萩本欽一の「戦後」、そして偽善



 24時間テレビ、という偽善がある。日本テレビ勧進元となって毎年、夏場に臆面もなく繰り広げられる、いまや威風堂々、眼のそむけようすらないくらいの偽善である。

 初手から偽善だった、とは言わない。善意が年月を経るうちに、そこに取り巻いた名もない小さな考えなしが積もり積もって、いつの間にか身動きとれなくなり、今や堪え難い腐臭を放ち始めてすらいる、まあ、そんな感じだ。

 それは、出発点においては、テレビというメディアが「茶の間」とつながり、そのことによって「世間」をある方向に組織することがみるみるうちに可能になっていった、おそらくはその最大版図の段階において企画されたものだったはずだ。第一回は78年。「愛は地球を救う」のスローガンを掲げ、総合司会として大橋巨泉などと共に彼、萩本欽一の名前が当時からすでに中心に。その後30年、メディアと情報環境の変貌の中、その偽善ぶりはある形式を維持するようになっている。そう、たとえば民話のように。

 そうなっていった背景はいくつかある。ひとつ言えるのは、ある時期からこっち、世間に広がっているマスメディアに対する不信感が根深く作用しているということだ。

 チャリティーと称して喜捨を募ってその金額をこれ見よがしに誇る、メディア稼業の手癖のその舞台裏など詮索することなく世間が受け止めていた頃からすでに遠く、だったらその莫大な制作費やあんたらのギャラ、途中でピンハネする濡れ手で粟の手数料……などなど、全部ひっくるめて最初から差し出した方がよっぽど役に立つんじゃないの?、といった素朴な疑問が、以前には考えられなかったくらいの広い範囲にあたりまえに共有されるようになった。だからこそ、その偽善ぶりはくっきりと浮かび上がるようになっている。

 そう、世間はその程度に変貌している。情報環境が変わりつつあるというのはそのような世間、こちら側の有為転変もひっくるめてのことだ。そのことを察知できない、いや、してももうどうにも対応できなくなっているメディアの現場が、この種の偽善をダラダラと垂れ流すようになっている。もちろん、ひとり24時間テレビだけのことではない。

 そのような偽善を見せられる側の心構えとしては、その場に身をさらしている者たちがどれだけその偽善を偽善として演じているかを生暖かく見守る、というモメントが重要になってきている。それは、敢えてざっくり言ってしまうならば、あの「戦後」民主主義というやつが、いまやメディアの舞台でどのように情けない形で演じられてしまうものか、という問いにも連なっている。

 昨年、その24時間テレビの目玉となっている「24時間チャリティーラソン」を、萩本欽一は走った。

 「欽ちゃん」、その段階ですでに66歳。たたずまいとしては間違いなく年相応の年寄りと化した彼が、十重二十重に取り囲む伴走者やスタッフなどと共に、めいっぱいの偽善ぶりと共に走って見せるその姿は、「戦後」の過程でさまざまに曲折してきたあの民主主義の夢が、〈いま・ここ〉でどのように立ち腐れているかを思い知らせてくれる、格好の観測点になっていた。



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 萩本欽一。昭和一六年五月七日、東京は台東区稲荷町の生まれ。六人兄弟の三男坊。

 父の丹次は四国高松の出身で、小学校しか出ていなかったけれども上京して刻苦精励、写真関係の商売で身を起こし、後にはカメラ製造なども手がける会社を経営する小さいながらも一国一城の主だったという。ダン写真用品、という会社を営み。自社ブランドで「ダン35」というカメラも開発していて、これは進駐軍にもお土産として買われたというボルタ版のミニカメラ。いまでも好事家の間で語り継がれる、その程度には逸品ではあるらしい

 つまり、住まいは下町ではあるが、自営のそれも会社経営という生家。いまなら「勝ち組」に分類されるだろう、その程度の金持ちではあったのだ、少なくとも彼が生まれてしばらくの間の萩本家は。

