼のあの個性を軸に「おはなし」が展開してゆくように脚本も書かれたのだろうという気はする。とは言うものの、この作品でのありようは、註32でも触れたように、未だ現認できていない。

*34:安本末子『にあんちゃん』(カッパブックス、1958年)も、在日朝鮮人の少女の日記で当時のベストセラーだったが、ただちに翌年、映画化されている。同じく日活の製作で、監督は今村昌平。ここでも小沢昭一は出演している。

*35:『少女ブック』1963年5月号、集英社。『少女』1962年9月号、光文社。共に月刊誌だが、前者は、同じこの4月下旬に後継的な意味あいの週刊誌『マーガレット』が創刊されて奇しくもこれが終刊号になったようだし、後者もこの翌年に休刊している。月刊誌としての少女雑誌が、戦前以来の総合誌的な月刊誌体制を維持できた最後の時期と言える。

*36:「《宣言》少年小説の旗の下に」『少年文学』早大童話会、1953年6月4日。

*37:山中恒(ホスト・尾崎秀樹)「“ボクら少国民”の時代を問う!」『新刊展望』20-2、1976年、p.27。

「残酷物語」の時代・ノート――「鼎談・残酷ということ」から


 今から59年前、1960年8月発行の雑誌『民話』第18号に、「残酷ということ」という「鼎談」が掲載されています。*1 出席者は岡本太郎深沢七郎宮本常一の3人。それぞれ芸術家、作家、そして民俗学者として、その頃それぞれ話題になっていた文化人たちです。*2 副題に「「日本残酷物語」を中心に」とあるところから、当時、ベストセラーに近い売り上げを示して出版界からジャーナリズムまで広く話題を呼んでいた平凡社のシリーズ企画『日本残酷物語』と、それが巻き起こした現象などについて語ってもらおうという目論みだったようで、実質、巻頭企画の位置に置かれているのを見ても、当時この「残酷」というもの言いをめぐる文化人の座談会に、それだけのニーズがあったことがうかがえます。 *3

 実際、この「残酷」というもの言いは、「残酷物語」というコピーライティング的な成句を踏み台にしてその頃、流行ったようです。

 元の書籍が1959年11月からシリーズとして刊行開始され、翌年にかけてまず当初の五部作が世に出されてゆきました。*4 好評だったこともあり、さらに二部が「現代編」と題された続編として追加され、最終的に1961年に完結しています。 *5その過程に軌を一にするようにして、映画では大島渚の『青春残酷物語』が1960年3月公開。イタリアのG・ヤコペッティの映画“Mondo Cane”が『世界残酷物語』という邦題をつけられて1962年9月に公開され大ヒット、その他、同工異曲のような形で『陸軍残虐物語』が1963年2月、『武士道残酷物語』が1963年4月、果ては書籍と同じタイトルの『日本残酷物語』が1963年6月、と国内映画界を中心に立て続けに「残酷物語」ものが制作されています。その他、マンガでも永島慎二の『漫画家残酷物語』が1961年から3年間にわたって貸本劇画誌に連載され、これもまた後に戦後マンガ史上に大きな位置を占める作品になったことで「残酷物語」のもの言いを世に知らしめる一端を担うことになりましたし、新聞や雑誌などの企画でも「○○残酷物語」というリードや惹句の類はあちこちで使い回される、今で言うバズ・ワード的なもの言いになっていました。

 その当時の文脈での「残酷」というもの言いの内実やその背景については、以前、平凡社ライブラリー版として復刻された際の『日本残酷物語』の解説で、少し考察を試みたことがあります。*6その時は、シリーズの執筆者の陣容や掲載された仕事の内容、それらが当時の人文社会系の学術研究界隈、殊に民俗学民族学歴史学などがジャーナリズムとの関係でどのようにそれまでと違う新たな立ち位置を占めてゆく時期にあったのか、などを補助線にしながら、いくつか今後の課題としての視点も併せて提示しておいたのですが、「民俗学とそのまわりがおおむね1920年代あたりからため込んできたこの国の「眼前の事実」がこのような新たな文体の“おはなし”として再構成され、提示されていて、その際に当時支配的だった空気に沿って「残酷」というもの言いが採用された――いずれこの国の歴史にとって貴重な一次資料がひとくくりに「残酷」と名づけられてしまった」という総論的な認識は今も基本的に変わっていません。 その上に立って、その「残酷」というもの言いに当時込められていた意味の広がりをさらに立体的にとらえて描き出してゆく作業の一環として、この「鼎談」をほぐしながら読んでみます。

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 鼎談は冒頭、こんな深沢の発言から始まります。

「残酷、残酷というけれど、このごろのはやりことばのようにぼくは感じますね。何かいままでぼくは、ウバ捨てを残酷だとは思わなかったですけれど、あれが小説に出てから、残酷だといわれて、「そうかなあ、残酷かなあ」と思いましたね。――残酷だったんだなあと――あとで自分でみとめますけれどね。」

