思いっきりおおざっぱな「ラブコメ」・試論

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 ニッポンのマンガ表現において、「少女マンガ」「少年マンガ」という分類が、事実上意味をなさなくなったのは、おおむね1980年前後のことでした。

 具体的には、『タッチ』『みゆき』に代表されるあだち充の一連の作品あたりから顕著になり、高橋留美子うる星やつら』に最終的に結晶していったような、当時の『少年サンデー』系「ラブコメ」が「少年マンガ」の内実を変えていってしまった。そのような「ラブコメ」の「少年マンガ」に対する浸食は、高度経済成長期の「豊かさ」の中で、ニッポン人の「リアル」がどのように変貌していったのか、について考える上で、おそらく想像以上に大きなできごとになっているはずなのです。

 マンガというジャンルの中で、それまではっきりとあったはずの「少年マンガ」「少女マンガ」という棲み分けがなしくずしになくなってゆき、それはマンガ表現の水準での変貌であると同時に、それらの読者や、読者をとりまく環境の変貌でもあった、と。

 その大きな変貌の中を、「子ども」からゆるやかにそれ以外のもの――いわゆる大人へと向かう過程を生きたひとりとして、あの時期のマンガをめぐる状況の奇妙な風通しのよさについて、少し考えてみたいと思っています。


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 しかし、そのことを考える前に、たとえざっとであっても、地ならしておかねばならないことがあります。そもそもマンガにとって「リアル」とは何か、という、いささか根本的な問いのことです。

 もともと子どものためのもの、であったマンガは、当然子どものための「リアル」を想定してこさえられるようなものでありました。

 じゃあ、おとなのための「リアル」ってなんだったの、という問いだって当然あるわけですが、それはひとまずおいておきます。というのも、おとなのための「リアル」というのは多くの場合自明のもので、わざわざ問われるようなものではなかった、というのがひとつ。もうひとつは、それが問われるようになり始めたとしても、その問い方自体、おとなの中でもさらに例外的な存在(そんな呑気な問いを平然と問うていられるようなお気楽な人たち)を前提にしたものでしかなく、ということは当然、子どもも、そしておんなも視野には入ってこないのが普通だった、ということです。だって、「おとな」とはそのまんま「おとこ」であり、それ以外をひとくくりにするのが「おんな・子ども」だったわけですから。

 そんな子どものための「リアル」。それはもう少していねいに言えば、その時代のおとなたちがその時代の子どものために、よかれと思ってこさえるような「リアル」、ということです。そして、そういう種類の「リアル」が、マンガという表現には必ず盛り込まれていました。

 おとなが子どものためによかれと思ってこさえる表現、それがマンガである――この素朴すぎるくらいに素朴な約束ごとが、しかし、ともすれば〈いま・ここ〉からマンガの歴史を見てゆく時には、案外なかったことにされてしまっています。特に、高度経済成長期の「豊かさ」がもたらしたマンガの大量生産/大量消費の仕掛けとその波及効果(大手出版社による週刊誌の創刊と市場の飛躍的拡大、それに伴う読者層の組織化、などなど)を、その後のなりゆきからあらかじめ自明のものとして考えてしまうと、マンガがマンガという表現であるということだけで、なだらかにその歴史が連続しているという風に、うっかり見てしまいがちです。

 そうではない。マンガの歴史、などといった時に自動的に想定される歴史には、そこに明らかな不連続がはらまれています。

 少なくとも、その生産や流通といった局面も含めて、広い意味での情報環境という視点を介在させながら立体的に「もの」や「こと」を、そしてそれらのしなやかで不定形な複合体としての「できごと」を見てゆこうとすれば、その不連続に気づくことはそんなに難しいことではない。それは歴史観や社会観といった、単にこれまでの既成のパラダイムの同じ水準、同じ位相でのズレともまた違う、人が人として生きるこの現実をどのようにとらえるか、という視点からの「社会」や「歴史」といった道具立て相互のつながり具合も含めた、われわれニッポン人が日本語を母語とする広がりの内側で現実を認識してゆく際の、言わば根本的なOSの書き直しを要求するようなものです。敢えて大風呂敷を広げてみるならば、文科系とこれまでひとくくりに呼ばれてきた領域のことばたちが、〈いま・ここ〉の現実に対して軒並み効きが悪くなっている、そのことの歴史的、文化誌的意味自体を問い直そうという地点に一度、謙虚に身を置いてみることから初めて、これまで決してそのようなことばたちの側からきちんと扱われてきたとはいえなかったマンガ表現が、その時代その時代で付与されていた同時代的な意味についても、穏やかに眼を向けてゆくことができるようになるはずなのです。


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 その意味で、マンガもまた、児童文学などと同じ土俵の上に成り立っていたと言えます。というか、マンガがある程度論理的な、理性的な「批評」の側から対象にされることがあるとしたら、そのような児童文学の脈絡において、というのが通常でした。「子どものために」とは、マンガにとってはそのような対象にしてもらうための必須条件でもあったわけです。

 実際、この「子どものために」という題目自体、今となってはもうわかりづらくなっているかも知れません。けれども、ある時期までのマンガ表現にとっては敢えて言うまでもない前提として存在していました。

