定年退職、の弁

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 この3月末日をもって、札幌国際大学を定年退職することになりました。ここ数年、裁判沙汰であれこれお騒がせもしましたが、まあ、これでひとまずの区切りということになります。*2

 まず、真っ先に考えてやらねばならなかったのが、この間、大学に「拉致」されていた本や資料のその後の身の振り方でした。

 大学教員が定年になる、たいていその少し前から、ふだんはたまに遊びにくる程度だった古本屋のオヤジがマメに出入りするようになり、研究室の蔵書の処分に目星つけてくれるようになって……といった話は先輩がたから聞かされてましたし、実際、そういう光景もいくらか眼にもしてきましたが、でも、そんなのはもうすでに昔話。若い世代なら電子化された文献や資料ベースの日常になっているようですし、年寄りは年寄りで、実務家系の特任教員で年金の足しになれば、程度の了見で大学にやってきたような人たちなら、日々の講義くらいはそもそも新たに本を読む必要もなく、だから研究室に蔵書がほとんどない人もいるくらい。なので、大学教員がためこんだ蔵書などには、いまどき三文の値打ちもありません。

 とは言え、おのが仕事で必要な本だけでなく、学生たちに読ませたい本、講義や演習で役に立ちそうな本、そんなのも山ほどためこんでいたわが身のこと、いきなり喰らった懲戒解雇でその後まるまる3年半、それら本たちの顔を見てなかったので、今年の1月、久方ぶりに大学に立ち入ることができるようになって書棚の背表紙の見慣れた並びを見た時には、生きとったんかいワレェ、と叫びたい気分でした。まあ、向こうの本たちにしても同じ想いだったでしょうが。

 いわゆる大学教員としては相当に外道、規格外の余計者であることは十分自覚していましたし、その経歴の結末としては、まあ、こんなものなんだろう、という程度には前向きにあきらめているところはあります。

 思えば、大学院重点化で「入院」する学生が激増し、いわゆる「課程博士」あたりまえの天下の大愚策な大号令がかかる、まだそれ以前のこと、それも民俗学などという本邦のガクモン世間の隅っこのそのまた辺境、もともと大学から始まったガクモン沙汰でもない「野の学問」だったのが戦後の「豊かさ」の上げ潮にうっかり波乗り、いっぱしのガクモンのような顔をするようになった程度の新規造成地の、しかも右も左もわからぬまま私大の大学院に横から迷い込んだような筋違いのくせに、これも時代のめぐりあわせか、最初は1989年、国立大学に助手として着任、その後、共同利用機関に助教授として転任、思うところあって1997年に辞職してその後10年ほど「野良」をやってたわけで、肩書き的には一応「民俗学者」を使わせてもらってましたが、実態はせいぜい「ライター」「雑文書き」、いわゆる「もの書き」程度だったでしょう。もともと専門分野というか、馬をめぐる仕事の現場、それも地方競馬とそのまわりにはこの40年ほど関わらせてもらっていましたから、地方競馬場がドミノ倒しにたて続けて潰れてゆく時期には東奔西走、及ばずながら支えるようなことをあちこちでそれなりにしていましたし、だから風変わりな競馬もののライターという印象を持っておられた方もいるらしい。また、売文以外にテレビやラジオなどの仕事も何でもありに引き受けていたので、その頃流行っていた「朝生」その他の討論系番組のいっちょ噛みや、10年以上断続的かつ散発的にせよ130回ばかり続いたNHKの「BSマンガ夜話」の司会者としての印象が強い向きもあるようです。あるいはまた、ようやく整い始めたインターネット環境、黎明期のネットメディア界隈の片隅で、荻窪のステーキハウス「まるり」から奪ったフォークにくくりつけたICレコーダーふりかざし、いずれ騒動や事件の現場に予告もなく出没しては、いたいけな当事者に「吐け!吐け!吐け!」と臆面なく強要する取材沙汰を売り物にしていた「暴力でぶ太郎」の悪名を思い出して眉ひそめてみせるような良識ある人がたも。そういう界隈は、ああ、小林よしのりに一時期くっついて「あたらしい歴史教科書をつくる会」に関わり事務局長までやっていたはねっかえりの「右翼」分子、何もわからぬ若者たちを無責任に煽っていまどきの「ネトウヨ」につながる悪しき流れを作った元凶の一角、といった認識を持っておられるようですが、それはともかく、そんなこんなで日々疾風怒濤、波瀾万丈、当人はとにかく生きのびることに必死だっただけで、えい、知ったことか、悪評も評判のうちだ、とうそぶきつつ、なけなしの心意気だけを頼りにあらゆる毀誉褒貶を一身に引き受けながら、でも、傍目からは国立大学助教授の職を放り出した馬鹿の自業自得、いずれのたれ死ぬこと確定のくだらぬ道行きにしか見えない、そんな30代から40代ではあったはずです。

