「掟」ということ

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 「掟」というと、なぜか耳もとで必ず再生される一節がある。

「光あるところに影がある…まこと、栄光の陰に数知れぬ忍者に姿があった…命を掛けて歴史を作った影の男たち…だが人よ、名を問うなかれ…闇に生まれ闇に消える…それが忍者の定めなのだ…」

 むかし、テレビアニメ「サスケ」の冒頭、オープニングに流れていたナレーション。いまどきの情報環境のこと、手もとのちっぽけな飛び道具からあれこれ掘って確認できるありがたさは言わずもがなだが、あらためて確かめてみると放映されたのが1968年というから、ああ、もはや半世紀以上も前、良くも悪くも物情騒然の世相真っ只中の昭和43年、こちとらときたらまだ小学生の真ん中くらいの頃だ。

 子ども向けのアニメ、いや、当時はまだテレビまんがと呼ばれていて、すでに夕方から夜の7時台、そろそろ高度成長の上げ潮に巻き込まれてくたびれ始めていた親父たちが、それでも何とか家にたどりつく時間を守ろうとはしていた端境の逢魔が時、われらガキ向けのそれらテレビまんがが、あれこれどのチャンネルにも同工異曲で並び立つようにはなっていたのだが、しかし、この「サスケ」のオープニングだけは、いささか様子が違った。

 あれは当時流行っていたマカロニ・ウエスタン調と言えばいいのか、番組が始まり、導入部分に主題歌が入る前に、まるで歌謡番組の前説のように、まずこのナレーションが男性の声、それもニュース映画のアナウンサーのような調子でしぶく入り、またそのバックの音楽が、重々しくも厳めしい琵琶だか何だか太い弦の響きが低く合の手を入れてくるような代物で、なぜかよくわからないけれども、あ、これは明らかにおとなが本気出して作っているものであるな、ということがこちらの幼心にもビンビン伝わってきた。

 まだ正しく子どもだましだったその頃のマンガの世界に、あらたに劇画というたてつけが前景化してきた頃のこと、そもそも原作の「カムイ伝」自体、そういう劇画の代表的な作品とされてもいたから、そのへんの影響もあったのだろうが、いずれにせよ、当時のガキどもにとっては妙におとなっぽく、まただからこそガキならではの背伸び気分にもうまく呼応してくる、そして、ようやく人としての輪郭がいくらか整い始めた程度の未熟な耳にもくっきりと残る、まあ、それくらいの名調子ではあったのだ。


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 見ての通り、もとのセリフは「定め」となっていたのだが、この際それはどうでもいい。その頃、まごうかたないガキだった自分の脳内で、この「定め」は確実に「掟」と変換されていた。そして、その変換された先の「おきて」という発音、発声の響きも諸共にひっくるめて、このわれながらいい加減な記憶メモリーにいまなお色褪せずにくっきり書き込まれているのだから、この「サスケ」冒頭の朗読を介した一連のくだりの刷り込み加減、まずは大したものだったと言わざるを得ない。

 今回、何かのご縁でこんな折り目正しげな文学作品の、それもアンソロジー企画に関わらせてもらうことになった時、版元からもらったメイルに「掟」というお題を発見した際、まず思い起こしたのがこのことだった。

 マルクス史観だ唯物論だと、おとなたちからあれこれ取り沙汰されてもいたもとの劇画の「カムイ伝」はともかく、テレビまんがの間尺に移植された「サスケ」は、さすが子どもだましの王道よろしく少年忍者という設定だったから、当然、その「おきて」も「忍者」のものになる。忍者の掟――おお、なんといかめしくもおそろしい響きではないか!