 ベレー帽をかぶり、ペンを持ち、という、今ではギャグのネタとしてしか使われなくなった「マンガ家」のステレオタイプは、さかのぼってほどいてみれば、ルパシカを着込んだ「詩人」や「革命家」(結構、同義だったりしますが)、そしてそのような文脈での「芸術家」のそれにも連なっています。マンガでさえもがそのような「前衛」たり得る――たとえば、初期の永島慎二が執拗に描いてみせたような高度成長期のとば口でのマンガ家志望の若者たちの葛藤というのも、まさにそのような「社会の役に立つ」表現を手がける者の責任感があらかじめあったからこそ、未だマンガを認知しない辛い現実との間に宿るようなものでした。「たった一冊でもいい、子どもの一生の友だちになれるようないいものが描ければ」「二十年かかろうが三十年かかろうが、自分好きな一篇の短篇マンガが描けたら」というセリフは、下敷きになっていたのがたとえば太宰治だったとしても、そのような「子どものために」という想いが、自分という一個人の芸術的な表現衝動を正当化して支えてゆくものになり得た、そんな同時代の気分が反映されています。*1

 ただ、それは一方では戦前の、それこそ「ワレラ少国民」的な「子ども」のために、という地点から、戦後の「新生民主日本の未来を担う」新しい世代としての「子ども」のために、という地点まで、どこか無限定にポジティヴな意味づけを背負わされてしまう「子ども」という表象の問題として連続してもいる。その擬制としての連続こそが、おそらくこれまでの文科系のことばが確保してきた「歴史」や「社会」の連続とも見合っているのでしょう。とすれば、おとなが子どもに対して勝手に付与してきたそのような意味づけの歴史――それこそが言葉本来の意味での「子どもの歴史」であったりするはずですし、そのような大きな前提に立って初めて、「子どものために」が当たり前だったマンガ表現の、未だ十全に語られていない来歴についても光が当てられるはずです。それはいわゆる「サブカルチュア」に対してどのような解釈の枠組みが当てられてきたのか、そしてそれによってどのような語られ方をされ、どのような意味づけがされてきたのか、という、これまであまり全貌が明らかにされていない「未だ語られぬ歴史」の領域に眼を向けることにもつながってゆきます。*2

 たとえば、かつて、マンガ=「お菓子」説、というのがありました。

 子どものよりよき成長にとって必要なのは「主食」である。それは、やはり活字の本であるのだけれども、しかしそれだけでも十分ではない。主食と副食の組み合わせによる三度三度の食事だけでなく、おやつの甘いお菓子も子どもには必要なように、娯楽としてのマンガを与えることは必ずしも悪いことではないのだ――およそこういう理屈で、マンガは正当化されるようになっていました。

 これらのもの言いに「主食」だの「栄養」だのという、栄養学の語彙が入り込んでいることにも注目しておきましょう。昭和二十年代後半の生活改善普及事業や、その後の新生活運動から、そして少し別の方向からは同時期の学校給食法の施行を背景にした学校給食の普及から、そのような「栄養学」の知識の大衆化は進行してゆきました。それは、具体的な生活の局面――言い換えれば「おんな・子ども」の領域から、それまでになかった枠組みを当てることで生活そのものの意味さえも変えてゆく大きな流れにつながってゆきました。「子ども」に関わる局面で持ち出されるこのような「栄養学」的な語彙やもの言いも、そういう意味では当時の時代的必然だったところがあるはずです。

 そのようなマンガの「リアル」とは、映画のそれとも違うし、もちろん小説のものとも違っていました。

 表現――つくりものにとっての「リアル」とは何か、ということをわれらニッポン人が本格的に問いなおし、ことばにしてゆく大きなきっかけになったのは、ひとつは言うまでもなく明治期の「自然主義」の議論であり、もうひとつは、大正期のマルクス主義の流行に伴ういわゆる「社会主義リアリズム」の議論だったと言っていいでしょう。共に、文学に軸足をおいた場所に宿ったもので、その限りで、「書かれたもの」を前提にした議論であることもまた当然のことです。ゆえに、ここでは講談や浪曲その他のオーラルな語り物、あるいはさらに広い範囲での芸能の範疇は、まず視野に入れられていません。「リアル」ということもまた、そのように「書かれたもの」からその問いのはじめの一歩を記さざるを得なかったということは、ひとつおさえておいていいと思います。*3

 「自然主義」や「社会主義リアリズム」と、それら芸術のさまざまなジャンルの関係については、なるほどこれまでも山ほど論じられてきています。

 しかし、「自然主義」にせよ「社会主義リアリズム」にせよ、そのような大文字がそのまま適用されることが可能だったような、いわゆる文学や詩や短歌や俳句、あるいはせいぜいが映画といった陽の当たるジャンルならばともかく、それ以外の領域、それこそマンガなどにとっては、そのような議論の枠組みさえも当てられることは、ほとんどありませんでした。文学史にとってのよくも悪くも基礎事項であるはずの「自然主義」の輸入にしても、ならばマンガにとっての「自然主義」とは、などという問いにまで敷衍してみたものは、まずありません。あるいは、「社会主義リアリズム」が映画の技法に与えた影響を論じる書物はたくさんあっても、ならばそこからマンガの表現技法にどのような影が落とされていったのか、などについては、ほぼ手つかずの状況です。マンガは未だにちゃんと活字の論理、文字の理性の側から、穏当な解釈の網の目をほとんど当てられてきていません。それは俗に言われるマンガ批評の領域でさえも、自らの来歴について内省的にとらえなおす契機を未だに持てないままなのを見てもわかることでしょう。

 そういう意味で、同じ「芸術」とくくられ、後には「大衆文化」と割り振られるようにもなった広大な領域――さらに射程を広げれば、それはまさに言葉本来の意味での「サブカルチュア」へと転成してゆくものでもあるわけですが、それら一連の領域の中でも、批評の枠組みとの距離によって「リアル」のありようが明らかに異なる水準になっていることは、容易に推測できるはずです。時代の相において相互に関連しながらも、しかしそれぞれのジャンル固有に生成されてもきていたはずの「リアル」の水準――マンガという領域に宿ったその「リアル」についてつぶさに語ることばを、われわれはまだ持っていないようです。


