棄てられる競馬場――中津競馬、最期の日々

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「なにしろ、競馬のことをわかってもらうだけでも大変なんですよ。こういう騒ぎになってから、地元のテレビや新聞とかも取材に来てくれよるけど、せいぜい知っちょるいうても中央の競馬。地方の、それもうちらみたいな競馬場が日頃どういう仕事をしよるか、説明してもなかなか伝わらんですよねえ」

 厩舎団地内の集会所、畳敷きの広間に仲間たちが交代で寝泊まりするその脇で、奥吉秋さんはこう言って懸命に口説いていた。

 肩書きは「大分県厩務員労働組合執行委員長」。だが、実はこの三月に結成されたばかりのにわか組合。二月、市長の独断専行でいきなり降ってわいた「廃止」騒動に揺れ続ける九州・中津競馬で、「厩舎関係者に廃業補償をする法律的根拠はない」と前代未聞の無茶を言い張る市長側に対抗するために、調教師から騎手、厩務員までが一致団結、肩寄せ合って自分たちの生活の場を守ろうとしている場がこれだ。

「わしら組合みたいなもん、これまで考えたこともなかったからやり方がようわからんのですよ。けど、こうなったらそんなこと言っておられんからね。相談に乗ってくれた弁護士さんも、こんな調教師から何から全部加わった闘いは初めてだ、って言ってましたわ」

 そりゃそうだ。調教師と厩務員は雇い主と雇われ人の関係。厩務員の組合はあっても、調教師まで一緒になって主催者とケンカする組合はおそらく前代未聞。いや、地方競馬じゃこういう組合が正式に結成されているところさえ、実はまだ少なかったりする。

 競馬場というのは勝負の世界。何か団結して事に当たる、ということは難しい。勝っている者は他人のために何かしようなんて思わないし、また負けている者が何を言っても相手にしてもらえない。だから組合どころか、互いの相談ごとさえなかなかうまくいかないことが珍しくない。ここ中津もそうだった。こんな「廃止」騒動が持ち上がるまでは組合の“く”の字もなかったし、また、それでも何とかうまくやってきていた。

 「書記長」の肩書きを持つことになった若い大下真昭クンも、こう言って笑う。

「中津ってところは昔っからみんな仲いいんですよ。とにかく賞金が安いけ、ねたみあいとかが全然ないですもん」

 厩務員が八十人足らず、調教師や騎手、獣医や装蹄師まで含めてもせいぜい百人そこそこ。でもって、一着賞金が二十万円程度から、重賞でも百万円そこそこ。そういう小さな所帯で三百頭ばかりの馬を養っては十日に一回競馬を使い、出走手当てを稼ぎながらささやかな競馬をやってきた、その主催者側も含めた身内意識が、慢性的な赤字経営の中でさえ「廃止」という決定的な事態を迎えないですむ歯止めにかろうじてなっていた。

 それがあわてて今回、組合を作った。作らざるを得なかった。やり方がわからないので大分ふれあいユニオンや連合といった上部団体にも加わった。着慣れぬ背広を着てあちこち連れ回されるのはおっくうだったし、運動のやり方まで指導されてめんどくさいことも多いが、それでも慣れない手つきでプラカードをつくり、メーデーにも参加した。手分けしてデモも毎日やり、ビラもまいている。署名を集める準備もしている。いつ何があるかわからない、と、交代で集会所に詰めているのもそういう動きの一環だ。

「この集会所をこげん使うたんは初めてじゃろ。こらええのがあったなあ、と、みんな喜んで寝泊まりしよるんですわ」

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 とにかくいきなり「廃止」、だった。

 主催者側のトップである市長が農水省に駆け込んで「わし、もう競馬やめるけんね」と宣言した。それが全国紙に報道されて、現場はみんな 「聞いてねえよ」 と大騒ぎになった。

