記録する情熱と「おはなし」の関係


 わだかまっていた厄介事に、とりあえずの決着がつきました。

 とは言えその間、2年9ヶ月という時間が、それもおのれの還暦60代という人生終盤、予期せぬめぐりあわせの裡に過ぎ去っていました。

 大学という日々の勤めの場が、たとえ北辺のやくたいもない小さな私大であっても存在し、そこで学生若い衆に対して一定の頻度で向かい合うことで再び生活するようになって十数年、予期せぬ切断が平手打ちのように訪れて、あっぱれ一個の無職老害化石脳となったことは、しかし逆に、自分にとってものを読み、考えることについての意味や効能について、立ち止まって考えざるを得ない経験につながってもいるようです。そしてそれは、歴史・文化・民俗レベルも含めた拡がりの裡での「うた」の来歴について、あらためて自前の千鳥足であれこれ落ち穂拾いしつつたどってみる、という迂遠な試みにおいても、また。

 「うた」へ向かってゆく生身の内面、こころやきもちといった領分も含めた部分は、常にその生身の自分の外からもたらされるさまざまな刺激との関係で宿ってしまう、その意味で本質的に融通無碍なもののようです。それは、たとえば「芸能」という語彙でくくられるような領分ともあたりまえに重なりますし、何でもいい、その他いずれそのようなもの言いやことばでこれまで意味づけられ、あれこれ切り分け整理を試みられてきたさまざまな生身本来の発露、生きてある以上必然な何らかの生の闊達の〈いま・ここ〉に必ず収斂してゆくものでもありました。その本質として、本来的にことばに変換できない、言語化のはたらきの〈それ以外〉としてそれらは現前化し続けてきたのでしょうし、おそらくそれはいまも、そしてこれから先も、まさに生身の本質、人間の本来として変らない。

 それら「うた」と生身の表現という意味でなら、素直に想起される音楽の領分だけでなく、演劇や踊りなどの直接的な身体表現一般にも地続きになってきますし、そのような意味でなら運動やスポーツなどにまで敷衍して考えることも無理なことでもないでしょうし、あるいはまた、あらわれ方は違えど、手わざとしての「描く」その他の修練を介して成り立つ領分、つまり絵や彫刻から工芸といった美術一般の方向にもまた開かれているものでもあるのでしょう。これまでなにげなく語ってきているこの「うた」とは、生身を伴う人間の天然自然の本態と切り離せない何ものか、その程度に決してないがしろにできないあらわれ、でもあるようです。

 ……と、例によってとりとめない風呂敷を広げてはみるものの、ああ、思い返せばその音楽や美術という表現は自分にとっては初手からアウェイの領分、少なくともこの自分が自分になっていった過程においては、ほとんどわが身と関係のないものではありました。自分にとって何ほどか表現と言うべきものにつながり得る手わざは、やはり文字を読み、そして書くということしかなかったようです。

 けれども、まわりにはそのような文字の読み書き以外、音楽でも絵でも自分のものにしている人がたは、いなくもなかった。ものごころつかない頃はともかく、大学へ入って再び東京で暮らしだしてからは間違いなく。

 まあ、なぜか当時やたら隆盛だった小劇場の現場、その頃は敢えて「芝居」と称するのが流行っていましたが、そんなものにうっかり首突っ込んでいた、そのせいもあるのでしょう。にしても、そんな学生時代、自分のまわりにいた人がた、それも少し年上にあたるような場合には、それが役者であれ照明大道具その他裏方であれ、いずれ手なぐさみ程度にせよ絵を描いていて、呑んで泊めてもらった風呂なし四畳半の下宿になぜか粗末なイーゼルがあって、部屋にはかすかに油絵の具の匂いもあってひそかにびっくりしたり、いずれそのように「描く」について何らかの感受性を持っている人が少なくなかった。いや、絵だけでもない、広い意味でのイラストやグラフィックデザインといった方面にも器用に対応、台本の片隅にイラストやマンガを書き込んでみたり、あるいはちょっとしたチラシやポスターなども自分の手でこさえてみるような御仁も、その頃はそのような「文弱」な手作業が得意とされていた女の人がただけでもなく、むくつけな長髪髭ヅラな青年若い衆にも、案外いたものです。しかもそれは何もそう特別なことでもなく、文字を介した自己表現としてすでにあった小説や詩、あるいは戯曲やシナリオといったものを自らちょっと書いてみるといったことと、基本的に同じ衝動に支えられていたものだったように思います。

 音楽についても同じで、趣味としてそれを聴くことは、ラジオからラジオカセット、安価なステレオコンポなどの普及によって、すでに若い衆の間で珍しくなくなっていましたが、それだけでなく、自分で楽器をいじり、音を出し、時に他人と共に演奏をする、そんなことのできる人がたもまた、それまでよりずっと増えてきていた。その多くがギター、それもアコースティックのフォークギターだったりしたのは、まあ、そういう時代ゆえですが、鍵盤楽器にしても、まだ大方は女の子たちだったとは言え、機会あれば難なく弾いてみせる程度の素養を持った「お稽古ごと」の果実もまた、割と身近にあるようになっていました。少し後、80年代の半ばあたりからバンドブームが起こったことが世相・風俗的に語られるのも、そのような自ら楽器をいじる経験が同時代的に広まっていった結果の必然でもあったでしょうし、またそれは、高度成長期のエレキブームなどとはケタ違いの大衆的な後ろ楯を持ったものだった分、その後も含めて、本邦の音楽をめぐるリテラシーにも眼に見えない大きな影響を与えていたはずです。