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 すでに言われ尽くしたことですが、手塚治虫がその剛腕で、一気に地ならししてしまった「リアル」というのがあります。

 戯画であり、ポンチ絵でもあるような、ある種極端に省略し、抽象を施された水準での絵画表現と、それを応用して構築された独特のマンガの文法。それらにもすでに歴史があるわけですが、その約束ごととしてのマンガの文法をある一定のところでとりまとめてしまった、それが手塚のやったことである――このことは総論として間違いではありません。ただ、そのような「リアル」に飽き足らない感覚というのが、表現自体の生成と転成の過程で必然的に出てくる、それもまた事実です。

 「戦後」と共に一気に開花したかに見える手塚のマンガ表現の背景には、昭和初年、阪神間モダニズムの水脈が明らかにあって、歴史の彼方に消えてしまっているものの、間違いなくすでにある水準に達していたはずの当時のマンガ表現のエッセンスが、映画体験と共にある種のタイムカプセルとして手塚の内側に仕込まれていた――夏目房之介はこう指摘しています。この見方は正しい。と同時に、そのタイムカプセルが「戦後」の時空でその蓋を開いてしまったこと、そしてその「戦後」の内懐で同時代の読者がどのようにその手塚のマンガ表現を読んでいったか、それはまた別の歴史でもあります。*4

 手塚の「リアル」をデフォルトとして、「戦後」のマンガは展開してきた。総論として、このことに異論はありません。だからこそ、そのような手塚の「リアル」に対するアンチテーゼとして、別の「リアル」が設定されもする。

 「劇画」というのは、実にそのようなものでした。

 この「劇画」というもの言いも、これまた今となってはわかりにくくなっている隠された意味が、もうひとつの歴史の水準に開いた形で内包されていますが、当時、この「劇」という部分に込められた気分というのは、たとえば「それまでのマンガではない」「子どもだましではない」そういう種類の「リアル」なんだ、というようなものでした。同時にそれは、手塚のような「リアル」とはもっと違う「リアル」を、という主張を含んでもいた。

 さらに言い換えればそれは、マンガとは「子どもだまし」である、という認識をすでに当たり前に持ってしまうような者たちが、マンガをこさえる側に立つようになったということでもあります。つまり「青年」です。それまでのマンガをこさえてきたような「おとな」とはまた違う、それまでとは別の価値観を持っている、と自分たちもそう思い、そしてまた状況的にもそうであったような新たな世代。マンガで育ち、しかしそのマンガを「子ども」という時期特有のものとすることを潔しとせず、どこか自分の抱え込んだ「リアル」を表現する手段としてゆければ、と考えるようになっていた者たち。彼らが敢えて掲げてみせた「劇画」には、そういうそれまでとは違う「リアル」への忠誠心が込められていたと見るべきでしょう。

 もちろんそれは独自に、その他のジャンルから孤立したところで生成されたものでもない。「リアル」とはどのような局面においても、その時代その時代の情報環境に既定された多面的なものにならざるを得ない。「劇画」を宣言した者たちにとってのそれは、たとえば映画に大きく既定されるようなものでした。

 貸本劇画を支えた主要な読者層について、「映画もろくに観ることのできなかったような、十代を中心とした若年層の工場労働者たちだった」という指摘があります。左翼史観のフィルターを当たり前のものとして文化を語るのが定番だった時代であったことを差し引いても、映画の代替物としての貸本劇画、というこの図式は、ある部分でかなり的を射たものだと思います。*5

 だからこそ、映画というジャンルの「リアル」に感化された者たちが「劇画」を主張するようになっていった。それは、それまでのマンガのように「子ども」という場所に囲い込まれたものではなく、明らかに新たな社会の広がりに接した年代――「青年」という新しい場所と最も親しむようなものになっていました。ついでに言っておけば、その「映画」というのも戦前までの映画とは違う、洋画が当たり前に観られるようになった状況での「映画」であり、また、総天然色のものでさえもずっと身近になってきた、だからこそそれらを「ろくに観ることができない」ということのストレスもそれまでとは違うものになっていた、そんな文脈での「映画」です。さらに付け加えれば、都市型若年単身労働者の居住モジュールとしての四畳半、共同便所、共同炊事場型の集合住宅が、新しいスタンダードとして広まり始めた、そんな環境で読まれるものとして、貸本劇画はあった、ということでもあります。*6

 そのような「青年」の「リアル」に対応するものが「劇画」だとしたら、ならばその一方で、「子ども」のある部分に内包されていたはずの「おんな」に対応すべきはずの「少女マンガ」というのは、さて、どのように発生していったのか。これもまた大きな問いとしてあります。何より、その「少女マンガ」というもの言い自体の来歴すら、それほどはっきりしたものではありません。ただ、少なくとも言えることは、「マンガ」がそのままで「子ども」一般と結びつけられるのが自明であった状況から、わざわざ「少年マンガ」と「少年」をつける必要ができてきた、その程度に「マンガ」が一枚岩ではなくなってきたということです。

