八代亜紀「うたに感情を込めない」、のこと

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 1月10日のスポーツ紙朝刊、八代亜紀の訃報が、まるで阪神優勝の勢いで特大の色刷り活字の見出しの乱れ打ちと共に右へならえ、横並びの潔さで躍っていました。

 ああ、それほどまでに、本邦スポーツ紙の想定読者層にとっての八代亜紀、いや、より丁寧に言うなら、八代亜紀に代表されるような「うた」の記憶は、いずれ十人十色、それぞれのお好みのままに散りばめられたプロ野球の贔屓球団の優勝沙汰と同等ほどに大事だったということであり、そしてスポーツ紙各社とも、世間一般その他おおぜいの心映えを相手の稼業としての矜持と共に、その手ざわりを輪郭確かに未だくっきりと持っていたということなのでしょう、令和6年、来年は昭和百年を迎えるといういまのこの時期この時代、この情報環境においても、なお。

 こういう有名なよく知られた、それも芸能人が亡くなると、メディアの舞台に追悼企画がたくさん出る。テレビはもちろん、新聞や週刊誌なども含めて、昨今だとweb上の媒体も同じく。そんな中、彼女にまつわる挿話や発言が断片的にいくつも目の前を通り過ぎてゆきます。

「私は今の若い人の音楽はすごくかっこいいし、すごいとと思うの。ただ今のヒット曲というのは、世代ジャンルが細かく分かれていて、かっこいいし嫌いじゃないけど歌えないのよね。私たちの時代は、世の中が歌っていた時代だから。

ひと昔前までは日本でも街中に音楽が溢れていたのよ。ほら、おじさんたちが、酒の力を借りて歌いながら歩いていたでしょう(笑)。日本のおじさんたちにも、もうちょっと街中で「うぇ~い」って音楽を奏でて欲しいわ。」

 「うた」と世相の移り変わりについての把握、認識が、身についた的確さです。断片的だからこそ、余計にそれが際立ってくる。不特定多数のその他おおぜい、つまり「大衆」ですが、それらに生身を介して対峙し続けることが稼業となっていた人がた特有の、そういう種類のもの言いの確かさ。そんな中で、こんな断片も流れてきました。

 「八代亜紀さんと言えば「歌に感情を込めない」が信条。「感情を込めると、歌は歌手自身のものになる。しかし感情を込めず曲の世界観だけを伝えると、聴き手がそこに自分を投影する」。銀座のクラブ歌手時代、感情を込めないで歌ったところ、ホステスたちが泣き出したという。

 これは彼女の直接的な発言でなく、何らかの伝聞、記事その他の報道を介して知った匿名子による間接的な挿話という形です。元の記事など参照元がわからないので、どこまで正確なものかは不明だし、何よりいまどきのSNS環境で日常のおしゃべりのように「つぶやかれた」言葉、挿話としてのまとまりにどれだけ確かな背景があるのかなどは探るだけ野暮というもの。ただ、この匿名子によって「感情を込めず曲の世界観だけを伝える」と「翻訳」されたこと、そこに期せずして込められた何ものか、というのも「うた」の現在を考えるひとつの糸口にはなるような気がして、少しいろいろ手繰ってみました。すると、元になった情報が何となく、これもまた匿名のたわいないおしゃべりの中に。

 「八代亜紀が歌唱について「歌に自分の感情を乗せすぎては駄目。プロの歌は聞く人のものなので、聞いた人が自分の感情乗せられるスペースを空けておかないと」って言ってて、実際に感情をすごい乗せた歌と普段の歌を歌い分ける、ってのをテレビでやってて、本当に普段の歌の方が感動的だった。これテレビで見た記憶があるので、僕の生活にテレビがあった時期を考えると20年以上前なんだけど、番組名とかわかる人いないかなあ。どっかに動画がないかなあ。」

 新聞や雑誌の活字の記事でなく、テレビの番組だったらしい。すると、ああ、これもいまどきの情報環境のありがたいところ、別の匿名子がこんな情報を投げてくれていた。

「歌に感情は込めない。八代亜紀「感情を入れると、自分の心も出ちゃうわけですよ。歌手の人の人生観とか出ちゃうわけですよ」「歌は代弁者じゃなきゃいけないと私は思うのね。聴く方の代弁者。自分のことを歌ってくれてありがとう、って思われちゃわなきゃいけない」/『先輩ROCK YOU』2/21 」

