熊野・再考

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 熊野ブーム、みたいなものが昨今、訪れているらしい。

 らしい、というのも今さらだが、「熊野」というブランドをめぐって新たな商売が成り立ち始めている、それは確かだ。熊野古道などはそのアイテムのひとつ。そこに、熊野が「世界遺産」の暫定リストに登録された、というニュースが追い打ちをかける。嘘じゃない、ためしにインターネットで検索でもかけた日にゃあなた、たちどころに玉石混淆、ありとあらゆるいまどきの「熊野」が手もとに転がり出てくる。中には「波動」がどうの「宇宙エネルギー」がこうのと、かなりあやしげなものもあったりして。何にせよ、熊野は今、いろんな意味でタイヘンなのだ。

 熊野三山と呼ばれるのは、那智に新宮に本宮。正確にはそれぞれ熊野那智大社、熊野速玉大社、熊野本宮神社というのだが、このうち、那智と新宮は戦後、那智の滝が観光の恩恵に浴して人が集まった。観光バスが観光客を運び始めた頃だ。けれども、山に入ったところにある本宮だけは、当時それらの波から取り残されていた。

「とにかく本宮だけはあんまり気の毒なんでおまいりするのも遠慮しとこう、と言われてたくらいで、ほんとにさびれきってましたねえ」

 そう話してくれるのは、熊野三山奥の院にあたる十津川町は笠置神社の佐藤正史宮司。数年前まで二十数年にわたって本宮の宮司を勤めていた人だ。

 塩釜から室蘭、箱根神社などの宮司を歴任。その頃、神社本庁の肝煎りで「政治の世界もちっとはわからんといかん」というので東京に出向、なんと代議士秘書も勤めたという。そんな経験を買われて熊野の本宮へ。要は、建て直しのために派遣されたのだ。

 実際、最初に本宮に赴任してきた頃は、本殿から雨漏りがしていてシートで養生してあったという。中に入ると真っ暗で、巣くっていたムササビがあわてて飛び出してきた。こりゃ噂にたがわぬ荒れよう、早く何とかしなければ、というので、全国から集められた佐藤宮司も含めた腕きき神職五人の東奔西走が始まる……と、こう書いたらほとんど『プロジェクトX』だな。でも、実際にそれくらいの波瀾万丈の物語だったのは確かなようだ。

 資金を集めて企業などを回るのにも、とにかく顔を覚えてもらわなきゃいけない、というので、顔にわざわざヒゲをたくわえた。効果は抜群。「あ、また熊野のヒゲが来た」と言われるようになった。そうやって神社再建の資金をかき集めてゆく段の語り口などは、まさに講談か浪花節。「坊さんはみんな話がうまいですからねえ、そこへゆくと神職は口下手でいけません」と佐藤宮司はおっしゃるけれども、いやいや、なかなかどうして、宮司ってのも話に味があります。存分に堪能させていただきました。

 一本数百万円の柱を何本か建てて再建のメドがたったところで、今の笠置神社に転任になった由。本宮は今ではさらにきれいになって、日本サッカー協会のマークに使われているので一躍有名になったあの八咫烏のキャラクターでも売っている。本殿の入り口には「甦える日本!」「人生を癒す、熊野本宮」とか、なんかやたらと気合いの入ったスローガンがでっかく掲げられてたりして。ああ、そうみたいですねえ、と佐藤さんはうれしそうに笑う。でも、この笠置神社も実はひどい荒れようだったんですよ。ようやく少しは由緒ある神社らしくなりましたが。

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 翌朝、日供に参加させてもらった。寺で言えば朝のおつとめ、勤行ですな。

 朝七時、誰もいない境内に祝詞が響く。前日夕方、強行軍にヘロヘロになりながらたどりついた時には、ナイキのショーツにタンクトップ姿で出迎えてくれた若い衆が、今朝はきっちり装束つけたどこから見ても神社の人。でっかい太鼓を打ちながら唱えられる祝詞ってのはあまり聞いたことがないが、これは佐藤宮司の出身、越後の方の神社のやり方とか。昨今の熊野ブームの波はこの奥宮、笠置神社にまでやってきていて、最近はちと変わった参拝客もやってくるという。どう変わってるのか、と尋ねると若い神職、言いにくそうに「そこらにロウソクともして帰ってしまわれたり、夜中に突然奇声を発したりされるような方も中にはいらっしゃいますし……」ですと。

「わたしたちも神を求める身ですから、そういうお気持ちはよくわかるんですけど、やはり最低限の常識は持っていただかないと」

 そう、巨大な神代杉の林立する中にある境内にも、時代ってやつは間違いなく押し寄せる。

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「このへんのスギ林を見て、よそから来た人は“すごいですねえ、やっぱり古いんですねえ”なんて言ってくれよりますけど、そんなん、全然違いますわ」