 敗戦後の雑誌ブームの中で、戦前からあった『少女倶楽部』が『少女クラブ』に改名して再出発、『それいゆ』『ひまわり』などが新たに創刊、続いて『少年』に対応する『少女』が出現し、『女学生の友』『月刊少女ブック』なども生まれました(いわゆる赤本系のものは、ちょっとおいておきます)。けれども、それらはマンガが主体というわけでは必ずしもなかった。本格的な少女誌としての『なかよし』『りぼん』が創刊されるのは昭和30年でしたけれども、ちょうどこの頃、マンガはようやく社会問題として取り上げられるようになる。「児童漫画」というくくり方ではあったものの、読者である「子ども」との関係で問題視されるようになってゆきます。それまではまだ絵物語などととりまぜた誌面にマンガもあしらわれているといった程度だったものが、じょじょに誌面の大部分を占めるようになってきます。とは言え、この頃の「少女マンガ」(という言い方はまだなかったはずですが)の描き手のほとんども、またおとなであり、おとこでありました。なにしろ、手塚自身がまた『リボンの騎士』を描いたのが『月刊少女ブック』でしたし、少し後、赤塚不二夫にしても石森章太郎にしても、松本零士にしても同様でした。いずれにしても、「おとな」(おとこ)が「子ども」のために描いたもの、という図式はここでも揺るぎません。

 けれども、同じ「子ども」であっても、ジェンダーの相違による読者の棲み分けというのはかなり明確にされていました。

 「少女マンガ」を平然とおとこの子が読めるようになったのは、実はそんなに古いことではありません。先の「劇画」という「リアル」を主張していった「青年」たちが、実は同時に、そのような「少女マンガ」を平然と読めるおとこの子の、おそらくは第一世代でもあり得た、ということです。もちろん、まだ同世代の中でも例外的な、たとえば妹がいるから、といった事情で、身の回りにそのような「少女マンガ」が転がっていたとか、そんな環境にあった者からそれは始まっていったことでしょうし、何より、そんな者たちでさえも、「少女マンガ」を読んだ、ということを、ことさらにまわりに語るような作法もまだ持ち得ていなかったはずです。

 しかし、画然と棲み分けがされていた、その隔壁をそっと超えてみるような者たちが、それまでよりもずっと必然的に現われるようになった、それははっきり指摘しておかねばならない。最初に棒を手にしたサルではないけれども、もののはずみなどではなく、ある内的な必然とささやかな確信と共に、「少女マンガ」を手にとってみた無名の「青年」予備軍のおとこの子たちが、間違いなくある一定量出現していた。

 そんな彼らがマンガ「青年」たちとなり、さらに意識的に「少女マンガ」を手にとって読むようになる、そのことで、「少女マンガ」は後には「批評」の枠組みにさらされるようにもなりました。そのようにして、「少女マンガ」のイノベーションは起こっていった、それがおよそ1970年代の始めあたりの状況でした。いわゆる「24年組」の描き手たちの出現に代表されるそれらの流れは、呉智英がいみじくも指摘していたように、「本当は大学へ行きたかったけれども、行くことのできなかった」階層から生み出されていました。それより前、60年代後半から始まっていたユースカルチュアの盛り上がりの中で、マンガもまた、「青年」たちの中からそれまでにない新しい表現主体を発見してゆき、同時に読者もまた耕していった。〈いま・ここ〉で言われるような「少女マンガ」がその輪郭をはっきりと整えるようになるのは、実にそのような過程においてでした。*7


 確かに、自分のことを振り返ってみても、それから少し後、70年代の半ばにおいてもなお、『別冊マーガレット』を手にとることはかなりの勇気のいることでした。と同時にそれは、少しばかり晴れがましい気分もかきたててくれるものでもありました。こういう「おんなの子」のものを楽しむことのできる自分、というのが、何か背伸びできたような感覚としてあったように思いますし、もっとほどいてみれば、ある種の解放感みたいなものもそこにははらまれていたように思います。

 こういうことを言うとよく、「おんなの子にもてたかったからじゃないのか」と言われることがありますが、それはおそらく違う。「少女マンガ」に詳しいおとこの子など、むしろ逆に敬遠されるべきもののはずでした。異性と共通の話題を持ちたいと思えば、そんなマンガなどではなく、芸能誌などを拾ってアイドル歌手のゴシップのひとつも仕込んだ方がよほど役に立ちましたし、またそのための芸能誌というのも、すでにマンガ週刊誌以上に手に入りやすい状況にありました。「世の中のあらかじめ隠されていること」を説明する原理として、「おんな」と「カネ」を発動するというのは、おそらく、近代的な情報環境が整ってこのかた、ある種の世界標準になっているわけで、そしてそういう標準の下に近代の「リアル」のある部分は間違いなく支えられてきてもいるわけですが、でも、それが近代の世界標準であり、フォークロリックな構造における「真実」であるという意味で、「もてたかったから」というのは何の説明にもなっていない。いや、いないどころか、それによって本来明らかにされるべき水準、われわれがこれから真に求めてゆきたいはずのもうひとつの現実を、隠蔽してゆく効果さえ持つ、と。

 70年代半ばから後半にかけて、『少年サンデー』以下、少年誌にそのような「ラブコメ」が掲載される、ということは、とりもなおさず、おおっぴらにそのようなものを読んでいい、ということでもあったわけです。そして、当時のわれわれおとこの子にとっての「少女マンガ」とは、「異性」についての問題をある種「リアル」に語ってくれるメディアのひとつ、に他ならなかった。誤解をおそれずに言えば、それはある種のエロ本と同じようなものでもあった、と。

 「少年マンガ」の中に、「異性」の問題を語ってくれるものがなかったわけではない。いや、それはあの『巨人の星』でさえも、星飛雄馬が異性にめざめてゆく過程が、父親星一徹の葛藤としてかなりていねいに描かれていたのだし、そのていねいさを読み取れないほど、われら当時のマンガ読み少年たちは鈍感でもありませんでした。おそらく、少し年上の、かの「青年」たちももちろんそうだったでしょう。梶原一騎で一般化するのが乱暴だというのなら、他のものでもいい、「おんなの子」に対してどのように接するのが正しい「おとこの子」であるのか、という問いは、当時の「少年マンガ」にとってはすでに隠されたテーマのひとつ、であったことは間違いありません。ありませんが、しかし同時にそれは、あくまでもひとつの徳目、「こうあるべき」という理想形を語ってくれるものでしかないのも、また確かでした。

