マンガと「伝統」

 さて、いまどきのマンガはいったいどうなっておるのか!

 ……なあんて見栄切ってみたところで、特に何も始まらないんですが、昨今の出版不況はマンガにもよそごとでなくて、小学館講談社集英社と少なくともマンガでその屋台骨を支えている版元のどこもが、「もうマンガはダメなんじゃないか?」とマジ、思い始めている様子。もちろん、ダメったって活字の本のダメとはまた意味が違うんですが、それでも、一時期まであったようなマンガがニッポン文化の新たな前衛、新しいメディアとしての可能性バリバリで前途洋々、てな鼻息の荒さは、もうよほどの自信過剰な手合いでない限り、関係者の間でさえ見かけることができなくなっています。

 実作もさることながら、批評方面はさらに悲惨。というか、悲惨以前ですな。マンガに限ったことでもないのですが、音楽であれ映画であれ、いわゆるサブカルチュア方面で活字の批評と穏当な対応を確保できているジャンルは、今やほとんどないと言っていい。それらサブカルチュアのジャンルの多くが工業製品と化し、つまりは商品として流通するようになった状況で、そのような状況も含めて批評のまな板に乗せる作法がどうやらわれら日本語にはまだうまく備わっていないらしい。CDの「解説」と称するプレスリリース丸出しな広告コピーの横行や、多くの映画評論家が配給元の拡声器となっている現状も情けないですが、マンガにおいてはそれ以前、そういう提灯持ちの存在すら許容しないほどに市場原理のオートマティズム、徹底した商業化がなされているようでありますな。

 けれども、その徹底した商業化からこそ、別な未来も芽生えてくる。生き残るべき生命力を持った描き手たちは、確実に伝統に学び始めています。それも活字も含めた、広大かつ茫洋としたこの日本語を母語とした広がりに宿ってきたある構造化された伝統に。

 吉川英治の『宮本武蔵』に触発されたという『バカボンド』などは一番わかりやすいですが、そういう見える次元での学び方だけでなく、いや、それ以上に、「おはなし」としての枠組みの確かさを理屈でなく、身体ごと吸収して新たな活力にしている描き手は確かにいる。やれポストモダンだの、物語の解体だのと能書き垂れて、なけなしのそういう「おはなし」の約束ごとすらいきなりなかったことにしていいとまで勘違いしたツケは、不条理系と呼ばれた四コマ戦線においてペンペン草も生えない惨状を出現させ、なおかつ落ち着いた語り口、ベタなまでにわかりやすい定番の筋立てといった部分を、マンガから放逐してしまった。逆にテレビドラマあたりの臆面のなさが、かつてのマンガが持っていた活力の源泉をかえって保っているところがあるんじゃないか、とさえ、あたしゃ思います。

 そういう「おはなし」の伝統に学んだ記念碑のひとつとして、吉田聡の『江戸川キング』を、全力でヨイショしときましょう。単行本にしてわずか二巻。『ヤングマガジンアッパーズ』という、昨今の読者層細分化戦略に即したすき間雑誌での連載ということもあって、いまひとつ目立たなかったようですが、なんの、描き手吉田聡の成熟は一目瞭然、すこぶるつきに素晴らしい。あの『湘南爆走族』から二十年、貫祿つけたもんです、ほんとに。

 江戸川流域流浜市の「王様」、王嶋錦が主人公。留年坊主の高校生で一九歳。巨大な体躯で単細胞。ケンカはもちろん滅法強くて乱暴者、ときたらもうあなた、こりゃ無法松の再来であります。対する悪役が、隣町の御法市でヤクザ大仏組の若衆頭になっているかつての同級生、玉城豊。因縁のこのふたりが、プロ野球に進むか大学進学するかで葛藤するビンボーな仲間のひとりをはさんで、なんと草野球で雌雄を決するという、なんともまあ、うれしくなって万歳三唱したくなるような設定とストーリーでありますがな。

 ありがちな番長もの、ヤンキーマンガの延長線上、と即決するのはお待ちあれ。このありがち具合を吉田聡、思う存分に武器にして磐石な「おはなし」を積み上げている。これはいまどき、マンガに限らずその他ひっくるめた広義のニッポンのブンガク界隈にまでフォーカス広げてみても、ちょっとないような完成度と結晶度、できあがり具合なのでありますよ。あらまし展開は見えてわかってるんだけど泣ける、カンドーする、させてくる、その腕力になぶられる極上の快楽ってやつを、味わわせてくれること保証します。