 まあ、いずれあの煮え立つような昭和末期から平成初期、1990年代だったからこそ可能だった大雑把な世渡りでしょうし、何より東京にいたからこそできたことだったでしょう。実際、2007年に縁あってこちらに来てから、そんな仕事はほぼなかったですし、何より、それまでそれなりの点数出していた自分の著書はもとより、「他人の本を出すと売れる」と陰口叩かれていたような自前の企画持ち回っての裏方仕事も含めて、そのように本や雑誌を出版する機会も、そのための関係や場も全部なくなり、そもそもまわりは自分のそれまでをほとんど知らない、何をやってきた人間なのかもよくわからない、興味もない人たちばかり。そういう意味ではあらためて普通の大学教員を淡々とやり直せるようなところはありました。そのことには素直に感謝しています。

 北海道で生まれ育って、できれば北海道で就職して機嫌よく生きてゆきたい――そんな学生たちがほとんどでしたから、そんな彼ら彼女らにとって役に立つ高等教育、大学で学ばせてあげられることってなんだろう、そんなことをずっと考えさせてもらいました。「地元」がまだ確かにある、彼らの意識の中にも彼らの望む人生のイメージにも、ですが、そのことが自分にはあらためての発見でしたし、だからこそ彼ら彼女らから教えてもらったことはたくさんあります。

 結局、在職したのは17年。とは言え、2020年の6月、前期の講義の真ん中でいきなり懲戒解雇されたわけですから、最後の3年9ヶ月は予期せぬ空白になりましたが、でも、裁判沙汰になった時、ゼミのOB・OGたちが音頭をとって大学側に抗議の意味で公開質問状を、保護者の方なども含めた署名を添えて出してくれたことは教員冥利に尽きるものでした。自分のゼミは基本、来る者拒まずのオールカマーにしてましたから、学生の彼氏なども平気で遊びにくるようになり、当人よりそっちがしょっちゅう出入りするようにまでなって、その彼氏はたまたま職人さんだったのですが、「いやあ、大学っておもしろいところだったんですねえ」と言ってくれるようになってたり、また、社会人のクラスもあったので、そちらでいろんな経歴の方々とも知り合うことができ、夏は札幌競馬場に一緒にエクスカーションに出かけたり、また全学展開で門別と帯広の競馬場につれてゆく講義を10年ほど続けたり、とまあ、それなりに再出発の大学教員としてできることは精一杯やってきたつもりです。*3

めぐりあわせで学部長や学科長、学生部長なども務めましたし、折りからの少子化で減少する学生数を食い止めようとあれこれいろんな工夫もして、実際、数字的に少しは上向いてきたところだったのですが、それら十数年の力戦も積み重ねも全部、いきなりの懲戒解雇で全部なかったことにされたばかりか、自分のいた学科まで即座に廃止した大学側の仕打ちなどには、一応「和解」が成立したとは言え、個人的には許すつもりはありません。それは、あの公開質問状に大学から未だに何も返事をもらっていないOB・OGたちも同じでしょう。あれこれ含めて、自分に関する一件とその顛末について、学外に対してだけでなく、学内的にも「なかったこと」にされたままなのは、公益法人である大学として果たしていかがなものでしょうか、くらいのことは言っておいてもバチはあたらないと思います。

 定年なんです、という話をすると、これからどうされるんですか? とよく尋ねられます。「第二の人生」としてどこかに再雇用されるのか、といった意味あいと共に、もうひとつ、どこか北海道以外に「帰る」んですか、という意味もあるらしい。前者は、裁判で裁判長からもそういう前提で話をされたこともありましたし、行き会った人たちからも普通に挨拶代わりにそういうことを言われるので、大学教員で定年になるとその先、再雇用でまたなにか「老後」の隠居仕事をするのがあたりまえ、といった考え方が世間にはあることをいまさらながらに知りました。また、それ以上にあとの方、北海道じゃないどこかにこのあと「帰る」のだろう、と言う前提での問いかけには、ああそうか、やっぱり「よそ者」で「内地」からたまたまやってきた人と見られていたんだ、と気づかされました。そうだよな、「よそ者」だったんだよな、と。

 残念ながらもともとそういう根っから外道の余計者、故ナンシー関にも「めくるめく不幸を呼び寄せる男」と太鼓判を押された身には、そのどちらもあるはずがない。もちろん、こんな自分でも何かお役に立てるような機会があれば、腰を上げる構えはいつでもしておきたいと思っていますが、もうひとつのどこかへ「帰る」ことについては、残念ながらもう住んでいた埼玉の家も処分した上、親類もほとんどいない身、近くの介護施設にいる母親をこの先、見とってやることくらいが残った仕事ですから、よほどのことがない限り、自分もこのまま北海道で土になるのだろうと思っています。

 よくあるような最終講義も、また定年退職の挨拶も、何ひとつさせてもらえないまま、おそらく退職者として名前も出されぬままいなくなることになりましたが、それでも、身体張って筋を通そうとして4年近く、自分なりの「義」を足場に抗い続けたことを記憶してくれる人はどこかにいるだろう、そのことは信じています。

*1:加筆改稿しました……240405 赤字部分を主に加筆。その他ちょこちょこと。『財界さっぽろ』の依頼原稿だったのですが、紙媒体の方でなくweb媒体の方での掲載・公開ということで、それにあわせて編集部の方からいくつか注文がつけられたので、それに応じたような次第。

*2:king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com

*3: こんなこともやってたり。 king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com