「音楽」の転生・転変、その現在―「NOT OK」からの不思議


 同時代のうた、眼前の〈いま・ここ〉に流れている最新の、いや、そうでなくても、ある程度いま、商業音楽として市場に流通しているいまどき流行りの楽曲に、おのれの耳もココロも反応しにくくなってしまうことは、加齢の必然と半ばあきらめてしまっていました。けれども、そのあきらめたところからこそ、あらたに〈いま・ここ〉の楽曲から引き出される、また別の何ものかがあるのかもしれない。

 いきなり何のことやら、と言うなかれ。いまどきのこのような情報環境においてもなお、何かのはずみでうっかり耳にしてしまうことで「うた」を感じてしまう楽曲というのは、やはりあってしまったりする。そのことに、自分自身いくらか驚いてもいるのですから。

 あいみょん、の「NOT OK」というやつ。なんでもリリースされたばかりの新曲だそうですが、そもそもその「あいみょん」という歌い手なり、アーティストなりについて、こちとらほとんど何も知らない。少し前に出てきて、若い衆世代にはかなり支持されているらしい、という程度で、もちろん個々の楽曲がどうこうでなく、単に名前が名前なので、この60代老害化石脳の片隅に残っていたにすぎません。だからもちろん、その顔もかたちも経歴も、その他それなりに名の知られたアーティストなら言わずもがな、そうでない有象無象「インディーズ」界隈であってさえも、いまどきの情報環境のこと、ささやかな感想や印象、批評まがいのあれこれに至るまで玉石混淆、広大無辺なweb空間にはいくらでも転がっていて、拾う気にさえなればいくらでも拾えていたはず。にも関わらず、たまたま耳にしたその楽曲にまつわる「情報」はほとんど何ひとつ、事前にインプットされてはいなかったのであります、それはもう、実に見事なまでに。


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 何の予備知識も情報もないまま路上で、街角で、「不意打ちのように」出喰わしてしまう、それがいいんだ――かつて浅井愼平が、ビートルズを足場にしながら「流行歌」の本質について語った、あの至言。ああ、まさにそのようにいま、この21世紀は令和の本邦いまどき情報環境においてもなお、何らあらかじめの知識や情報もないままに、ただそのものとしての「うた」とうっかり出喰わしてしまうことはあり得るらしい。それは、かつてあった世間一般その他おおぜいにとっての歌謡曲や流行歌とのつきあい方への、まさに「不意打ちのような」原点回帰だったかもしれません。

 中島みゆきの「悪女」を最初に耳にした時の、あの感覚。あるいは、椎名林檎の「NIPPON」や、サンボマスターの「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」などに、初めて出喰わした際の、いずれすでに遠い日のひとコマになってしまった気分の記憶――耳に響いてきたその「NOT OK」は、これまで生きてきた中の、そのどこかで聴いていたような、あんな曲、こんな歌の記憶が一気に、時空の理路を越えてモザイク状に噴き出してくるような、忘れかけていた感覚を喚起してくれるものでした。

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「歌謡曲ぽい」
「80年代のポップス的」
「フォーク世代にはたまらない」……

 その「NOT OK」、広報・宣伝プロモーションの惹句や断片の類は、まずこんな感じ。なるほど、敢えて「ちょっと古め(に感じられるような)の音づくり」に振った仕上がりになっている、ということか。だから、この老害化石脳の耳も、そして生身も、うっかり何か感応させられてしまったのか。

 いまどきの商品音楽のこと、表に見えているアーティストひとりが曲づくりの全てを引き受けているはずもなし。そのアーティストの固有名詞をいわばキャラクター商品として、その背後で支えるチームワークによって可視化し、現前化させてゆくプロジェクトとして粛々と仕事を進めてゆくことが昨今の、いや、もうずいぶん前からすでに、世間一般その他おおぜいへ向けて開かれたこの市場において競争力ある商品として流通させる楽曲制作のルーティンになっているそうですから、いま、たまたまこの身に訪れたそのやくたいもない感慨もまた、あらかじめ市場との間で狙い定められ、設定された「想定内」「思惑通り」の反応のひとつ、にすぎなかったのかもしれませんが。