 ただ、父親は不在がちだった。外にオンナを囲っていたらしい。戦時中に疎開した浦和の洋館建ての家には女中もいるような暮らしぶりだったが、そこに戻ってくるのはせいぜい週末だけ。父親とはそういうもの、と思っていた家庭を支えたのは、料理もろくにできなかったという女学校出、嬢さん育ちの母親だった

 敗戦をはさんで父親の事業が傾き、小学校四年の時には浦和の家をたたんで再び東京市内の下町へ。中学を出る頃にはさらに父親の商売は行き詰まり、何軒かあったカメラ店も手放し、借金もかさんでいった。戦後の混乱期を抜け出しつつあった世相と裏腹に、深まってゆく萩本家の「貧乏」。

 「金持ち」にならなきゃあ、という灼けつくような願いを彼、萩本欽一は抱くようになってゆく。それは、家の回復、というモメントに裏打ちされているはずだった。時代史的にものさしを当てれば、昭和初年のモダニズムとそこにささやかながらはらまれてあった「豊かさ」の回復、ということにもなる。

 当時のこと、徒手空拳の少年が「金持ち」になるためには、映画スターや野球選手、でなきゃヤクザになるしかなかった。映画に出られるほど男前でもない。ならば演芸、お笑いはどうだろう。その中でも喜劇役者、コメディアンの道を選んだのは、わざわざ見に行った森繁久弥の家が意外なほど豪邸だったことがきっかけだったという。

 「デン助」大宮敏充のもとに弟子入り志願して「高校くらい出てからにしろ」と言われて、家計の苦しい中、アルバイトをしながら文字通りの「苦学」で高校へ通った。卒業後、東洋劇場へ。フランス座の一階にあったレビュー小屋だった。そうやって彼は、改めて「浅草」と出会い直すことになる。

 「浅草」への違和感、というやつは結構根深い。個人的にも、そしてわがニッポンの「戦後」にとっても。

 たとえば、ビートたけしと「浅草」を結びつけるもの言いというのがある。フランス座で修業をした、ストリップ劇場で幕間のコントを演じることでコメディアンとして「お笑い」のセンスを磨いた、などというやつだ。

 しかし、「戦後」の空間において、すでに「浅草」は異物として存在していた。盛り場であったことは相変わらず間違いなかっただろうけれども、しかしそれが戦前の、それこそエノケンやロッパの栄光が同時代のものとしてあった状況とは、すでに決定的に違う何ものか、が介在していた。その後世間が抱くようになった「芸能界」というイメージが整えられてゆく過程で、必ずその対立物、カウンターパートとして、そう、「周縁」としての役回りをあらかじめ課せられたところでしか、「戦後」の文脈での浅草は存在できなくなっていた。



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 その意味で、巷間抱かれているような、「浅草」出身のコメディアン、という枠組みから、彼「欽ちゃん」は、実は微妙にずれている。

 その「ずれ」の拠って来たるところは何か。デタッチメント、である。

 「浅草」の現実に対して、ある距離があらかじめはらまれている。その限りでまごうかたない「戦後」派の視線である。おそらくそれは後のビートたけしにも連なってゆくようなものでもあったろう。「浅草」から自動的に引き出されるようになっていた「笑い」や「人情」といったもの言いの系に、彼は決してなじむ存在ではなかった。

 それでも、まだそのような「人情」の表出に反応して「泣く」「感動する」ことは充分にできた。なぜなら、人情がまだそれなりにたっぷりと世間には存在していて、そしてもちろん機能もしていて、そんな時代に人情の織り込まれた世間の、最後の滋養たっぷりなところを吸収してきた世代だな、と思う。

 彼の、「下積み」の「無名」に対する視線はここで固定される。後に「シロウトいじり」と呼ばれもしてゆく彼の路線の背後にある、デタッチメントの感覚。そこを無視してしまえる程度の世間がまだマジョリティとしてある間は、彼の身振りから今のようないやな偽善がにじみ出してくるようなこともなかった。

 言い換えれば、「戦後」の枠組みがしぶとくもまだゆるがずにいられた間は、「欽ちゃん」はまだ充分に耀いていられた、ということだ。「欽ドン」に代表される80年代の「欽ちゃん」の一連の仕事で捕捉された世間=「茶の間」の輪郭は、そんな仕組みの中でようやく成り立つような幻想、だったのだと思う。

