京都の大学でひさびさに講義を……

何年ぶりかで「講義」というものをやらかす破目になりました。

大学を辞めて足かけ五年。定期的に教室に立って何かもっともらしいことをしゃべる、ということもなくなってたわけで、日常のスケジュールにそういう「講義」がはまりこんでいる頃ならば、ある種の舞台カンみたいなものもそれなりに維持できていたのですが、これだけ現場を離れちまうとさすがにおっくうです。自分の考えをまとめるのにそういう「講義」というプロセスを利用する、なんてこともできたんですが、今や日々のなりわいは単なる貧乏ライター@地方競馬専従ですから、目先のエサを拾って歩きながらおのれのアタマの中身も整理したりデフラグかけたり(あ、こういう言い回しって田口ランディっぽいかも……くそっ)するのにも慣れました。

お座敷がかかったのは、京都造形芸術大学という、まあ、いまどきありがちなアート系の大学。聞いてみるともともと服飾専門学校みたいなところから始まったとか。つまり、お針子さんの学校、だったわけですな。で、それがそのうち短大も作り、バブル期に四年制に格上げしたという次第。いまどきの私立大学としてはかなり頑張っているというか、まあ、この大学受難のご時世にまずは「勝ち組」のひとつなんでしょう、校舎もこの四月に新たにこさえたもので、ホールの一階にはスターバックスまがいのカフェまで入ってて、いやもう、あたしなんぞは立派に浦島太郎状態。つくづくこういういまどきの大学環境でのほほんとしてられないおのれを痛感しました。

大学院の講義、ということだったので、客筋は学部学生よりは年かさで、申し訳ないことにセンセイ方までがちらほらという状態。そんなもの、あたしのハナシなんざわざわざ聞いたところでどうなるもんでもないだろうに、とこっちが気を遣っちまいます。90分話して、休憩をはさんで90分の質疑応答、ということだったのですが、ご多分にもれず質疑応答なんてそうそう手があがるわけもない。ホスト役をしてくれた助教授の小林昌廣サンと掛け合いで漫才だかDJだかわからないようなことをやって場をほぐしながら、ようやく出てきたフロアからの質問に答えてお茶を濁してきました。

この小林昌廣という御仁、あたしと同年配なんですが、医療人類学が専門で、もとは東大の医学部出身だから素直に医者になりゃいいものを、まあ、80年代に二十代を送ったものの業みたいなもんでしょう、やくたいもない文科系にまぎれこんじまったようです。かつてあたしの『民俗学という不幸』と同じ時期に同じ版元から出た『病い論の現在形』などは、今読んでも結構ためになる一冊ですが、最近は商売もあってか「アート」方面のコーディネイトなんかもしている由。美術館の企画をどうするか、なんて実践的なゼミもやってるとかで、そうか、今や大学もそういう専門学校みたいなことに本腰入れないといけないんだなあ、とこれまたしみじみ。まして、京都という土地柄ですからそれこそ化石みたいな文科系やりたい放題な長老サマたちが未だそこらにゴロゴロしているわけで、そういう「文化としてのガクモン」「身振りとしての活字まわり」みたいなものがいまや最終的に〈いま・ここ〉に対する効きが悪くなっていることなどについて、しばし語り合ったりしました。

でも、彼はあたしなんぞと違って、そういう違和感をしっかり持ちながらも商売としてそういう長老サマや、あるいは「大学のセンセイ」というおのれの立ち位置になぜか何の屈託も葛藤も反省もないバカタレなどともそれなりにうまくやっているようで、このへんはもうキャラの違いとしか言いようがない。あたしにゃとてもムリですな。