「残酷物語」の時代・ノート――「鼎談・残酷ということ」から


 今から59年前、1960年8月発行の雑誌『民話』第18号に、「残酷ということ」という「鼎談」が掲載されています。*1 出席者は岡本太郎深沢七郎宮本常一の3人。それぞれ芸術家、作家、そして民俗学者として、その頃それぞれ話題になっていた文化人たちです。*2 副題に「「日本残酷物語」を中心に」とあるところから、当時、ベストセラーに近い売り上げを示して出版界からジャーナリズムまで広く話題を呼んでいた平凡社のシリーズ企画『日本残酷物語』と、それが巻き起こした現象などについて語ってもらおうという目論みだったようで、実質、巻頭企画の位置に置かれているのを見ても、当時この「残酷」というもの言いをめぐる文化人の座談会に、それだけのニーズがあったことがうかがえます。 *3

 実際、この「残酷」というもの言いは、「残酷物語」というコピーライティング的な成句を踏み台にしてその頃、流行ったようです。

 元の書籍が1959年11月からシリーズとして刊行開始され、翌年にかけてまず当初の五部作が世に出されてゆきました。*4 好評だったこともあり、さらに二部が「現代編」と題された続編として追加され、最終的に1961年に完結しています。 *5その過程に軌を一にするようにして、映画では大島渚の『青春残酷物語』が1960年3月公開。イタリアのG・ヤコペッティの映画“Mondo Cane”が『世界残酷物語』という邦題をつけられて1962年9月に公開され大ヒット、その他、同工異曲のような形で『陸軍残虐物語』が1963年2月、『武士道残酷物語』が1963年4月、果ては書籍と同じタイトルの『日本残酷物語』が1963年6月、と国内映画界を中心に立て続けに「残酷物語」ものが制作されています。その他、マンガでも永島慎二の『漫画家残酷物語』が1961年から3年間にわたって貸本劇画誌に連載され、これもまた後に戦後マンガ史上に大きな位置を占める作品になったことで「残酷物語」のもの言いを世に知らしめる一端を担うことになりましたし、新聞や雑誌などの企画でも「○○残酷物語」というリードや惹句の類はあちこちで使い回される、今で言うバズ・ワード的なもの言いになっていました。

 その当時の文脈での「残酷」というもの言いの内実やその背景については、以前、平凡社ライブラリー版として復刻された際の『日本残酷物語』の解説で、少し考察を試みたことがあります。*6その時は、シリーズの執筆者の陣容や掲載された仕事の内容、それらが当時の人文社会系の学術研究界隈、殊に民俗学民族学歴史学などがジャーナリズムとの関係でどのようにそれまでと違う新たな立ち位置を占めてゆく時期にあったのか、などを補助線にしながら、いくつか今後の課題としての視点も併せて提示しておいたのですが、「民俗学とそのまわりがおおむね1920年代あたりからため込んできたこの国の「眼前の事実」がこのような新たな文体の“おはなし”として再構成され、提示されていて、その際に当時支配的だった空気に沿って「残酷」というもの言いが採用された――いずれこの国の歴史にとって貴重な一次資料がひとくくりに「残酷」と名づけられてしまった」という総論的な認識は今も基本的に変わっていません。 その上に立って、その「残酷」というもの言いに当時込められていた意味の広がりをさらに立体的にとらえて描き出してゆく作業の一環として、この「鼎談」をほぐしながら読んでみます。

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 鼎談は冒頭、こんな深沢の発言から始まります。

「残酷、残酷というけれど、このごろのはやりことばのようにぼくは感じますね。何かいままでぼくは、ウバ捨てを残酷だとは思わなかったですけれど、あれが小説に出てから、残酷だといわれて、「そうかなあ、残酷かなあ」と思いましたね。――残酷だったんだなあと――あとで自分でみとめますけれどね。」