 番組名とおぼしき部分などからさらに手繰ると、どうやら日本テレビ系列の『心ゆさぶれ!先輩ROCK YOU』という番組に行きあたった。2010年から5年間ほど、土曜日の夜11時台に放映されていた30分番組らしい。ちなみに、同じ帯の前番組が『恋のから騒ぎ』で、あと番組が『マツコとマツコ』だそう。その放映期間の最後の方、2015年2月21日に八代亜紀が登場していた記録があった。

「演歌SP!ベテラン八代亜紀VS大注目若手の山内惠介▼意外すぎる八代「歌に感情は入れない!」▼こぶしって何なの?大きく回したい派?▼哀しい女の裏の顔で…歌の心知る【MC】大東駿介木南晴夏/加藤浩次 【ゲスト】八代亜紀山内惠介 演歌SP!ベテラン八代亜紀VS大注目若手の山内惠介▼意外すぎる八代の「歌に感情は入れない!」感情入れると気持ち悪い?をスタジオで実証!」

 いくつか放映時の動画とおぼしきものがあげられているサイトも複数あったのですが、権利関係からクレームがついたのか、残念ながらリンク切れしていたので動画自体では確認できませんでした。ただ、周辺の断片情報を総合すると、この番組の中で「感情は入れない」という趣旨のことを彼女自身、言っていたらしい。いわゆる演歌につきものとされる「こぶし」について話題にした部分があり、「歌の間に挿入される音の波、余韻でしょうかね」と彼女が持ち歌の「舟歌」の一節を歌って例示、でも彼女自身は、「こぶし」が苦手、との発言もあった由。そこでは、古賀政男の譜面には「こぶし」が反映されていて、譜面通りに歌えば「こぶし」になった、とかの挿話もあったようで、このへん、もともと浪曲における演者の個人的な「味」として、いわば余白的な部分に許されていたアドリブ風なフシだったことや、それを「個人」としての演者の属性として認識してゆくようになっていった聴き手の側の「耳」のありよう、あるいは、秋田實の漫才「台本」のつくりなどと引き比べての同時代的な符合などいろいろと連関想起され、これはこれですごく興味深い話なのですが、それはともかく。

 歌に感情は込めない、という意味のことをこの番組で彼女が発言したとすれば、おそらくその「こぶし」の段のあと、下積み時代に銀座のクラブ歌手をやっていた時のことが話題になったあたりだったのでしょう。これはそれまでも彼女の一代記的なインタヴューで必ず語られる「おはなし」になっているのですが、でも、「感情は込めない」というような踏み込んだ言い方は、少なくとも活字の情報の範囲ではこれまで彼女はしていない。でも、番組紹介のコピーに前掲のように「意外すぎる八代の「歌に感情は入れない!」感情入れると気持ち悪い?をスタジオで実証!」とまではっきりうたわれていることからすると、自身で歌い方を比べてみせるシークェンスまで含めて、当日のスタジオであったのでしょう。確かに、ものすごく見たい、そして聴いてみたいものです。

 「こぶし」が苦手、というのが本当だとすれば、なるほど、そういう意味で演者、歌い手「個人」としての必要以上の顕示欲のようなものは、意識的に抑制していた可能性も含めて彼女、八代亜紀には薄いままだったということかもしれません。「感情」とは、そのような「個人」としての意識的、自覚的な表現の領分だと仮に解釈しておくならば、彼女の「うた」とは、つまり商品音楽として市場を相手にしていた楽曲の上演に際してのありようとしては、そのような「個人」の領分を捨象したものだったということになります。

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 だからこそ、「代弁者」という言い方にも、また少し別の何ものか、が含まれてくる。

 先の番組紹介のコピーの部分、「歌は代弁者じゃなきゃいけないと私は思うのね。聴く方の代弁者。自分のことを歌ってくれてありがとう、って思われちゃわなきゃいけない」というのも、番組内での彼女の発言を概ね切り取ったものだと思われますが、自分は「代弁者」に過ぎない、いわゆる表現者というよりも代弁者なんだ、というような意味のことは、確かに彼女自身、違う場所でもそれ以前から割と言っていたようです。たとえば、こんな具合に。

「私の歌は「代弁」なんです。「私と境遇が似ている。よし、頑張ろう」と思ってもらいたいし、「自分が幸せだってことを忘れていた。この幸せを大事にしなきゃ」とも思ってもらいたいんです。」

 あるいは、これは今回、逝去が表沙汰になった後、新聞の追悼記事の一節。

 「彼女の歌手としての背骨を作ったのはクラブ歌手時代の経験だった。つらい境遇の女性たちと身近に接してきた八代亜紀さんの歌声に、彼女たちは涙したという。「そんな女性たちに寄り添い、『しんどいね』って慰めたり、励ましたりという気持ちで歌っています。私は歌の主人公になりきるのではなく、代弁者のようなものだと思っています」。生前のインタビューで語っていた言葉が印象に残る。」