 「好きなおんなの子」ができる、ということはどういうことか。どういう心の動きがどのように自分の内に感じられるようになるものか。しかも、そのことを一般論でなく、自分の〈いま・ここ〉に即した形で説明してくれる者はいるのか。いたとして、それはどのような言葉、どのようなもの言いで、こちらの心に響いてくるようなものになってくれるのか。

 その程度に「恋愛」というのが、われわれおとこの子にとっても重要な関心事になり始めてました。もう少し言えば、それまでのような意味づけの仕方で処理され得ないような関心の持ち方を異性に対して、そしてそれら異性との関係の持ち方としての「恋愛」に対して、多くのおとこの子が普通に抱くようになってきた、ということだったのでしょう。

 同じ24年組の中でも、竹宮恵子萩尾望都よりも、むしろ大島弓子に魅かれるのが、われわれおとこの子にとって、ひとつの定番だったのも、そういう意味で必然でしょう。当時、そのように突出し始めていた「少女マンガ」の象徴として取り沙汰されたような少年愛(と言っていいかどうかもまた、かなり微妙なのですが、そのこともここではおいておきます)の世界は、異性とのつきあい方を理解しようとするテキストとしては、正直言って敷居が高かった。と言うか、おとこの子がそのような意図で読むには初手からムリなシロモノでありました。逆に言えば、大島弓子をエントリーモデルとして「少女マンガ」を理解してしまったおとこの子が当時、ある程度大量発生してしまっていたのだろうと思っています。そして、そのような感覚がまた、24年組に偏った「少女マンガ」像をつくりあげることにもなった、と。

 だから今、うっかりと口にする、その「少女マンガ」というもの言いそのものにもすでにそういうバイアスがかかってしまっていて、人によって、呼吸した情報環境によって、その内実はほんとうに千差万別であるということを、のちのちまでも思い知らされることになります。


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 その頃の「少女マンガ」を象徴する、その「ラブコメ」という言い方も、おそらく「少女マンガ」の側から出てきたもののはずです。

 今でこそこれもテクニカルタームのように使われていて、ロマンチックコメディ、の略ということになっています。これが英語として成り立つものかどうか、どう考えてもあやしいと思うのですが、それはともかく、もの言いとしてはこの「ロマンチック」よりも後の「コメディ」の部分が、案外カギだったりするのではないか。

 それは、少年マンガにとっての「ギャグ」と重なる部分もありますが、しかし同じではない。ただ、どちらにしても「笑い」を介在させることで深刻になりがちなテーマをひとつ昇華する、そんな効果があったのはひとまず確かでしょう。陸奥A子や田渕由美子といった、後に「ラブコメ」と必ず結びつけられることになる描き手たちの描いた世界にしても、主人公たちはかるくずっこけながら、失敗しながら、けなげに「異性」との関係を夢見続けているという意味で、もしもそこに「コメディ」と称する「笑い」の要素が介在しなければ、救いようのない煮詰まり方をするものになっていたはずです。そのような「ラブコメ」をさして、「やさしいポルノグラフィー」と言ったのは、橋本治でした。正確には、陸奥A子を論じてのもの言いでしたが、奇しくも、先に「少女マンガ」がおとこの子にとってのある種エロ本であった、ということの裏返しになっているのは、偶然ではないはずです。*8

 もうひとつ、舞台が「学校」であったこと、ということも触れておくべきことでしょう。言わずもがなのことでしょうが、それは子どもにとっての「日常」であり、ムラに代表されるような「地域」社会の崩壊していった高度経済成長の過程においては、間違いなく「もうひとつのムラ」として、共同性を育んでゆくべき培養器にもなっていました。そのような「学校」を中心とした「日常」で、「恋愛」を語る――何のことはない、近代このかた、それほどきちんとしたひな型のなかった「恋愛」に対するテキストとして、「少女マンガ」は本来の読者として想定されていたおんなの子にばかりでなく、おとこの子にも読まれるようになっていた、と。

 六百万部というとてつもない部数を達成した、全盛期の『少年ジャンプ』編集長だった西村繁男は、その回想録の中で、ある時期、若い部下たちからあがってくる企画書の多くがラブコメになってしまった、と書いています。*9彼はそのことを嘆いているのですが、しかし、すでにその頃、読者の支持を受ける作品はそのようなものになっていった、ということもはっきりと書いています。この場合の「ラブコメ」は、もちろん「少女マンガ」におけるそれとは少し違って、すでに「少年マンガ」の範疇に浸透してきた「ラブコメ」的なるもの、と言い換えた方が正確なのでしょうが、それでも、「努力・根性・友情」を徳目とした「少年マンガ」のある究極化をめざした『少年ジャンプ』の中に、ひとまずなかったことになっていたはずの、そしてだからこそ集約的に内圧を高めてゆくこともできたはずの、「異性」との「恋愛」という要素が否応なしに侵入してきた、その戸惑いは素朴に表現されています。

 「少年マンガ」とはそのようにおとこの子を、ジェンダーなき仮想空間に置くことで、その社会的な属性をそのまんまにある種純粋化してゆく装置でもあった、と。それが最もわかりやすく現われていたのが、いわゆる「スポ根」と呼ばれるジャンルだったことはすでに明らかにされていますが、実際それは、単に「おとこの子」という存在だけの問題でもなくて、「豊かさ」を実現してゆくまでのニッポンの世間、そんな世間を構成するとされてきた「大人」の問題とも重なってゆくものだったりします。

