「マルチ商法」と民主主義

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 民主党の国会議員がマルチ商法の片棒を担いでいたというので、騒ぎになっています。

 この手の騒動は必ず対抗する政治勢力の側にも作用が及ぶのが定石なわけで、案の定、野田聖子消費者庁長官のもとにまず飛び火。こちらも似たようなもので、日本アムウェイにパーティ券を買ってもらっていたというのが発覚。まあ、民主党と違って、マスコミに騒がれる前に自分から告白しちまったのは危機管理としてひとまず悪い対応ではないとしても、その後もボロボロ自民党まわりで佐藤ゆかりだの何だのまで同様に関わりがあったことが暴露されてゆく流れに。

 マルチ商法、と呼ばれる商売の手口については、詳細は省きます。というか、このもの言い自体にも時代ごとに変遷があってややこしいわけで、アムウェイなどは長野五輪のスポンサーにまでなっていた一応は表立って活動している私企業のひとつ。ただ、一般的に抱かれているイメージとしては決していいものではないこともまた言わずもがなで、是非はともかく、「ああ、ネズミ講みたいなやり口でいろんなもの売りつけるアレでしょ」といったくくり方で理解されているのもまた現実でしょう。

 商法自体はもともとアメリカ出自、高度経済成長期にわが国に上陸、その手口を学んだ手合いが八犬伝の珠よろしくあちこちに飛散して、扱う品物は食べもの、飲み物、衣類に化粧品、日用雑貨に果ては無形の権利に至るまで何でもあり。ものを売るビジネスの方法のひとつ、ではあるのは確かでも、その手口やり口にからむなんだかんだの部分がニンゲン世間のあやしくもうっとうしいところがねっとりとからみついてくる、そのあたり含めての負のイメージが問題だからこそ、いくら当事者が抗弁しようとも、「マルチ商法」というもの言いは世間的には依然あやしいもののままになっている。

 日本語のもの言いがいつしかカタカナになると、そこに必ず何かごまかす意図が介在してきます。「ホームレス」然り、「リサイクル」また然り。だから、ここもいっそ「ねずみ講」と呼べば、その胡散臭さの領域はくっきり見えてくる。と同時に、この「講」というもの言いには民俗学者としては、いささかなつかしさを覚えたりもします。念仏講だの富士講だのからもちろん頼母子講に代表される民間由来の互助関係のあり方。「無限連鎖講」という言い方も確か、もとは法律用語として出てきたような。「講」が「無限連鎖」しちまうってんだから、もう何が何やら。「近代」のとりとめなさ、そしてその「近代」を前提として成り立ってきたそれまでなかったような種類の「世間」のろくでもなさ、が、この「無限連鎖」と「講」という組み合わせの中に鋭くも情けなく宿っている、と思ったりします。

 ともあれ、騒動の発端となった前田某とかいう議員はしょせんは小物の序の口で、フタを開けてみれば、石井一やら藤井裕久やら永田町のキャリアとしては結構な大物級がこってりとからんでいることが明るみに。実際、民主党というのはそういう脇の甘さというか、すでに脊椎動物としての背骨を溶かしてしまったようなだらしなさ、ゆるさがある徒党なわけで、今回もまたその絶好の事例になっているわけですが、しかし、ここは敢えてもう少しこだわってみましょう。

 先の野田聖子佐藤ゆかり、はたまた小渕優子などまでがある時期、同じようにマルチ商法に接近していったらしいことと、これらいわゆる「オヤジ」世代、コテコテの「戦後」で「昭和」な「政治家」たちが同じくマルチに近寄っていったこととの間には、単にオトコとオンナ、「オヤジ」と若い世代、与党と野党、といった水準とはもっと別の、結構本質的な超えがたい何ものか、があるように思います。もちろん、政治にカネがかかるのはあたりまえ、だからそういうあやしげな方向にも行きがちで、といった、テレビのコメンテーターや新聞の社説みたいな説明では、何も言ったことにならない。カネに、そして票になりそうだから、とマルチ商法に近寄っていったことは同じだとしても、その時見えた「風景」というのは、同じ近寄っていったセンセイ方によってかなり異なっていた可能性があるんじゃないか。

