
「私たち日本人は、長い間、アメリカ人やヨーロッパ人に肉体的劣等感を持ちつづけてきた。しかし、日本人だって大きくなれる。それが証拠にジャイアント馬場を見るがいい。彼は自分の演し物を通じて『大きい日本人が小さいアメリカ人を蹴とばす』という(夢のような)場面をしばしば見せてくれたのである。」
今から35年前、寺山修司の手によるジャイアント馬場論の一節である。
「彼は、言わばわれわれの時代のユリシーズである。――しかし、こんなにすばらしい肉体を持ちながら、なぜ、いつもさみしそうな顔をしているのであろうか?」
二月二日の朝、どのスポーツ紙もこの「高度成長期のユリシーズ」ジャイアイント馬場の死を一面で報じていた。享年61。早すぎる死だった。
プロレスラーとしての全盛期は60年代後半から70年代前半、弟分アントニオ猪木との確執などから団体を割り、自ら全日本プロレスを旗揚げした頃だっただろう。テレビと手を結ぶことでプロレスをお茶の間の娯楽として定着させたのは、間違いなく彼の功績だ。だが、ここ10年あまりはテレビのCMやクイズ番組に出たりする広告塔的な役回りか、でなければお笑いタレントのギャグのネタになるような存在になっていた。事実、「生涯現役」をうたって自身ずっとリングに上がっていたとはいえ、最近では前座の試合がほとんどだった。
けれども、ファンは馬場を見に会場へ通った。馬場がリングの上にいること、そのことを見に行っていた。猪木に代表されるような「強さ」を一義的に追求してゆくストロングスタイルのプロレスが花開き、さらにその後さまざまな格闘技がそれぞれの「強さ」を自己趣致用していった時代の趨勢の中で、その「すばらしい肉体」を第一の武器に人前に身をさらす、そんな「見せる」スポーツとしてのプロレスの原点を彼は愚直に演じ続けた。
そして、高度な技の応酬やスピードあふれる試合展開に眼の肥えた若い世代の観客たちもまた、そんな馬場を最後まで愛していた。「晩年の志ん生みたいなもんだよ」と言った古いプロレス好きがいたが、そういう楽しみ方までも受け入れてしまうほどに、彼の存在こそが日本のプロレスとプロレスファンの成熟を象徴していた。
そう、ジャイアント馬場は、プロレスがまだかろうじて見世物でいられた時代の英雄だった。見世物を正しく見世物として楽しむ作法をこの日本の世間がまだ知っていた。そんな時代の空気を呼吸してきた最後の異形の王だった。


全盛時の身長2メートル9センチ、体重145キロ。今でこそ日本人の体格が良くなったから、格闘技系は言うに及ばず、バスケットボールやバレーボール、ラグビーといった球技系のスポーツでも、2メートル近い身長や100キロを超える体重の持ち主にそれほど驚かなくなっている。だが、昭和13年生まれで戦後の食糧難の時期に伸び盛りを過ごした馬場の世代、高度経済成長を担った世代の日本人にとって彼の肉体はほとんど怪物のような大きさに映ったはずだ。
実際、馬場をめぐるもの言いは当初から、その「大きさ」をめぐる過剰なエピソードで埋め尽くされている。有名な十六文の靴のことをはじめとして、桃をまるごと食べて種を吐き出すこと、あんみつや氷あずきをどんぶりで三杯たいらげること、一日の食費が一万円(60年代当時でだ)もかかること、銭湯で女湯とのしきりから顔が出てしまうので貸し切りでないと風呂に行けないこと……ああ、もうまるでマンガだ。だが、そのマンガであることも含めて、観客の貪欲で無責任な視線に応えてゆくことが、「見せる」スポーツのプロとしての責任でもあった。
当時はプロ野球でさえもまだ見世物だった。昭和32年5月、当時巨人軍の投手だった馬場の初登板は阪神戦、リードされた試合でのリリーフだった。バッターは身長五尺足らずの「牛若丸」吉田。七尺近い馬場との対比に場内はドッと哄笑に包まれたと伝えられている。


「あれだけ練習やっても王、長嶋みたいにはなれなかったものなあ」。寺山が的確にとらえた馬場の「さみしそうな顔」は、「すばらしい肉体」の持ち主が、その肉体ひとつで世渡りしてゆくための興行の場が、大衆社会の視線の中でメディアの見世物としてのプロスポーツへと変貌してゆく。その過渡期に出くわしてしまった英雄の孤独を奇しくも表していた。


生涯試合数推定8,000試合。国内だけでも5,759試合。かつて、赤い着物にゲタばきでブロードウェイを歩かされた大きい日本人は、最後まで見世物としての誇りを失わなかった。*1
*1:産経新聞掲載原稿。以下、掲載時の末尾の訃報。「プロレスラー、ジャイアント馬場さん(本名・馬場正平)は一月三十一日、東京都内の病院で死去した。六十一歳。」