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 しかし、さはさりながら、です。

 好きであれ嫌いであれ、あるいはもっととりとめないココロの動き、イキモノとしての単なるはかない情動の一端であったとしても、それが他でもない、この自分自身の生身に宿ったかけがえのない感覚ではあったはずなのに、あ、でも、これはきっとそう感じさせられている、思わされているものなのかもしれない、とも同時に考えてしまう。これは、さて、いったいどういう理由からなのだろう。

 音楽のような、あるいはマンガでも映画でもいいですが、いずれかなり純粋に好き嫌いの領分、しかもそれこそ個人の趣味や道楽といった範疇にある、日々の暮らしの具体的な「用」からはひとまず遠い「余暇」「娯楽」の対象だからそうなるのか。あるいは、もっと日々の何でもない商品の選択、ふだんの食いもの、それこそコンビニの棚に並ぶおにぎりや惣菜、飲み物なんかだと、さて、どうだろう。自分がよしと思い、選択したその判断のいちいちについて、本当にこれは自分の選んだものか、自分のココロに従った選択なのか、といった、しちめんどくさい留保をつけることなど、普通はまずしていないはずです。

 「用」に従うのがあたりまえ、それ以上考えることのない部分で、概ね日常は動いています。そこにも当然、あの「広告・宣伝」のたてつけ、からくりが浸透しているということは、理屈としては知ってるし、わかるのだけれども、でも、そのことを格別に意識するような局面というのは、日々の流れの裡にはまずない。むしろ、日常を律している「用」から遠ざかるほど、それはその輪郭をくっきりさせてくるものらしい。つまり、あってもなくてもいいようなものにまつわる場合にこそ、そのような留保はうっかり姿をあらわにする、と。

 よろしい。ならば、そのあいみょんの「NOT OK」に、かつての「うた」の記憶をうっかり引き出されたかに感じた、その極私的な理由というか契機についても、少し立ち止まって留保してみます。

 まず、それはどうやら歌詞、ことばを介してのことではなかった。それは間違いない。このへん、これまでの商品音楽についての「批評」「評論」の類が、文字/活字ベースの情報環境を前提にした文法で成り立ってこざるを得なかった経緯がある以上、良くも悪くもそれら音楽の上でのことば、つまり「歌詞」に引きずられて考えてしまうところがあったのを思えば、ちょっとした発見ではありました。

 というか、そもそもいまどきの音楽自体がもう、音というか音響、音声という属性にきっちり紐付けられたものになっているわけでもないらしい。いまや音楽は音楽としてだけ存在しているわけでもなく、映像などと併せ技の「コンテンツ」に含み込まれている、ひとつの要素になっている。それは、文字/活字を介したことばと同じように、耳や眼、生身の五感を介して「自分」という「場」に収斂してゆく〈いま・ここ〉の〈まるごと〉の体験の裡にあるものであり、その意味では、個々に音や映像、あるいはことばなどのそれだけを取り出してあれこれ賞翫するような聴き方、見方、読み方自体、もう衰え始めているようにも感じます。

 〈いま・ここ〉の〈まるごと〉でしかなかった「場」から、音を抽出して記録する技術が発明され、その媒体は商品になり、同じく映像もまた、スチールであれ動画であれ、記録できるようになった結果、これまた媒体を介しての商品となり、それぞれ独立した「音楽」「写真」「映画」といったラベルを貼って分類した上でつきあうようになっていった、それが概ね19世紀から20世紀にかけての経緯だったとするならば、デジタル化技術の進展は、それら個々につきあってきた、記録された音や映像を再び〈まるごと〉の「場」に再編制してゆく、そんな方向にわれわれの現実感覚、〈リアル〉のたてつけを変えていっているようです。

 音と併せ技でしか、ことばは「うた」にならない。「うた」というたてつけにおいて、ことばが意味をはらんでこちら側、生身の耳もとにまっすぐ届いてくるためには、そのことば自体の音声としての属性も含めて、「音」という要素がそこに付与されていなければならない。そのことをもう一度、知らぬ間に思い出し、再び気づかされるような情報環境に、われわれは生き始めているらしい。