 「ウバ捨て」云々は、言うまでもなく、彼の小説『楢山節考』の中の挿話のこと。『楢山節考』が刊行されたのは1957年2月、時を移さず映画化されて公開が翌年1958年6月、本格的な放送が始まって間もない頃だったテレビでもドラマ化されたり、いずれにせよこの『日本残酷物語』の少し前、ここで「残酷」と意味づけられるような現実を取り上げて話題になっていました。同じような主題を扱った作品の作者という意味で、この場に招かれているのは明らかです。

 これに応じるように、岡本太郎が「それは実に正しい」と肯定する。「残酷とかいう言葉のほうがぼくは浮いているというような気がする。残酷と思わないものの残酷さというものがあるわけですからね」と続けて、『日本残酷物語』の監修者(単なる監修というだけでなく、素材提供者であり、またリライト等をかけたライターでもあったはずだが)であり、この鼎談が掲載されている『民話』誌の編集委員のひとりとしてホスト的にその場に呼ばれていただろう宮本常一に対して、「こんなひどい話がある。かわいそうにというようにとりあげるんだったら、あまくなって、センチメンタルになってしまう――」と投げかけて、いささか挑戦的な雰囲気で始まっているように見えます。

 それに対して宮本は、「それは最初からわたしのねらいでもあった」と監修者としての立場も含めて軽く受けた上で、「ことばの残酷というのは残虐ではないんだということからでたかったんですね」と自分の立場を明確にします。巷間通常言われるような意味での「残酷」が含意している「残虐」といったニュアンスを強調して制作した企画ではないし、そんな意図もなかった。むしろ、そんな「残虐」を含意するようなことばの上での「残酷」には、「残虐」以外の意味も本来はらまれていたはずだし、また、そのようなことばの向こう側にあるものを目指したかった、というような意味でしょうか。

 そして、そもそも「残酷」というもの言い自体、特別なものでもなく、これまでも民間の話しことばの語彙として普通に使われているものだったということを、彼自身の聞き書きの経験から紹介しています。

「東北の方へまいりますと、人が死んだりなんかしましょう、その時のアイサツに、「残酷でござんした」とか、「残酷でございました」とかいうように、いい、つかっているんです。例えば、「おきのどくでございました」というようなのと同じような意味ですね。ですから、ちかごろはやりだしたことばではなくて、アイサツのことばとしての「ほんとに残酷でございます」というような使われ方があるんで、それがどういう意味でつかわれているかというと、自分の意志ではないのにそうなっていったというような場合に使っているんです。」 *7

 つまり、その「残酷」というもの言いを使う側が、何か大文字の概念やその上に組み立てられた理論をあらかじめものさしとして持っていて、それに沿った価値判断を押しつけるための道具としてそのようなもの言いを振り回すのではない、ただ普通の人たちの日常の話しことばの語彙としての「残酷」というのがすでに世の中にはあって使われていた。それは、この自分とは切り離されたところに客観的な対象や現実を想定して、それに対して外側から意味づけしてゆくような種類のことばとは違い、自分たちが日々生きているこの世界に自分たちの力ではどうしようもないできごとや運命といった現実がうっかり出来してしまうような事態、つまり「自分の意志ではないのにそうなっていった」ことに対して、それを対象化したり価値判断したりするよりも先に、まず受け入れてゆくことからしか現実的な対処もしてゆけない、そんな立場にあるお互いのありようを共にいたわり合うように使われるもの言いであったらしい。「わたしはそのことばには非常に愛着を持っているんです」と宮本は言い、そして、こう続けます。

「ぼくなんかが歩いてみていると、みんなこの仕事を持って働いており、それぞれ精いっぱいに生きている――それを見ているとその場ではちっとも残酷ではないです。(…)ところが、その同じ世界を、経済学者たちが分析しますと、階級闘争とかいろいろな形でとらえて、こういうふうに民衆というのはしいたげられている、こういういい方をしているんですね。そういう人たちは自分がしいたげられているとも何とも思っていないで、力いっぱい生きているんです。そしてその生活を軽蔑しているか、というとそうでもない――やっぱりあるほこりを持っている」