九州には地方競馬場が三つある。佐賀、荒尾、そして中津。いずれも赤字経営に苦しむ地方競馬だが、去年、平成十二年度はこの三場が「九州競馬」という枠組みで一致協力、経費の共通化から人馬の交流、さらに互いに開催日がかちあわないよう日程を編成するなど、赤字削減のためのさまざまな手立てを講じ、その効果が上がって単年度収支は劇的に改善されていた。自治体によるタテ割り行政の弊害でその程度のことさえなかなかやってこれなかった地方競馬としてはまず画期的な試みだった。それを見て、よし、うちも、と、北関東の三場 (高崎、 足利、 宇都宮) も今年度から「北関東Hot競馬」という枠組みで連携を始めていた。また、これはうまくいかなかったけれども、市民から馬主希望者を募り、一種の共有馬主として入厩馬不足をカバーしようと試みたのも、ここ中津競馬だった。現場は立て直しのための努力をしていたのだ。

 なのに、である。何の下相談もなく、市長だけがいきなり「やーめた」とやった。

 地元だけではない、連携していた佐賀や荒尾の関係者も仰天した。すでに四月から新年度予算も組んで、競馬の日程も出てきていた。

「九州競馬という形にして一番いい目をみたのは中津さんだったはずですよ。平日開催で売り上げが前年度比一二〇%くらいになってるんじゃないですか? なのに、いきなりやーめた、では、まるで勝ち逃げですよ」(佐賀の関係者)

 この六月いっぱいで「廃止」、と一方的に言う市長に、もちろん厩舎側は反発。赤字が減って希望が見えてきていたはずなのにどうして、と、やりあううちに、今度は決勝写真の撮影を請け負う業者との契約までこじれて、四月からふた月だけ予定されていた今年度の開催までがいきなり中止に。あれよあれよという間に「廃止」は既成事実となり、厩舎関係者は六月いっぱいで厩舎団地を明け渡して出てゆくこと、を言い渡された。

 かくて一躍競馬場殺しの主役となったこの市長、名前を鈴木一郎という。アメリカ大リーグはシアトル・マリナーズで目下大暴れのあのイチロー……ではない。単なる同姓同名のこのイチロー市長、東大法学部卒で元農水官僚という経歴の御仁。農水省出身だから競馬にもこれまで理解がある、ということに一応なってはいた。けれども、いきなり廃止と言われて仕事を奪われてどうしたらいいんだ、と詰め寄る厩舎関係者に向かって「生活保護をもらえばいい」と平然とうそぶく始末。転職のあっせんも職安を介して行なう、とは言うものの、仕事としての競馬が具体的によくわかっていないままだから、打診してくる仕事もおよそ的外れなものになる。

「とにかく馬にエサ食わせて走らせよったらいいんじゃろ、くらいの話ですからね。まともに相談なんかできませんよ。こっちの仕事の中味を知らんのだから話にならん」

 そう、仕事としての競馬ってやつが果たしてどういうものなのか、現場の主催者でさえよくわかってないままで、その上の市長も知らないままで、だからもちろん地元の一般市民ってやつのほとんどもそんなもんで、今回の「廃止」騒動を報道するマスメディアでさえもいまひとつはっきり見えてなくて、つまり誰も眼の前で起こっていることの何が本当に問題なのか、きちんと知ることができないまま、ただ事態はどんどん勝手に既成事実を積み重ねて進んでいってしまっている。いきなりの「廃止」沙汰にせっかく組合まで作って対抗しようとする厩舎の人々が真っ先に直面しているのは、「いくらブームだなんだともてはやされていても、実は世間のほとんどによくわかってもらえないままほったらかされてきた、生きた馬に関わるこの競馬というお仕事」の現実、に他ならない。
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 実は今、ニッポンの競馬ってやつは、未曾有の大転換期を迎えている。

