解説・松川二郎『全国花街めぐり』

 松川次郎『全国花街めぐり』(1929年(昭和4年) 誠文堂)の復刻です。

 少し前までは古書市場でもそれなりに稀覯本扱いされていて、数万円といった値段がつけられていました。最近、こういう方面にまた関心が深まってきているせいか、目端の利く同業他社から「近代日本のセクシュアリティ」などというご大層かつガクモンぶった冠つきのシリーズ中に収められての復刻もされていますが、あちらは一冊数万円もする専門書、しかも大部のシリーズ中の一編なわけで、せっかくだからもっと手軽にめくって多くの人の眼に触れていただきたいという意味で、こういうパッケージでのご紹介になりました。


 著者の松川二郎は、明治20年(1887年)福井県の生まれ。二十歳そこそこで読売新聞に記者として入社、新聞社に軸足を置いた書き手として明治末から大正期を生きました。主に旅行ものや探検ものを得意にしたようで、特に民謡、郷土芸能から社寺仏閣に温泉、そしてこの花街、と、後に「レジャー」「行楽」「観光」などと一括して呼び習わされるようになった領域を精力的に渉猟、昭和に入ってからは独立して旅行・観光関係の雑誌社を自ら起こしたりした。まあ、当時としては売れっ子の書き手のひとり、と言っていいでしょう。

 生活史的な詳細には不明な点がまだ多いようですが、少なくとも戦後までは存命だったらしい。ちなみに、最近ではどうやらあのベアトリス・ポッターの「ピーター・ラビット」を我が国で最も早く紹介したらしい、ということで一部で話題になったりも。時期は読売新聞入社前後の明治39年(1906年)、『日本農業雑誌』という雑誌に当時、関わっていた彼が誌面の一部で口語訳として翻訳、紹介したものが“発見”されたりしています。いずれにしても、明治末から大正期にかけての、〈いま・ここ〉と地続きのニッポンの近代を根本から規定する情報環境の変貌の中、その青春期を過ごし、明治人とは違う新たなオトナとして社会化していった当時の地方出身の知性のある典型、ではありました。

 旅行家、といった肩書きを後年、使っています。仕事としての「旅行」が成立するようになった、それが彼の生きた時代であり、大正から昭和にかけての情報環境でした。そのような中、民謡や郷土芸能、といった身体的表現にまず興味、関心を覚えた、というのは、「探検」に身を躍らせてゆくような同時代の気分を共有していた彼の生身の必然だったのでしょう。そして、そのような必然を介した結果、あらゆる事象は等価に、平等に、彼の眼前に繰り広げられることになる。だから、「松川にとっては花街もまた、社寺や民謡同様、「地方色」を形作る重要な要因であった」(渡辺 裕) なわけで、このあたりのやんちゃで、ある意味ボーダーレスな同時代感覚にはらまれている未だうまく解きほぐされていない「歴史」を、この「花街めぐり」から読み取ることも愉しみとしていいかも知れません。


 めくっていただけばわかるように、彼は自分自身の足で各地の「花街」に足を運び、まさに「現場」を律儀に踏むことで、その生身を介した見聞、体験をその軽やかな文体で書き綴ってゆきます。

 身の危険と引き換えにせざるを得なかった、だからこそどこか苦行でもあった江戸時代以来の「旅」ではなく、もっと軽やかな「旅行」。国内ばかりか時に国境を越え、海の向こうにまで想像力と共におのが生身も運んでゆくような跳躍力を、彼と彼の時代は内包しつつありました。「探検」と「旅」が、シベリア樺太と国内各地の民謡や「花街」とが、彼の生身の前に次から次へと同じ装いで、パノラマのように、のぞきからくりのように、見世物めいた絢爛さ、猥雑さで横たわる。次から次へと、地図上に足跡を記してゆく探検家の好奇心と精力とで、彼は各地の「花街」を訪れていったはずです。

 とは言え、それはある種の功名心から、というだけでなく、おのれの書くものの向こう側にいるはずの読み手の実利に貢献する、という意識も確実にあった。職業としての「探検」、仕事としての「旅」を生きるということはそのような意識の二重性を自覚すること、でもあったはずです。

 だから、これは「観光」案内であり、ガイドブックであり、その意味でそのまま実用的な手引き書でもあった、というところを一点、忘れずにおさえておきましょう。どこの土地にどんな花街があり、そこにどういうオンナたちがいるのか、できれば自分もまた機会があればそこに身を運び、紙に記された松川と同じような見聞、体験をすることもあり得るかも知れない――そのように共に「旅」をしてくれる無数の読者もまた、彼の意識には宿っていたと思います。

