小沢一郎・小考

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 原稿を依頼されてから一気に事態が紛糾してしまい、予定していたこちらの思惑もてんやわんやに。いや、小沢一郎民主党党首についてのことなんですが。

 なので、そもそも、の話からしましょう。小沢一郎という人は徹底的にアメリカ寄り、今で言う「親米ポチ」の典型かつ代表格だった、そのことを昨今、大方のニッポン人はもう忘れているらしい。それが前世紀末このかた、ニッポン国内の政局の風向きに翻弄されて、何の因果か今や野党第一党の党首になっている。だもんで、ご当人のほんとのハラはいざ知らず、そういう政治屋としての世渡り上の「立ち位置」、いわゆる「ポジショントーク」として、「反米」「国連至上主義」を打ち出さざるを得なくなっている。

 もちろん、その「反米」というのも少し前までの文脈、つまり「戦後」の枠組みの内側でのものとは意味もずれている。内実は何であれ、いわゆる「ナショナリズム」に足をつけたものでいられなくなった分、「アジア」だの「国連」だのといった漠然としたものに寄り添って足場を確保するしかなくなっている。つまり、「反米」なら「反米」の輪郭をはっきりさせるための仕掛けがすでに日本の外側、この国の政治家ならばまず責任を持とうとするべき〈いま・ここ〉とは別のところにあらかじめ持ってゆかれてしまっているということです。

 それは、具体的な選挙戦術としては正しく「戦後」由来、選挙区をていねいに回って組織を固め、計算できる票を地道に積み上げてゆくという、かつての自民党ばりの王道に邁進することで、もともとそういう地道さに欠けていた野党民主党の勢力を先の参院選で予想以上に伸ばしてみせたのとうらはらに、その政治的、政策的な中身としてはそういうニッポンの〈いま・ここ〉からはあらかじめ隔離された空中楼閣のところがあるという、政治家としての足腰、下半身と思惑、思想とのねじれ状態をもたらしてもいます。自衛隊の海外派遣について、特定の国の思惑に引きずられたくないから「国連」の決議に“だけ”委ねるようにしよう、という、例の「テロ特措法」延長に際して持ち出してきた小沢の代案も、表層の理屈や能書きをざっくり洗いざらしてみれば骨格はそんなもの。「反米」というスタンスを、小泉以降の与党自民党との関係性における野党という立場から、あらかじめ結論として置いたところから逆算して、そこにいろいろ理屈をくっつけてきた結果としか思えない。つまり、立ち位置としての「反米」がまずありき、なのであり、それはこれまでの小沢の政治的遍歴の中での発言をざっと追っただけでも、素朴に首をかしげざるを得ないような支離滅裂をもたらしています。

 だから、この間の党首「辞任」騒動も、なんとも茶番にしか見えなかった。本来ならば「政変」に等しいようなできごとだったはず、なのでしょうが、そしてそれは後に触れるように正しく「政変」でもあったのでしょうが、そのような重み、手ざわりに全く欠けたものになっていました。

 与党と野党のどちらが、あるいはどこの誰があの「大連立」を仕掛けたのか、ということが話題の焦点になっていますが、実はそんなことはほんとにどうでもいい。要は、「大連立」構想を小沢が「党に持ち帰って検討」しようとした、ということであり、その場で一気に反対食らったことにキレて「じゃあワシ、辞めるかんね」とやらかした、まずはそれだけのことのはず。小沢のハラの中を斟酌すれば、このオレが民主党の党首やってるのは何も好きこのんでのことじゃないんだぞ、いつか政権をぶん取るための選択肢としてここにいるわけで、何より政権担当能力なんざとてもじゃないけど持ち合わせていないこのグダグダな寄り合い所帯を何とかおだててやりくりしながら、一応選挙で自民党と渡り合えるくらいまで持っていってるのも、いったい誰のおかげだと思ってやがんだ、このボンクラどもが――といったところでしょうか。にも関わらず、そんな政治のプロとしての自分がよかれと思っていろいろ工作していることを、こいつら好き勝手に否定しやがった、だったらもう知らねえぞ、と。