 世間一般その他おおぜいの、民俗学由来のもの言いを敢えて使うならば「常民」の目線からの、彼ら彼女らが生きている現実とは、常にただそのような「現在」として立ち現れ続けるようなもので、それを高みから俯瞰したり、距離を置いた視点からその「現在」の背後にあるからくりや法則などを透かし見ようとしたり、そんなことは普通はしないし、できない。自分自身もまたその中に含み込まれている「現在」の中に共に巻き込まれながら力いっぱい生きている、ただそれだけらしい。だから、そんな「現在」から距離を置いた視点から見ることのできる人たちが言うように、そんな自分が虐げられているとか疎外されているとかも、まず思わないし、思いようもない。そんな自分の生活も日常も何もかもそこに含み込まれているこのとりとめない「現在」自体を、まずまるごとそういうものとして肯定して受け入れるところからしか、生きることは始まらない。だから、それらを全部軽蔑したり批判したり、そんな人ごとの感覚は持たないし、持つ余地もない――ここで宮本が、平たい話しことばで言おうとしていることを敢えてほどいてみるならば、概ねこういうことだったと思います。

 こういう、当時流行り始めていた「残酷」というもの言いの、世相的な意味や内実に対する違和感を、深沢も岡本も冒頭から表明していたのをうまく受けて、企画の制作現場としてもそのような通常使われてきたようなもの言いとしての「残酷」とは本来違う意図と文脈で使っていたことを明らかにしている。このあたりはひとつ、着目しておくべきところです。
 岡本も、学術的用語やもの言い、抽象度の高い概念や観念、それらを使って構築される理論などを介した現実理解のやり方そのものに対する違和感や不信感を、よりはっきりと表明し始めます。

「あなたのさっき言われた経済学者とか、社会学なんかが階級闘争とか生産関係とか、いうのは正しいと思うんですけれども、そういうものは以前の生き方、もっと人間がじかに自然と闘い、社会の矛盾の中で自然のままに生きながらえて来た、その姿の――ここには近代意識というのは全然ないわけですよね――近代における劃一化というようなものと、ちがう人間の生き方、もっと根源的な生命の流れというものが、ここに象徴されているような気がするわけです。」

 ここで彼が引き合いに出している「経済学」「社会学」というのは、個別の専門的学問領域というよりも、共に当時支配的だったマルクス主義を自明の前提にした日本語環境における人文社会系学術研究の最大公約数、といった方向に翻訳しておくべきでしょう。それが雑誌その他、活字媒体の拡大によって形成されつつあった情報環境のそれまでと異なるあり方において、ここまで作家など文化人も含めたコミュニティにある種「教養」的な意味あいで共有されるようになっていたことも、また。

 続けて、第一巻に収められている「盲の乞食の話」のモノローグが素晴らしいと激賞し、これに宮本が応じています。これは後に彼の名前で有名になる「土佐源氏」の初出にあたるものですが、深沢もまた読後感として「ぼくは残酷な感じはしなかったけれど、こっけいな感じがしましたね。「おかしなお人だな、この人の一生は……」と、とても何か書きかたによっては、諧謔小説になりそうな感じ……」と言い、このあたりは深沢流のデタッチメント感覚が現れています。また、宮本もそれに対して「悪意のないものはみな共通してそれが出てくるんじゃないですか」と応えている。

 この流れで、宮本の聞き書きの手法などにも言及されています。現場で記録してゆく場合に「カタカナでずうと書いてゆくんです」と、彼は言う。それでとれるか(記録できるか)、と岡本が尋ねると、「ゆっくり話しますからね。ああいう人たちというのは。今こそわれわれ早くペチャペチャ早くしゃべりますけど。そしてしまいに「どうだあ」なんてやりましょう。そして一息入れますからね。ですから、カタカナで書けば、大体とれるんです。」このあたりも、巷間語られている「卓越したフィールド・ワーカー」的な宮本像から覆い隠されがちな、書き手としての宮本の手法が垣間見える興味深い個所です。*8 この後の部分でも、文字とことばと生活感情といった関係についてもやりとりされていますが、そのあたりから鼎談は岡本の独自の芸術論の開陳とそれを下敷きにして宮本が何とかまとめてゆこうとする流れになり、当初提示されていた問いを回収することができないまま、やや尻切れとんぼのような印象でページ数が尽きています。同じように、編集後記においても「「日本の民衆はひさしいあいだじつに貧しかった。貧しさのなかにいると、貧しさがわからなくなってくる。」という。残酷なものをも残酷とも思わない、いやそれがあたりまえな現実のセカイ。そこにギリギリの民衆生活があり、民衆思想の、民衆文化の根がある」というまとめ方がされていて、鼎談の中で断片的に示されていた「民俗」的な次元での「残酷」の内実などの問いを反映していない、その意味では当時の流行のもの言いとしての「残酷物語」の文脈に沿ったものになっています。

 同じ担当編集者として、おそらく監修者であった宮本よりも現場の作業などで中心になって動いていたはずの谷川健一なども、この年の夏、書評紙で一頁を割いて特集された『日本残酷物語』の記事の中、「編集者として」と小見出しのつけられた囲み記事で、このように生硬なことばともの言いとで言挙げしています。*9

「近代に復讐することが近代社会に生きる唯一の存在理由であると私のような人間が、近代の告発をテーマにした『日本残酷物語』を企画したのは、しごくあたりまえのことといえる。人間の疎外と解体を不断に強いる近代の残酷さにたいして、民衆はいつまでも無防禦であるわけにはゆかないということを、さまざまな事実をあげて、いいたかっただけである。」

「一部の進歩的文化人は、封建遺制にたいしては批判するが、そのわりには近代にたいして甘すぎる見解しかとることができず、したがって民衆の真の残酷な立場を指摘することができないのである。」

 ここでの「残酷」も、先の鼎談で提示されていたようなものとはある意味真逆の、あらかじめそれらを「残酷」と意味づけるだけのものさしが共有されていることを前提に、断定的にはっきりと突きつけるようなものになっています。「近代」が敵役のように論われているのも、当時の論壇ジャーナリズム界隈で改めて近代化が問われるようになっていたことの影響があるのでしょうし、また、1960年という当時の国内の情勢を併せて考えるならば、急激に熱を帯び始めていた政治的な同時代の空気の中、『日本残酷物語』という企画に本来込められていたらしい問いが、その可能性ごと流されていったようにも見えます。

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 とは言え、こんな断片も拾えます。

 同じ書評記事の中で、版元の平凡社に寄せられている読書カードのことが触れられ、「読書会活動に見られる戦後の若い読者の傾向をつかんでいることがわかる」と評されています。ひとつの例として紹介されている、大阪市の山陽鉄工所の人からのカードにつけられたものによれば、「社内で十名ばかりの読書クラブを作り、毎月三−四冊宛書籍購入をしています。一、二、三巻共興味深く回読しています」ということで、この「読書クラブ」という場を介した「回読」という「読書」のあり方が当時、このような職場の読書サークル的な草の根レベルで想像以上に広まっていたことがわかる。これらに触れながら「とかく浮ついたといわれる若い読者層が真面目に、自分の生きる糧に受け入れ、参加したことは、戦前のドイツ風の教養主義や、一時の実用主義的な読書とは違った新しい傾向を認めることができる」という評言が附されていることなどからも、その頃の読書市場に新たな世代が参入し始めていた状況が実感されていたことがうかがえます。それはその後、高度成長期から概ね80年代いっぱい、ごくざっくり言えば概ね「昭和」が尽きる頃まで書籍市場で「人文書」と呼ばれるような領域を支えた、「読書人」と呼ばれる文化消費者層の中核を担った人たちだったはずです。総合雑誌からそれぞれテーマやジャンル別に分化していったような各種雑誌がいくつも並立して、それぞれに読者がついていた状況は、概ね1981年の商法改正によっていわゆる「総会屋雑誌」が成り立たなくなる頃まで続いていましたが、それは同時に、このような「読書人」が支える読書市場が、専門的な学術研究の領分の外側に大きく広がってゆき、大衆的読者層としてそれら専門領域に対する批評的足場にもなり、そしてもちろん書籍市場も支えていた状況が現出していった時期でもありました。 *10