 これ以上はないという、ギリギリの境遇ところで生きている人間同士のソリダリティ。「義理」や「人情」といったもの言いでひとくくりに理解されてきたものも、そのような逃げ場のない者たちにとっての保険として現実に機能していた。

 それが徐々に意味をなさなくなり、生気を失ってゆく過程。「戦後」が初発のかたちから少しずつ、別のものになってゆく。先回りして言っておけば、昨今若い衆がある苦笑いと共に「昭和」と一緒くたに名づける距離感の背後には、〈いま・ここ〉と地続きの「戦後」がとっくにはらんでいながら、未だ十全にことばにされず、だから気づかれてもいないままのそのような重層性、塗り重ねられた「歴史」の気配について敏感に察知してのもの、と理解されるべきなのだ。

 といって、そのような過程でも、ならば生身の萩本欽一自身がそのような人情の表出をしてゆくことは、もうできない。いや、当初からそんなことは苦手だったはずだ。人情たっぷり、だからこそ無名で力のない者たちが相互にからみあうしかない「浅草」に対して、初手から異物として違和感をはらみながら、うまく「個」としての自分との距離を操作しなからつきあってきていたのが彼、萩本欽一なのだからして。

 だから、なのだろう。孤独な人なんだな、という印象が、思えば常にある。

 もちろん会ったことはない。ないが、見るともなく見ていたテレビの画面の向こうであれ、ふと行き合った雑誌の記事の添え物めいたグラビアであれ、その眼がいつもほんとには笑っていなかった。

 トレードマークともなっていたあの「タレ目」の奥底に、ゆるくさめた、しかし確かに狂気としか言い様のないあやしいものが漂っている。コント55号として出てきた当時から、子ども心にもそれは微妙に察知できるものだった。

 「孤独」といっても、ありがちなブンガク臭ふんぷん、悪い意味での自意識過剰な勘違い、往々にして古典的な「オトコ」ぶりと貼り合わせの身勝手な自閉、といった方向とは、ちょっと違う。敢えてジェンダーの軸で言えば、むしろ中性的。彼の語り口として「〜なのよ」といったもの言いが定番になっているのも、実際そういう語り口だから、というだけでなく、キャラクターとしての「欽ちゃん」に宿ったある必然を感じる。オバサン、なのだ、基本的に。

 で、そういうオバサンがそのように孤独を抱え込んでしまうと、どうなるか。世間の中での自分というやつをもてあます。その自分は間違いなくある種知的であり、しかしその知的である分、内面的にどこか歪んだ部分を持っている。オバサンである、ということには特にそういう意味も含まれている。だから、それがキャラクターとして現れる時には、ありていに言って異常性格、狂気がにじむようにもなる。そういう意味においての孤独、なのだ。

 ひとりならひとりでしかない、自分が自分でしかあり得ない、そんな「個」が世間の中にとりまぎれながらひっそりと成長していた。だから、そこらの正面切ったインテリ風味な孤独よりも、ある意味もっと厄介で根が深く、「人情」丸出しな世間の中にまぎれながら存在していたからこそ、その分だけ難儀なものなのだ。



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 「浅草」の孤独、と言えば、人は渥美清を思い浮かべる。あるいは、ビートたけし、とか。

 「浅草」は常に底辺であり、それはテレビに対して、芸能界に対して、伸展してゆく「戦後」の現実に対するカウンターでしかなかった。だから、そんな中から出てくる突出した才能というのは、少なくともマスのメディアの舞台での上演が世間に受け入れられるような質のものならば、ある時期から必ずそのような孤独をはらんだものにならざるを得なかった。

 震災前の川端康成でも、昭和初期の高見順でもない、もちろんエノケンやロッパの浅草でもすでになくなっている。何より、新宿というオルターナティヴが出現している。それが初発の「戦後」だったし、そこにテレビに象徴される新しい情報環境が覆い被さってゆくことで、〈いま・ここ〉と地続きとして感じられるような「戦後」の輪郭が形成されていった。なのに、そんな環境においても相も変わらず「庶民」を、「人情」を問答無用で代表させられてしまうことで、「浅草」は自ら二重三重に、“周縁であること”に縛られてゆく運命をたどっていった。