 忍者という形象自体、戦前の立川文庫の猿飛佐助や霧隠才蔵などの水脈をたどりながら、当時また新たなブームになり始めていて、それは戦後、商業的に脚光を浴びるようになっていた時代小説・歴史小説に反映されたある種のモダニズム、ハードボイルド的なミステリー風味のヒーロー像の翻案のようなところもあったのだろう。司馬遼太郎出世作梟の城』や山田風太郎の『柳生忍法帖』以下のシリーズものから、果てはなんと『赤旗』までが連載していた村山知義の「忍びの者」でさえもあっぱれ映画化されるほどのある種見境なしの人気を博していて、それらの同時代的な熱気は当然、その頃新たな市場として存在感を示し始めていた子ども向けの読みものや絵物語、マンガその他の「おはなし」商品にまで影響を与えていた。そんなこんなで「サスケ」の忍者イメージもまた、そのような拡がりを背景にわれらガキの心にもリアルに映っていた。ひとりひとりは名も無い匿名の、陽の当たらぬ集団というそのありようは、後のショッカーや人間モドキなど、怪獣ものからライダーものや戦隊ものへと至る「おはなし」につきものになる匿名の悪役集団のイメージにまで揺曳してゆくことになるのだが、それはともかく。

 そのような形象として前景化していた忍者は、同じ「おはなし」空間の融通無碍を介して、おそらく「やくざ」や「愚連隊」や「軍隊」に、そして「不良」や「族」に置き換えてもおおむね成り立つようなものだった。おとななら「組合」や「党」もあり得ただろう。つまりそういう集団、そういう組織、そういう人の集まりを下地にして初めて〈リアル〉であるような形象。「忍者」に重なる「掟」という語彙との複合で立ち上がってくるのは、そういう種類のどこか禍々しく、窮屈なおっかないイメージでもあった。

 とは言うものの、当時すでに身の回りに、そのような「おきて」の響きに見合うような、逃げられない決まりや約束ごと、まさに「定め」と言うしかないような宿命的で、個人の都合や思惑、意志や気持ちなどでどうこうなるようなものでもないきつい縛りの類は、実際には影を潜めつつあった。

 いや、そりゃいまどきから比べたらまだ体育会系の部活には無理偏にげんこつの上下関係がしっかり生きていたし、「しぼり」と称する旧軍由来とおぼしき理不尽なしごきも各種健在だった。外を歩けばこわい年上、ガタイからしてまるで違う体力まかせで剣呑ないきものたちがどんよりとたむろして濁った目線を向けてくる暗がりもあったし、何より小学校の教室でさえも、ちょっと度を超えたはっちゃけ方をすれば、おとなである教師からの平手打ちも普通に飛んでくる、まあ、そんな状況ではあったのだが、けれでも、少なくとも当時それら眼前の現実と共に、それとは裏腹に「そういうもの」にもなりつつあった別の約束ごとからすれば、「個人」の意志、「自分」の判断によってそのような不条理や理不尽は避け得るもので、時と場合によっては決然と抗っても構わない――そういう感覚もまた、すでに相当に共有されるようになっていた。「民主主義」というその頃最も輝いていた「そういうもの」の、最もわかりやすいわかられ方の個別具体なたとえとして。

 おとなたちの世間においてもそうだったろうし、まして子どものこと、おとなの世間以上により濃縮され、蒸留されたかたちでそのような、「個人」の「自由」こそがあるべき正義、という考え方が、主に「学校」を介して、そして家の中に入り込み始めていたラジオやテレビなどからも後押しされながら、その頃の日常にあたりまえに呼吸され始めていた。実はそれが現実にはどれくらい大変な、誰もがおいそれと享受できるものでもなく、また何よりそうしていいものでもないかもしれない、といったあたりの本来あるべき留保や思慮、あとあと齢を重ねてゆくうちにあちこち頭をぶつけ、背中をこづかれたりしながら思い知ってゆくおとなの事情なども含めて味わえるようになって初めて十全なものになるはずの「おきて」という響きに本来ふさわしい奥行きや陰翳については、もちろんその頃思い至れるはずもない。