 それは先回りして言っておけば、「戦後」の言語空間、同時代の情報環境における「政治」と、それ以降〈いま・ここ〉に連なる情報環境での「政治」とが、〈リアル〉の手ざわりにおいて実はすでに別の内実をはらんでしまっていたりしないだろうか、という問いに根ざしています。そして、さらにほのめかすならば、それは少し前のライブドア村上ファンドの幹部たちの見ていたような、それまでとは違う異形の「経済」の風景とも、どこかで根は同じものじゃないか。
 

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 かつて、M資金、というのがありました。いや、今でも行くところに行けばまだ、話としては出回っているそうです。

 戦時中、旧日本軍が隠匿しためこんでいたとされる軍需物資が戦後、GHQに接収されて、それらは一応戦後の賠償や復興に使われたということになっているのだけれども、実は一部行方のわからなくなっていて、それが「戦後」の過程でさまざまな政治的運動資金として流用されてきているのだ、といったものが一応のアウトライン。同系統のものには、山下財宝伝説だの、満鉄調査部出自とされる児玉資金だのもありますが、いずれ時代は移り変わっても、形を変え、装いを新たにしながら、ある種の人たちの間には根深く、しぶとく広まってゆく潜在的な「力」を持ったある種の陰謀論であり、その意味でまさに「都市伝説」です。

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 単なる〈おはなし〉として、ちょっと変わった現代版ファンタジーや伝奇物語のひとつとして興味を持つ、賞味する、というのならそれはそれ、実害も特にないわけですが、実際にそれを「信じる」人たちがいて、欲得づくのゼニカネがらみで軽挙妄動右往左往することでさまざまな影響が現実に出てくる。そのように「信じる」人たちに共通する自意識のありよう自体が、これら〈おはなし〉にまつわるある種のあやしさ、胡散臭さの源泉になっています。

 現われは異なれど、基本的に自分は他の人とは違う、つまり「選ばれたもの」としての意識が濃厚にある。しかもそれが自分の不断の努力や地道な積み重ね、人生経験の上に実現したものという裏打ちが薄い分、何かボタンをひとつ押しさえすればここで一気に違う自分になれてしまうかも、という、横着でインスタントな世界観、価値観と併存している。「群を抜く」存在になりたい、できれば一気呵成に一発逆転で、というわけで、そういう「欲」が自意識の下支えになっている点が、見事に共通しています。「政治」の世界での「世代」というのは、思想信条や所属政党、派閥の力学などとは別に、そのような部分でうっかりと線引きされていたりするらしい。たとえば、松下政経塾出身の「若手」議員たちのたたずまいと重ね合わせてもらえば、その印象はより具体的になってくるかも知れません。

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 思えば、「埋蔵金」というもの言いもまた最近、ひとり歩きしています。と同時に、「実体経済」というのも最近よく耳にします。

 わざわざ「実体」と冠つけるのだから、そうでない「経済」がすでに現実のものになっちまっているってことが認識の前提になっているってことなんでしょう。「実体」でない「経済」――それがいまどき言われるような意味での「金融」であり、一部でもてはやされた「金融工学」なんて方向にも横転肥大してゆく領域のわけのわからなさ、でもあるのでしょう。

 具体的な〈もの〉から構想されてゆくものだったはずの「経済」が、その個別具体の水準から乖離したところに、濃密な虚構を構築するようになってゆく。経済学の専門家からすれば、何をいまさら、経済ってのは本質的にそういうものだ、と鼻で笑われるのでしょうが、しかしその「そういうもの」の手ざわりというやつもまた、同時代の情報環境との関係で常に〈いま・ここ〉に埋め込まれているわけで、そのあたりの皮膚感覚、虚構としての〈リアル〉のあんばいといったあたりをつぶさにことばにしてゆく手当てもできるようにしておかなければ、「そういうもの」としての経済は野放しにされたまま、うっかりするといきなり暴れ始めたりする。

 「経済」は「実体」に、もう少し言い換えれば〈リアル〉な現実に本質的に根ざしている。そういうもののはず、でした。そういう個別具体の「もの」や「こと」に収斂してゆく道筋を見失った「経済」は、おそらくある時点か別のものになってゆく。けれども、その別のものになってゆく分岐点がどこであったのか、同時代の内側から見極めにくくなっているらしいことが、「政治」であれ「経済」であれ、今のニッポンの〈いま・ここ〉をことばにしてゆこうとする時の大きな障害になっています。