 ニンゲンとしての心理過程、ヒトの想像力ってのはまずそんなもの。それらの背後にさまざまな思惑や目論見が渦巻くのは永田町のこととて当然でしょうが、でも、それらが肥大する手前のそもそものところの〈リアル〉を見失っては、その思惑や目論見の部分だけが勝手に蠢動を始め、みるみるうちに別の“おはなし”を紡ぎ出し始めるだけです。今回の「大連立」騒動にからんで、陰謀論が地味に蔓延しつつある背景には、そういう事情もあるはずです。

 まず、読売=ナベツネが仕掛けた、説。いや、これはすでにもう事実のようですから陰謀じゃないわけですが、ただ、それを解釈してゆくこちら側の気分の陰謀密度があらかじめ高まっている分、その事実がより〈リアル〉になっている、という事情がもあるわけで、同じように「アメリカの圧力」説も合わせ技で引っ張り出されてくるのも、事実関係よりもそこから派生する〈こちら側〉の想像力の領域の理由からでしょう。

 政治というのは、それこそマキャベリ的な意味での権謀術数、冷酷無比なリアルである、と同時に、実に民俗学的な意味での、ヒトの想像力というのがどういう具合にそのマキャベリ的リアルの水準と相互に作用しながら眼前の現実に整形してゆくのか、という意味で、時には何かのはずみでうっかり膨張もする、そんな種類の〈リアル〉でもある。その振幅の大きさは、ある意味ヒトという生きものならでは、のもので、そういう意味において「政治」は確かに生臭く、かつまたリアルである、と。

 小沢が民主党を割って自民党と連立を組む、というのは、確かにこれまでの政治のリアルからすれば妥当な観測だったでしょう。自民党にすれば連立与党の一員である公明党を無力化できるし、小沢にすれば現状どうにもならない民主党の仲間たちの政策的な経験値を、彼らを政権内に置くことで上げることもできる。仕掛けた側の思惑はともかく、選択肢としては確かにあり得ることではあった。

 けれども、一点おさえておかねばならないのは、それがマスコミの「独断専行」によって引き起こされたらしいこと、これです。敢えて言挙げするならば、かつて昭和初年、時の軍部のお家芸が二十一世紀の今日、メディアによってやらかされた、それが大きい。

 もっとも、この「マスコミ」というだけでは不正確でしょう。さらにほどいて言えば、メディアとそれを支えているカネの流れを掌握している部分、要は大手広告代理店と新聞テレビ以下、それら広告のゼニカネに首根っこがっちりおさえこまれるような構造の中に安住しているのマスメディア複合体、ってことです。これが、今日ある意味ではレガシーシステムにもなりつつある「官僚」と「政治家」の側に、大きな外付けアタッチメントとしてとりついていて、相互の癒着が常態化している、と。評論家や学者がよく言うように永田町や霞ヶ関がマスコミを利用し操作している、のではなく、マスコミの側がむしろ「政治」や「行政中枢」をのみこみつつあり、そこにこれまでとは異なる意志や志向性をはらんだ新たな〈政治〉が胎動を始めています。

 そのような意味でならば、今回の「大連立」騒動はなるほど、「政変」だったのだと思います。そんな新たな〈政治〉、これから先の「権力」を司る「官僚」像というのは、メディアと官僚システムとのインターフェイスにおいて顔を出す。それは小泉が期せずして現出させてしまったような、とりあえずは「劇場型政治」と呼ばれているような〈リアル〉のありようを静かに省みるならば、すでに具体的なあの顔、この名前として、われわれの認識の銀幕にすでに投影されてきているもののはず、です。

 民主党に期待するところがあるとすれば、まず「党」としてでは絶対にない。個々の代議士、政治家の中に見るべき人材というのは確かにいる、けれども、それが今の「民主党」というくくり方の中にいる限りおそらく十全に開花しないようなものでもある。それらの人材が、あらわになり始めたこの新たなインターフェイスの水準にシフトしてゆくような動きが、これから具体的に起こってくるはずです。そうなってきた時、今の小沢一郎の支離滅裂、政治家としての思想と下半身とがねじれてしまっている状態がどのように対応してゆけるのか、ひとまずそこが、個人的に見届けておきたい部分だったりします。