 思えば、コント55号、の出てきた当時の衝撃、というのも、もう「歴史」の範疇に組み込まれている。

 そして、そのような「歴史」の常として、未だ十全に同時代のことばで語り尽くされているとも言い難い。だから、「欽ちゃん」というキャラクターがどのような転変をくぐって現在に至っているか、についても、世間のイメージという銀幕において改めてふりかえってみると、その道筋はかなり茫洋としていたりする。
 コメディアンである、ということは言われる。なるほど、ひとまずそう呼ぶしかないようなものではあるだろう。

 だが、たとえば藤山寛美などのように演者として、芸人として固有名詞で大きく語られることは、振り返ってみると、実はあまりない。「コント55号」の伝説的な凄みも、あくまでもコンビとしてのもの。欽ちゃん=萩本欽一自身がどれだけ突出した芸人だったか、ということには必ずしもなっていなかったりする。

 そのへんは彼自身、冷静に自覚しているようだ。それもかなり早い時期から。

 「結局、これまで自分がこれでやっていこうと思った芸では、一度も認められていないの。僕は浅草で十年修業してたんだけどね。「浅草で欽ちゃんの修業時代を見た」っていうお客さんは一人もいない。55号で有名になった後に、55号を浅草で見たっていうのが始まりよ。どのぐらい才能がなかったか。10年やって、覚えてるお客さんがゼロって……だから、才能は相当ないんじゃないの?」(『ユーモアで行こう!』)

 謙遜含みなのは割り引くとしても、やはりピンのコメディアンとして浅草に記憶を残していない、というのは、自己認識としても正確だろう。

 実際、コメディアンとして注目されるきっかけも、当時根城にしていた小屋(東洋劇場やフランス座)で一気に人気を博した、というのではなかった。たまたま有楽町=日劇ミュージックホールという大きなハコに出てくるチャンスがあり、その大きさを埋めるべく身体いっぱい、当時の二郎さんと共に暴れ始めるのがきっかけだった。

 当時、ゆきあっていたという小林信彦もこう記している。

 「浅草に萩本欽一という面白いコメディアンがいるという噂は耳にしていたが、ぼくは信じなかった。浅草からコメディアンが出る時代はとっくに終わっていた。」(『テレビの黄金時代』)

 舞台で大暴れするようになったことで、当時のグループサウンズに対するような、あるいは、66年のビートルズ来日に当時のティーンエイジャーたちが呈したような「熱狂」にも通じるような質の何ものか、をコント55号はまつわらせるようになっていた。それは、すでにそれまでとは微妙に違う様相を呈し始めていたこの国の大衆社会のありようを先取り的に反映していた。そんな「熱狂」と呼応するだけの“熱さ”が、彼らの身体には、確かに宿っていたらしい。

 「萩本欽一は舞台の上を滑る練習に集中していて、声をかけられる雰囲気ではない。(…) 舞台の上を大きく飛ぶのをくりかえす萩本の姿には正にオーラがあった。」(前出、小林)

 「かなり破滅型である。徹夜麻雀、早朝ゴルフ、そして競馬……(…) 胆石で倒れたが、周囲のすすめにも、嫌がって、どうしても手術しなかった。」(向井爽也『喜劇人哀楽帖』)

 小林は、当時のコント55号に、H.ピンターの戯曲「ダム・ウエイタ(料理昇降器)」をやらせようと持ちかけたという。それは当時、時代を律し始めていた身体性の突出と呼応したものであり、新劇のしかつめらしさではないカラダの〈リアル〉こそが不条理劇の本質と呼応するもの、という直感に裏づけられていたはずだ。そのような意味で彼らは「新しかった」のだ。