 だからこそ、だったのだろう。その「掟」という言葉には、その響きの聞こえてる拠って来たる先に、少し前まであたりまえに現実であったらしい世の中のありよう――それは「ムラ」であり、農山漁村であり、あるいは「戦前」の「軍隊」であり、いずれ眼前のおとなたちがおとなになってきた過程で確かに生きてきたらしいonly yesterdayな現実の一部であり、同時にそれは「個人」の「自由」など平然とないがしろにされるような〈リアル〉でもあった現実を、数珠つなぎにぞろぞろと引きずり出してくる触媒みたいなところもあったのだ。

 自分たち子どもの知らない、まだ生まれる前の現実。親やまわりのおとなたちは確実にそこを生き、呼吸しながら〈いま・ここ〉に至っている、でもわれらガキにとっては絶対に届くことのないままになっていて、断絶と連続が共にはらまれてある、そんな〈リアル〉。「掟」がその背後にうっかりと垣間見せてくるもののおっかなさの来歴は、たどってゆくとどうやらそんなあたりに重心がかかっているらしかった。

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 音からしておっかないだけではない。「掟」は漢字にしても、またひらがなに開いてみても、眼にもどうにもいかめしい。
 字引きを繰れば、ざっとこのような意味が並んでいる。

  1.  守るべきものとしてすでに定められている事柄。その社会の定め。決まり。また、法律。法度 (はっと) 。
  2.  かねてからの心づもり。計画。
  3.  取りしきること。処置。処分。また、指図。命令。
  4.  様式にかなったものの扱い方や配置のぐあい。
  5.  心のもち方。心構え。心ばせ。

 「そういうもの」という言い方を自分はよくするけれども、まさに理屈ではない、とにかく自明にあたりまえにそうすべきという約束ごととしてある、そんな感じ。そして当然、その約束ごとはそれが律する先にある世間、具体的な集団なり組織なり、生身の人間たちが肩寄せ合って生きる具体的な関係と場に、しっかり紐付けられている。
 法律の世界で慣習法などとくくられる領分なども、ごく広い意味では「掟」ということになるのだろうが、それも同じこと、ひとり個人としてのこの自分にとっては不自由をもたらす根源であり、好き勝手にわがままに振る舞い、行動することを厳しく制約してくるもの、という意味では、なるほどこれは「個人」の「自由」を無上の価値と定めてきた戦後民主主義的な言語空間においては否定されるべきいやなもの、あってはならないもの、といったネガティヴな意味しか付与されまい。

 人が生きてゆく上で所属せざるを得ない、自ら選んだものでなくても「そういうもの」としてそこに「ある」集団や組織を前提に共有されているルール。もちろんそれは文字になり、紙に記されるものでなくても構わない。その場の誰もが「そういうもの」として認識し、だからそれに従うことは理屈以前のあたりまえであり、逃げられないものである、と思っているのならば、それで立派に「掟」は成り立つ。成り立って、眼には見えない規範としてその場の人間の行動を、その内心の都合や思惑などとは別に、ある一定の枠に揃えて流し込んでゆく力を持つ。

 だが、人ひとり、ただ生物的な個体としてあるだけならば、「掟」は成り立たない。成り立つとしても、それはその個体の裡にある何らかの縛りでしかない。それは生物的な側面からは単なる自然の法則、本能と呼ばれもするようなものに規定されているのだろうし、それらの水準をひとまず措くにしても、単に胡乱な信仰であったり信心であったり、どのような契機からであれその人が自ら決めたごく私的なルール、他人には関係のない内的な軌範でしかなくなる。そのように外側から強制されるモメントが欠落した「掟」は、その個体であるひとりの執着や妄念、今風に言えば「こだわり」であったり手前勝手な思い込みによるゲンかつぎのようなものであったり、いずれそんなものにしかならない。それは個体の内面に関わるものであるかもしれないが、しかしまだ個体の制限を越境してゆくような、人としての「個人」の生成にはつながってゆかない。

