解説・野坂昭如「骨餓身峠死人葛」

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 およそ「文学」と正面切って掲げられているものやこと、いや、はっきり言えばそのあたりに好んでへばりついているとしか思えないような人がたそのものもだが、いずれ、そういう界隈に縁のないまま生きてきた自分にとって、それでもなお、いいよなぁ、と、ぼそっと素直につぶやくことのできる、そんな書き手。「作家」でも「小説家」でも何でもいい、とにかく文字を書いて世に出すことで世渡りしている、売文稼業のステキな先達。

野坂昭如がお手本だった。何が、って、ほれ、とにかくおのれの書きたいようにものを書いて食ってゆく、そんな夢のような世渡りの、だ。」*2

 あれはさて、どういうきっかけだったのか、もうほとんど忘れかけているけれども、国書刊行会の「野坂昭如コレクション」の企画に立ち上げからいっちょ噛みさせてもらい、なおかつ、厚かましくも解題まで書かせてもらって、それをご縁にご本人とも何度か親しく話をさせていただいたのは、紆余曲折転変未だ定まらぬおのれの生の、およそやくたいもないこれまでの来し方においても、ちょっとは誇らしいささやかな思い出になっている。

「作家野坂昭如の本領はやはり短編から中編、前シリーズの「野坂昭如コレクション」の解題を担当させていただいた時にも、企画段階からそのことは強調していた。

「テンポとリズムがねえ、やっぱり身体にねじこまれるっていうか、特に西日本、関西弁の文化圏で社会化した人間にとってはほんとにもう骨がらみになってる生活感覚というか、そのへんが否応なしに引き出されるところがあって、あれはおそらく言語を共有していないことには十分には味わえない感覚なんじゃないかなあ」

 うろ覚えだが、担当編集のS氏に打ち合わせの時にそんなことを言った記憶がある。」*3

 その時、絶対に入れて欲しいと、まず何よりも懇願したのが「1945・夏・神戸」「騒動師たち」「てろてろ」「水虫魂」だったのだが、この「骨餓身峠死人葛」もまた、コレクションの第2巻にしっかり入れてもらった。初出は1969年。直木賞受賞後まだ間もない頃、しかし新進気鋭の「作家」としての前途洋々、すでに「エロ事師たち」で小説と見られるものを書いてはいたものの、まさに「エロ」が主眼で、それは書き手自身の「黒メガネ」の「プレーボーイ」(「プレイ」でなく棒引きの「プレー」が当時の気分らしい)という鬼面人を驚かす態でのメディアの舞台への登場の仕方とあいまって、こやつ小説「も」書くらしい、程度のおよそキワモノ的扱いを受けていたのが、直木賞受賞で評価が一変、得たりや応とばかりに、自身もそれまでの「雑文書き」から明らかに「作家」として世渡りの居場所をひとつ定めにかかり始めた頃、と言っていいだろう。

 それはまた「文学」の側も大きく変貌してゆく時期でもあった。出版社系週刊誌の乱立、テレビに代表される新たなメディア・ネットワークの伸長、そして「文学」プロパーの業界においても、中間読物誌と呼ばれたような新たな文芸雑誌の相次ぐ創刊しそれらに伴う「もの書き」稼業の市場拡大……などなど、「民主主義」が中心に据えられた「戦後」という価値観によってようやくそれまでにない広範な市民権を獲得し、最も無難な「教養」としても承認されていった「文学」は、高度経済成長の「豊かさ」を背景に急速にその翼を拡げ始めた新たな大衆社会の中に、少しずつ埋もれるようになっていった。(…)同時にまた、1960年代を通じて通低音としてあった「左翼」思想の無謬性そのものが徐々に解体され、後にたとえば「土着」といったキーワードによって語られる自らの文化的、歴史的背景といったものが、新たに問いなおされる機運が盛り上がる頃でもあった。
 映画界でも「土俗」「土着」への回帰を前のめり気味に追求、それなりの評価も、商業的反応も共に引き出していた頃。思えば、劇画が全盛になりつつあり、それまでの手塚治虫由来トキワ荘系統の「児童まんが」的健全さに対する異議申し立てが同時代の読者にも受け入れられるようになっていたり、なるほど「高度経済成長」へと世を挙げて離陸し始めていた時代というのは、人々にとって〈リアル〉を現前化させてゆくたてつけ自体もまた、大きく変わりつつあった時代でもあった。