 実際、子どもの頃のテレビを介した彼らの記憶をよびさましても、また、それをいま残されている映像で再度振り返って確認してみても、彼らの当時の上演はアグレッシヴで、時にいじめにしか見えないようなものだった。アドリブを基本にしたサディスティックなことばによる萩本のいたぶり、が、朴訥なキャラクターとして存在していた相方、坂上二郎をも呼応させ、もろともに狂ってゆく。そのプロセスが生み出すある種のぶっ飛び具合、がコント55号の「速度」であり、破壊力だった。

 それは演劇からマンガ、映画など、当時の表現一般に共有され始めていた文法でもあった。彼らはその程度に時代の子、ではあったのだし、だからこそ一世を風靡することができたのだと思う。付言しておけば、それは後にピンクレディーでもっと増幅された形で再現されることになるのだし、あるいは、さらにその少し後、80年代の「MANZAI」ブームが初発ではらんでいた、「意味」を引きちぎってゆく疾走感にも。

 だから、彼らが当時の感覚での「演芸」=寄席を基準にした落語や漫才などではなく、「その他」として分類されるしかなかったことの意味は、決して小さくない。漫才でも落語でもない、「コント」とひとまず自称するしかないようなものだったけれども、ライバルと目されていたドリフターズが、同じテレビでも公開生中継という枠組みで、しかしそれまでの喜劇のありようをはずれない、職人的な作り込み方でのコントを展開していたのとも、対照的だった。



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 「浅草」という周縁からの逆襲、は、そのような身体性を介して行われた。

 「気の弱い被害者が、一つのキッカケで突然ピョンと加害者に飛躍する」、そんな不条理と狂気。世に出て世間に認知されてゆく最初の段階で、そのような原体験を否応なしに持ってしまった、そのことが「欽ちゃん」のその後にも、陰に陽に影響してゆく。

 「体技系」のコメディアンが必ずぶつかるべき「壁」に、彼もまたぶつかった。70年代にはいってから、追いまわすべき〈ダメな男〉としての坂上二郎と徐々に決別して、彼はシロウトを「発見」してゆく。まずはラジオ、周囲に放送作家のタマゴたちを組織し、彼らを「いじる」ことで新たな「場」を、根拠地をメディアの中にこさえてゆく。そして、再びテレビへ。

 破壊的な身体性を武器にしていた萩本欽一が、「司会」という立ち位置から今度は「場」の司祭として変身して再登場してくる。それまでならば、茶の間のこちら側で受動的な観客でしかなかった庶民が、彼のその「司会」の場に出てゆくようになる。以後、彼は天然としてのシロウトを「いじる」ことで、メディアの中で新たな居場所をその都度、見つけてゆくことになった。

 「浅草」に象徴されるような世間のまっただ中で、でもそんな世間にあらかじめ距離感を持ってしまう、そんな自意識が、その距離の取り方をことばにし、方法化してゆくことで、「場」をコントロールする処方箋をこしらえていった――この時期、「シロウトいじりの天才」と呼ばれるようになっていったことの内実とは、ひとくくりに言ってしまえば、おそらくそういうことだ。

 さまざまなシロウトが彼の「司会」の場をとおりすぎ、ある者は実際にタレントになり、またある者はそのままフェイドアウトしてまたシロウトに戻っていった。けれども、彼自身がそのように天然であることは絶対になかった。何よりも、かつて時代を席巻した「狂気」――あの「孤独」を下地にした生身に宿るデモーニッシュな部分は、当然のように薄まっていった。

 もしも天然の浅草、即時的な世間のままだと、ただ単線的に埋もれてゆくものにしかならなかっただろう。たとえば、かつての大宮敏充から関敬六に至るまで、そういう「古き良きもの」という枠組みの中に自ら縛られたままくすんでいった個性たちのように。実際、そのように「戦後」に殉じてゆくことで、「浅草」はその動きを止めていった。

 「茶の間」が表象として、そしてそれに見合う程度に現実にも、共に活きて機能していた、そんな状況で「欽ちゃん」=萩本欽一は世に出てきた。芸能人としての彼の原体験にあるはずの、そんなテレビの黄金時代、そしてその最も先端に位置してしまった経験をもとに世間を計測することの習い性。そのままだとそれは、ただの勘違いに堕してゆき、「あの人はいま」的な視線に幽閉されてゆくしかない。

