「詩」とは、あたりまえに「うた」であった



 前回、「美術」「芸術」に対して、ずっと抱いていた敷居の高さのようなものについて、少し触れました。せっかくなので、そのへんからもう少し、身近な問いをほどきながら続けてみます。

 あらためて思い返してみれば、同じような敷居の高さ、距離感といったものは、そもそも「文学」に対してもありました。

 なに言うとる、おまえ、かつて大学へ行こうと思った時に文学部志望しとったやろ、というツッコミが自分自身に即座に入るようなものですが、でもそれは、当時のケツの青い地方のボンクラ高校生だった自分にとって、正直まだ正体もよくわからない「大学」という場所に行こうと思った際、選ばねばならなくなった志望先として目の前に並んでいた法学部だの経済学部だのといった、なにをどう勉強するところかもよくわかっていなかった大文字の看板掲げていたその他の学部よりは、まだかろうじて居場所がありそうな気がしたのがそこだった、というだけの話。

 同じく、その「文学」という看板そのものに何か仰角の視線を抱けていたわけでもありません。そもそも部活動からして、文芸部だの美術部だの文科系のそれとは、そこに素直に身を置いている、置けてなじめているような人たちへの疎外感含みの距離感と共に、しょせん縁なき衆生でしかなかった。要するに、単に気の向くまま、興味関心の趣くまま勝手に本を読み、その中にはいわゆる小説その他、文芸作品も混じってはいたけれども、だからといってそれをそのまま「大学」に掲げられていたような「文学」という大文字のもの言いと重ねて考えていたわけでもなく、ましてそれを自分の進路や将来と結びつけて想像するような大それた下地は、自分の中にはほとんど持ち合わせがなかったということになります。

 それとどこか似ているのかな、と思うのは、「うた」が広い意味での詩歌――この語彙自体、学校で教えられて初めて知ったものでしたが――であることは漠然と教えられていても、学校のたてつけで習う短歌や俳句なども同じ「うた」であることは自分事として考えられなかったこと。「音楽」の時間の唱歌や合唱、その延長線上にあると思ったそれこそ流行歌や歌謡曲、アニメ(当時は「テレビ漫画」)の主題歌などまでが普段接してそのように認識している「うた」であり、それは自分自身が実際に声を出すことも含めて想定され得るようなものでしたが、でも、だからといって「国語」の時間に教えられ紹介される短歌や俳句、漢詩といった表現を自分が発声することは想定外、授業の枠内で促されたとしても、それは教科書に書かれた文字をそのように「よむ」ことの一環であって、「うたう」ではありませんでした。

 一方で、それら詩歌は「文学」という箱に収納されるもの、ということも教えられて知ってはいた。だから、文学史の間尺で短歌や俳句の定型詩も、教科書に載っていてそういうのが「詩」だと普通に思っていた口語自由詩も、「文学」という箱を置いてみればみんな同じく詩歌である、と機械的に覚えてはいました。けれども、それを本当に地続きのものとして、わが身の表現として考える素地は宿っていなかった。それはたとえば、いわゆる芝居や踊りといった領分、ダンスであれバレーであれ、あるいは舞踊や舞踏の類であれ、基本的に同じことで、これはおそらく自分ひとりのことでもなく、つまりどうやら「うた」に限らず広い意味での身体表現、われとわが身を使って何ごとかを表現することについてはいつしか他人ごとになっていたのが、なぜか本邦、われら同胞の習い性だったということのようではあります。

 そう言えば、舞踊やダンスなどでそれなりの仕事をなし、名を残すくらいの人がたには、北の出身が多いような印象があります。いや、印象だけでもないらしい証拠に、そのような言い方は当の舞踊やダンス方面の当事者たちの間でも言われている。多くは、それら北方の方言の縛りがことばでしゃべり、表現することへの障害になり、その分、うまく言い表せないものを「踊る」という身体表現へと転化していったからだ、といった一見わかりやすい説明つきなのですが、その説明がどこまで妥当かどうかはともかく、その意味では詩もまた、それら訥弁の、ことばによる表現に何らかの理由で疎外感を持ってしまっているような人がたの間から、手近に可能な自己表現の形式のひとつとして拾い上げられてきたところがあるのかもしれない。だとしたら、声に出し生身を介して実際に「うたう」ことも含めて、詩もまたあったはずですし、実際、かつてある時期までの詩人たちは、自らそれを発声して朗読することをあたりまえに行なっていたようです。それこそ、以前何度かこの場でも触れたような、小説が朗読されるものだったのと同じように。