 近年の彼女のインタヴュー記事で語られる自身の経歴は、どれも概ね「おはなし」としての骨子が整っていて、それは事務所のマネジメントのなせるわざということもあるでしょうが、それ以上に不特定多数の評判を糧に世渡りする玄人衆としての芸能人のこと、ましてその中でも長年、トップクラスに君臨してきた頂点のひとりの言うことですから、当然、何度も繰り返され、語り直されてゆくうちに「おはなし」としてのあるまとまりができていて、それは、たとえ元になる何らかの見聞や実体験があったとしても、その上で芸能人としての立ち位置を介して何度も語られてきた挿話は「おはなし」としてのたてつけを備えている、そのように考えるのが穏当でしょう。

 にしても、です。この「代弁者」という語彙を、幾多の個別具体のさまざまな境遇を受け止めて表現する立場という一般的な解釈を超えて、「(歌い手個人の)感情を移入しない」という意味も含めて彼女が言っていたとすれば、いろいろと話は重層的になってゆかざるを得ない。

 芸能表現としての抽象、あるいは普遍へ向けての手続きとして、そのような「感情を移入しない」という経過があり得るのだとしたら、そしてそれが世間一般その他おおぜいを市場として相手取る稼業としての持続性を担保する条件の重要なひとつだとしたら、「うた」が本来個人のものでなく、その個人が属する共同性、それこそ「皆の衆」と共にある表現だという場所に期せずして立ち戻ることになっていないだろうか。そしてそれは、時の大きな流れの中で、聴き手それぞれが自分自身の「個人」の表現としてだけ「うた」を受け止めるようになってゆくとりとめない過程と並行し、伴走しながら、でもやはり「皆の衆」の、「みんな」の表現としての「うた」の本来もまた、同時にこのような形で同時代に担保されるようになっていた、そういう牧歌的で楽天的な理解もまた、許されるようになっているのではないか。

 「自分がこういう歌を歌いたいとか、歌で自分自身を表現したいとか、そういうことは今まで一度も思ったことはないの。私は、表現者というより代弁者でありたい。自分の歌を聴いた人が、「これは私の歌だ」と、そう思ってもらえたら、そこに私が歌う意味があるような気がするの。」

 「お客さんは八代亜紀の歌を聴きたいだけなの。だから私はステージの上では、その歌の心を伝える代弁者であって、私はスゴいわけでもなんでもないの。歌う時は完全に八代亜紀。でも、トークのときは「あきちゃん」でいいと思う。世の中の人が見ている「八代亜紀」は「私」とは違うものだということは自覚しておかないとダメよね。」

 ありがちな有名人の、自分自身を見失わないための稼業上の知恵、人生訓的な自己認識とだけ受け取れるようなものですが、でもここは、先に見てきたように「歌に感情は込めない」とはっきり方法的に認識していたらしい彼女の「歌い手」としての自覚に敬意を表す意味でも、敢えてもう一方踏み込んだところで、「うた」という表現に関わる芸能者としての自己認識の水準も含み込んだ上での言明、ととらえるべきでしょう。「うた」としての感情は、自分という個人の敷居などを平然と越えて、聴き手である「みんな」の感情に連なるものだし、また、そうあるのが本当だ――無粋にほどいてしまうなら、そういう認識。


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 もっとも、これもまた、わずかな断片からの気ままな当て推量でしかないですが、この「感情を込めない」ことを自覚してゆく過程では、女子刑務所へ慰問に行くようになった際の体験がひとつ、契機になったフシもあります。

「初めて女子刑務所に行ったとき、私は歌えませんでした。サンダルを履き、番号で呼ばれる彼女たちが、私を一目見て嗚咽している。こちらも涙がこみあげてきて、なかなか歌えない。初回は散々でしたけど、感情移入しているだけではいけない、それよりも支えることを徹底しないと、と思い直しました。」

