池田大作 (本当に)死す

 池田大作氏が、本当に亡くなったようです。

 自分などはやはり、かつて「折伏」を介してさまざまに物議を醸しながら精力的に布教活動をしていた頃の創価学会の印象が、当時のさまざまな事件や挿話などと共に、未だに強くあります。その後、公明党を介して政界にも進出、前世紀末からは連立与党の一角に席を占め続け、獲得議席や見てくれの党勢など以上に、本邦のさまざまな領域に影響力を及ぼすようになっているらしいその「組織」の現在も含めて、いま、このタイミングでようやく明らかにされた「逝去」の、戦後史的な射程での意味を考えてしまいます。

 思えば、創価学会というのは敗戦後、「神々のラッシュアワー」などと呼ばれ、あちこちから新しい宗教が生まれていた頃、すでに戦前からの歴史もあったとは言え、そんな時代の空気をめいっぱいにはらんで急成長していった組織でした。池田氏が会長に就任したのがまさに1960年。公明党の結党が1964年。戦後復興から高度経済成長期にかけて、社会自体が疾風怒濤の変貌をとげてゆく時期に、わが同胞のうちの、それら「豊かさ」の恩恵をうまく受けられず、「一億総中流」意識を持ち始めた時代に要領良く乗れなかったその他おおぜいの不安や悩み、苦しみといった、いわゆる「貧・病・争」の受け皿として機能したという意味では、なるほど共産党と同じく、「戦後」パラダイムにおいて「民主主義の落ち穂拾い」をやりつつ、その勢力を拡大してきた組織だったと言えます。

 「豊かさ」が、それまでとは異なる大衆社会化の様相を呈し始めた、まさにその時代に創価学会も、そして共産党も、その激変を日々生きる人々の民心を獲得してゆくことに共にしのぎを削ってきました。「宗教」は「政治」の問題になり、かつまた、大衆社会下の民主主義政体として避けられない「民心を掌握する」手練手管のプラットフォームとしての本質を露わにしてゆく中、共にそのように人心を掴み、それを土台につくりあげた「組織」を武器に政治的な勢力を伸ばしてきました。

 「組織」を強固に固め、ある目的のために一糸乱れず動くようにする手立てというのは、人間のやることである以上、古今東西そう変わるものでもないらしい。一心同体、一味同心の一枚岩であるかのように動ける「組織」というのは、たとえば軍隊などはそのわかりやすい例でしょうが、いずれ外からは「洗脳」だの「カルト」だのと言われるような状態にまで時に尖鋭化することまでも含めて、「宗教」も「政治」も、人の心をがっちり掴み、それを具体的な「組織」へ可視化して現実の「力」へと変換してゆくまでが一連の必須過程という意味においては、基本的に同じ本質を持っている。

 けれども、今ではもうその「組織」自体が高齢化し、これまでのような形のままでの維持が難しくなっているらしい。いや、それ以上に、それら「組織」を基盤に何ごとかの力を行使するやり方自体の“効き”からして、昨今の本邦社会ではどうやらあやしくなってきている。共産党が「革命」を表立って言えなくなったのと同じように、公明党もまた「世直し」をおおっぴらに標榜できなくなって久しいわけで、「オルグ」も「折伏」もかつてのように威勢良く高圧的にやれなくなった。それら大文字の目的、あるべき大きな「理想」に向って「組織」を動かすという手法そのものが、少なくともある時期までのように自明の正解でもなくなりつつあるのは、日常の生活感覚としても肌で感じます。

 いずれにせよ、そのように「宗教」も「政治」も、それらの背景にある社会のありようとの関係で、またこれまでと違う様相を呈してゆき始めるのだとしたら、創価学会に関してすでに半ば忘れられた「歴史」の一挿話のような扱いになっている「言論出版妨害事件」と呼ばれる一連の経緯にしても、「反共」をテコに共産党が激しく対立姿勢を示したことで問題が「政治」の局面に引きずり込まれるようになったいきさつなどを、統一協会の問題がいまさらながらにうっかり政局化してしまった〈いま・ここ〉の状況と引き比べながら、改めて振り返ってみて考えてみるだけの値打ちのある、いい距離感のお題になっているように思います。