 そして同時に、「少女マンガ」もまた、おんなの子を純粋化してゆく装置でもありました。その程度にマンガと読者との関係というのは分割的で、今からふりかえればびっくりするほど相互に不可侵の約束ごとが成り立っていました。けれども、それらの間に風穴があき、「ラブコメ」が「少年マンガ」に浸透していったのと同じく、「スポ根」とは言わないまでも、「努力・根性・友情」もまた「少女マンガ」の側にとりこまれてもいった、と。何も『アタックNO1』のような、「スポ根」の単純な引き写しのような作品を言っているのでもない。おんなの子もまた努力すべきであり、根性が必要なのであり、そして友情だって立派に涵養するべきものなのだ、という世界観、それこそが、「男女平等」という「戦後」の徳目のひとつの帰結でもあったわけで、そのように考えれば、それら相互浸透を最も有機的に行ったのが、先にも言った『うる☆星やつら』だったということがよくわかるはずです。


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 かくて、「ラブコメ」は、ひとり「少女マンガ」のものでもなくなり、「少年マンガ」にも平然とまかり通るものになってゆきました。そして、そのような相互浸透の前に、かつてのように互いに距離を置き、相互不可侵条約を結んでいた「少年マンガ」「少女マンガ」というジャンルは、ひとまず意味を持たなくなっていった、と。マンガ表現の形式として、あるいは文法として、それら「少女マンガ」「少年マンガ」が育んでいたものは、技法と共に生き残っているし、そのことは何も不思議ではない。けれども、かつてそれぞれにある内圧を伴って独自の読者、独自の読み方を組織することもあったはずの「少年マンガ」「少女マンガ」という棲み分けは、おそらくなくなってしまった、ということです。

 ならばその後、〈いま・ここ〉に、それら「少年マンガ」「少女マンガ」の、形式ではない、内実の部分というのは、果たしてどのように転生しているのか。

 80年代初めに起こったこのような隔壁の溶解、ジャンルの独自性の消滅、の後、バブル期を介して90年代に至る過程で起こったことを理解しようとする時に、ずおさえておかねばならないのは、まずもって「青年」たちにとって「恋愛」というのが、それまでのように特別なものというだけでもなくなった、ということがあげられるでしょう。「異性」との関係をどのように作ってゆくか、ということが、消費生活とそのまま直結して説明されるようになり、カネやモノで換算される関係として理解されるような風潮が、よくも悪くも一般化してゆくと同時に、セックスでさえも特別なものでもなくなっていった。もちろん、どれだけ情報環境が変貌し、消費生活が肥大しようとも、はじめの一歩、心ときめかせて「異性」に向かうその感覚は常に「リアル」であるはずなのですが、しかしその「リアル」でさえも、すでに目の前の生身の「異性」の野放図の前では容易に色褪せてしまうものになりました。

 相対主義、というのは何もアタマでっかちな思想おたくの能書きではなく、このような「豊かさ」の果て、歴史と経済の必然として現実のものになった身体感覚と「リアル」の乖離、おののきながら世界に意味を与えてゆこうとする人間本来の営みを支える根源的な力の衰弱として、まごうかたなき〈いま・ここ〉として立ち現れたものでした。

 かるい風俗として、そのような現われを表層的になぞるマンガ表現はもちろん泡のように出ては消えてゆきました。それもまた、マンガというメディアの同時代的役割のひとつではあります。しかし、同時にまた、そのような現実の中から、かつての「ラブコメ」に込められたような問いをもう一度、別の表現、別の枠組みでマンガに整えてみようという試みも、当然出てきました。

 たとえば、鴨居まさね雲の上のキスケさん』などはどうでしょう。*10 

雲の上のキスケさん (1) (ヤングユーコミックス)

雲の上のキスケさん (1) (ヤングユーコミックス)

 

 すでに、いまどきのマンガ読みたちの間では定評のある作品になっているようですが、ひとまず形式としては「少女マンガ」の系譜に位置づけられる作風の上にある作品世界は、まさにかつての「ラブコメ」に込められていたような「恋愛」に向かう際の個別具体的な問いの数々によって成り立っています。

 主人公の石井眉子は、二八歳。ひとまず一流企業のやり手総合職OLです。お定まりの社内恋愛をしていて、時代が時代だということなのでしょう、おしゃれな都会のデートスポットを経めぐるような消費社会型「恋愛」もひと通り体験しています。けれども、そんな「恋愛」にも失敗、オトコにふられた腹いせにひとり呑んで荒れていたスナックで、一風変わったヘンなナンパをされて出会ったオトコがキスケという、地味なギャグマンガ家でした。このキスケさん、とにかく完璧な夜型で紫外線に弱い。昼間のまっとうな世間をまっとうに世渡りしてきた、はずの眉子とは、およそ棲む世界が違う人間でありました……

 かつての「ラブコメ」ならば、このふたりがどのように出会って「恋愛」のとば口に至るのか、を綿々と描いていればよかったのでしょうが、いまどきはそうじゃない。出会うまではあっという間、そしてとにかく当たり前のようにくっついて、セックスもして、互いに色ボケしてしまう始末。けれども、ここからがいまどきの「ラブコメ」の本筋です。