 短歌などの伝統的な定型詩の縛りがほどけてゆく過程で、新体詩を経由して口語詩や自由詩の流れも出てきて……といった説明が、教科書的な文学史ではされています。なるほど、だとしたら、そのような過程の背後には、それらの流れに従って解放されていった意識や感覚もまた、ある時期ある時代からこっちの本邦常民間での眼に見えない変化としてあったはず。それはまた、同じ生身を足場にした解放という意味では、視覚や聴覚、その他生身の五感の統合された身体まるごとのありようにも何らかの痕跡が記されていったと考えて不思議ない。それらの視点こそが「うた」の転変と抜き差しならず関わってくる、言葉本来の意味での等身大の歴史に相渉る大事な脊髄になってゆくはずです。

 時期にしてざっくり大正半ばから末にかけて、大きくは第一次大戦後の「戦間期」と呼ばれる時代。経済的には大戦を契機に成金を続出させたほどの急激な成長を示して、でもその後また一気に凋落していった波乗りのような時期。その中を生きていた人々の生身の解放が期せずしてさまざまな分野、複数の領域で同時多発的に起こっていた形跡は、ひとまず「文学」という箱に一緒くたに放り込まれている表現にまつわるさまざまな分野の経緯来歴をざっと眺めてみただけでも、あれこれ察知できます。

「わたしはこれまで、はじめて会った人から、御商売は? ときかれると、文学をやってますといつも答えてきた。詩を書いてますなどというと、え? とけげんな顔をする人も、文学というと、なんとなくなっとくできるらしい。」

 小野十三郎、アルスの「大杉栄全集」を買ってほしいと、大阪の素町人の庶民の出でいたって温厚だったという父に無心したら、「わたしが生れてはじめてきいた怒り心頭に発する声」で「このバカめ!」と一喝されたのをきっかけに故郷をあとに上京したという、のちに新しい世代の「詩人」のひとりに数えられるようになる御仁の述懐。 

 「やる」ものとしての「文学」。それも「詩」だと怪訝な顔をされるから代わりの方便として使える程度に、「商売」としても漠然と世間的な了解を一応はしてもらえるようになっている、そんな便利な乱れ箱として活用されるようになった「文学」。それは、理由や動機、そこへ向かうモティベーションは個々にさまざまであったにせよ、それまでよりずっと多くの、そしてずっと幅のある広汎な階層から何らかの自己表現、創作と呼ばれるような出力へと向かうようになっていたことのひとつの反映でもあるでしょう。 

 ならば、そのような御仁にとっての「詩」とは、どのように自覚されるものだったのか。

「詩とは、ムホン気と想像力が、現実生活のある時間の中で、自分を捲き込んで決定的な行動を起こしたなら、一度の爆発ですべてのエネルギーをあとかたもなく消尽してしまうものを、あまり純粋とは云えないなんらかの要素で緩和させ、それを持久的一つの心的秩序に組み代えさせる力のようなものなのかもしれない。」(小野十三郎『奇妙な本棚――詩についての自伝的考察』第一書店、1964年)

