春期講義の反省など

 「しらべもの」という言い方で、それぞれ自分が興味を持ったテーマについて自前で調べてゆくこと。そしてその過程で「わかった」ことをゼミという「場」に投げ返して、そこで返ってきたコメントをまたフィードバックしてゆく。ガクモンとまで言わずとも、ものを自前で考えて自前の〈リアル〉を獲得してゆくためのそんなごく基本的なやりとりを、さて、できる限り手とり足とりをせずにどれだけそれぞれやってのけられるものか、ということが、ひとつのテーマでした。

 ですから、これこれこういう風にしなさい、ということは極力言わずに、ある意味辛抱してきました。その結果、わかったことは、そういう風にほったらかしたままでは彼ら彼女らはまず何もやらないままだ、ということです。

 やり方がわからない、といったレベルだけでもない。そのように作業を自分でやって行く、そのためのモティベーションの持ち方からしてまずよくわからない、という感じなのです。やり方がわからないのならば、研究室に尋ねに来ればいいし、質問してもいい。そのようにこちらに働きかけてくる者もいましたが、でもやはり例外なわけで、おおむねみんなゼミの時間に足を運んできてはそこに座って、その場のやりとりだけをやりすごせればいいや、という感じでした。まあ、その程度には「学校」でうまくやる要領みたいなものは持っているようでしたし、それはそれで悪いことでもない。でも、何のためのゼミなのか、そういう「場」をどのように構築し、使い回すのか、といったあたりの方法的な意義についてまずオリエンテーションしておかないと、わけわからん、というところでしょうか。

 ゼミでのテーマをあらかじめこちらで決めておいて、各人に分担させて作業をさせてゆく、というやり方もあります。みんなで何か一冊を「読む」講読系のスタイルなんかそうですが。おそらく、そっちの方が効率的でしょうし、歩留まりというか打率を稼げる運営法だとも思います。けれども、敢えてそれはしたくなかった。自分自身の内側から問いを発見し、自分ひとりでそこにアタックして攻略しようとする、その気持ちがまず宿るかどうか、大学での勉強、とりわけ文科系なんてそこらへんがまず最前提になるわけで、しょせん何の役に立つかわからないような問いを自ら解きほどこうとする「愉しさ」がわからないことには、どんな偉そうな勉強も「やらされている」ものでしかありません、言うまでもないですが。

 みんなでひとつの目的に向かって作業を、というのも確かにあり、ではあります。かつての民俗学の市町村史での共同調査などはその典型でした。悪い意味で軍隊のような、上意下達で自分が何のためにその作業をやっているのか、などと考える余裕も与えられないままに、ただ言われて通りのことをうまくこなしてゆけるのが「よくできる学生」と言われるような空間でした。そんな彼らが自前で何か問いを立てて「しらべもの」に向かえるはずもなく、かくてあの悪しき市町村史的な、世帯調査のデータを積み上げてゆくだけの「論文」「報告」ばかりが何年にもわたって垂れ流されてゆくだけ、という民俗学まわりの腐敗に連なったのは言わずもがな、です。

 欠落していたのは「方法」であり、その方法についての認識、でした。「方法論」などとジャーゴンになっていて、それはそれで素朴体験主義的な「フィールドワーク至上主義者」たちからバカにされるようなものでもありましたが、それ以前に何のためにそんなことをやっているのか、について自ら身についた言葉で説明もできないようなバカが大量生産されてガクモンごっこしている状況では、そんな「方法」などという言葉自体もまた、単なるジャーゴン、空虚なもの言いとしてしか流通してゆけないわけで。

 ともあれ、そんな不自由に向かわせることなく、自前での「問い」を発することができるのかどうか、ひとつの実験、ではありました。結果は前述の通り、ほっときゃ何もしない、ということでしたが。

 それでも、前期の半ば過ぎあたりから、少しずつ意識が変わってきたかな、というのが見えて、少しほっとしたところがあります。とは言え、どの班も前期の終わりまでに本格的にエンジンがかかるまでもちょっとゆかず、ようやく自分たちが何を言われているのかが少しわかったかな、というくらいでしょう。

 前期終了後、催した食事会である学生が、これだけ頑張ってレポートやったのは初めて、などと言ってましたが、いままでどれだけ何もしていなかったのか、が逆によくわかるひとことでした。*1

 

*1:で、提出されたレポートが出始めて、ああ、なるほどそう言うくらいのことは確かに頑張ってやったんだな、ということがわかりました(^^ゞ