 最初にあげた匿名子のつぶやきに含まれていた「銀座のクラブ歌手時代、感情を込めないで歌ったところ、ホステスたちが泣き出した」という挿話は、むしろこの後年、女子刑務所での体験が色濃く複合してのことなのかもしれません。「うた」が個人的な表現でなく、聴き手の側の共感や思い込みと共にある、つまり「皆の衆」の意識や感覚、情感などと共にあるものだ、というこの認識の仕方には、その聴き手の側に彼女が提供する楽曲に感応するだけの何らかのリテラシー、「うた」を共に立ち上げてゆけるだけの条件が備わっていて初めて可能だったことでもある。銀座のクラブ時代の聴き手として、フロアのお客よりもむしろホステスたちの方によりはっきり合焦して意識していたように見えるのと同じく、女子刑務所の女性受刑者たちを聴き手として眼前にした時に思い知った「感情」の無力が、彼女の「うた」に対する方法的自覚を覚醒させる引き金になっていたかもしれない。そう考えれば、かつて10代の頃、バスガイドをしながら夜は地元のクラブで歌っていたのが発覚し、父親の「勘当だ」というのを振り切って熊本から上京、親戚の家に寄宿しながら音楽学院に通うも挫折、銀座のクラブで歌っていた頃の、彼女の「おはなし」の中でもひとつの山場として定型になっていた挿話群も、また違った相貌で眼前に立ち現れてきます。


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 「よそのクラブのお姉さんたちが「あきちゃんの歌を毎日聴きたいから」って、自分のお店を辞めて、私が歌っているお店に移ってくるぐらい(笑)」

 「ホステスのお姉さん達がレコードを出しなさいと強く後押ししてくれたの。「あきちゃん、私たちはあきちゃんの歌を毎日タダで聴けてうれしいけど、でも、世の中には私たちみたいな悲しみを背負った女性がたくさんいるからそういう人たちにあきちゃんの歌を届けてあげてほしい。だからレコードを出さないとダメよ」って。」

 「表ではとてもキレイなんだけど、裏にまわれば、給料を取り立てに来るお父さんや彼氏がいてね。そんな女性たちに「アキちゃん、私たちみたいな女性があちこちにいるの。だからさ、レコードを出して、そういう人たちにもあなたの歌を届けて」って言われたんです。」

「銀座で歌っていた18歳のときから、ホステスのお姉さんたちが『自分のことを歌ってくれているよう』と泣きながら聴いてくれていたの。涙を見て『これが女心なのか』と教わりました。そのときからかな。私は表現者じゃなくて、自分の経験を重ねて聴いて下さる方の代弁者でありたいと思うようになりました。」

 聴き手として前景化されて語られているのは、どうやら常に女性であること、その上での聴き手それぞれの境遇や感情が「うた」という媒体を介して彼女の側に投げ返され、合焦されるようなたてつけになっていること……巷間思われているような「演歌」の歌い手としての八代亜紀の持ち歌の多くが、まさにその「演歌」のある時期以降の定型としての「男と女のこと」を主題としたものだという概ね世間の理解通りのものだとしても、同時代の商品音楽としての彼女の楽曲たちが「うた」本来のありようとして本邦の「みんな」の裡に宿してきたものは、それら通りいっぺんの通俗的なわかり方とはまた別の、より民俗的な水準も含めた歴史――いや、ここは敢えてそんな野暮な語彙でなく「経緯来歴」と意図的に言い換えましょう、そのようなとりとめない領分にまでうっかりと手を伸ばしていたようです。


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 追伸。今回、それら八代亜紀をめぐる断片をあれこれ手繰り寄せている中、こんな断片にも遭遇しました。

 「以前、マーティ・フリードマンさんにインタビューした際、ギターソロで八代さんの“舟唄”などの演歌をプレイする理由について聞きました。マーティは「演歌の間奏には、必ず歪んでいるギターがある。メタルと演歌は、その歪み方が似ているんだ」と言っていました。」

 遠くちらちら灯りがゆれる――寿々木米若「佐渡情話」三門博「唄入り観音経」*3を引き合いに出しつつ、その気分を「スイング」に、あるいは「ロック&ロール」に重ねてみせた、とある先達たちの仕事をあらためて思い出させてくれたのも、彼女のおかげ。ひとまず、合掌ということで。*4

*1:個人的には、かつて宅八郎が当時の森高千里のフィギュアに入れ込んでいたことや、「おたく」第一世代的心性にとっての「アイドル」のある意味空虚さ≒「内面」や「感情」といった「個」をうっかり具体的に想像させるような要素を消去している形象、のこと、さらには、それらの心性が個体に「内面」「心理」を「読む」ことが、そのようなリテラシーの大衆的・通俗的実装過程と共に、それに対する否定的媒介wとしてそれら「おたく」的心性もあった可能性、などなど、これまでのあれこれお題群とどこかで連携してゆくような気がして、要継続審議のお題のひとつにとりあえずしておく……240112

*2:上記関連、ゆるくご参考的に。 king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com

*3:さっそくご指摘あり、訂正訂正。こういうボーンヘッドの凡なポカ、相変わらずである。自省自省。

*4: