伸コ、である。長谷川伸、である。
文明開化間もない頃の横浜で、若い頃をはいずりまわって過ごした見聞を肥やしにして、その後、本邦世間一般その他おおぜいの心の銀幕にいくつもの「おはなし」を、共に見る夢として描き出す作家として大成したのは長谷川伸と吉川英治。単に生まれ育った土地であるというだけでなく、近代が唸りをあげて世の中まるごとひん曲げてゆく、その最先端の切羽ならではの疾風怒濤と喧噪を若い頃、真っ只中に生きたという経験と見聞とが、その描き出す作品世界にある一定の倫理のような、世の中のすがたかたちを見えないところでかたどっている約束ごとのような、いずれ大きな書き割りめいた何ものかを背後に備えてゆく。それは少し横に目線を敢えてずらして焦点深度も深めにとってみるならば、たとえば、同じくその頃の本邦近代の切っ先が剣呑にぎらついていた小倉や門司、八幡や若松などの北九州を足場にしていた火野葦平以下、われらが無法松の岩下俊作など、あの九州文学人脈が好んで描いてみせたような気分にも、おそらくは近い。
白人の船員崩れの掏摸、バブ、というのがいい。風呂に入れる発泡温泉剤じゃないぞ。おそらくはボブの訛りでバブ。19世紀半ば過ぎ、長いまどろみからうっかり眼をさましてしまった極東の島国にまで流れ着いた異人のろくでなし。とは言え、決して野放図やりたい放題な荒くれ者ではない。むしろ真逆な、線の細い思い詰めるタチの善良タイプ。もちろん掏摸は掏摸、稼業人ではあるのだが、これがどういうわけありか、死に場所を求めてハマをうろうろしているらしいのに対して、かたや、こちら同胞掏摸仲間の代表選手であるくノ一が、同じ稼業の者同士、腕と腕との勝負で対峙するという筋立て。
「くノ一は同類から推されて、白人掏摸に大打撃を加えるために起った。彼奴は目前の代物すら芥のごとく省みない気概を胸一杯にもっていた。気概! くの一は「日本巾着切」として猛然起ったのであった。」
この「舶来巾着切」、実は同じ題名で、この短い小説と戯曲とがある。小説が大正15年で、初出が船出して間もない『大衆文芸』。戯曲が昭和3年、『長谷川伸戯曲集(上巻)』所収の末尾には「7月作」とまで記してある。
共に主人公は「くノ一」と綽名される巾着切、つまり掏摸だ。綽名の示す通り、女と見まがう容貌や細身の体格で、このあたりのキャラ設定、実は伸コ自身の何らかの心映え、昨今のもの言いならば「性癖」とでも呼んでいいような微妙なニュアンスが揺曳していることは、はばかりながら自分もかつて拙著『無法松の影』でも指摘しておいた。まんが系の表現ならばそうだな、あの『ボーダー』のサブキャラ「クボタ」久保田洋輔を想起するような。あるいは、もっとメジャーどころなら『沈黙の艦隊』の速水健次とか。共にかわぐちかいじの作だが、細身でなよなよしてて、見てくれも「オンナのような」美貌で、でも内面は決してそんなものではなく、オス同士のホモソーシャル丸出しな関係と場においても、「変わりもの」と見られながらも正規のメンバーとして受け入れられていて、その仕事っぷりにおいては一目以上置かれてもいるという、どこか倒錯めいた雰囲気のトリックスター的なキャラクター。もちろん、同工異曲の造形は本邦「おはなし」世間を探せば他にいくらでもあるとは思うが、それでいて決まった女を持たない、「二階借りの細世帯ながら、睦み合ってくらそうと考えたことがない」「ただ茫と朧気に、巾着切渡世のはかなさを感じながら、直ぐにも破滅の闇が襲ってくるなぞとは、思いも寄らずに生きている」(「日本巾着切」)この「くノ一」などはまさに、そのような「おはなし」空間における「一匹狼」的な個性をくっきりと際立たせたキャラクターの典型であり、かつまたどこか民俗レベルにも錘鉛をおろした祖型的なものに通じる何ものかを感じる。
伸コにはまた、これ以外にも同様の巾着切ものとでも呼ぶべき同工異曲な設定や登場人物の作物もあるから、単にめぐりあわせというだけでもなく、それくらい、当時の彼にとって何らか愛着の深い設定だったのだろう。くノ一の本名が沖伊知亮というのも、またなぜか昼間にしか仕事をせず、狙う相手も時を得顔の紳士や着飾って闊歩する裕福な連中という設定も、それら掏摸ものに登場するキャラクターとしてのくノ一には共通しているし、思えばある種のスターシステムの萌芽形態というか、自らの作品世界にお約束として登場させるおなじみキャラクターになりかかっていたのかも、と思う。それこそ、あの手塚治虫のヒゲおやじやアセチレン・ランプなどのように。
とは言え、こういう掏摸、巾着切といった連中との実際の因縁については彼自身、楽屋裏をある程度明かしてくれている。以下、戦後に書かれた半ば自伝に等しい『ある市井の徒』から。
「酒花松夫といふ芸名の三十前らしい役者と、何がキッカケでさうなつたのか、親しくなりました。これが舞台では中年増や娘もあるちよッとした役者だつたのに、巾着切でした。」