「映画では大島渚の『青春残酷物語』が1960年3月公開。イタリアのG・ヤコペッティの映画“Mondo Cane”が『世界残酷物語』という邦題をつけられて1962年9月に公開され大ヒット、その他、同工異曲のような形で『陸軍残虐物語』が1963年2月、『武士道残酷物語』が1963年4月、果ては書籍と同じタイトルの『日本残酷物語』が1963年6月、と国内映画界を中心に立て続けに「残酷物語」ものが制作されています。その他、マンガでも永島慎二の『漫画家残酷物語』が1961年から3年間にわたって貸本劇画誌に連載され、これもまた後に戦後マンガ史上に大きな位置を占める作品になったことで「残酷物語」のもの言いを世に知らしめる一端を担うことになりましたし、新聞や雑誌などの企画でも「○○残酷物語」というリードや惹句の類はあちこちで使い回される、今で言うバズ・ワード的なもの言いになっていました。」*4

 そんな時代の空気を吸いながら、彼もまた書き手としての生存理由を新たな方向に求め始めていた。というか、もともと「作家」「小説家」になろう、という欲が特に優先的にあったわけでもなく、素朴に喰うためにものを書いてカネに換える、何でもありの「雑文書き」であるという自覚と自意識から始まっていたことを何度も明らかにしているくらい。「アメリカひじき」と「火垂るの墓」の併せ技一本であっぱれ直木賞をかっさらってしまうのが1967年、昭和で数えて42年だけれども、その前からそういう何でもありの「雑文書き」としての仕事は実に旺盛にこなしている。で、実はその頃の「雑文」にこそ、未だちゃんと合焦されていない野坂昭如のある本領が、のちの「作家」野坂昭如へと至る舞台裏的な部分に光を当てようとする際にはなおのこと、埋もれていたりする。

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 直木賞受賞に至るこの頃、週刊誌や月刊誌などの雑誌企画で「黒メガネ道中記」といった現地取材ものの連載をやっている。

 掲載誌によって原稿の仕上がり、調子が違うし、それは企画の狙いどころが読者層などと関わってそれぞれになる上、何より「雑文書き」のお座敷感覚、勧進元と観客衆のお歯にあわせて舞文曲筆、匙加減を塩梅するのも商売ならではだろうが、しかし、文芸誌から「小説」の注文がまだそうそうない分、いずれそういう「雑文」でしのがせるのも当時のそういう「文学」世間の編集者の仕事だったとは言え、地方をめぐる文字通りのドサ廻り気分でストリップだのお座敷ヌードだのを眺めてまわる「黒メガネ」キャラにあった仕事と並行して、女性誌や新聞社系週刊誌に企画としては同系統の現地ルポ的なものを書いていて、しかしそれでも、それら異なるお座敷の間にも複数回、筑豊の炭坑地帯を訪れているのは書き手として何らか琴線に触れるものがあったということだろう。上野英信が現地の先達的に道案内をしてくれたこともちゃんと言及しつつ、しかしそれでも、東京からやってきた野次馬雑文書きとしての野坂昭如の眼と身体とで察知してみせている当時のすでに煮崩れ、荒廃しつつある炭鉱暮らしの〈リアル〉の断片は、たとえばこの「骨餓身峠死人葛」など、いくつもの仕事にそれぞれ結晶していったのが見てとれる。