 複製され、流通してゆく紙の上での「旅」を愉しむ、そんな感覚の読み手もまた、この「花街めぐり」の向こう側にたくさん存在するようになっていた。そのような新しく輪郭を整え始めた情報環境で彼、松川二郎はこの「花街めぐり」の「旅」をしてゆきました。

 紙の上、眼が活字をたどってゆく過程で宿る「旅」の「情緒」といったそれまでになかったような感情生活の中に、確実にこれら「花街」もまた整理され、再編成されて「消費」されるようになっていた。言わば、そのコンバーターとして松川二郎は存在していたということ、それこそが、今やすでにもの言いとしてはもちろん、現実にも「歴史」の相に織り込まれるようになっている「色街」を、改めて〈いま・ここ〉から「歴史」の相において改めて考えてみる上で最も重要なポイントになるはずです。


 もうひとつ、当時のもの言いとしてすでに一般的であったはずの「花柳界」を彼、松川二郎はここで敢えて使っていないことにも注目しておきましょう。そう、「花街」というのは「花柳界」に比べると軽やかでモダンで、溌剌とさえした印象を持つものだったらしいのです。 

 もちろん、しょせんは遊びの場のこと、時代の移り変わりの中でも根本的なところはそうそう変わりはなかったはずですが、それらを「消費」する側、つまり松川と松川の書いたテキストを介してこちら側に控えていたはずの当時の読み手たちの気分として、それは「花柳界」めぐり、でなく「花街」めぐり、でなければならない理由というのもあったはずなのです。

 「全国の花街を網羅した最初の著述」と彼自身、標榜しています。そのように力む気持ちはわからないでもない。確かに、労作であり、その限りで貴重な記録です。とは言え、このような形式のテキストがそれまでなかったわけではない。いや、むしろ「旅」と「花街」、いや、それまでだと「花柳界」でしょうが、そのような組み合わせは、明治の半ば過ぎあたりから盛んに出されるようになっていました。

 たとえば、いま手もとにあるそのようなテキストのひとつに、『花柳風俗誌』というものがあります。明治38年(1905年)、ちょうど松川二郎が新聞記者になろうかとする頃、雑誌『文藝倶楽部』の定期増刊号として出されたもの。この松川のものほどでなくとも、全国の花柳界が羅列されて紹介されていて、いずれ書き手は匿名の複数、オムニバス形式での編集になっていますが、大枠として後のこの「花街めぐり」と変わりはないと言えば言える。若い頃の彼が、このような当時流行っていたスタイルの出版物に触れていた可能性だって十分あるはずです。

 ただし、それでもなお、彼は「最初の著述」と言いたかった。その根拠は何か。この自分が、他でもないおのれが身体を介してひとりで各地を確かに経巡った、その確かさであり、〈リアル〉の感覚なのだと思います。

実際、読み比べてみても、その間わずか30年足らずの懸隔とは言え、それらを経巡ってゆく書き手の側の生身の気配が、ここでの「色街めぐり」から察知されるものとは決定的に違っているのがわかります。わかりやすくざっくり言えば、この「花街めぐり」の文体の方が、いまのわれわれの感覚にはるかに近い。近い分、より〈いま・ここ〉として再構築して身のうちによみがえらせることも容易になる。

 もちろん、「花街」なんてもの言い自体、もう日常ではまず使われません。しかしだからこそそれは新たな意味をはらんで〈いま・ここ〉に再浮上してもきます。

 とりわけ近年、若い世代の研究者や好事家、趣味人の間にも、これら「花街」系のもの言いが日常に現実に機能していた頃の痕跡にさまざまに吸い寄せられる一群が増えてきているのは、一時期盛り上がっていた「昭和レトロ」などの“ブーム”と同根の、〈いま・ここ〉が時間の流れの中、ようやく「歴史」の側に織り込まれつつある過渡期特有の現れと言えます。「花街」「色街」「赤線」「遊郭」……何にせよそのような、すでにかすかな痕跡としてしかあり得なくなっているように見える気配に反応する、〈いま・ここ〉の一群。そんな中で、この松川二郎と『全国色街めぐり』もまた改めて、ささやかではありつつも脚光を浴びるようになっているようです。