 だが、彼の場合、一度そこから「おりる」ことをした。おりて、そこからもう一度、「浅草」との距離感をとらえなおすような作業をしていった。それは、彼の位置から見通せる限りの世間の像を、もう一度〈リアル〉なものに編み直してゆくこと、でもあったはずだ。

 ここ数年、あの茨城ゴールデンゴールズでノンプロのクラブチーム、つまりは草野球にいれあげているのも、商売としてと共に、彼の記憶のどこかで、かつて全国でも強豪として知られていたというフランス座の野球チームの面影が揺曳しているのではないか。なぜなら、彼にとっての「野球」とは、そのように「戦後」の風景と一致しているものだろうし、だからこそ、それもまた彼の「司会」する新たな場のひとつになり得る、という信心を、彼は持っているはずだからだ。

 あるいは、これは今回改めて資料を集めてみるまで知らなかったのだが、彼はこのところ通俗的な啓蒙書の類を結構乱発している。これまで何度も繰り返されてきた自伝的なエピソードをつぎはぎしながら、人間関係をうまくやってゆくコツを指南する、といった形。たとえば井上ひさし瀬戸内寂聴のような「人生の達人」的な、ある種のソフトなカルトの“教祖”としての立ち位置で商売しようとする向きが周囲にとりついているのも、まあ、ご時世だろう。

 けれども、そのような昨今の「欽ちゃん」ビジネスの場のどれもに、ある共通するみっともなさ、が漂う。それは、今の情報環境で彼をそのように持ち回る、メディアの舞台の商売人たちの思惑のなせる部分が大きいとは思うが、と同時に、そのような思惑を受け止めて乗ってしまう何ものか、が当人自身にも存分にあることも、また理由のはずだ。

 いま、コント55号が暴れていた頃の記憶をリアルタイムで持っているのは、今ではもう五十歳前後から上の世代になる。60年代末、物情騒然の世の中の数年間、テレビを席巻した「低俗」の王者。当時、「欽ちゃん、二郎さん」のコント55号がブラウン管 (思えば、このもの言いももう忘れられてゆくのだろう) で繰り広げる縦横無尽の大暴れぶりに、子どもたちがまず反応した。だから、PTAから目の敵にされる芸能人のはしり、でもあった。そのように、テレビは「茶の間」と直結していた。

 そのテレビの黄金時代に自意識形成の原体験を持つ者たちが、おおむね90年代以降、「戦後」の終わってゆくプロセスにおいてさまざまな失速を見せるようになっている。「欽ちゃん」だけではない。山田洋次と「寅さん」が、あるいは武田鉄矢と「金八先生」が、そのような「戦後」、ひとしなみに民主主義の名の下にプロモートされてきた何ものかの媒体として〈いま・ここ〉においてどのように作用してきているのか、に焦点を合わせねばならない。「戦後」民主主義に対する違和感が切実であるならなおのこと、それがどのようなキャラクターを媒介にどのように語られ、演じられているのか、について鋭敏であることが求められる。

 思い出した。彼、萩本欽一エノケンチャップリンの信奉者でもあった。

 チャップリンの晩年、はるばるスイスの自宅まで約束もなくいきなり押しかけ、粘りに粘ってやっと会ってもらった、というエピソードは、ある時期以降の「欽ちゃん」伝説において何度も得意げに語られる定番のエピソードになっている。ならば、なぜそれがぜチャップリンであり、あるいはエノケンだったのか。「お笑い」とは、「戦後」の情報環境でどのように民主主義の依代として使い回されていったのか。

 24時間テレビのあの偽善の垂れ流しに平然と荷担する「欽ちゃん」の〈いま・ここ〉は、単にひとりの老タレントの耄碌ゆえの「ずれ」というだけでなく、その背後に横たわるわれわれの「戦後」がすでにはらんでいる「歴史」の活断層を意識してゆくための、まずは手頃な稽古台になり得るはずだ。