追悼・永島慎二

f:id:king-biscuit:20200603202018j:plain
 おいこら、水島新司じゃないぞ、永島慎二、『ドカベン』じゃなくて『フーテン』の、『漫画家残酷物語』のダンさん、だ、気をつけろい――ネットで訃報を見て間抜けな問い合わせをしてきた若い友人にそんなオヤジ臭い説教かましたのは、こっちもそれだけトシ食ったってことなんでしょう。

 なにせ、ダンさんが逝っちまったんですから。マンガの最も輝かしかった思春期・青年期が、あれこれひっくるめて否応なしに“歴史”の側に繰り込まれて行く、もはやそういう時代、なんですから。
 昭和一三年生まれの戦後民主主義育ち。手塚治虫に直撃されてわずか十三歳でマンガを描き始め、貸本劇画界から身を起こし「子供たちのためにいいマンガを」と本気で思い詰めて、できれば「芸術」の片隅にマンガを昇華させることも願ったひとり。伝説のトキワ荘人脈にも連なりながら、『COM』と『ガロ』の双方に誼を通じ、マンガに私小説的な要素を盛り込んだ先駆者。あのつげ義春の盟友にしておそらくは微妙なライバル……何にせよ日本のマンガ史上、間違いなく特筆大書の固有名詞ではありました。

 しかし70年代、その日本マンガの繁栄の途上で、永島さんは突然、“おりた”。商業主義のマンガに絶望し、描きたいものが描けない状況に潔く背を向けた、とされています。その後、模型飛行機に凝り、手造りパイプや将棋の駒づくりに熱中し、たまにもれ伝わってくる近況からは、何かそういう微細な手仕事への没頭にかろうじて自分を支えている様子がうかがえました。その後、マンガらしいマンガを描かなくなったまま逝ってしまった永島さんの、あの「転身」の内実について、さて、あたしたちはどれだけ本気で理解しようとしていたか、そのことをいま、改めて思います。

 『毎日新聞』でインタヴューさせてもらったのはもう十年以上前、一枚絵のマンガを描きためては年に一回、個展で売るといった暮らし向きとのことでしたが、当時、暇を見て教えていた専門学校の若い衆を仕事場に集めてマンガを描かせていた。港湾荷役から倉庫業を起こした社長の言わば一代記。ダンさんに惚れた若社長から社史として依頼された仕事を敢えて彼ら若い衆に任せての陣頭指揮で、「彼らはもう、ボクのマンガなんか読んだことのない世代なんですよ」と苦笑いしながら、それでもそういういっしょくたの“場”に身を置いていることが愉しくて仕方がないという様子に、かつて新宿の深夜喫茶でフーテンたちに囲まれ、共にチータチータカやりながら慕われていたという、あの“ダンさん”の面影を垣間見たような気がしました。同時に、そこに確かにはらまれていたシャイで穏やかな、しん、とした孤独も、また。

 そう、巷間抱かれている印象とは別に、永島さんの作品は老いと死を、そしてそれらから逃れようのない人間存在固有の孤独を、じっと見つめています。だからこそ若さが、〈いま・ここ〉の自由が輝くという摂理を身体を張って描こうともした。単なるありがちな青春マンガ、一過性の消費財ではない、ある種文学として(このもの言いももう恥ずかしくなって久しいですが)読み継がれ得るスタンドアロンの毅然とした作品。マンガにはそんな可能性だってあることを雄弁に教えてくれたのは、他でもない彼、永島慎二とその作品たちでした。
f:id:king-biscuit:20200603202134j:plain
 永島さんが“おりた”後もマンガ市場は膨張を続け、商業主義からも確かな果実が生まれてゆき、日本のマンガはなるほど、世界に認められるようにもなった。商業主義に潰されない自由を、理想を希求したその魂は、今ではもう鈍重で古くさいものに見えるでしょう。でも、だからこそ、です。ならば、彼にとっての「いいマンガ」とは、ついにどういうものだったのか――あの「転身」の意味と共にそれが、今も永島さんの残した作品に向かいあうあたしたちに残された大きな宿題、になりました。

そんなぼくでも、一つだけたしかなことがあるんだ。それは将来きっと、見る人が、べつに泣いてよろこんでくれなくとも、笑ってくれなくてもいい、ただね「人間っていいな」って思うような、漫画を描きたいと思っていることなんだ。そして、もし若い人がつまらないから死にたいといったら、ぼくは胸をはずませて言いたいな。「この漫画を見て下さい」 きぜんとね。
――青林堂版『フーテン』あとがき、より*1

漫画家残酷物語―シリーズ黄色い涙 (1)

漫画家残酷物語―シリーズ黄色い涙 (1)

 
漫画家残酷物語―シリーズ黄色い涙 (2)

漫画家残酷物語―シリーズ黄色い涙 (2)

*1:この引用部分は紙幅の関係から割愛されました