読み書きと「わかる」の転変



 最近、おそらくは老化がらみでもあるだろう事案ですが、あれ、これはひょっとしたらヤバいかも、と思っていることのひとつに、「横書き」の日本語文章が読みにくくなっているかもしれないこと、があります。

 いや、読むのは読めるんだけれども、腰を据えて精読してメモを取りながら読む、といった作業がどうもうまくできない。そのような本腰入れた「読む」、つまり「読書」と仰々しく呼ばれてきたような「読む」の作法は、やはり「縦書き」の、それも具体的なブツとしての紙媒体に印刷された文字列を相手取らないことには、慣れ親しんできた調子を伴う仕事にならないらしい。

 むろん、昨今の情報環境のことであり、それら読まれるべき文字列は、モニター画面に映し出されるテキスト情報だったりするのが大方なわけですが、これまで紙媒体の「横書き」もそりゃ読んではきたし、精読やメモ取りつつの作業にもそれなりに対応してきたつもりで、またそれで特に不自由を感じた記憶もなかったけれども、それがモニタ介して映し出される「横書き」の文字列になると話が違って、単に眼を通して流し読むくらいが精一杯になる。こちとらの脳みそとやりとりしながら行ったり来たり、時に気づいた単語や事項から脳内であれこれ枝葉を繁らせてみたり、そこから他の資料をあたってみたり、そしてまた眼前の文章に立ち戻って意識を合焦したり、といった、いずれ単線的な過程には決してならないような千鳥足あたりまえの「読む」が、うまく自然にできない。

 じゃあ、「書く」方はどうかというと、それはもうとっくに「横書き」でないとできなくなっている。もちろん、それも手書きでなく、キーボードを介したタイピングという作業を介して打ち込まれる文字列をモニタ上で確認しながら、ですが、そりゃあ、いまどきソフトやアプリの設定次第、縦書きの表示もできるし、モニタもくるっと回転させれば横長表示に対応できるのだけれども、でも、やはりモニタ上の縦書きというのもどうにもすわりが悪いもので、他の人は知らず、少なくとも自分はうまくなじめないまま。ならば、手書き肉筆での「書く」はどうか、となると、ああ、こちらも横書き、それももっぱらメモやノート、現場仕事の走り書きくらいになっていて、ある程度まとまった分量の文章を手書きで書きつづることは、思えばもうしなくなってずいぶんになる。ましてそれを縦書きで、と言われれば、ごめんなさい、ご勘弁を、と言わざるを得ません。その一方で、「読む」、それも精読的に自己言及的な過程も含みながらの千鳥足の道行きで読む方だけは昔ながらの「縦書き」の、それも紙媒体ベースの文字/活字を介してでないとうまくできない、という現在。こうしてあらためてほどいてみると、われわれの読み書きのありよう自体、個体差や環境適応度の違いなども含めて、いろいろとねじれてゆかざるを得ない状況にあるようです。*1

 確かに、単に目を走らせてさっと読む程度の「読む」、いわゆる速読的なものさしからすれば効率的だろう読み方についてなら、こんな自分ですらすでに横書きの方がスムースな気はします。まさに「速度」優先、単なる表面的な情報摂取の効率性で考えるのなら「横書き」の方が合理的ではあるのでしょう。このあたりでもう「読む」の意味が違ってきている。なにせ是非はともかく「行間を読む」なんてことが小学校以来、国語の授業で言われてきた世代でもあり、まさにそういう眼光紙背に徹するような読み方、眼前の紙媒体の文字/活字に正対し、時間も手間もかけて精読してゆくことが「読書」の本義である、といった考え方が骨がらみにこの身にも刷り込まれているらしいことに、いまさらながらに思い至ったりしました。

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 いまどきの若い衆世代の読み書き――この場ではとりあえず「読む」の方に合焦しておきますが、そのようなわれわれが身に刷り込まれてきたような「読む」とはまた違う文字/活字の読み方をしているらしいことは、学生たちとつきあう中で、以前から何となく気づいてはいました。それは単に文字/活字の読み書きだけでなく、身体を介して摂取する外部情報一般に対する解読の仕方の違いにも関係しているようで、それによって現実の編制から〈リアル〉のありようにまで、そうとはうまく可視化されないまま、でもかなり深刻な違いがすでに同じこの日本語を母語とする同時代環境にはらまれていて、そのことはそろそろ日常あちこちで、さまざまな形で指摘され始めています。

 たとえば、これは、とあるSNSでの書き込みの一端。

「頭の良くない人って、テキスト読ませると「書いてないことを読み上げる」んだよね。てにをは、接続詞、助詞など細かいところまで丁寧に拾って読めないの。雰囲気で読んでるの。だから私は家庭教師や塾講師、知人の子の勉強を見る時はまず一番最初に「教科書声に出して読んでみて」って学力チェックする。」