 少なくとも敗戦後、日本中央競馬会の設立このかた、はっきり中央/地方というダブル・スタンダードでやってきたニッポン競馬は、高度経済成長の「豊かさ」を効率的に吸い上げる装置としては相当にうまく機能してきていた。だが、そのシステムは今や耐用年数を超えたものになっている。ジャパンカップの創設に象徴される「国際化」の推進に始まり、JRAに発したアラブ競馬のなしくずしの廃止の動き、それらに伴う地方競馬の赤字体質のさらなる悪化に、さらにはひとり勝ちと言われてきたJRAでさえもが昨今、毎週重賞のたびごとにはっきり売り上げ減を見せつけられている。認定/交流競走の導入に代表される中央/地方の相互交流の促進にしても、その先に果たしてどんなニッポン競馬の未来像を見てのことなのか、不透明な部分があまりに大きい。

 そんな中、儲からないのならやめちまえ、という一見合理的な、しかし儲かる時は競馬からむしれるだけむしってきたこれまでの経緯を考えればあまりに一方的でご都合主義な意見が、地方競馬の主催者の間に広まり始めている。市民の税金を投入してこれ以上赤字の補填をするわけにはいかない、といった、これまたそれ自体は正論の、しかしこれまた文脈抜きでは限りなく暴論にもなり得る物言いが、それらを後押しする。ちらほら出始めた全国ネットでのニュース報道でも、主催者側の中津市が「赤字のためやむなく……」という論調でまとめるのがお約束。事実、市長のイチローもこの「赤字」が錦の御旗だ。

 しかし、一番儲かっていた時期など年間数億円も吸い上げていながら、万が一の「廃止」を想定しての内部留保をしていなかった中津市の、主催者としての経営責任には言及されない。まして、競馬組合所有の競馬場の土地の資産価値が約十八億円もあること、JRAから示された場外馬券売り場の併設の提案を数度にわたって蹴ったこと、別府市が地元の観光協会などと共に模索していたと言われる別府競馬場の新設計画にも横やりを入れたこと、などにはまず触れられない。「赤字」=悪役、の図式だけがひとり歩きする。

 競馬場がなくなること自体はこれまでにもあった。一番最近では、昭和六十三年に廃止された和歌山県紀三井寺競馬場。この時は現場の厩舎関係者の対応が早かったこともあって、廃業補償は何とか勝ち取ることができた。彼らの身の振り方も、地方競馬全体がまだ儲かっていた時期のこと、全部ではないにせよ新たな落ち着き先を何とか他の競馬場に見つけることができた。それでも、その移っていった先で苦労した。元紀三井寺の名門厩舎の三代目で、今は高知で厩舎を持つ雑賀正光調教師は、競馬場がなくなることの辛さ、情けなさをこう語ってくれた。

「競馬場は一度つぶれたら二度と復活しません。だから、どんなに賞金が安くても、辛くても、自分たちの競馬場だけは絶対につぶしたらいかんのです」

 その高知競馬場自体も、ご多分にもれず存廃論議が出ている競馬場のひとつ。中津の「廃止」の知らせを受けて、雑賀さんたちもいろいろと側面援護をしてきている。

「全国三十ヶ所の地方競馬のほとんどが赤字に苦しみながら廃止できないでいるのは、関係者に対する補償の財源が見つからないからです。補償なんかしなくていい、というこの中津=鈴木一郎方式の『廃止』がまかり通れば、じゃあうちも、と手をあげる主催者が次々と出てきかねない。この連鎖反応が一番こわいんです」

 基本的によそごと、と構えていた他の地方競馬主催者も、こんな事情からこの中津の経緯には注目している。JRAも無関係ではない。スソ馬がたまって下級条件ではレースに出走させることさえ大変になってきている現在、馬の二次流通を支える地方の競馬場がつぶれてゆけばそれら〈その他おおぜい〉の馬たちに新たな活躍の場を見つけてやることもできなくなる。これはもう、この大転換期のニッポン競馬全体に関わる大問題、なのだ。