 眉子は会社を辞め、街の小さなエステショップに転職し、おばさん相手の接客からエスティシャンとしての技術の習得まで、それまでの総合職OLとはまるで違う人生を歩み始めて、キスケとのつきあい方にも幅が出てくる。そこに、眉子の高校時代からの友人だという華僑のマニーに、そのルームメイトでビジネスパートナーというホモの岡本のふたりがからんで、セックスもあたりまえに含み込んだ「恋愛」(もともとそんなものだったはずなのでしょうが)の、さまざまなありようを描いてゆく、という結構になっています。

 ひと通りの位置づけとしては80年代的、というか、バブル期シンドロームというか、とにかく「恋愛」が「豊かさ」の誤った解釈と手に手をとって消費生活の側にどんどん横転していった、そんな時代からの90年代的な復員過程を取り上げた作品ということも言えるでしょうが、それよりもなお、おとこたちのセクシュアリティの描かれ方が、おんなたちのそれと同様に多様性に富んでいるのが、かつての「少女マンガ」のあり得べき成熟のひとつの形を見せてくれているように思います。ルームメイトでありながら恋愛感情はひとまずなく、それどころか、マニーの恋人をカラダ抜きで奪ってしまう(妙な言い方ですが、こうとしか言いようがない)岡本の存在などは、かつてのおとこの子、おんなの子が「豊かさ」の中でもみくちゃになりながらもぎくしゃくと「恋愛」を学んでいった果てに遭遇してしまった、心と身体、ジェンダーセクシュアリティの相剋を表現したものだと言えるでしょう。掲載誌が『YOUNG・YOU』という、かつての「少女マンガ」の読者層が次第にそのままずれ上がったところに設定された、しかしいわゆるレディスコミックほど明確に商品化された市場にはいまひとつなじめない、そんな二十代半ばから後半の女性を想定したメディアなのも必然でしょう。陸奥A子や岩館真理子といった、かつての「少女マンガ」の「ラブコメ」系の描き手が共にラインナップされているのも、象徴的です。

 「少女マンガ」と「少年マンガ」が幸せにそれぞれの世界に棲み分けられて、読者もまたそれぞれにまどろんでいられた状況からすでに遠く、〈いま・ここ〉の現実はかつてのようなマンガ表現の枠組みでは計測しきれない多様性、多面性をはらんで目の前に横たわっています。けれども、たとえば「ラブコメ」がかつてのおとこの子に対して果たしたような「恋愛」のテキストという部分は、ゆるやかな形ではあれ、〈いま・ここ〉のマンガ表現のある部分にその内実が受け継がれている。見てくれや形式ではない、同時代の「リアル」に足つけた表現であろうとするならば、このような形での伝承、継承というのはやはり行われてくる。その程度には、マンガというやつは未だ「リアル」な表現としての力を失っていないのだなあ、と、少しだけ安心してみたりするのでありました。

*1:サブタイトル……あるいは、「豊かさ」の申し子であるおとこの子たちは、なぜ、少女マンガに向かったのか、についての覚書

*1:永島慎二黄色い涙』『漫画家残酷物語』(青林堂朝日ソノラマ)など。

*2:サブカルチュアがいかに語られてきたのか、についての歴史をひとまずカッコにくくろうとする足場なくして、マンガはもちろんのこと、もはやそれらサブカルチュアが日常のあらかたの領域を覆ってしまったかに見える高度資本主義段階のニッポンの現在を生きながら、その内側からなお〈いま・ここ〉を語ることなど、とてもできないでしょう。たとえば、少女マンガに限ってみても、これまでの言説が自明のものとして依拠してきたメディアのありよう、情報環境という文脈からそれらを相対化してゆく視点は、四方田犬彦のものなど二、三の例外的な仕事をのぞいて、未だ十分なものとは言えない。(四方田犬彦『漫画原論』筑摩書房 一九九四年 など)その四方田のスタンスは、夏目房之介とそのグループが切り開いてきた技法としてのマンガ、いわゆる表象としての水準に着目した分析(『別冊宝島Ex./マンガの読み方』(共著) 宝島社 一九九五年)とも、奇しくも通底するものですが、しかし、それでもやはりマンガは「社会」的存在であり、であるからこそ「歴史」的存在でもある、という立場もまた、そのような状況認識に立つからこそ、等しく主張されねばならないでしょう。マンガはもういちど、正しく「社会」と「歴史」に、そして未だにそれらを裏打ちしているはずの「経済」の側に、投げ返されねばならないはず、なのです。

*3:「少女マンガ」をめぐる言説の代表的例として、村上知彦は、「少女まんがはいまや、少年たちにとっても『少年趣味』とでもいうべき、現実逃避の場所になっているし、現実超克の願いも、理想という名の幻想世界を自己の内部に構築することろからはじまるのではないか。だとすれば、幻想世界への自己投入から、現実超克の願いと実践へと至る、両者はひとつらなりのプロセスであるはずだ。少女まんがとは、この時代の現実に対して何らかの違和感を抱かざるをえない者たちの、幻想世界を拠点とした異議申し立てなのだ。」(村上知彦「少女マンガのゆくえ」『だっくす』七八年一二月 清彗社)と述べています。絵に描いたような「正-反-合」というわけで、マンガを当たり前に読むようになった「青年」第一世代にとっては、これくらいしちめんどくさい理屈をつけないことには、未だ「少女マンガ」を読むことは正当化できないものだったようです。特に、最後の一節、「幻想世界を拠点とした異議申し立て」などのもの言いは、何もマンガに限らず、当時サブカルチュアに新たな拠点を「発見」し始めていた全共闘世代の自己投影としてきわめて最大公約数的であり、まただからこそ、同時代的な普遍性を持ち得たもの言いだということを理解しなければならないでしょう。このスタンスは、文芸批評方面にまで飛び火して、川本三郎などは未だにこのノリ一発で無反省な駄文を書き散らしています。