 「ウバ捨て」云々は、言うまでもなく、彼の小説『楢山節考』の中の挿話のこと。『楢山節考』が刊行されたのは1957年2月、時を移さず映画化されて公開が翌年1958年6月、本格的な放送が始まって間もない頃だったテレビでもドラマ化されたり、いずれにせよこの『日本残酷物語』の少し前、ここで「残酷」と意味づけられるような現実を取り上げて話題になっていました。同じような主題を扱った作品の作者という意味で、この場に招かれているのは明らかです。

 これに応じるように、岡本太郎が「それは実に正しい」と肯定する。「残酷とかいう言葉のほうがぼくは浮いているというような気がする。残酷と思わないものの残酷さというものがあるわけですからね」と続けて、『日本残酷物語』の監修者(単なる監修というだけでなく、素材提供者であり、またリライト等をかけたライターでもあったはずだが)であり、この鼎談が掲載されている『民話』誌の編集委員のひとりとしてホスト的にその場に呼ばれていただろう宮本常一に対して、「こんなひどい話がある。かわいそうにというようにとりあげるんだったら、あまくなって、センチメンタルになってしまう――」と投げかけて、いささか挑戦的な雰囲気で始まっているように見えます。

 それに対して宮本は、「それは最初からわたしのねらいでもあった」と監修者としての立場も含めて軽く受けた上で、「ことばの残酷というのは残虐ではないんだということからでたかったんですね」と自分の立場を明確にします。巷間通常言われるような意味での「残酷」が含意している「残虐」といったニュアンスを強調して制作した企画ではないし、そんな意図もなかった。むしろ、そんな「残虐」を含意するようなことばの上での「残酷」には、「残虐」以外の意味も本来はらまれていたはずだし、また、そのようなことばの向こう側にあるものを目指したかった、というような意味でしょうか。

 そして、そもそも「残酷」というもの言い自体、特別なものでもなく、これまでも民間の話しことばの語彙として普通に使われているものだったということを、彼自身の聞き書きの経験から紹介しています。

「東北の方へまいりますと、人が死んだりなんかしましょう、その時のアイサツに、「残酷でござんした」とか、「残酷でございました」とかいうように、いい、つかっているんです。例えば、「おきのどくでございました」というようなのと同じような意味ですね。ですから、ちかごろはやりだしたことばではなくて、アイサツのことばとしての「ほんとに残酷でございます」というような使われ方があるんで、それがどういう意味でつかわれているかというと、自分の意志ではないのにそうなっていったというような場合に使っているんです。」 *7

 つまり、その「残酷」というもの言いを使う側が、何か大文字の概念やその上に組み立てられた理論をあらかじめものさしとして持っていて、それに沿った価値判断を押しつけるための道具としてそのようなもの言いを振り回すのではない、ただ普通の人たちの日常の話しことばの語彙としての「残酷」というのがすでに世の中にはあって使われていた。それは、この自分とは切り離されたところに客観的な対象や現実を想定して、それに対して外側から意味づけしてゆくような種類のことばとは違い、自分たちが日々生きているこの世界に自分たちの力ではどうしようもないできごとや運命といった現実がうっかり出来してしまうような事態、つまり「自分の意志ではないのにそうなっていった」ことに対して、それを対象化したり価値判断したりするよりも先に、まず受け入れてゆくことからしか現実的な対処もしてゆけない、そんな立場にあるお互いのありようを共にいたわり合うように使われるもの言いであったらしい。「わたしはそのことばには非常に愛着を持っているんです」と宮本は言い、そして、こう続けます。

「ぼくなんかが歩いてみていると、みんなこの仕事を持って働いており、それぞれ精いっぱいに生きている――それを見ているとその場ではちっとも残酷ではないです。(…)ところが、その同じ世界を、経済学者たちが分析しますと、階級闘争とかいろいろな形でとらえて、こういうふうに民衆というのはしいたげられている、こういういい方をしているんですね。そういう人たちは自分がしいたげられているとも何とも思っていないで、力いっぱい生きているんです。そしてその生活を軽蔑しているか、というとそうでもない――やっぱりあるほこりを持っている」

 世間一般その他おおぜいの、民俗学由来のもの言いを敢えて使うならば「常民」の目線からの、彼ら彼女らが生きている現実とは、常にただそのような「現在」として立ち現れ続けるようなもので、それを高みから俯瞰したり、距離を置いた視点からその「現在」の背後にあるからくりや法則などを透かし見ようとしたり、そんなことは普通はしないし、できない。自分自身もまたその中に含み込まれている「現在」の中に共に巻き込まれながら力いっぱい生きている、ただそれだけらしい。だから、そんな「現在」から距離を置いた視点から見ることのできる人たちが言うように、そんな自分が虐げられているとか疎外されているとかも、まず思わないし、思いようもない。そんな自分の生活も日常も何もかもそこに含み込まれているこのとりとめない「現在」自体を、まずまるごとそういうものとして肯定して受け入れるところからしか、生きることは始まらない。だから、それらを全部軽蔑したり批判したり、そんな人ごとの感覚は持たないし、持つ余地もない――ここで宮本が、平たい話しことばで言おうとしていることを敢えてほどいてみるならば、概ねこういうことだったと思います。