「六月はじめにひとつのヤマが来ると思ってます。もうそこから先は全く収入がなくなるわけですから、馬に食わせることもでけんようになる。われわれは何とか辛抱しても、馬を飢えさせるわけにはいかんですものね」(副委員長の古梶好則さん)

 どうするんですか、と尋ねると「もう厩から出してそこらに放して外の草を食わせるしかない。馬主さんも所有権放棄してる馬が増えてますし、今いる馬を殺さないためにはそれしかないかも知れません」。
 開催中止からひと月あまり。すでに在厩馬の半分以上、百数十頭がいなくなった。去年と一昨年の中津ダービー馬は共に南関東に転厩、アラブの雄ツキノコルドバも荒尾に活躍の場を求めていった。そうやってよそに移れる馬はまだいい。それ以外の馬たちは……。

「肉にするために(馬運車に)積むのはこの仕事で一番辛いんですよ。でも、このところもう百頭以上そうやって積んだからね。なんでこんなことに……と思いながら積みましたよ。ここらに流れてくる馬はたいていどこかしら故障持ちの馬ばかりだけど、でもわしらはそんな馬でずっと競馬やってきたんだから」

 今、まだ厩舎に残っている馬は百頭ほど。この先なおどこかの競馬場で現役を続けられるような馬ならば調教もするが、そうでない馬は日々食わせるカイバさえままならない。筋肉も落ちたそんな馬たちを抱えながら、厩舎を出てゆかねばならない期限は刻々と迫る。

 馬が姿を消した厩舎には、埃っぽい春の風が吹いていた。錆びた洗い場の手すりに、砂にまみれたメンコがいくつか揺れる。ここに確かに競走馬がいた、その証しだ。

「ああ、もうほんとなら今頃ここで競馬に乗ってたはずなんですけどねえ……」

 今年デビューの新人騎手、佐藤智久クンはそう嘆息した。厩舎は闘っていても、騎手たちは食わねばならない。彼は島根県の益田競馬に「出稼ぎ」に出かけていた。前日、その益田で待望の初勝利。だが、喜びに浸る間もなく中津にとんぼ返り、「正直まだ寝てたいんですけど、でもそんなこと言ってられませんからね」と、今日もまたデモの列に加わる。

 アラブのA級戦でいい馬に乗せてもらった。しかも内枠まで引いた。大きな声では言えないが、道中も地元の先輩騎手たちにビミョーに手加減してもらった。はい、勝ちました。

 おお、いいハナシじゃないか。稼業のソリダリティってのはそういうもんだ。ソリダリティ、ってなんすか? うん、「侠気」って訳すんだ。

 ほんとならおまえなんか乗せてもらえんとこぞ、あんな馬に、と、古手の厩務員が口をはさむ。日焼けした肌にサングラス。藤竜也を思い切り脂っこくしたような風貌。でも、話の合間に見せる表情は正しい九州オトコの人なつっこさだ。わしか? 中学出てからもう四十年、競馬場一本よ。他の競馬場に乗ってた(出稼ぎに行ってた)こともあるけど、この仕事以外なーんも知らんもん。

 「よろしくお願いしますッ」。そんな彼も信号待ちのクルマをのぞきこんでは声をかける。顔見知りのラーメン屋のおばちゃんが手をふる。「お願いしまーす」佐藤クンも続く。

「毎日こうやってデモしよると、町の人の反応が変わってきよりますね。市長の言うことばっかり新聞とかで聞かされてたのが、こっちの言い分もわかってくれるようになっとる」

 慣れない響きの「お願いしまーす」が、なお街に響く。数班にわかれたデモの隊列は、今日も街はずれにある競馬場を出発して市内のどこかで、ずっと忘れられたままになってきた「競馬というお仕事」の置かれた立場を不器用に訴えている。 


*1:『Number』掲載原稿