追悼・米沢嘉博

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 ああ、そうか、漫画評論家、か――そう思った。米沢嘉博の訃報に接した時に、まず最初に抱いた感想はそれだった。そんな肩書きになっちゃうんだな。そうなんだ、やっぱり死ぬってのは、そういうことなんだな。

 社会的立ち位置としては、コミケの主催者、ということ方がはるかに大きかったはずだ。コミケ、時にコミケットとも。正式にはコミックマーケット。マンガ同人誌の即売会、と言われる。ひとまずそう言うしかないようなものだし、事実本来はそういうもの、だったはずなのだが、今や参加者数十万人規模、マンガに限らずサブカルチュア一般を包摂する世界最大の屋内巨大フリーマーケット。過去三十年近く、「漫画評論家米沢嘉博はそのコミケット準備会代表、だった。逝去するその前日、代表の退任を発表するまで。

 もとはと言えばSFファンのイベント、SF大会から派生している。コアな読者層としてSFとマンガが未分化な時代。いや、それだけでなく広義の文学、後のファンタジーライトノベルなどに連なるさまざまな萌芽からロックやジャズ、映画や演劇、アニメなどまでも含み込んだ、サブカルチュア一般にうっかり心奪われてしまうような層――後に「おたく」と称されるようになる原成分を含んだ彼ら彼女らの「教養」の重心に、マンガが凛々しくも存在し得た時代だった。そんな七〇年代前半、明治大学の批評サークルのひとつだった『迷宮』の出身。本人は吾妻ひでおについての造詣が深く、ということは今で言うロリータ系の嗜好も含めたテイストを共有し、同じく少女マンガにも開かれ始めていた当時のそんな「場」と、そこに宿った「自由」の空気を、最後までたっぷりと保っていた。健気にも。

 たとえば、参加者は全て対等で「お客様」は存在しない、というスタンス。みるみるうちに商業化し巨大化してゆくコミケの中で、彼は頑なにその原点を守ろうとし続けた。企業ブースが増え、一般参加者の中にもそんな企業がらみのグッズめあての者が多くなってゆく中でも、手作りのイベント、というコミケの「正義」は頑固に手放さなかった。そう、そんな七〇年代に胚胎したサブカルチュアにまつわる「場」の原体験を、彼はそのまま自らの信じるマンガの可能性に、コミケという形に活け換えようとした。それは当時、マンガに限らず、さまざまなジャンルの表現に同時多発的に起こった、同時代的運動の一環だったのだが、その後の紆余曲折を経て、マンガだけは彼のコミケットが異様に増殖し、また予期せぬ広がりを持ってしまった。

 いまや、コミケは同人誌の即売会などではなく、ただの企業ベースのコンベンション、水ぶくれした文化祭だ、と自嘲する向きもある。「場」と「自由」、それが成り立つ秘密の処方箋。そのバランスシートを、彼自身は結局、世に役立つような形で示さないまま逝ってしまった。何より、同人誌というもの言い自体、すでに以前とは違うものになっている。もとは文学から派生したにせよ、生きることの速度で、生と引き換えにマンガという表現を選ぶ、そういうスタイルそのものがすでに遠いものになっている。何より、印刷から製本はもとより、版下からしコピー機やパソコンの普及によって、かつてと比べものにならないくらい手軽に、楽に個人で作れるようになった。技術革新がもたらした環境の利便性は、しかし何かを表現したい、という欲望そのものの内圧も、そして質さえも変えてゆかざるを得なくなっている。たとえば、近年インターネットの普及によって急速に広まった掲示板、ないしはブログといった「場」の変容についても、ある水準までは米沢とコミケが経験してきたことを雛型として理解してゆくしかないはずだし、それはニッポンの民主主義がどのような成熟を望み、自分のものにしていったのか、という、より大きな問いにも連なってゆくべきものだ。

 コミケの「自治」がどのように成り立ち、変貌し、そして今、企業も含めた数十万人規模のイベントとして未だ続いているのか。看板は同じでもその中身が全く別ものになっている、そのことも存分に含んだ上での考察こそが、今後、最も米沢についての供養になるだろう。彼と彼の仲間がかつて信じた「場」の空気、そこに宿る「自由」を手渡してゆくために、その「場」と「自由」とがどのような環境や条件の下でかろうじて成り立つものであったのかまで含めて、もう一度静かに省みようとすること。それはおそらく、大文字の政治の場も含めてここまでひからびてしまった「民主主義」を、それぞれが自前で考えなおす最良のきっかけにもなる。「漫画評論家米沢嘉博の名前はその時、もう一度思い起こされることになるはずだ。