「国際情勢」を語る話法、その静かな変貌

 一時期、やたら取り沙汰され、とにかく理屈抜きにいいもの、正しい方向として喧伝されてきていた、あの「国際化」とか「グローバル化」といったもの言い、スローガンも、さすがにもう胡散臭いものというイメージがつきまとうようになってきたかも知れません。ウクライナへのロシアの侵攻に始まった戦争、ハマスによるイスラエルに対するテロ攻撃とそれに応じたガザ地区へのイスラエルの反撃、紅海での通商破壊行為……いや、そんな海外ニュースレベルの話でなくとも、国内における外国人犯罪の増加や治安の悪化など、考えてみれば半径身の丈のごく身近な範囲から「国際化」「グローバル化」の〈リアル〉は否応なく、平等に日常に浸透してきています。そういう意味で、これまでと違った身近さ、日々の生活意識や感覚のレベルで 「世界」を意識せざるを得なくなっている。

 そういう状況に対応するという意味もおそらくあるのでしょう、テレビや新聞、雑誌などでそれら「国際情勢」を解説する専門家としての学者、評論家といった人々にも、これまでとは違う新しいタイプが、若い世代を中心に出現し始めています。

 たとえば、学者・研究者系でも、国際関係論、地域研究、軍事研究といった分野に足をつけた人たちが主流になっている。これまでならどこかあやしいもの扱いされていた地政学的な知見でさえも、割とすんなり混ざってくるようになっています。ウクライナの一件がひとつきっかけだったところがあるらしいのは、そもそもロシア自体がこれまでのそういう「国際情勢」報道においても盲点というか、かつてのソ連時代以上に実状がうまく見えなくなっていたところがあった上に、前世紀的な絵に描いたような「侵略」をいきなり始めたあたりで、本邦国内における「国際情勢」報道のこれまでのルーティンではもう何もうまく説明できないことが、さすがに明らかになったことが大きかったのでしょう。

 もちろん、それが商売に直結していた商社や輸出入に関わる仕事の関係、さらには外務省や防衛省その他、国政に関わる政策立案や安全保障の関連部署などは言わずもがな、「国際情勢」をできる限り正確に把握しようとすることが命綱だった仕事はこれまでもあったし、今もある。そのような立場にとって「国際情勢」を知るための手立ては、技術の進展や情報環境の変化に伴い、常にアップデートされているものなのでしょうが、ただ、それらとは別に、われら世間一般その他おおぜいレベルでの「国際情勢」というのは、たとえ「報道」などマジメな態をしながらであっても必ず娯楽、エンタメ的な消費を旨とする、いわば「おはなし」のコンテンツでした。そして、そういう舞台で「国際情勢」を語ってくれる専門家というのは、必ず「文化」や「芸術」を下地にしたそれら外国理解、世界の手ざわりを提供してくれるのがお約束だったように思います。

 ソ連ならばロシア文学、それこそドストエフスキートルストイからソルジェニーツィンなどに至る間尺で、もちろんマルクス主義や左翼思想も必須の素材でしたし、それらをもとに「文化」として、時には「民族性」や「国民性」として対象を理解する下地があった上に初めて、「政治」や「経済」「軍事」など時事的話題がトッピングされる。フランスだとフランス文学から芸術、美術の類、あるいはイギリスであれドイツであれアメリカであれ、はたまた中国やベトナムその他の非欧米圏であっても、「文化」や「文学」経由の「国民性」的な理解の文脈は、「国際情勢」の主役である「海外」「外国」を知ろうとする際、必ず前提になっていた印象がありますし、また事実、そのような語り口を持つ専門家や評論家がメディアの舞台では主流でした。

 なのに、昨今、メディアに露出するようになった新しい世代のそれら「国際情勢」の専門家や学者たちの語り口やたたずまいなどには、そういう「文化」「文学」的な下地はどうも感じにくい。それは、彼ら彼女らが立脚する国際関係論や地域研究といった分野自体の属性なのかもしれませんが、メディアを介した「おはなし」として「国際情勢」や「海外」「外国」を受け止める世間一般その他おおぜいの側にしても、それら「文化」「文学」的な下地の受容体がこれまでのように機能しなくなっているのかもしれません。それはおそらく、外国についてだけでなく、他でもない本邦国内の情勢に対する理解の仕方、わかり方、説明の仕方についても、同じような変化が起こりつつあると考えていいのでしょう。

*1

*1:このへんのお題とも関わってくる話、だとは思う。king-biscuit.hatenadiary.com