 こういう、当時流行り始めていた「残酷」というもの言いの、世相的な意味や内実に対する違和感を、深沢も岡本も冒頭から表明していたのをうまく受けて、企画の制作現場としてもそのような通常使われてきたようなもの言いとしての「残酷」とは本来違う意図と文脈で使っていたことを明らかにしている。このあたりはひとつ、着目しておくべきところです。
 岡本も、学術的用語やもの言い、抽象度の高い概念や観念、それらを使って構築される理論などを介した現実理解のやり方そのものに対する違和感や不信感を、よりはっきりと表明し始めます。

「あなたのさっき言われた経済学者とか、社会学なんかが階級闘争とか生産関係とか、いうのは正しいと思うんですけれども、そういうものは以前の生き方、もっと人間がじかに自然と闘い、社会の矛盾の中で自然のままに生きながらえて来た、その姿の――ここには近代意識というのは全然ないわけですよね――近代における劃一化というようなものと、ちがう人間の生き方、もっと根源的な生命の流れというものが、ここに象徴されているような気がするわけです。」

 ここで彼が引き合いに出している「経済学」「社会学」というのは、個別の専門的学問領域というよりも、共に当時支配的だったマルクス主義を自明の前提にした日本語環境における人文社会系学術研究の最大公約数、といった方向に翻訳しておくべきでしょう。それが雑誌その他、活字媒体の拡大によって形成されつつあった情報環境のそれまでと異なるあり方において、ここまで作家など文化人も含めたコミュニティにある種「教養」的な意味あいで共有されるようになっていたことも、また。

 続けて、第一巻に収められている「盲の乞食の話」のモノローグが素晴らしいと激賞し、これに宮本が応じています。これは後に彼の名前で有名になる「土佐源氏」の初出にあたるものですが、深沢もまた読後感として「ぼくは残酷な感じはしなかったけれど、こっけいな感じがしましたね。「おかしなお人だな、この人の一生は……」と、とても何か書きかたによっては、諧謔小説になりそうな感じ……」と言い、このあたりは深沢流のデタッチメント感覚が現れています。また、宮本もそれに対して「悪意のないものはみな共通してそれが出てくるんじゃないですか」と応えている。

 この流れで、宮本の聞き書きの手法などにも言及されています。現場で記録してゆく場合に「カタカナでずうと書いてゆくんです」と、彼は言う。それでとれるか(記録できるか)、と岡本が尋ねると、「ゆっくり話しますからね。ああいう人たちというのは。今こそわれわれ早くペチャペチャ早くしゃべりますけど。そしてしまいに「どうだあ」なんてやりましょう。そして一息入れますからね。ですから、カタカナで書けば、大体とれるんです。」このあたりも、巷間語られている「卓越したフィールド・ワーカー」的な宮本像から覆い隠されがちな、書き手としての宮本の手法が垣間見える興味深い個所です。*8 この後の部分でも、文字とことばと生活感情といった関係についてもやりとりされていますが、そのあたりから鼎談は岡本の独自の芸術論の開陳とそれを下敷きにして宮本が何とかまとめてゆこうとする流れになり、当初提示されていた問いを回収することができないまま、やや尻切れとんぼのような印象でページ数が尽きています。同じように、編集後記においても「「日本の民衆はひさしいあいだじつに貧しかった。貧しさのなかにいると、貧しさがわからなくなってくる。」という。残酷なものをも残酷とも思わない、いやそれがあたりまえな現実のセカイ。そこにギリギリの民衆生活があり、民衆思想の、民衆文化の根がある」というまとめ方がされていて、鼎談の中で断片的に示されていた「民俗」的な次元での「残酷」の内実などの問いを反映していない、その意味では当時の流行のもの言いとしての「残酷物語」の文脈に沿ったものになっています。

 同じ担当編集者として、おそらく監修者であった宮本よりも現場の作業などで中心になって動いていたはずの谷川健一なども、この年の夏、書評紙で一頁を割いて特集された『日本残酷物語』の記事の中、「編集者として」と小見出しのつけられた囲み記事で、このように生硬なことばともの言いとで言挙げしています。*9

「近代に復讐することが近代社会に生きる唯一の存在理由であると私のような人間が、近代の告発をテーマにした『日本残酷物語』を企画したのは、しごくあたりまえのことといえる。人間の疎外と解体を不断に強いる近代の残酷さにたいして、民衆はいつまでも無防禦であるわけにはゆかないということを、さまざまな事実をあげて、いいたかっただけである。」