 つまり、こういうことだ。自分以外の個体が複数寄り集まっている「集団」が前提になって、その相互の関係と場とに共有されているからこそ、「掟」は社会的規範となり、個人としての自分の内面との対抗軸を形成するようになる。個人の私的な規範としての「掟」は、どこまでいっても内的規範のまま、そのままでは社会的な縛りにはならない。社会的な縛りが個人の内的規範と通底してゆくことがあって初めて、「掟」は個人を否応なく縛るものになる。社会と個人、集団と自分、群れと個体、いずれ西欧近代的な、あるいは文明的と言い換えてもとりあえずは構わないとされているような、あのくっきりとした二分法を前提にすれば、このような区分けと説明になるのだろう。

 とは言え、近代的な成文法というニュアンスは、そこではまだ薄い。あくまでも慣習法として、理不尽と思えるような不合理や不条理も含みながらもなお、その社会、その世間においては何らかの実利、実際的な必要に根ざして機能しているもの。「伝統」であり「慣習」であり、何でもいいが、しかし実はそのように言語化もあまりされていないような、まさに「そういうもの」。それが「掟」という語彙が常にまつわらせているあの不気味な剣呑さの、最も核の部分になってくる。

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 たとえば、「むら」の掟、といったもの言い。「いなか」でも、あるいは「いえ」でもいい。いずれ先祖代々としか思えない昏い因習の裡にまどろんだまま、いまだ唯々諾々とそれに従って生きる「遅れた」「開かれない」人たちの形象。昨今でも「地方」という言い方で、それらかつての「掟」と地続きと見られるその土地ならではの習い性がなにかのきっかけで明るみに出てしまい、巷のニュースを賑わせる。

 マチから入り込んだ人間を排除する。いまどきのものさしからすれば理不尽で何の得があるかわからない習慣や行事を強制される。それによって「自由」な「個人」の、あるいはそれらのフラットな集合体であると素朴に思っているようないまどきの「家族」の行動にあらぬ制約が加えられ、いずれ何らかの葛藤が生じて、あげく地元の人々との間に問題が現前化してゆく。新聞や雑誌などメディアに捕捉されれば、型通りに「掟」は悪者に据えられ、そのように「おはなし」が紡がれてゆくし、あるいは、学者や研究者に捕捉されれば、その裏返しとしそれらは尊重すべきもの、是非はともかく立ち止まって忖度されるべき「文化」として「伝統」「伝承」として、また別の「おはなし」に流し込まれてゆく。しかし、いずれにせよ「掟」そのものの全き現前、〈いま・ここ〉の裡に根を張る「逃げられない」現実のそのまるごとのありようについては、それらの「おはなし」では十全に表現されることはなく、ゆえに「掟」の現在は常に〈それ以外〉の領分を包摂しながら疎外されてゆくしかない。

 しかし、そのような「掟」に類する縛りや「逃げられない」現実というのは、かつてある時期までなら誰であれ、どこか必ず自分ごととして感じとれる身近なものだったはずだ。何の関係も場も共にしないよそものの意識と感覚とで被害者的にだけ受け止めたり、あるいはそもそもが無関係な観客目線でテーマパークのアトラクションのようにただ賞味することのできるようなものには絶対になり得ないものだった。どのような形であれ、他でもないこのおのれの生身の出自来歴から実存にまで否応なくからんできてしまう、できれば避けておきたい領域にまであつかましく侵入してきてしまう、「逃げられない」現実というのはそのように疎ましくもぼってりと重い、この世に生きてある上で必ず隣り合わせのものではあったはずなのだ。

 ならば、その疎ましくもぼってりと重い「掟」というもの言いに見合うほどの、現実の人間関係からもたらされる生きづらさ、どうしようもない閉塞感といったものと、しかし結局はその縛りの裡でしか生きられないこの矮小な個体としての自分、という双方の間の距離感を、さて、どのような形で昇華し、心ゆかせにしてゆけるのか。実はそれが本邦近代の表現のひとつの宿命、それこそもうひとつの見えざる「掟」になっていたらしい。それらの縛りからいかにそれぞれが逃れてゆけるのか、それが個々の処世や具体的な世渡りとはひとまず別のところで、だからその分だけ抽象度の上がった「おはなし」の水準において、身にしみるだけの何らかの処方箋を示してくれるところもあったのだろう。巷間「文学」と呼びならわされてきたような、いずれとりとめなくもさまざまな表現の背後には、そのような現実の「掟」と合わせ鏡のように宿っていたもうひとつの見えざる「掟」が共に、あるまるごととして必ず横たわっている。