 「H鉱業所を以前おとずれた時、別のヤマで坑道が川底をぶち抜き、それは、古い坑道が上を走っていると知らず堀りすすんだための悲惨事だが、九死に一生を得て、またここで働く人に話をうかがった。傾斜している坑道に水が流れこみ、それが深さ二十センチなら、炭車のレール枕木を支えに、はい登ることができるという、坑道を支える枕木の、底が洗われて次ぎ次ぎなぎ倒され、もとより暗黒の中を、キャップランプだけたよって、ようやく川の水の噴き出す地点へたどりつき、その上にいる者に、綱を投げてもらう、これをたよりに地獄から脱け出すわけだが、三人に二人は水の勢いに押され、丁度、スーパーマンが空を飛ぶような姿で、奈落へ流されていったという、坑道のすべてに水の行き渡ったところで、まあ、事故は落着したわけだが、百数十人の遺体は、地下の水の中を、今も漂っている。」

 単なる世相風俗的な表層もおさえながら、その地その現場のたたずまいや肌合いといったものを、当時の雑誌ジャーナリズムが商品として要求している速度と気分とに沿った文体に盛りつけてゆく手技はさすがなのだが、それでも、何度か訪れるたびに紹介されたり行き会ったりしたのだろう、狙い定めた取材の相手、聞き書きの対象に肉薄してゆく執拗さも垣間見え、売文渡世の「雑文書き」の東奔西走のうちにも、それらをかいくぐりつつ何らかおのが肥やしにしようとする構えになっているのは、やはり言葉の本来の意味での「作家」としての身のこなし、なのだと思う。

 「筑豊K地区、閉鎖された炭坑の炭住街、八軒長屋が十二棟あって、しかし、それぞれ住人のいない部分は、燃料にかわったか、それとも裏日本沿岸と同じという激しい気候に風化したのか、壁も柱もなく屋根のみ残り、みたところ五十世帯ばかりなのに、(…)瓦葺きの店屋があって、これはかつて鉱員の地底の労働とひきかえに、この鉱山でだけ通用する金券を渡し、またその金券によって、割高な食料品衣類を提供していたとこ、今はなんでも屋、といっても煙草でいえばピース、ウイスキーなら一級品は置いてない。」

 すでに炭坑の全盛時代は過ぎ、縮小から閉山が相次いだのち、筑豊の象徴だったボタ山すら姿を消しつつある、言わば地域まるごと高度成長の変貌に置いてゆかれる廃墟と化しつつある時期、しかしそこに新たに「生活保護」をあてにして生き延び方を探るしかない、新たに流入してきた窮民たちの姿や、それらと入り交じりながらさらなる追い詰められ方をしている炭坑の最後の人たちの〈いま・ここ〉に、文明批評的な視線に裏づけられた筋の通ったジャーナリズムの生身が息づいている。

 「炭住の近くで目につくのは、金融とホステス募集の看板、それにその生活保護に寄生といってはわるいけれど、保護と共存しているのがアパート業者に医者。(…)生活保護世帯用に、家賃四千円くらいのアパートを建てれば、この家賃は国が保証しているのだから絶対確実、こわした炭住の古材木をつかい、うわべ文化めかしたアパートが続々と新築されていて、これはまあしかし、住む人が炭住よりいくらかましな家にうつれるのだからよろしい。そして医療費も親方日の丸、医者たちはよろこんで、たいした病気でなくても保護家庭の人には、その範囲内でさまざまな薬を投ずる。医師会は生活保護法にかぎっていえば革新系なので、もし医療費がきびしくなれば、たちまち収入が減るのだ。」

 「たずねたのは今年七十七歳、炭鉱一筋に生きてきた老人で、七十二歳の奥さんと二人暮らし。ご両人とも五つ六つの時から坑内に入り、大手の山から小山まで、数え切れぬ山を転々として、ついに三十七年某日、ここが閉山となり、その時はすでに年で、風呂番をしていたのだが、退職手当は名のみ翌日からの食いしろに困り、もちろん転職のあてはない。「わしら明治の人間ですもんね、お国に迷惑ばかりかけることようしよらんですたい」だから夫婦で心中するところケースワーカーの手で保護された。」