*4:夏目の手塚論は、彼自身ライフワークと自認しているもので、彼のマンガに関する言説のほとんどにその影が揺曳していると言っていいでしょうが、そのアウトラインが最もわかりやすいのは、『手塚治虫はどこにいる』(ちくまライブラリー 一九九二年)あたりと思われます。

*5:初期の貸本「劇画」の読者層の問題は、石子順造が、『劇画の思想』(太平出版社 一九七三年)『戦後マンガ史ノート』(紀伊国屋書店 一九七五年)などで、ひとまずていねいに考察しています。貸本マンガと「劇画」の違いの問題など、細部ではいくつか議論も展開されてきていますが(たとえば、梶井純『戦後の貸本文化』東考社 一九七六年)、基本的に石子が提示した構図に沿った理解が、その後もおおむねスタンダードになってきていると言っていいでしょう。たとえば、こんな具合に。 「確かに、『劇画』という言葉は、マンガの中から生れ出た者である。昭和三二年、辰巳ヨシヒロは、先ず自からの作品に劇画という呼称を与えた。そして、昭和三四年、さいとう・たかお、佐藤まさあき桜井昌一、K・元美津、山森ススム、石川フミヤス、辰巳ヨシヒロらによって「劇画工房」なる作家グループが結成されたとき、「劇画」という呼称がマンガ界に投げ込まれたのである。」「彼らが、何ゆえ『劇画』という呼称を造語したかということは、しかし定かではない。ただ一つ確かなことは、彼らが自からの作品をマンガと峻別したかったことである。方法論上のことではなかったのであって、むしろそれは感情的、感性的なものを基底にしてであったに相違あるまい。」「彼らは、マンガと劇画の相違を読者の年齢層に求めたのである。そして、ここで重視しなければならぬのは、なぜ彼らが読者の年齢層を限定したかということなのである。宣言文でも明らかなようにその年齢は、ハイティーンである。より厳密にいえば、高校生や大学生ではない“非学生ハイティーン”であるだろう。貸本屋に足を運ぶハイティーンは、大多数が年少労働者だったのである。」(権藤晋「劇画――戦後民主主義の奈落」 石子順造梶井純・菊地浅次郎・権藤晋『現代漫画論集』所収 青林堂 一九六九年)

*6:このように考えてゆくと、たとえば「四畳半」というモジュールとそれをめぐる「場」の形成過程の「歴史」についても、包括的な考察が必要になってきます。興味のある向きは、拙稿「『下宿』の思想」(『早稲田文学』168 一九九〇年)など、ご参照ください。

*7:言わずもがなですが、この「24年組」とは、萩尾望都竹宮恵子大島弓子(時には木原敏江山岸涼子などまでも含む)ら、昭和二四年(一九四九年)生まれの描き手とその作品たちが、七〇年代前半から半ばにかけての時期に、「青年」たちによって「少女マンガ」という枠組みで「発見」されていった事態をさしてのものです。「少女まんがは少年まんがの占有物とされていたSFやアクション物まで含めたひとつの宇宙として、日々自らを乗りこえ新しくする自己運動を続けているのだ。(…)それは少女まんがの今日を切りひらいてきた、作家たちの多くが、ぼくとほぼ同世代であることによる。彼女たちもまた、六〇年代末の一時期に、ぼくらにまんがの可能性を垣間みさせてくれた青年まんがの影響を、まったく受けていないとは、考えられないからである。」(村上知彦「青年まんがとしての少女まんが」『思想の科学』一九七八年九月号 後に『黄昏通信――同時代まんがのために』所収、ブロンズ社 一九七九年)ここで村上の言う「青年まんが」とは、彼の主張する文脈に沿って敷衍すれば、「文字通り生まれたときから手塚治虫を読んで育った世代が、自身のなかに蓄えられたまんがとしか表現しえない表現の欲求をまんがとして発表しえる年代に達した」ゆえに出現した、「歴史の必然として生れるべくして生まれてきたもの」ということになります。「萩尾望都大島弓子竹宮恵子といった少女まんがの作家たちの作家としての出発は、まさにそういう時代のまっただなかだったのである。その幾人かは『COM』の常連投稿者でもあった。彼女たちだけが、ぼくらのそのようなまんがへの思いから、どうして無縁でいられるだろう。彼女たちもまた、彼女たちのやり方で、少女まんがという形をとりながら、描くことに生きることを重ねあわせようとしてきたのにちがいないのだ。」サブカルチュアの「前衛」としての「団塊の世代」の、その中でも大学という場に身を浸した者たちがいた、というこの認識は、ワンテンポずれたところで七〇年代になって開花した青年マンガとしての「少女マンガ」、という見方につながってゆきます。当時の「少女マンガ」の「発見」のされ方がどのような文脈、どのような位相でなされたものかを考える時、これらのもの言いは興味深いものです。

*8:橋本治「やさしいポルノグラフィー――陸奥A子論」『花咲くオトメたちのキンピラゴボウ(上)』所収 北宋社 一九七九年。この論考の同時代的「衝撃」については、藤本由香里なども言及しています。(女と恋愛──少女マンガのラブ・イリュージョン」『ニュー・フェミニズム・レビューVOL.2:女と表現──フェミニズム批評の現在』一九九一年) もちろん、ここで「フェミニズム」という自らの依拠している足場についての方法的自省が見られないのは、言うまでもありません。

*9: 西村繁男『さらば、わが少年の『少年ジャンプ』』飛鳥新社 一九九四年。

*10:鴨居まさね雲の上のキスケさん』1~4巻(刊行中) 集英社 二〇〇一年~二年。