 哲学から思想、歴史といった領域に軸足を置いた「人文書」の市場が拡大していったことで、専門的な学術研究の外側に、そのような一般の「読書人」という広がりが、ある種のフリンジのように分厚く取り巻くようになってゆき始めていた。「戦後」の言語空間、などとひとくくりに言われるようになってもいる思想的な脈絡での戦後の経緯も、情報環境の成り立ちと経済的存立基盤も含めた媒体の関係、そしてそこに埋め込まれていた読者との間に共有されていた「読み」の水準なども含めて、できる限りの全体として眺めてみるなら、おそらくことば本来の意味での「歴史」過程としてダイナミズムと共に描き出すとこともできるようになるかも知れません。それは、近年少しずつ露わになりつつある、比較的若い世代からの「歴史」の見直しが期せずして露呈しつつある「もうひとつの意識せざる歴史修正」に対する、誠実なカウンターの足場を準備するものにもなると思われます。*11

*1:「鼎談・残酷ということ」『民話』第18号、民話の会編集、未来社、pp.8-25、1960年3月。

*2:岡本太郎は、この少し前、1950年代に入る頃から独自の視点による縄文土器論を発表し、芸術的視点からの「縄文」文化の再発見を称揚し始めていたし、『日本残酷物語』初版刊行時のオビに推薦文を書いてもいる。深沢七郎も1956年に『楢山節考』で第1回中央公論新人賞を受賞、翌年刊行されてベストセラーになっていた。宮本常一は彼らに比べてまだ著名とは言えなかったが、それでも離島振興協議会の事務局長を務めていたり、『風土記日本』以下、当時の平凡社の比較的大型の出版企画で監修その他、制作上重要な役割を担っていた。

*3:全64ページ中18ページを占める巻頭企画となっている。本誌『民話』の編集委員には木下順二、益田勝実らと共に宮本常一も名を連ねているので、この鼎談のまとめ役的な立場で加わっていたであろうと共に、この企画自体も彼が中心になってのものだった可能性はある。

*4:当初の五部作の表題と刊行日。第一部「貧しき人々のむれ」1959年11月30日。第二部「忘れられた土地」1960年1月30日。第三部「鎖国の悲劇」1960年3月30日。第四部「保障なき社会」1960年6月4日。第五部「近代の暗黒」1960年7月30日。

*5:現代編1「引き裂かれた時代」1960年11月30日。現代編2「不幸な若者たち」1961年1月26日。

*6:「かつて「残酷」と名づけられてしまった現実」『日本残酷物語?』解説、平凡社ライブラリー、1995年、pp.531-541。http://d.hatena.ne.jp/king-biscuit/19941029/p1

*7:このような「残酷」は、北海道でも使われる「いたましい」などにも近い、話しことばの語彙としては同じ系統のものという印象を受ける。あるいは、「なんもだよ」というあのあっけらかんと放り出すような、初めて遭遇した時には面喰らわざるを得ない慣用的もの言いなどにも。

*8:宮本常一は近年、また新たに注目されてきているが、それは従来からあった「フィールド・ワーカー」的側面に対する半ば神話的評価の言説が、さらに若い世代に世代的なディストーションがかけられて受容されてきている結果、という印象がある。この時期の宮本が書き手であり編集者的な立ち位置でもあり、といったところで、いわゆる出版やジャーナリズムの分野で積み重ねてきていた仕事は、まず「書き手」としての彼の手法などに合焦しようとしなければうまく理解できないままだろう。『日本残酷物語』におけるリライトの過程などは、その代表的な叩き台になり得る。そしてそれは谷川健一の仕事にも通じる視点と問いである。