「一部の進歩的文化人は、封建遺制にたいしては批判するが、そのわりには近代にたいして甘すぎる見解しかとることができず、したがって民衆の真の残酷な立場を指摘することができないのである。」

 ここでの「残酷」も、先の鼎談で提示されていたようなものとはある意味真逆の、あらかじめそれらを「残酷」と意味づけるだけのものさしが共有されていることを前提に、断定的にはっきりと突きつけるようなものになっています。「近代」が敵役のように論われているのも、当時の論壇ジャーナリズム界隈で改めて近代化が問われるようになっていたことの影響があるのでしょうし、また、1960年という当時の国内の情勢を併せて考えるならば、急激に熱を帯び始めていた政治的な同時代の空気の中、『日本残酷物語』という企画に本来込められていたらしい問いが、その可能性ごと流されていったようにも見えます。

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 とは言え、こんな断片も拾えます。

 同じ書評記事の中で、版元の平凡社に寄せられている読書カードのことが触れられ、「読書会活動に見られる戦後の若い読者の傾向をつかんでいることがわかる」と評されています。ひとつの例として紹介されている、大阪市の山陽鉄工所の人からのカードにつけられたものによれば、「社内で十名ばかりの読書クラブを作り、毎月三−四冊宛書籍購入をしています。一、二、三巻共興味深く回読しています」ということで、この「読書クラブ」という場を介した「回読」という「読書」のあり方が当時、このような職場の読書サークル的な草の根レベルで想像以上に広まっていたことがわかる。これらに触れながら「とかく浮ついたといわれる若い読者層が真面目に、自分の生きる糧に受け入れ、参加したことは、戦前のドイツ風の教養主義や、一時の実用主義的な読書とは違った新しい傾向を認めることができる」という評言が附されていることなどからも、その頃の読書市場に新たな世代が参入し始めていた状況が実感されていたことがうかがえます。それはその後、高度成長期から概ね80年代いっぱい、ごくざっくり言えば概ね「昭和」が尽きる頃まで書籍市場で「人文書」と呼ばれるような領域を支えた、「読書人」と呼ばれる文化消費者層の中核を担った人たちだったはずです。総合雑誌からそれぞれテーマやジャンル別に分化していったような各種雑誌がいくつも並立して、それぞれに読者がついていた状況は、概ね1981年の商法改正によっていわゆる「総会屋雑誌」が成り立たなくなる頃まで続いていましたが、それは同時に、このような「読書人」が支える読書市場が、専門的な学術研究の領分の外側に大きく広がってゆき、大衆的読者層としてそれら専門領域に対する批評的足場にもなり、そしてもちろん書籍市場も支えていた状況が現出していった時期でもありました。 *10

 哲学から思想、歴史といった領域に軸足を置いた「人文書」の市場が拡大していったことで、専門的な学術研究の外側に、そのような一般の「読書人」という広がりが、ある種のフリンジのように分厚く取り巻くようになってゆき始めていた。「戦後」の言語空間、などとひとくくりに言われるようになってもいる思想的な脈絡での戦後の経緯も、情報環境の成り立ちと経済的存立基盤も含めた媒体の関係、そしてそこに埋め込まれていた読者との間に共有されていた「読み」の水準なども含めて、できる限りの全体として眺めてみるなら、おそらくことば本来の意味での「歴史」過程としてダイナミズムと共に描き出すとこともできるようになるかも知れません。それは、近年少しずつ露わになりつつある、比較的若い世代からの「歴史」の見直しが期せずして露呈しつつある「もうひとつの意識せざる歴史修正」に対する、誠実なカウンターの足場を準備するものにもなると思われます。*11

*1:「鼎談・残酷ということ」『民話』第18号、民話の会編集、未来社、pp.8-25、1960年3月。

*2:岡本太郎は、この少し前、1950年代に入る頃から独自の視点による縄文土器論を発表し、芸術的視点からの「縄文」文化の再発見を称揚し始めていたし、『日本残酷物語』初版刊行時のオビに推薦文を書いてもいる。深沢七郎も1956年に『楢山節考』で第1回中央公論新人賞を受賞、翌年刊行されてベストセラーになっていた。宮本常一は彼らに比べてまだ著名とは言えなかったが、それでも離島振興協議会の事務局長を務めていたり、『風土記日本』以下、当時の平凡社の比較的大型の出版企画で監修その他、制作上重要な役割を担っていた。

*3:全64ページ中18ページを占める巻頭企画となっている。本誌『民話』の編集委員には木下順二、益田勝実らと共に宮本常一も名を連ねているので、この鼎談のまとめ役的な立場で加わっていたであろうと共に、この企画自体も彼が中心になってのものだった可能性はある。