 だから、文字のままでは、ことばは「うた」にならない。というか、そもそも文字/活字は、それら「うた」としてのことばをたまたま定着し、記録しただけのものである、というのが、ことの本質でした。「うた」はあくまでも〈いま・ここ〉の現前であり、だからこそ生身に宿る〈リアル〉である。どんなに情報環境の膨張、伸長に伴い、そのありようを変えていったとしても、その初発の場所は常にそこにしかない。「うた」はどこまでも、その「場」に存在し、臨場している生身の裡にまず最初に宿るものである、と。そのように考えれば、いまどきのデジタル化の進む情報環境というのは、逆説的にもう一度、われわれの〈リアル〉を、「関係」と「場」の織りなす〈いま・ここ〉に引き戻してゆくように働く部分もあるのかもしれません。


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 とすれば、です。

 音との併せ技だけではない、もしかしたら広義の映像、視覚情報との併せ技、という面も、「うた」におけることばのあり方としては、考えねばならない。「うた」としての〈まるごと〉を現前化させる際の、その「場」を成り立たせる要素のひとつとして。

 商品音楽に関して言えば、たとえば、あのプロモーション映像――PV、最近だとMVとも呼ばれるやつが楽曲にあたりまえにくっついてくるようになって以降、つまりラジオを、あるいはジューク・ボックスやポータブル・プレイヤーなどの機器を介して、楽曲をそのものとして耳にするのでなく、動く映像と共に消費するようになってこのかた、そのような併せ技の〈リアル〉はあらためてわれわれの日常感覚の中で、ぐっと前景化してきたはずです。

 音楽とはそのような映像と共に、単なる楽曲としてではなく、また別の表現として体験し得るものだ、ということを初めて意識したのは、もう40年近く前、縁あって北米の大学に出向いていた時期、アパートに居候させてくれた大学院生の部屋にあったテレビで見たMTVでした。番組自体、まだできてそれほど間もない頃だったはずですが、専門局で24時間(だったと思う)ずっとPVを流し続けるのは鮮烈で、何より英語の会話がおぼつかない身にとっては絶好の暇つぶしになって、かなりハマりました。マイケル・ジャクソンやマドンナはもとより、エアロスミスやボンジョヴィやプリテンダーズ、ブルース・スプリングスティーンなどの当時、彼の地で流行っていた楽曲を耳にすると、今でもそのPVの映像が必ず鮮明に脳裏によみがえる。楽曲自体の媒体としても、レコードからCDに移りつつある時期でもありましたが、音楽そのものを楽曲として聴くのはそれら媒体の再生機器を介してという手続きは変わらずとも、テレビの画面を介してMTVのPVとして送られてくる映像つきの楽曲が、いわば「もうひとつの音楽」として耳と眼との併せ技で生身に送り込まれるようになり始めた、思えば、そういう「コンテンツ」消費の黎明期でもありました。


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 ことばが単なることばとして、日常の「用」をたし得る程度の「道具」としての条件を最低限満たす意味のやりとり以上の、何らかの膨らみや発熱にたとえられるような生身の躍動、充実に関わる媒体になるための条件として、さまざまな伴奏やお囃子などから、ことば自体のはらむ音声としての領域も含めての「音」一般、さらにそれらと複合しながら眼から入力される光景としての視覚情報なども含めての〈まるごと〉として、「うた」が現前し得る「場」には必要になってくる。

 思えば、歌謡曲や流行歌と呼ばれるそれら商品音楽の歌詞から、意味がどんどん引き剥がされてゆくような過程もありました。桑田佳祐サザンオールスターズが典型的にやってのけたこととして語られるようになっていますが、おそらく彼らだけの手柄でもなく、まさにそういう時代、同時代の気分と抜き難くからんだところで現前化していた現象でした。「うた」としてのことばの意味から乖離させてゆくようなあの創作作法は、彼らのその上演も含めての成果だったことは明らかで、でも、その桑田とサザンもある時期以降、もう、そのような意味を引きちぎってゆくような上演ができなくなってったあたりも含めて、聴き手の側の「聴く」感覚の転変なども含めた、本邦の音楽をめぐる環境の変貌を思わざるを得ません。