*9:「ベストセラーの変りダネ『日本残酷物語』の波紋――この本が語りかけるもの」『図書新聞』567、1960年8月27日号。6面の全面使った特集記事。見出しに「底辺への興味」「その名は流行語にまで」など。本文記事の署名は(S・S)で、別途、(平凡社谷川健一)署名の「近代の告発をテーマに」が囲み記事であしらわれている。以下、冒頭のリード部分。「日本のヌーヴェル・バーグといわれた映画の題名にまで、「残酷物語」という名が冠せられた程、「残酷」という言葉は流行した。社会現象のなかの人間を自然史的、生態史的な立場から見て、“日本的残酷さ”の本質をつかもうとした『日本残酷物語』全五部(平凡社)は、読者に強い衝撃と共鳴を与えながら一応完結した。更に十月から現代篇二部が追加されることになったが、ここでこのシリーズの問題的の意義を読者とともに考えてみよう。」

*10:「『現代の眼』とか『構造』『流動』とかって左翼総会屋雑誌というものがあった。七〇年代は基本的に総会屋雑誌における陣取り合戦をやっていたわけですよ、全共闘OBたちは。ところがそれが商法改正(一九八二年)になって左翼総会屋がなくなっていくなかで、日本のメディア情況はかなり変わっていったと思うんですよ。よくも悪くもかつてはヒエラルキーがあったんですよ。岩波があり朝日があり、一方で文壇があり書評誌があり、総会屋雑誌がある。商法改正等々によってヒエラルキーが崩壊していくわけです。」(絓秀実 宮崎哲弥 高澤秀次『ニッポンの知識人』ベストセラーズ、1999年)

*11:最近でも「残酷物語」という定型はまだ有効なようで、最近でも若い世代の書き手による「音楽家残酷物語」が出ていたりする。(ロマン優光『音楽家残酷物語』ひよこ書房、2001年)。経済でも歴史でも政治でもなく、大衆文化こそが存在を規定する、とでも言いたげなほどに、「自分」の感覚や意識が世界の中心にあって「現実」はそんな「自分」が自由自在に取り込み操作できる「情報」の星雲状集積である、といった世界観と価値観は、それまでの「現実」を理解する上で使われてきた「政治」や「経済」「社会」「文化」といった概念≒ツールの類までをも、ひとまず全部「情報」としてフラットに等価に扱うことのできる(と思っている)その星雲状集積の中に放り込んでしまうことで、「世界」は中間の媒介項を全部ショートカットして「自分」と直接つながる「セカイ」になった、というのがいわゆる「セカイ系」と呼ばれる、近年の若い世代の意識のありようについての説明の大枠らしいが、そのような若い世代の意識の側からは、当時の「残酷物語」もまた、このような文脈で使い回されるようなもの言いになるものらしい。「TVの普及はスポーツ観戦の慣習をお茶の間に定着させ、ここからスポ根物の様な「非現実的な名勝負」の繰り返しで魅せる「一般社会に普遍化できる生き方の見本として、栄光を目指して試練を根性で耐え抜く」物語文法を定着させた。この当時がイタリアの映画監督グァルティエロ・ヤコペッティの手になる「世界残酷物語(Mondo Cane / A Dog's World、1962年)」や山田風太郎忍法帖シリーズ(1958年〜1974年)」の全盛期でもあった事を忘れてもならない。戦後復興期の延長線上に現れた高度成長期は、その「(国家間競争が歴史の主体を担う総力戦体制時代特有の)人間を単なる消耗部品として扱う過酷さ」を適度にガス抜きしつつ国民に受容させるイデオロギーを必要としたのだった。」(ochimusha01「改めて『君の名は』とは何だったのか――「80年安保」なる思考様式について?」http://ochimusha01.hatenablog.com/entry/2018/03/10/062336)これらの意識のありようが「現在」から見通す「歴史」が、これまでの概念などをツールとして想定されていたものとどれくらい違うものになってきているか、についてとりあえず捕捉しようとする意味で、「もうひとつの意識せざる歴史修正」という言い方をしておきたい。これまで使われてきたような意味でのいわゆる「歴史修正主義」などとは全く別の、しかしことの本質としては「歴史」を書き換えてゆく働きという意味では共通する、ある大きな同時代的な動き、といったあたりで当面その内実は仮止めしておくことにする。