「それから九の一とも知合ひになつたが、女に生まれた方がよかつたやうな顔立ちなので、女という字をバラすと、九とノと一になるので巾着切の隠語で女となる。それが綽名のこの男は、始めからスリだと、明かに新コに正体を割って聞かせたくらゐですから、素人の新コを、ダチに使うやうなことはしませんでした。」
「ダチ」というのは、彼らの技法の「吸い取り」、つまりすりとった財布を他人の懐や持ち物の鞄などに投げ入れて一時をしのぐ手口の相方として使われる人間のこと。先の酒花が、ハマの芝居小屋で新コを「ダチ」に使って窮地をしのいだことがあって、その際、彼の懐に放り込まれていた蟇口を知らぬ間に「吸ってくれた」おかげで新コに掏摸の疑惑がかけられるのを防いでくれた、その流れから巾着切仲間の九の一とも知り合いになったという次第。
「新コが作つた『巾着切の家』といふ芝居の主人公はこの男で、それに登場する隣りの声色屋は新コのこと、あれは殆ど有ったことと大同小異なのです。新コが初期に書いた巾着切物は、九の一から取材したものばかりです。」
なるほど、そういうことか。酒花もいたし、おそらく他にも見知り越しの掏摸仲間はいただろうに、「九の一から取材したものばかり」というあたり、何か特にウマが合ったところでもあったのだろう。『ストリート・コーナー・ソサエティ』の、あのドックのように。
確かに、この「舶来巾着切」以外にも「日本巾着切」「旅に出る幽霊」など、くノ一が主人公のものが複数、また、掏摸そのものを描いた作物なら、自身の言う戯曲「巾着切の家」や「手紙の掏摸」もあって、これも九の一は出てこないまでも、言うまでもなく、放浪時代の伸コが「新コ」であった頃、明治後半から大正にかけての時期の開港地ヨコハマの風景を背後に置いた、当時の見聞や体験を存分に素材にしたもの。実はわれらが伸コ、巷間イメージされているようないわゆる「股旅物」の大家としての手技よりも、そしてまた敗戦後、深く韜晦しながら歴史の下積み、忘れられた者たちのささやかな事跡の「稗史」を「紙碑」としてたんねんに刻んでゆくことを自らの余生の使命とした一連の仕事に比べてさえも、むしろこのあたりの文明開化の明治もの系の作品に、また別の味があったりするのだが、さて、このへんの微妙な味わいは昨今、どれほどわかってもらえるものか。
今回、収録したのは小説版だが、ただ、戯曲版との違いはその結構だけでなく、くノ一自身の性格も実は微妙に違っている印象がある。これは舞台で「おはなし」のたてつけを具体化することと、読みものにおいて文字を介して読み手の内面に「おはなし」を立ち上げることとの間の、創作としての求めるところの違いによるところもあるのだろう。戯曲でのくノ一は、その他の伸コの戯曲の主人公たちと地続きな、ある意味定型の股旅物的なアウトローの味つけになっているのだが、この小説のくノ一はというと、より個別具体の生身の微妙な陰翳や肌理といったところが削り出されているようで、このへんは創作の形式や文体とそこに宿るキャラクターの違い、といった観点から興味深くもある。いわば、戯曲版が『少年ジャンプ』連載の王道だとすれば、この小説版は読み手を、「おはなし」としての受け手を選ぶところのあるしつらえになっている、そのあたりのほどき方についても、ここは今後のお題にしておこう。
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ともあれ、グローバリズムだの多文化共生だのと、うわついた惹句ばかり声高にさえずりまわるばかりで、そこに紐付けておくべき等身大の〈リアル〉についての想像力から失いつつあるように見える昨今の本邦世間のガレ具合からは、ここに描かれるバブとハマの当時の世間のソリダリティは、いまさらながらにまぶしい。生前、平岡正明が激賞していたのは確か戯曲版の方だったと思うが、しかし、小説版のくノ一の、この微妙な陰翳はその視野に入っていたかどうか。特に、小説において随所に強調されているように見える、その「おんなぎらい」のくっきりとした心ばえなどについて。
バブにとってもくノ一にとっても、生まれも育ちもまるで違う身の上ではあれど、共にこの世に生きてゆく上での「掟」はどうやら同じたてつけの上にある。その限りで彼ら双方の間に、何らかの共感、同情があっただろうことは察知できる。そういう「掟」に縛られた世間の拡がりは、肌の色や話す言葉の違いなどあたりまえに越えたところでの、しかし表沙汰の大文字の間尺とはまた別の、もうひとつのささやかな普遍をすでに体現していたように見える。どこかモダンな探偵小説のたたずまいも漂わせる、都新聞記者から一本独鈷のもの書き渡世へと踏み出さんとしていた頃の長谷川伸の、この「舶来巾着切」が当時の世間、「おはなし」を最も必要としていたその他おおぜいの読み手たちにどのように響いたのか、あらためて想いを馳せておきたい。