 「雰囲気で読む」というのは言い得て妙ではあります。でも、その程度のことならば、小学校の頃でも、よくわからない漢字や意味を知らない単語の混じる文章を読まされる時、適当に飛ばしたり、あるいは自分勝手に意味を想像して文意をつないでみたり、といったことはやっていた。いや、ある程度成長してからも、似たようなその場のとりつくろいは、黙読であれば脳内でそれなりに要領よくやってもいたでしょう。「わかったような顔をしてやりすごす」というやつですが、ただ、それをそのままほったらかしにしないで、あとで辞書を引いたり、他の資料とつきあわせて穏当な意味を知ったり、まあ、事後に不具合部分にパッチを当てるように修正してとりつくろってゆくことを、日々生きてゆく中である程度自然にやってゆく、そしてまわりも陰に陽にそうさせてゆくような空気を共有していたのも、少し前までのわが国の世間ではありました。

 けれども、昨今の若い衆は必ずしもそうではない。その「雰囲気で読む」を修正してゆく過程をちゃんとくぐることもなく、むしろその手癖がうっかり温存されたままになっている。精読的な「読む」の稽古を一定の時間をかけて積み上げてゆく過程が、それをよしとする空気と共に、どうやら学校はもとより、家庭も含めてわれわれの社会そのものから失われつつあるのかもしれない。だから、声を出して読ませる、音読させて読み上げさせてみる。すると、つっかかったり、口ごもったり、書かれてある通りに読めていないことがその場で可視化され、同時に本人にとっても、どこがどのようにブラインドになっていて、その文章の「わかる」から遠ざけられているのかも見えてくる。なるほど、これまでも何度か触れてきた、音読、朗読による自省の効果、ではあり、これをさらに教育手法として尖鋭化させれば、未だ言葉も意味も宿らない「頑是無い」頃から先生の発する音声としての漢文脈の、定型詩的な「うた」の響きも伴う『論語』などをただひたすら繰り返し復唱させていたという、あの「素読」にも通じてくるわけですが、それはともかく。

「「頭のよくない人は文章を『書いてある通りに』読み上げられない。」これねえ、「絵を描けない人が『見たままに』描けない」とか「運動音痴の人が『お手本通りに』体を動かせない」とか「音感リズム感が壊滅的な人が『聴いた通りに』歌えない」とかに近いものがあると思うんだよ。「書いてあるとおりに読みあげることができる」は確かに理解度のバロメーターではあるのだけれど、「理解していれば必ず書いてあるとおりに読み上げができる」とは限らないことは「見たまま描けない」や「手本通りに踊れない」と似たようなものだからさ。文章の読み上げって「楽譜を見て歌を歌う」みたいなもので「正しく読み取りができるからと言って必ずしも正しく歌える(読み上げができる)とは限らない」し、「正しく歌えた(読み上げができた)からと言って必ずしも『楽譜(文章)を理解できている』とも限らない」からややこしいんだよ。」

 これ、つぶやいているご本人は無意識だったかも知れませんが、うっかりと大事なことを言っている。ここで言われている「読み上げ」は単なる音読というよりも、朗読に寄せた内実を持っているもので、「身体を動かす」「歌う」「踊る」と並列に語られています。ということは、この場合の「読む」は単なる平板な音読ではなく、身体的なリズムや調子、もしかしたら音声的なピッチやトーンといったものも含んだ意味あいの、まさに「うた」と地続きの所作であるという認識を示しています。だから、同じく言われている「理解」もまた、静態的な活字/文字の文章の意味をフラットに解釈することだけでなく、それらも含めてさらに豊かな、複合的、重層的な意味を多様にはらんでいる上演的な「読む」を介して、「うた」とも地続きな動態的な特性を引き出し得るものである、という内実を含んだものになる。そう、「読む」とは単なる音声化ではなく、それを読む生身の主体の個別具体のありようと常にどうしようもなく紐付けられた所作だったはずなのです。

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 このような「理解」――あるいは「わかる」と開いた方がよりしっくりくるかもですが、それはしかし、そこに至る過程やそれを支える情報環境などのたてつけも含めて、いまどき若い衆世代の読み書きのリテラシーに最適化されたそれとは、すでにもう別のものになっているようです。

 たとえば、ラノベと呼ばれるジャンルの創作物の文体の、何というか、あのすっ飛ばし具合。まあ、いまやそのラノベすら読みもの商品として過去のものになりつつあるという話も転変激しい出版業界的にはあるようですが、少し前、まさにそのラノベ世代の学生たちに手ほどきされながら、臆さず首を突っ込んで七転八倒してみた自分など老害化石脳世代に実装されて久しい「読む」と「わかる」からすれば、そこで文字化されている文章の向こう側にあるはずの作品世界は、まず圧倒的にスカスカに感じるというのが第一印象でした。でも、そのスカスカ具合、すっ飛ばし具合によって獲得されているらしい「速度」のようなものに何か感じるものもあるらしい、それもまた、ふだん見慣れぬ場所につれてこられた保護猫のように固まっていた彼ら彼女らが珍しく饒舌になる、その口吻から察することができました。それは、その頃からすでに少しずつ言われ始めていたような、若い衆世代のリテラシーの特徴として「おはなし」が読めなくなっている、あるいは「先の読めない、見えない」筋書きに対する拒否感、嫌悪感が蔓延し始めている、といった現象ともからんでいたように思います。