 確かに、作品・創作物としての詩は、文字に記され、活字になって紙媒体に印刷されたものとして制御され、流通するものではある。しかし、だとしても、表現としての初発のありかたとして本来含まれているはずの「うた」の現われは、最もプリミティヴで民俗的な水準も含めた生身の身体表現という特質をあっさり手放すものでもない。「ムホン気と想像力」が、主体としての自らもろとも「行動」と「爆発」を起こすこと。その意味でそれは芝居や舞踊、ダンスなどと地続きのものであり、劇場や舞台といった上演の枠組み、物理的・空間的な制限の約束ごとの内側においてだけでなく、何かのはずみに突発的にうっかり発現してしまう野生の上演、いまどきのもの言いに従うならパフォーマティヴな表現を本質としている。だからこそ個人でなく集団のものとしても平然と成り立つし、時にはそれこそ騒擾や暴動などといったありかたなどにまで間違いなく連なっている何ものかをはらむ可能性を持っている――あの「文学」という乱れ箱に突っ込まれているさまざまな表現の出自も、たとえばこのようにあちこち立ち寄りながらたどっていって初めて、「うた」の原初の輪郭もようやくおぼろげながらに見えてくるもののように思えます。

 これらは、「文学」や「芸術」「美術」などの歴史について教科書的な間尺で語る作法においてなら、大正デモクラシーリベラリズムの機運を背景に勃興した白樺派的な芸術至上主義を経由して、経済的な豊かさにも後押しされて、フランスなど主としてヨーロッパの海外のさまざまな同時代的な芸術・文化運動が一気に入ってくるようになり、生硬で性急な翻訳調ではあれ、それらの潮流を素直に受け入れることのできる新しい若い世代が台頭することで、ダダイズムだのシュールレアリズムだの何だのといった目新しい意匠と共に、創作・表現のそれぞれの分野において活発な試みが広汎に繰り返されてゆくようになった――まあ、ざっとそのような大文字の歴史の書き割りの一端、単なる一挿話として回収されてしまうようなものでしょう。もちろん、それは間違いではない、だろう。けれども、そのような手癖で処理されることで取り落とされてしまうものも必ずある。あるに決まってるし、なきゃ困る。

 「うた」の初発のありかは、それら大文字の歴史のためにしつらえられた「文学」や「芸術」「美術」などの乱れ箱を取り払ったところに息をひそめ、今もまだ確実にうずくまっています。

●●
 そんな「うた」に結晶してゆくかもしれないあるひとつの場、そこに宿る何ものかを及ばずながら少しずつでも言葉にし、かたちにしてゆこうとする道行きで、酒の場というのも必ず欠かせないものになってくる。酒を呑み、いい気持ちに酔いがまわる、すると必ずと言っていいほど「おうたのひとつ」も出てくる、自ら出てこなければ促されてでもそうなるのがあたりまえ、うまいかヘタかなど関係なく、いったん酒を口にしたら最後、そのように「うた」が伴ってくるのはある時期までは疑うまでもない、本邦日常の風景でもありました。

 その酒を呑むのも多くはひとりではない、何人か複数の人間が集まる「関係」と「場」において呑む、その果てに必ず「うた」が伴ってくる。わざわざ芸者を侍らすことのできるような正式の、型通りな宴席でなくても、その場の口三味線なり手拍子なりで「うた」を導き出すしかけはいくらでもあるものでした。それらは後にあの流しのギターやアコーディオンなどから、敢えて雑に言っていいならカラオケ機器の登場以降もしばらくはまだ、本邦日常の習い性的に「残存」していた。そのように、「うた」は酒の場のもたらす興奮と不可分のものでもありました。あるいは、かつて観光バスのバスガイドに求められていた技倆のひとつが、それら「うた」に長けていることであったことなどを思い起こしてもいい。何らかの集団、ある程度の人数の集まった「場」において、その場の心持ちをある方向に誘導し、まとめてゆくための効率的な道具として「うた」は自在に、便利に使いまわされるもので、単なる歌唱というだけでなく、それによって醸成される気分や感覚、生身の高揚感なども含めて、正しく暮らしの裡にありました。

 特に、高らかに「うたう」――「高歌放吟」、あるいは「放歌高吟」とも言うようですが、それはどちらでもいい、いずれそのような大声でなにごとかを「うたう」行為、それはひとりであっても構わないものの、しかし基本的に想定されていたのは複数の人間が群れて何らかの興奮状態、日常ならざる心的条件下にあることでした。