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 「掟」と呼ぶしかないような縛りが「逃げられない」現実としてあり、その内側で忍耐を重ね、日々をやりすごしてゆく――それが常の人の生であり、生きることの内実だった。「苦労」や「辛抱」、「修業」といった言葉で表現されるしかないような、それ自体は間違いなく不条理で理不尽な過程であり、生身の個にとって逃げ出せるものならば逃げ出したい環境。しかし、それはどのような世間で生きるにせよ概ね「人の世の習い」であり、「そういうもの」で回収されるしかないような現実でもあった。だからこそ、それ以上の言語化や表現は必要とされず、そちらへ向かおうとする気配すら同じ「掟」の間尺で事前に巧妙に抑圧されることになっていた。少なくともある時期までの本邦においては。それは社会的存在として一人前の道筋が明確に示されていた男にとってだけでもなく、「家」の中に縛りつけられるのがそれこそ「掟」であった女にとっても、基本的に同じこと。かつて、福田定良は「踊る宗教」の教祖として戦後、一時期世間の注目を集めた北村サヨについて論じた際、こんなことを言っている。

 「私の知人に東京の下町そだちの夫人がいるが、彼女は結婚すると、三年間、どんなに無理なことでも、はいはいと辛抱しぬいた。だが、三年たつと、彼女は夫や彼の両親を前にして開きなおり、これからは私も言いたいことを言わせてもらいます、と宣言した。彼女も、もともと陽気な娘であったが、その明るさをとり戻すには三年間の辛抱と家事の熟達が必要だったのである。」(福田定良「北村サヨの神聖な喜劇」)

 繰り返す。男も女も同じこと。この世に生まれ、生き延びてゆく上において、人にはわけへだてなく「苦労」「辛抱」の過程が必ずあるもので、それに耐えて忍んで初めて何らかの自意識もつくられてゆくものである。そして、その先には「一人前」という目指すべき出口があり、そこに至って初めて人は「個人」となり得る――味気なくほどいてしまうならおよそそのような理解が本邦常民の「民俗」レベルも含めた認識にまずあって、それを遵守しなければならないものにしておくためにこそ、確かな規矩として「掟」や「さだめ」もあるのだ、と解釈されていたらしい。

 それはなるほど「法」と言い換えてもいいようなものかもしれない。しかし、われわれがいま、普通に理解しているような意味での法律や規則といったものでもない。もっとそれ以前の、もしかしたら人の造りしものでもない、半ば自然環境と地続きであるかのようにずっとそこにあたりまえに「ある」もの。人の意志や思惑ごとき容易に変えたり操作したりできないし、してはいけないもの。「逃げられない」ということは、単に縛りがきついとか制裁が厳しいといったことではなく、何かそれくらい根源的で本質的なものに密接に関わっている、少なくともそのように感じられるものだったたらしい。だからこそ「掟」というもの言いの、あの剣呑な窮屈さにもなる。

 それら「逃げられない」現実に周囲を取り巻かれたこの場所でしか生きてゆけない、少なくとも当人たちはそう思っていたし、まただからこそ、その場その関係への忠誠心や執着も生まれてこざるを得なかった。なるほど個体としての「個人」は存在するし、その裡にそれなりの意識や感覚、感情もそれぞれ宿るけれども、しかし人はそれだけではない。それ以外の関係においてもまた、「個人」は身の丈の間尺を平然と超えてゆるく拡がり得るし、また融通無碍に場に共有されてもいる。その程度に、「個人」というのは生物的な個体の間尺とは、また別なものらしかった。