 確かに、文字のテキストではある。でも、いわゆる文章というわけではなく、書き手の脳内に何らかの映像的な情報に依拠した「流れ」があらかじめあって、それを要所要所でうまく「流してゆく」ために文字が使われている、うまく言えませんがそんな印象でした。つまり、映像的な情報――イメージであれビジョンであれ、とにかく「素材」としての「ビジュアル」的な情報が一次的なものとして、たとえ漠然としたものであれ複数浮遊していて、それらを適宜並べ替えたり挿入したりしながら何らかの「流れ」を作ってゆくことが創作作業の本体らしい。その限りにおいて、文字で書かれたテキストは創作の本体ではなく、言わばひとつのパートに過ぎず、むしろイメージ群の「流れ」をうまく加速し、煽り、必要に応じて統合してゆくための補助的なツール、といった感じに位置づけられているようでした。

 かつて、雑誌の誌面がデザイン先行になって、写真やイラストなどの「ビジュアル」的情報を中心に誌面が「デザイン」され、文字情報は「キャプション」「コピー」的な扱いになっていった時期を思い出しました。あるいは、テレビで池上彰が語っているニュース解説番組とか。あれもまた、いまどきの「わかりやすさ」に適応した文法・話法で作られています。映像的というか、視覚的な「パッと見て全体把握」っぽい認識力が前提で、これを伝えるためにはここと、ここと、このへんをだいたい「おさえておけば」「何となく全体の雰囲気」は「わかる」といった感じのゆるさに沿ってまとめられている、言ってみればそういう種類の「わかりやすさ」。それが、いまどきの視聴者側との間に最大公約数的に共有されている限りでの「わかりやすい解説」になっている。

 これはあるいは、かつて「テレビ的」という言い方で雑に表現されてきたようなものとも、時代を超えて地続きなのかもしれません。

「テレビの用いる話法で最も苦手なのが説得である。テレビの基本的なレトリックは視聴者が全て同類で均質だという前提で成り立っている。なので、テレビでの説得は、現在テレビで主張されていることは全ての視聴者に承認されているという前提でなされている。しかし、これは広告の手法としては有効だが、説得とは何の関係もない。テレビの説得はまず視聴者の承認を得ようとすることから始まり、結局そんなことは不可能だし威信にも関わるから、彼らを刺激して忘れられぬようにできればいいというところに譲歩して落ち着くのが常である。」(R.デニー「「リアル」と、より「リアル」」、『ミューズのおどろき――大衆文化の美学』所収、紀伊國屋書店、1963年)

 そのいくつかの「おさえておけば」のポイント以外の隙間の部分は、スカスカでも構わない。全体の「絵」としての「雰囲気」と輪郭程度がわかればいい。そのスカスカ部分にもあるはずの細部をいちいち言語化して詰めてゆくようなリテラシー――ポイント同士の「関係」がどうとか、まだ別のポイントがたくさんあるのでは、とか、そうやって「絵」の「解像度」をそれこそピクセル単位な細部の個別具体を積み上げてゆきたがるような文字/活字ベースの精読的な「わかる」リテラシーはノイズでしかないし、第一そのようなところにいちいち焦点を合わせて処理してゆくのは時間も手間もかかって非効率的、それこそいまどきのもの言いで言うところの「コスパ/タイパ」がよろしくない。だから「関係」≒「文脈」は後景化させるし、その瞬間その瞬間での反応ごとに「わかる」になる「絵」が明滅し続ければいい。「コツコツ」「地道に」「積み上げる」ような過程や時間といった軸もまた希薄化してゆく道理で、瞬間だけバズればよし、それが持続可能かどうかは関係ない。

 だから要するに何なんですか、早く結論だけ教えてください、といった要求を、さも正しいことを言っているといった賢しら顔で口にする学生が、ある時期から毎年、一定数出てくるようになりましたが、そういう彼ら彼女らの意識と、それら「わかりやすい」を支える意識はまず同じもの。結論や結果、そういう「正解」さえ手っ取り早く手に入れられるなら、それが一番「賢い」やり方だし、そうしなければ競争に負ける。

 「つまり、効果として最も優れたテレビの広告宣伝というのは、とにかく悪目立ちするほどに恥ずかしく破天荒な代物に多くなる。このように、テレビの説得は「みんな≒その他おおぜいという視聴者像」をあまりに信じすぎていて、人間を越えたものの存在を信じるエネルギーを失ってしまっている。」

 そういう意味では、とにかく文字「だけ」で「描写」する、といった一点集中的で時間をかけた精読と積み上げを前提として形成される文字/活字のリテラシーがあたりまえに主流だった情報環境から、若い衆世代はすでに離脱し始めているわけで、「うた」もまた、その転変に伴って、姿かたちを思いもかけぬものにしているのでしょう。