 何らかの興奮状態の果てに現前化してくる、この高歌放吟という身ぶり。往々にして酒による酩酊状態と共にあらわれるそれが、個人的なものでなくある程度の集団、生身の身体が複数たむろし、何らかの「関係」と「場」が成立しているところで成り立つのならばなおのこと、さらに「騒ぐ」「暴れる」といった動詞でくくられるような現前にもまた、地続きのものではありました。

 むしろ、「騒ぐ」さらには「暴れる」まで可能性として視野に入れた上での行為が「酒を呑む」だった。これも、すでに忘れられかけているわれら同胞の日常の記憶でしょう。そのような場に確実に伴っていた「うた」は、ひとり歌うものでもなく、複数の人間が声をあわせて同調して歌う、あるいは怒鳴る、叫ぶ、といった破調のものにもなる。「灰皿やビール壜がとび、椅子が投げられ、物が破壊される音、乱闘する人間の怒号の満ちる渦の中」という、まさに落花狼藉、どうにも荒れた場で、それでも「酔いがまわると、あたりかまわず、ふいに音頭とりとなって歌い出す岡本のジンジロゲ節や、飄々とした辻潤が奏でる尺八の音はいまでもわたしの耳の底に残っている」というのは、先の小野十三郎が記述した、文学史・思想史的な脈絡で今では無駄に有名になってしまったフシもある南天堂での乱痴気騒ぎのひとコマですが、酔いにまかせた乱闘沙汰の描写に、ぬかりなく「うた」の要素が差し挟まれていることに意識して立ち止まっておきましょう。つまり、酒の酔いだけでなく「うた」の要素も介在して初めて、このような「場」が十全に立ち上がっていたらしいという意味において。*1


www.youtube.com

 そして、そのような「うた」の場とは、喧嘩の場でもありました。

「わたしたちは金もないのに、夕方になるとよくそこへ出かけていった。そして酒を飲んではよく喧嘩をした。別にこれといって喧嘩をせねばならぬ理由があったわけでもないのに、何かちょっとしたきっかけで喧嘩になったのである。つまりいい気持で酒を飲むというのでなく、爆弾でも腹の中に隠しているような険しい顔つきで、ガブガブと飲んだのだ。」(壺井繁治『激流の魚・壺井繁治自伝』)

 彼ら大正期後半を生きていた「詩」と「詩人」の同時代の空間での動き方、つきあい方をそのような視点と解像度とであらためて眺めてゆくと、それら生身の解放、何らかの自己表現に直接的な身体行動をとにかく伴わせることへ向かう衝動が、当時の若い世代に集中的に見てとれるようになっていたらしいことに気づかされます。そしてそれはもちろん、当時のいわゆる政治的な運動、思想的な行動などにも通じていたものであることは言うまでもない。詩でも小説でも、「文学」というくくられ方をしていた表現の形式はそれ自体でそれぞれ完結していたわけでもなく、同じく「芸術」や「美術」といったくくられ方をしていた中の絵画や彫刻、建築、さらには音楽や演劇、舞踊といった領域ともあたりまえのように重なりあいながら、何らかの自己表現を求めるようになっていた、それを望むことが可能になっていた層にとっての福音として受け取られるようになってゆきました。それは今日、学校的な枠組みの「文学」や「芸術」「美術」などのたてつけに縛られがちなわれわれが想像してみる以上の鮮烈さで、わが手に取れると思える手段になり始めていたらしい。

 「詩」にも「詩人」にも、そしてもちろん「文学」にも、どうにもなじめぬものを感じたまま遠巻きにして生きてきた自分のような縁無き衆生の外道にも、「うた」を足場におぼつかぬ道行きを続けてきたことで、どうやらそれらすでに記述されている歴史の向こう側に未だひそんでいる何ものかののっぴきならぬ気配を、少し自分事として感じられるようになっている気がします。

 ああ、そうだ、吉本隆明谷川雁も「詩人」、だったんですよ、ねぇ。