 なればこそ、言葉もまた、そのような拡がりに支えられてしか存在しないし、その限りでその届いてゆく範囲も響いてゆく空間も、また身の丈をあたりまえに超えてゆく。そのような〈いま・ここ〉のまるごと、人としての実存と紐付いた現実は、その意味において言語化の過程からも本質的に疎外され続ける。まただからこそ、そのような場所に生きる人々の表現も、それがどのようなものであれ、そのようなまるごとの共同性に向かってゆるやかに開かれた「おはなし」という現われを介してしか現前化し得ない。個人と紐付いた表現が基本的にあり得ず、常に不特定多数の匿名による創作でしか現前化し得ないという、文字以前の口承と話し言葉ドミナントな民俗社会における表現のありようとされる議論そのままに、表現もまたそのような生物的な個体と文化的な個人の間の関係性に規定され、個人と紐付いた主語と主体においてでなく、「逃げられない」関係と場の共同性の裡にこそ宿るものになっていた。

 だが、そういう「逃げられない」現実に囲繞された場所から、何らかの契機で、あるいは何らかの覚醒を経て、自分も含めたそのような現実をある距離をもって見ることができるようになることも、人にはある。たとえ鈍く、漠然としたものであれ、〈それ以外〉を見ることのできる視線が宿るようになって初めて、それら「逃げられない」現実もまた、何らかの表現のモティーフとして「そういうもの」から初めて対象化し得るものとなる。「逃げられない」関係やしがらみのまるごと複合体のようにしか思えなかった「掟」もまた、それまでと違う相貌で立ち現れ、また別の新たな読まれ方、受け取られ方をされてゆくようになる。その結果、「おはなし」も初めて「個人」の存在し得る現実に紐付けられ、対象化された「掟」の形象と共に、〈それ以外〉の明るみにようやくその姿を見せてくるし、それに伴い「個人」もまた、晴れていまのわれわれになじみのある装いで現前化する。
 どうしてか、って? だって、その「掟」に従うしかないという諦念しかないなら、そういう自分しか今後の生の可能性としてあり得ないのがほとんど全てだと思っているのなら、その「そういうもの」としての「掟」に従うことが望ましいことであり、無難な生き方にしかならないじゃないか。それを疎ましく思い、縛りと感じるこちら側が人としてある程度の新たな輪郭を獲得できるようになって初めて、その「掟」もまた、否定し反抗し、乗り越えるべき障害として、言わば悪役ラスボス的な形象として異なる輪郭をあらわにしてゆける。そうなってようやく「掟」は、「おはなし」のたてつけの中で、人の使い回せる素材として使い回せるようになる。そう、「掟」をそれなりに否定的媒介にすることができるだけの意識が人に宿るようになって初めて、「おはなし」の舞台での「掟」もまた、「個人」としての輪郭を確かにしてゆく足場として活用できるようになる。

 「文学」と呼びならわされてきたような多様な表現も、そのような文学以前、「そういうもの」という自然から人として「個人」として晶出されてくるような主体のはじまりの過程をくぐって初めて、いま、われわれが意識し、捕捉することのできるような「おはなし」という形式を伴いつつ、誰にも見えるものとして現前化してきたのだと思う。

 だがそれも、たかだか常にまるごとの〈いま・ここ〉のある一部でしかないような表現なのだ。だからこそそれは、同じ〈いま・ここ〉の裡に棲み、生きる主体としての「読む」を介して、人としての「個人」の輪郭を維持し、持続可能なものにしてゆく営みに益するという「おはなし」本来の役割に正しく復員し得る。すでに「そういうもの」と化してしまって久しいように見える、日本語を母語とする範囲での「文学」の間尺においても、そのような可能性をまだ諦めることのない向日性ある主体が闊達に関わってゆくことで、本来そこに埋め込まれてあるはずの「おはなし」の〈いま・ここ〉における新たな相貌に相まみえることもまだできる、そのことはいま少し、信じておくことにしたい。

*1:分量多いので手直しを、との指示で、以下、薄墨部分を削除した。……240411