*4:当初の五部作の表題と刊行日。第一部「貧しき人々のむれ」1959年11月30日。第二部「忘れられた土地」1960年1月30日。第三部「鎖国の悲劇」1960年3月30日。第四部「保障なき社会」1960年6月4日。第五部「近代の暗黒」1960年7月30日。

*5:現代編1「引き裂かれた時代」1960年11月30日。現代編2「不幸な若者たち」1961年1月26日。

*6:「かつて「残酷」と名づけられてしまった現実」『日本残酷物語?』解説、平凡社ライブラリー、1995年、pp.531-541。http://d.hatena.ne.jp/king-biscuit/19941029/p1

*7:このような「残酷」は、北海道でも使われる「いたましい」などにも近い、話しことばの語彙としては同じ系統のものという印象を受ける。あるいは、「なんもだよ」というあのあっけらかんと放り出すような、初めて遭遇した時には面喰らわざるを得ない慣用的もの言いなどにも。

*8:宮本常一は近年、また新たに注目されてきているが、それは従来からあった「フィールド・ワーカー」的側面に対する半ば神話的評価の言説が、さらに若い世代に世代的なディストーションがかけられて受容されてきている結果、という印象がある。この時期の宮本が書き手であり編集者的な立ち位置でもあり、といったところで、いわゆる出版やジャーナリズムの分野で積み重ねてきていた仕事は、まず「書き手」としての彼の手法などに合焦しようとしなければうまく理解できないままだろう。『日本残酷物語』におけるリライトの過程などは、その代表的な叩き台になり得る。そしてそれは谷川健一の仕事にも通じる視点と問いである。

*9:「ベストセラーの変りダネ『日本残酷物語』の波紋――この本が語りかけるもの」『図書新聞』567、1960年8月27日号。6面の全面使った特集記事。見出しに「底辺への興味」「その名は流行語にまで」など。本文記事の署名は(S・S)で、別途、(平凡社谷川健一)署名の「近代の告発をテーマに」が囲み記事であしらわれている。以下、冒頭のリード部分。「日本のヌーヴェル・バーグといわれた映画の題名にまで、「残酷物語」という名が冠せられた程、「残酷」という言葉は流行した。社会現象のなかの人間を自然史的、生態史的な立場から見て、“日本的残酷さ”の本質をつかもうとした『日本残酷物語』全五部(平凡社)は、読者に強い衝撃と共鳴を与えながら一応完結した。更に十月から現代篇二部が追加されることになったが、ここでこのシリーズの問題的の意義を読者とともに考えてみよう。」

*10:「『現代の眼』とか『構造』『流動』とかって左翼総会屋雑誌というものがあった。七〇年代は基本的に総会屋雑誌における陣取り合戦をやっていたわけですよ、全共闘OBたちは。ところがそれが商法改正(一九八二年)になって左翼総会屋がなくなっていくなかで、日本のメディア情況はかなり変わっていったと思うんですよ。よくも悪くもかつてはヒエラルキーがあったんですよ。岩波があり朝日があり、一方で文壇があり書評誌があり、総会屋雑誌がある。商法改正等々によってヒエラルキーが崩壊していくわけです。」(絓秀実 宮崎哲弥 高澤秀次『ニッポンの知識人』ベストセラーズ、1999年)

*11:最近でも「残酷物語」という定型はまだ有効なようで、最近でも若い世代の書き手による「音楽家残酷物語」が出ていたりする。(ロマン優光『音楽家残酷物語』ひよこ書房、2001年)。経済でも歴史でも政治でもなく、大衆文化こそが存在を規定する、とでも言いたげなほどに、「自分」の感覚や意識が世界の中心にあって「現実」はそんな「自分」が自由自在に取り込み操作できる「情報」の星雲状集積である、といった世界観と価値観は、それまでの「現実」を理解する上で使われてきた「政治」や「経済」「社会」「文化」といった概念≒ツールの類までをも、ひとまず全部「情報」としてフラットに等価に扱うことのできる(と思っている)その星雲状集積の中に放り込んでしまうことで、「世界」は中間の媒介項を全部ショートカットして「自分」と直接つながる「セカイ」になった、というのがいわゆる「セカイ系」と呼ばれる、近年の若い世代の意識のありようについての説明の大枠らしいが、そのような若い世代の意識の側からは、当時の「残酷物語」もまた、このような文脈で使い回されるようなもの言いになるものらしい。「TVの普及はスポーツ観戦の慣習をお茶の間に定着させ、ここからスポ根物の様な「非現実的な名勝負」の繰り返しで魅せる「一般社会に普遍化できる生き方の見本として、栄光を目指して試練を根性で耐え抜く」物語文法を定着させた。この当時がイタリアの映画監督グァルティエロ・ヤコペッティの手になる「世界残酷物語(Mondo Cane / A Dog's World、1962年)」や山田風太郎忍法帖シリーズ(1958年〜1974年)」の全盛期でもあった事を忘れてもならない。戦後復興期の延長線上に現れた高度成長期は、その「(国家間競争が歴史の主体を担う総力戦体制時代特有の)人間を単なる消耗部品として扱う過酷さ」を適度にガス抜きしつつ国民に受容させるイデオロギーを必要としたのだった。」(ochimusha01「改めて『君の名は』とは何だったのか――「80年安保」なる思考様式について?」http://ochimusha01.hatenablog.com/entry/2018/03/10/062336)これらの意識のありようが「現在」から見通す「歴史」が、これまでの概念などをツールとして想定されていたものとどれくらい違うものになってきているか、についてとりあえず捕捉しようとする意味で、「もうひとつの意識せざる歴史修正」という言い方をしておきたい。これまで使われてきたような意味でのいわゆる「歴史修正主義」などとは全く別の、しかしことの本質としては「歴史」を書き換えてゆく働きという意味では共通する、ある大きな同時代的な動き、といったあたりで当面その内実は仮止めしておくことにする。