「老人のお声がかりで、炭住の人たちがやってきた。まず、腰はまがってしわだらけ、六十前後とふんだら、じつは四十七歳の小母さん、亭主が酒乱で、精神病院から出てきたばかり。子供は十六歳の男、目下傷害事件で少年院入所中。(…)亭主は生活保護の金すべてを飲みしろとし、酔えば人に喧嘩を売り自分も傷つき、その差し入れのため、小母さんはこそ泥を重ねて、もちろん子どももまともになるわけはない。」

 西鶴や織田作などに擬せられて語られることの多かったその独特な饒舌の文体も、ここでは話しことばの呼吸や呂律、それもいわゆる関西弁のそれに裏打ちされていたものに加えて、九州なまりの会話が新たな味わいを添えることで、その文体がもとから持っていた眼前の事実をくまなくとらえ、細部を連ねてなぞってゆくことによる「語りもの」めいた味わいを読み手の裡に引き出してくるだけでなく、さらにまた少し違う効果をここではもたらしている。

 たとえば、これも書き手野坂に根深くあるモティーフのひとつ、兄妹相姦の設定から発して、作中中盤から後半にかけて、戦時中から戦後の葛抗の集落をめぐって繰り広げられるおよそ酸鼻を極める外道なありさまと、避けられぬ運命のようにそこに陥ってゆく過程の描写に際して、その「語りもの」とシンクロしている文体がここでは書き手である野坂の裡にある想像力の羽ばたきをさらに刺激したような印象、いわば文体が文体を、個別具体の事実に即した言葉を足場にしながら跳躍しつつ自ら自律的につむぎ出しているような、敢えて言うなら呪文やマントラのように、書き手の想像力をその奥底にひそんでいる水準まで含めてうっかり引き出し、駆動させているように見える。それは、先に触れたような取材の過程で身に吸い寄せた細部の個別具体が、絶妙な比率で書き手野坂の持ち前の想像力のまだ十全に開かれてなかった部分と混ぜ合わされた結果なのだろう。

 「徴用坑夫、流れ者、生き残ったものの半ば狂った朝鮮人、それに以前からの坑夫も、潮のひくように山を降りた後、たかをは、いたるところに打ち捨てられている朝鮮人の死体、それは行くあてもないまま残った古参の坑夫たいていのみじめな死にざまにはなれていても、手を出しそびれるほどのすさまじいものだったが、娘に手伝わせ、母の以前使っていた古いスラに乗せては、墓場に運び込む、ざっくり割れた傷口に無数の蛆がたかり、スラ引くにつれて、腸がずるずると紐ほどくようにこぼれだし、脳味噌には豆粒大の山蟻がとりついていたし、梢に烏が蝟集して鳴きかわす……」

「残った連中は、老人それにいまさら下界へ下りても使い道のない片輪、さらに半ば気のふれた女房、たよる身寄りもなく、ここならばとにかく当座の雨露しのげると気力なえた夫婦者、海外引揚者、原爆罹災者、それに朝鮮人……」

 生と性に執着することにより自閉してゆくことである極相を迎えた共同体が、その後定めのように禍々しい穏やかさと共に自壊してゆくイメージは、「エロ事師たち」の頃から書き手野坂の原初的な想像力の核にあるものらしいが、ここでも、未曾有の事故を契機に自閉してゆく葛抗の集落の内部は、それこそあの「楢山節考」などにも通じるかもしれない、ある種の民話的、民俗的な水準も含めた「おはなし」空間における抽象を、その「語り」の文体によって施されているように見える。

*1: 分量多いので手直しを、との指示で、以下、薄墨部分を削除、その他いくつかの個所を修正などして整えた。……240411

*2:king-biscuit.hatenablog.com

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*4:king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com