 紀州田辺から北へ、熊野へとわけ入って行く中辺地路。川沿いのきついカーブに右へ左へと揺れるクルマの助手席で、後藤伸さんははっきりした声で話し続けていた。

「“ほらあ、木の幹にこんなに苔が生えてるじゃないですか”なんてえらい感激したみたいにおっしゃるけど、ほんとに健康なスギならばそんなもんつきません。もうこれ以上成長できなくなった、活力のないスギだからつくんです」

 後藤さんは長年、地元の中学校で生物を教えてきた地元の生物学者。物腰や身のこなしは、最も良質な民俗学者と同じ、正しく「地元」に根ざした知性特有のものだ。


 熊野の山々は緑が濃い。濃くて、そしてぼってりとしている。言い方はヘンだが「何かがいそう」なたたずまい。たとえて言えば、そう、水木しげるの描く森や林を思い起こしてもらえばいい。鬼太郎やねずみ男、じゃなくてその背景の方だ。あの微細なタッチでめいっぱいに描き込まれたこまかな、密度の高い風景のあやしさ、不気味さ。それと通じる何ものかが、ここ熊野の山々にもひそんでいる。「熊野」と聞いたら反射的にありがたがるような人並みのおぼこさなんぞ、初手から持ち合わせていない外道な民俗学者のあたしだが、それくらいは肌でわかる。亜熱帯モンスーンの湿度と熱気と喧騒とが東シナ海の向こうから南風と共にこちら側へやってくるような、そんな西南日本の海岸沿い、潮の匂いにまぶされた風土がらみのたたずまい。そこに介在する足もとからの「歴史」を、後藤さんは語る。

「戦後、林野庁などが主導した緑化運動で、ここらもスギの植林を奨励したんです。一本苗木を植えるごとに、当時のカネで百円くらいの補助金が出た。当時の百円ですからねえ、今の価値にしたらそりゃあ、一万円くらいはあったでしょう。だからそこら中を伐採してとにかくめちゃくちゃにスギを植えたんです。カネになるんですから、適正な密度とか考えない。それで、昔の人が考えてきたような山の守り方は崩れてしもたんですな」

 何も熊野に限ったことじゃない。日本全国、山で稼ぎをし、暮らしを立てて生きてきた地域ならたいていのところで起こっていたこと、ではある。当たり前だ。当たり前じゃないのは、そんな当たり前を全部すっとばし、いまさら大文字の「自然」ばかりを唱えては、遠い眼で眺めてうっとりしたがる手合いの方だ。

「今、こんなスギは売れないからほったらかしですよ。するとどうなるか。将来、間違いなくこういう山は死にます。スギやヒノキは根が横にばかり広がりよりますから、地滑りを起こして崩れるか、立ち枯れてゆくかですね」

 道が脇道に入る。ほどなく、舗装路が途切れて地道になる。「さあ、ここから先はここらの人じゃないと知らない谷ですよ」

 とがった落石が片側に散乱している。もう一方はというと、崩れた路肩とその先、信じられないほど深い谷。いつの間にかはるか下に沢が。

 「黒蔵谷と呼ばれてます。落ちたらそのまま鉄クズですわ」。後藤さんはあっけらかんと言う。虫を採集にくるポイントのひとつだとか。「いつもは女房が運転するクルマで来るんです」。うへえ、夜に、それも女性の運転でこんな道を走るなんて……。「いやあ、女房はもう中学の頃から虫とりにつきあわせてますから、こんなん慣れっこですわ」。まいりました、十代からの恋女房でしたか。

「ここらのこういう森の感じが、もともとの紀州の森だったんですな」

 後藤さんによれば、古くはもっと紀伊半島の北の方までこういう森が広がっていたはずだという。それが環境の変化でだんだん南へ下がってゆき、今ではこの大塔村あたりにようやく残っている由。どういう森か。ひとことで言うと「何でもあり」。ナラやカシなどの照葉樹林に、ブナやコウヤマキシャクナゲなども平然と混生。しかも、その根はというと大きな岩の塊だったりして。岩盤に木が生えているのは、そこに貼りついた苔が土の代わりになっているから。なんか巨大な盆栽みてえ。

「ここらは、年間降水量が4000ミリからありますから。しかも冬も温暖で、雪もほとんど降らない。自然環境がこういう植生を可能にしてくれたんですな」

 地元の学会の役員を歴任するかたわら、自ら「いちいがしの会」という会を主宰して、カシなどの照葉樹を植林してゆく運動をやっている後藤さんは、きっとかつて中学生を教えていた頃と同じ情熱で熊野を、紀州を語り続けてくれた。

*1:日本交通公社の『旅』の依頼原稿。取材費も出て、ああ、宮本常一以来のこういう「旅」関連の仕事も民俗学界隈にゃあったんだっけなぁ、と外道ながらに。