西部邁、逝く

f:id:king-biscuit:20200223223405j:plain *1
  西部邁さんが、亡くなりました。

 遺書めいた書きものも残して厳冬の多摩川に自ら飛び込むという、自殺に等しい最期だったということですが、そのへんの詳細はとりあえず措いておきます。

 「思想家」というもの言いも「文学者」「哲学者」などと同じようにずいぶんと安っぽく、かつ陳腐な響きを伴うものになってすでに久しく、いまどき自らそう名乗る人がたはよほどの鈍感か厚顔無恥、ないしはそれら思惑がひとめぐりした果てのいらぬ戦略や当て込みを先廻りして計算して見せるような猪口才漢と相場は決まってますが、西部さんの場合、この訃報が新聞など報道記事の中にこの「思想家」の肩書きが附されているものがあったところを見ると、通りいっぺんの「評論家」などとは別に、まだ「思想家」というもの言いの内実と釣り合うギリギリのパブリックイメージが彼自身の生身に共有されていた、ということかも知れません。

 巷間、「保守」思想を代表する論客(このもの言いも同じく陳腐化してますが)ということになってました。すでにご長寿番組の範疇に入るようになったあの『朝まで生テレビ』などで、一見穏やかな顔つきでやりとりしながら、ことばやもの言いの端々に鋭くからみつくような調子を取り混ぜて、いずれいまどきのメディア芸人揃い、その場その刹那の「ウケ」や「ノリ」任せのうつろなおしゃべり繰り出し合うばかりになっている情けない「場」でも、観ているこちらには時に確実に響く生身を伴ったことばを届けていました。そういう意味では、「有名人」で「文化人」であっても生身のありようと共にイメージされている、「昭和」の情報環境出自なインテリの最後のひとり、だったような気もします。


 個人的には、かつて歴史教科書をめぐって物議を醸した「あたらしい歴史教科書をつくる会」がらみで、公民の教科書をぜひとも西部さんに、ということを強く主張して、つくる会との間を僭越ながら取り持つような役回りになっていた時期、割と親しくおつきあいさせてもらったこともあり、いわゆる「西部スクール」と呼ばれる、大学で教えていた頃からの言葉本来の意味での愛弟子の人がたも含めて、西部さんとそのまわりの人がたの雰囲気などはある程度肌身で感じることができたのはありがたいものでした。

  反面、「思想家」稼業でのつきあい、文芸評論家やその界隈の新聞記者や編集者などとの局面はあまり知らないままだった。折に触れ、その著書や講演その他で彼が繰り返し言及していた「酒場でのつきあい」なども、その現場に居合わせたことは正直、そう何回もありません。むしろ、印象に残っているのはご家族との手放しの親密さの表現、殊に娘さんに対する相好の崩し方などは、申し訳ないですがこちらなどがちと引いてしまうくらいの素朴さ、純朴さが横溢していて、ああ、このへんはやっぱり故山口昌男さんなんかと同じ「北の人」、ご当地北海道出身の知性ならではの公私の切り分け方というか、最も等身大の生身の「私」のところで拭いきれない何ものか、が感じ取られたものでした。

 「保守」という看板をある時期以降積極的に引き受け、また自らそれを良くも悪くも独自の文脈で使い回すようにも晩年、なっていったように思いますが、その思想的な内実については、実はそういう巷間思われているような「保守」の輪郭とはあちこちズレるような、時に矛盾と見えるところがあったかも知れない。おそらく自身、そのへんも織り込み済みだったのでしょうが、むしろそういう「保守」看板での思想沙汰から入って理解しようとすると、先に触れたような生身の「私」のありようが見えにくくなるような気がしないでもない。ことばやもの言い、表現全般にそれら生身が反映されていた「思想家」だったはずなのに、このへんの生身の「私」の重層性のような部分は、いまどきの情報環境を介しての「思想」表明にまつわる本質的難儀として、残された問いのひとつになるように思っています。

