「年寄り」ということ

 年寄り、ということを、最近考えるようになってます。

 あたしゃ当年とって四二歳、立派に厄年ど真ん中なわけで、ゲンをかつぐ方ではないにせよ、そろそろトシのことは気にもなる。三年ほど前にちと大病をやらかして、おおげさに言えば人生観が変わるくらいの体験も、まあ、しています。おかげさまで今は、身体の調子その他は日々生きてゆける程度には特に不自由ないのですが、それでも、ちょっとした時に「ああ、こりゃもうトシかなあ」と思う時はやはりあります。

 特に、大学勤めなんてやくたいもないことをきれいさっぱりやめちまってこのかた、定期的にある場所へ通う、なんてことをしなくなって、その分、決まった人たちと決まった形で顔を合わせる、なんてこともなくなった。もちろん、日々の暮らしは何でもありで、食い扶持稼ぐためにはやれることはみんなやってますから、忙しいのは忙しいのですが、でも、誰か他の決まった人と同じ場で仕事を共有する、なんてことは、まずなくなった。いろんな人には会うし、いろんな場に首突っ込みますが、失敗しようが何しようがまさに自己責任。誰もケツ拭いてくれないかわりに、てめえひとりの算段と腹のくくり方とで何とか始末してゆくしかない。フリーランス、というのはつまりそういうことで、生きようが死のうが自分勝手。いいなあ、気楽で、と、勤めのある人間からはよく言われるのですが、ただ、気楽かどうかはともかく、よほど気をつけてないと他人という存在に対して度量がなくなってくる、ということはありそうで、白状すればこのへんが、ちみっとこわい。

 トシをとる、というのは、肉体的な衰え、ということよりも、むしろそういうまわりとの関係に反応してゆく感覚の弾力性をなくしてゆくこと、気持ちの上である決まりきった範囲でしか心を動かせなくなってしまうこと、そんなものの方が決定的なんじゃないか。俗に言えば「感動がなくなる」ってことなんですが、と言って、そんなに簡単なハナシでもない。トシ食ってやたら感動するのも身体がついていかない分、ヤバいわけで、トシを自覚し始めて焦って何か感動を探す、なんてのもまさにドツボ。肉体的な衰えは感覚的な鈍化と手に手をとりつつゆっくり進んでゆく、というのが、まさに「老い」の総体ってやつで、それこそが自然、なんでありましょうな。

 そういう意味で、最近の年寄りってのはどうもこれまでのそれと違う。今、六五歳以上は一応「老人」ということになってるようですが、でも、高倉健だの石原慎太郎だの大橋巨泉だの永六輔だのが、みんな軒並みこの六五歳以上。う~ん、どいつもこいつも「老人」じゃないよねえ。なんというか、その肉体的な「老い」と感覚的なそれとがいろんな方向でズレちまってる、そういう奇妙な年寄りぶり、って感じなんですな、これが。

 高齢化社会、なんて言われて、だから福祉が大切なんだ、てなことも言われてますが、その肝心かなめの「年寄り」ってのが今やどういう代物なのか、ってあたりが、実はあんまりちゃんと言葉にされてない。ユニクロ着てトレッキングシューズはいて、日本百名山早登り、なんてツアーに参加して疲労骨折やらかしたり、生きがい探しで海外ボランティアに精出して現地のねえちゃんとねんごろになったり、社交ダンスに血道をあげてコスプレまがいの衣装三昧に遅ればせながらハマったり、とまあ、あまり言われてませんけど、よくよく見たらいまどきのニッポンの年寄り、これまでの「年寄り」像からすればとんでもない物件がそこここに転がってるようになってます。老人ホームでストーカー騒ぎの色恋沙汰、なんてことも近い将来、当たり前になるでしょう。トシをとることが「枯れる」こと、というのも、遠い昔話になりそうな気配さえあります。

 ある日、陰毛に白髪が混じっているのを発見した時、しみじみとトシを感じた、と書いていたのは、あれは誰だったか。そんなもの、毛の生えかかった中学生じゃあるまいし、いちいち自分の股間をのぞきこむことも少なくなってる昨今、誰か相方に指摘でもされないことにはわからないていたらくですが、でも、おのれの感覚のトシのとり方に見合ってそんな白髪も増えてきてくれるならばそれはそれ、抜いたりせずに甘んじて受け入れよう、と思っております、はい。