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 あるいはまた、別の例。

 早逝した今敏の映画『パプリカ』で使われていた平沢進の「パレード」の、すでによく知られているあの破壊力。あれは、おそらくそれこそ手術台の上のミシンとこうもり傘みたいなもので、その組み合わせにおいて初めて現前化したものでした。


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 発声され、歌われる歌詞としてのことばは、耳から入ってくる限りはほぼ意味をなさない。そのようにしか聞こえないし、また、そのように意図して作られた歌詞でした。そのあたりは、桑田とサザンが達成した、意味からの離脱という流れを継承した表現だと思いますが、ただ、それを文字に起こしてみると、それはそれ自体で「うた」の気配を漂わせてはいるものの、さらに映像との併せ技で全く別の飛躍的な破壊力を獲得して、全体として新たな「うた」、楽曲単体で喚起される感動とはまた別なものになっている、そんな印象でした。意味から遠いことばが、映像との併せ技で音として混然一体、上映されるその「場」における〈まるごと〉として「うた」と化している不思議。文字化されたことばとしてのその歌詞そのものも、別の意味での「うた」として読める内実を備えているのに、それが「コンテンツ」としての裡に溶け合わされることで、また異なる「うた」に転生している、と。

 でも、これは今の時代ならではの新しい事態というわけでもない。たとえば、かつての本邦常民たちの耳にとってのお経なども、おそらく同じこと。読経され、唱えられていることばとしての経文の意味など、その場でほとんど伝わらずとも、音とリズム、声調その他がまずありきだったわけで、その上にそれが流れる上演現場の環境、眼に映る光景などが併せ技になって初めて、その場に臨場する生身の裡に立ち上がる何ものか、それこそが読経されるお経の、「うた」としての本体だったはず。それは、文字化された経文の意味内容とは、また別の内実です。


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 さらに言うならば、その眼に映る光景というのも、必ずしも実際に眼球を通して網膜に映し出される眼前の光景だけでなくても構わない。脳内網膜に想起され立ち上がる何らかの情報――それをしも「眼に映る光景」として重ね焼きにできるのならばそれはそれ、耳から響く音と複合されたところにいくらでも「うた」はその本来の喚起力を伴い、立派に宿り得る。このへんは、以前から触れている「眼を閉じて聴く」習い性や、黙読と音読によって脳内に想起されるイメージの違いなど、さらに大きな問いに例によって連なってゆきます。


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 ……というわけで、冒頭のあいみょん、いまどきの情報環境の恩恵をありがたく受けて、ちょっと検索してみたら、あらま、何のことはない、NHKの連続ドラマでついこの間までテーマソングを歌っていたくらいのいまどき第一線の売れっ子アーティストなのでした。と同時に、「NOT OK」の歌詞をあらためて検索、確認してみたのですが、文字として読みとれるその「うた」の内実は、なぜか、トレイシー・チャップマンの「FAST CAR」がきれいに二重写しに見えてくるようなものでした。これはこれでまた、いまどきの「うた」の、一筋縄ではゆかなくなってるありようならではの不思議、ではあります。


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*1

およげ!対訳くん: Fast Car トレイシー・チャップマン (Tracy Chapman)


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*2
*3

genius.com

*1:かつて、リリースされた当時、MTVで流れていたビデオクリップは、これとはちょっと違っていたような気はする。道路を走るクルマのタイヤがずっと空しくワンショット固定で流れ続けるカットが、リフレインのように何度も印象的にさしはさまれていて、モノトーンの沈んだ色調と共に、とても鮮烈だったのだが……なにせ記憶ゆえ、アテにはならないとしても。

*2:矢井田瞳のこのカバーが、邦訳歌詞含めて絶品なことは、自分もかつて言及していたのだが…… king-biscuit.hatenablog.com 上掲の対訳サイトで全く同じ感覚で評価する向きが自分以外にもおらすことを知って、まさに「我が意を得たり」(古いか)になったものだった。

*3:あいみょん矢井田瞳と生い立ち背景その他の共通項があるように思うのだが、そのへんはまた別途、機会があれば。