 今でも覚えているのは、離婚したということを伝えた時、「キミはまた、とてつもないことをするもんだなぁ……」と、さもさも呆れたような嘆息と共に言われたこと。彼の説く「常識」の根ざすところを、未だ何ものにも邂逅していなかった若僧に教え諭してくれるような、親戚よりもさらにずっと近しく、また厳しい口調でした。

*1:晩年、何やらブルース・ウィリスみたいになっとったが、自分の知る西部邁はギリギリこの頃のこういう相貌だった。

「団塊」的知性論

 

*1

 団塊の世代の、特にプチインテリ層 (関川夏央ならば「知的大衆」と呼ぶかも知れません) 特有の世界観や価値観、というのは、そろそろまともに、言葉本来の意味での「歴史」的な文脈での考察対象にしておいた方がいいと思われます。

 単なる「サヨク」だの「リベラル」だのとひとくくりにしているだけでは、どうしてそのような発想に落ち込んでゆくのか、その仕組みが見えないままだし、何より現われだけを軽侮して終わってしまいます。

 ブロガーなどにわかりやすく見られますが、やはり何というか、「サヨク」「リベラル」系のもの言いや発想、価値観などが、すでにあらかじめプラスの評価として固定されている、そんな代物です。

 それは言葉によって表明される思想や信条、ものの見方や考え方などに自分も同調する、という次元の手前で、そういう言葉によって何ものかを表明すること、それ自体にあこがれて発情してしまっている自分がいる、という状態がある、ということです。そして、おそらくこっちの方が本質的な問いに直結するのでしょうが、そういう自分の状態をご本人はまず自覚していないということです。それは、自分の性的領域をうまく自覚できていないまま、脳みそと下半身とが分離したまま、時代と情報環境によっていたずらに肥大し続ける「自分」を支えてきた、団塊の世代特有のエロスとアイデンティティのあり方にどこかで規定されているように思えます。

 自分が何に、どのような方向で発情しているか。ここでの文脈に即してひらたく言い換えれば、どういう言葉やもの言いに無条件で(・∀・)イイ!!と思ってしまえるのか、そこらへんをカッコにくくる性癖を棚に上げたまま、その(・∀・)イイ!!の方向性にまっしぐらに合理的(笑)に猪突猛進してゆく、それを「情熱」と言い、あるいは「純粋」とだけ呼びならわしてこと足れりとしてきたある世代までの「文化」と関わってくる問題ではあります。

 「サヨク」「リベラル」系のもの言いや発想、価値観などが、ならばなぜ、どのような経緯でそのように無条件に発情を促すような存在になっていったのか、それこそがおそらく、本質的な意味での「歴史」の問いであるはずです。そして、そのような存在になっていった過程で、どのように無自覚のまま「自分」という意識がそれらのからくりの中でからめとられ、構造的な不自由の中に眠り込むようになっていったのか、ということを問うことにもつながるはずです。

 自分の発言や書いたものが、ある種の人たちにとって生理的な嫌悪感を抱かせるようなものであることには、だいぶ前から感じられていました。まずわかりやすく言えば、いわゆる「偏差値優等生」たち。彼ら彼女らが波乗りのごとく乗ってきた、その前提をまるごと疑うようなもの言いをすることが、その嫌悪感、反感の根源だろう、と素朴に思ってきました。「品性が下劣」「下品」「アタマが悪い」といった系列の罵倒や嘲笑のもの言いは、そのような脈絡では定番になっていて、それらはweb環境においてさらになめらかに増幅されていった面もあるようです。

 それはおそらく間違いではない。でも、それだけでもないもっと根深いものがあることに、ある時期から何となく気づくようになっていました。

 この国の知性というやつが、どういう情報環境で、どういう来歴で知性と呼ばれるものになっていったのか、その「歴史」を見通す問いの視線を持ってしまったら、何もフーコーばりとは言いませんが、そのような知性の精神史、歴史学、文化史といった方向での関心が否応なしに介在してきます。そうなったら、思想や批評、論戦沙汰など、それら言葉による営みのほぼ全ての領域が、ある一定の距離感、乖離の印象を介してのみ、自分の手もとに感知されてゆくことになる。〈リアル〉の変換、あるいはそのような手ざわりのコンバートが、自分自身の内側に実装されてゆく。

 「サヨク」「リベラル」系の言葉やもの言いを操り、繰り出すことは、どのような快楽、どのような(・∀・)イイ!!をある種の人々のココロにもたらすことになっていたのか。それは、たとえば少し前まで浅羽通明が「知のおたく」と称して、その「治療」のミッションを自らに課しつつひとり悪戦苦闘していたような、団塊以降、それこそ偏差値世代までは確実に「伝承」されていたある「文化」の構造を明らかにしようとすることにもつながります。

 言葉やもの言いの単線的でテキストに自得した中身、意味の解釈沙汰でなく、それらと共に、同時に全く等価に、それらを繰り出す側の主体がどのようにキモチよさげなのか、どのような満足や愉快を実感しているのか、その水準での「読み」をしてゆけるような余裕と視線が必要です。

