渡辺京二のこと

 大学という場に戻ったことで、自分の中でまた変わったことがいくつかあるように感じている。

 変わった、というよりは、思い出した、という方がより近いかも知れない。あるいは、思い出してそれを目の前の状況に適応させる、その時の手さばきの感覚を確認している、とか。

 渡辺京二の仕事をまとめて読むようにしている。言うまでもない、サークル村の生き残り。自分の中ではこの人の書いたもの、たとえばあの『宮崎滔天』が大好きで、ああ、生身のたたずまいをテキストからでさえも感得できる人だな、このへんさすがにサークル村の最も良質な「詩人」の資質が伝承されている知性だな、という印象はずっと持っていた。やんちゃなココロ、「わまかし」な者の感覚に同調してしまえるはずれ者。「知性」「インテリ」の、おそらくは屹立し得た時代に生きた、幸せな世代のひとり。

 江戸評価の視線が、これまでの左翼史観でもなく、と言って、網野史観以降の近世研究にありがちだった「江戸はこんなにも近代だった」という論調からも距離を置いている。江戸はやっぱり異文化なんだよ、というあたりが軸足。で、それでもやっぱりヴァナキュラーでコミュニティ志向なのは雀百まで、なのだれども、ヒューマニズムなんていうすわりの悪いカタカナもの言いも、こういう人に「個人の尊厳」として語られると、それなりの説得力があることには留意しておきたい。

 「個人」であること、それがアルファでありオメガである。それには異論はない。ただ、問題は、その「個人」のありようが時代によって、社会によって、この場に即して最も絞ったところで言えば情報環境との関係によって、思われている以上に融通無碍に変わっていったりすることと、その変わること自体についての自覚が少なくとも「知性」の側から薄いままだったこと、この二点だ。

 「個人」もいろいろ、なのだ。ならば最低限、今のこのニッポンで日本語を母語として生きざるを得ないような限りにおいて、どのような「個人」のありようが最大公約数で求められるのか、そのあたりの見極めが肝要だろう。

 「個人」、それも信頼されるべきありようとは? リーダーシップ、などとカタカナ書きにせずともいい。タフ、でももちろんいいが、日本語に未だなじみようのない領域。

 「抽象的な理念によって社会を変革しようという革命の思想は近代が生んだ驕りなんですよ」

 明快である。でも、この明快なことをこれまではっきりと言える知性は案外少なかったのも事実だ。

 ちいさな足場、ヴァナキュラーな場所、その最小構成単位であり、いや、単位というよりも「中心」となるのが「個人」であること。生身の自分、は同時にそういう生身の他人=自分以外、でもあり、もちろんそのような生身として自然に、環境に、間違いなく支えられている「いきもの」一般への視線へとつながってゆく。ゆかねばならない。

 よく生きるための「自分」のチューニングの仕方。主体形成、などというと古めかしいから言わぬ。けれども、意味としてはおそらく近い。

 「自分」とは何か、を考えるためのツールを準備してやること。それは借り物の学校のことばではなく、○○学、のブリックウォールでもなく、間違いなく自分の生身から発されることばと、それにおだやかに耳傾ける度量、キャパシティを持っている自分、によって始めて第一歩が踏み出されるようなものだろう。

 ほったらかしただけでは途方に暮れる。そこで誰もが自前の「自由」にたどりつけるようならば、何も今のような状況にはなっていないはずだ。

 「自分」のさびしさと向かい合う、ことが難しい。携帯やゲームや、そのための時間を手軽に埋めてしまえるツールが身近に準備されていて、「ひとりであること」について自分の中であやうくも発酵させてゆく、そんな時間が持てないままになってるらしい。

 一日に一時間でいい、携帯を切って、ひとりでじっとしている。テレビもつけない、何も見ない。そういう時間に、さて、何を考えるのか。できれば文字を書く、メモをとる、ノートをつける、そういうアウトプットをしてもいい。決してブログにしてはならない。「発信」するのが目的になってはならない。自分に向かった「書く」を調整してゆく努力。

 本を「読む」とは、実はそういうひとりでの孤独な、ある意味クラい、病んだありようとも地続きの作業と、本質的になじむようなものだ。

 携帯と「つながりたい」ような「自分」にとって、少なくともそんな「自分」がそのままになっていては、本は、そのふところを本当には開いてはくれない。

 雑誌をつくる、それも半径数百部の。そのことの効果を未だに信心と共に語れる、それはやはりたいしたものだと思う、素朴に。メディアとそれにまつわってくる効果について、よほど幸せな原体験がないことにはこうはゆかない。単なる世代間の違い、というだけでもないはずだ。

 病んでよい。病むならば、「自分」を確かめてゆくのに前向きに役に立つような病み方をすればいい。それは、「自分探し」といった方向でだけ「自分」を求めて行くようなモメントでは、おそらくない。