 それは、「戦後」の言語空間で形成されていった、われわれの最大公約数の「正義」のあり方を、歴史的過去に織り込みながらさぐってゆくことになるはずです。

 そのような「正義」が宿ったからこそ、筑紫哲也はあんな老醜をさらしながら画面に出続けていたのだろうし、本多勝一

 匿名に甘んじ続けること、「名無しさん」のひとりとして、その分際において発言することの方法的な意義というのは、それら「正義」の快楽に足をとられてしまった自意識にとっては、おそらく本当の意味で理解されるようなものではなかったんだと思います。それはかつての「自立派」の「自立」だったり、あるいは「無告の民」を称揚した土着派界隈の志向などでは、結果的に乗り越えられることのなかった、知性と自意識の関わり方の位相、といった問題を〈いま・ここ〉の情報環境において、ようやく眼前に示すことのできるようなもの、かも知れません。

 固有名詞抜きの〈リアル〉、を伝えることばやもの言いを、民俗学の初志として自分はこれまで設定してきました。それは民族誌的記述において、特定の場所や個人の名前、あるいは数量的な価などを「正確に」盛り込むことを窮屈に使命化してゆくことから一歩引いて、あくまでも自然言語の、母語の散文の呂律において、同時代の、そしてその向こうにいるはずのまだ見ぬ未来の読者の「読み」の水準に向けて、伝えるべき何ものか、を活けてゆけるのか、というミッションでもありました。

 それは必然的に、〈おはなし〉の水準に自覚的になることをまず要求するようなものでした。民話や昔話はもちろん、都市伝説から、いわゆる大衆小説や通俗文学、マンガやアニメに至るまで、そのような広大無辺な〈おはなし〉のコンテンツをできる限り渉猟することと、そのような民族誌的記述、民俗学の本願を豊かにしてゆくこととは、自分の中では一致するもの、という信心がありました。

 知性はめんどくさい。世の中で生きてゆくだけのためならば、まずほとんどムダとしか言いようのないめんどくささをうっかり実装してしまっているようなもの、です。だから人に理解されない。当たり前です。でも、その当たり前にあらかじめ甘えてしまうような自意識も、団塊の世代に象徴されるような旧世代の知性のありようには、デフォルトの設定になっていたらしい。

 自分は特別である、自分のこの自意識はどこかあらかじめ不遇であり、正当な評価や扱いを受けていない、という欠落意識、知性に本質的に付随するしかない疎外感に裏打ちされた甘えの感覚が、言わば聖痕のように刻印されている。「さびしさ」とか「つらさ」とか「かなしさ」とか、「戦後」の歌謡曲などに典型的に現れるある重心をかけられた言葉の向こう側には、そのような甘えの感覚がすでに知識層を超えて大衆社会状況に流れ出してきていることをうかがわせるものです。そして、それらはもちろん、そのような自意識のままで生きてゆけるような社会的な場にたどりつけなかった場合、さらに濃厚になる。人はプライドによって生きていることの難儀はここでも深刻です。

 シアワセになる、ためには、そんな自分と向かい合ってことばにしてゆくことをゆっくりしてゆくしかない。それはひとりでできることではなく、身のまわりの信頼できる関係の中で、関係ごと支えられながらようやく宿る可能性のある、そんなたよりなげな認識、であったりします。でも、ほんとにそれしかない。

 思想沙汰とは、性的領域とよく似ている、らしい。うっかりと快楽であり、不用意に自意識の解放であり、無駄に執着をもたらすもの、であったりもする。ものを考える、とりわけ文字の読み書きによって自意識をこさえてきた世代にとっての思索、思考というのは、自分がなかったことにしてきてその分そこから疎外もされてきた領域と釣り合うような不自由をまつわらせるものだったらしい。

 自由になる勉強、自分が自分であるためにものを考えたりする営み、というのが、どんなにことばが尽くされてこようとも、現実の現われとして困難であったことは、おそらくそういう事情に規定されている部分があります。

 でも、いまや文字の読み書きだけで自分になったわけでもない世代が、そろそろオンステージになっています。デジタルネイティヴ、というのがどういう意味あいか知りませんが、そういうもの言いを弄してもいいかも知れない程度に、これまでの自意識、同じ知性ではありながら異なる「自分」をはらんだ実存が、すでに同時代のものとして呼吸を始めている。日々大学で、学生に接していて痛感することが多いのは、このような意味での「世代」であり、それらを否応なしに考慮せざるを得ないような形で大きくうねり始めているこのニッポンという社会の〈いま・ここ〉、です。

*1:もとは2009年0429に書き留めたものを、2014年0511に追記したまま放置してたらし。ただまあ、そういう種類の「メモ」なので再発掘した日付という意味でもこの日にあげておきます。