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 そのような背景や下地があって、自分たちの手で自前で何かを表現する、言葉本来の意味での「文化」的な拡がりは担保されていたのだし、そのような手仕事やそれを可能にする技術が、戦後それまでの過程でうっかりと達成していた「豊かさ」によって、巷間意識されている以上に広汎に、ある世代以降に色濃く宿るようになっていたようです。そのことの意味やその後にもたらしていったものなどまで含めて、改めて立ち止まって振り返ることがいま、われわれの現実、そしてそこに宿るようになっている〈リアル〉について合焦しようとする際に、必要になっていることのひとつなのだと思います。

 このようなものの見方をしてゆくと、文字の読み書きもまた、音楽や絵などと同じように、寄る辺ないひとり、できるだけ自由に束縛されずに生きたいと思うようになった戦後の新たな大衆社会状況下でのわれら同胞個人にとっての得手勝手でわがままな、何より手軽な自己表現のための武器へと変転していった経緯があったのだろう、ということに思い至ります。誰もが「学校」で刷り込まれるようになっていた、だからこそ「学校」に紐付けられていた、その分良くも悪くも「勉強」や「試験」や「立身出世」などにもまた、根深くからめとられていたそれまでの特別な立ち位置からだけでなく、絵を描いたり歌ったり踊ったりすることなどと正しく同じ、そのような横並びの「自己表現」の手段のひとつへと新たに転変していったらしい文字のリテラシー。そうなっていった経緯も含めてその問いを視野に収めようとすることは、「情報環境」とその裡に生きる生身の個体が自ら主体となって多様化した表現手段を選択してゆくことで「自分」の輪郭をそれぞれうっかりと整えていった同時代の過程について、〈いま・ここ〉からの歴史として気づいてゆくことでもあります。

 それはわれわれの日々生きる現実を、それらを生身で感知し受け止めて転変しながらも宿り続ける〈リアル〉の水準も含めてどう考えるか、に関わってきます。少なくとも「身にしみる」「身につまされる」といったもの言いにある時期まで確実に対応していたような、「他人ごと」「ひとごと」ではなく感じることのできる、そのような意味での〈リアル〉としての現実。それこそ、柳田國男がある時期、割と好んで使っていたあの「同情」にもあたるような領域も含めての、生活世界として共有される〈リアル〉がおぼろげにせよ見えてくる局面なのですが、そのためにはやはり、何のための「おはなし」、という問いを改めて設定してみる必要があるようです。


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 「おはなし」とは、つくりもの、です。われら人のつくりしもの、です。

 ならば、日々の現実を「自分ごと」として感じ取ってゆくための足場として、いまどきの情報環境でわれわれは何をそのようなつくりものとしての「おはなし」に求めているのか。

 旧来の小説や文学でなくラノベが、映画やドラマでなくアニメやゲームが、いつの間にか「おはなし」の主要な媒体になってきて久しいらしいこと。そのような「おはなし」摂取の経路がある世代以降にとってはあたりまえになっていて、それはこれまでのような意味での世代差とは異なる「違い」を、この同時代を生きる日本語を母語とする同胞の間に平然と宿すものになっているらしいこと。さらに、その「違い」とは、眼と視覚を介して読み取られる「おはなし」の位相のみならず、耳と聴覚を介して聴き取られてゆく音声を介した「おはなし」の位相においても、どうやらのっぴきならないズレをすでに生じさせているらしいこと。その上で、それらを統合する生身の「自分」の裡に立ち上がるであろう意識や感覚が、少し前までのわれわれの現実認識、およびその上にあった〈リアル〉と果してどれくらい違うものになっているのかいないのか、そのあたりの連続と不連続をも共に立ち止まって視野に収めようとすること。

 われわれは、文字や活字を「読む」経験を下敷きにしながら現実を認識しようとしてきたし、その上で〈リアル〉もまた宿り得るものだったらしい。だから、かつては限られた特定の時空における生身まるごとの特別な体験としてあったそれら「おはなし」との接触も、文字のリテラシーが広汎に浸透してゆき、「おはなし」もまた社会的な生産の「余暇」の「慰安」「娯楽」として位置づけられるようになっていった近代以降、文字の読み書きを下敷きにした生身のリテラシーを介して接触する作法が「そういうもの」として浸透してゆきました。そのようにわれわれはマンガを読み、音楽を聴き、映画を観てきた。良くも悪くも「そういうもの」、わざわざ意識することもない自明の営みとして。けれども、どうやらある時期からこっち、そのような文字や活字ベースの「読む」の自明の優越性には知らぬ間に鬆が入り、疑われることもなかったその効きがあやしくなり、ひいてはわれわれの現実認識の確かな足場としてあってきた「そういうもの」の自明もまた、大きく揺らぐようになってきていたようです。

 ラノベにせよアニメにせよゲームにせよ、あるいはすでにダウンロードして単発の楽曲として刹那的に消費されることが主流になってしまった音楽商品にせよ、いずれ〈いま・ここ〉に眼前の事実として存在している「文化」事象として相手取ろうとするのならば、その相手取るこちら側、他でもない自分自身がどのような情報環境の裡にいまある現実認識を育んできたのか、そしてそれがどのような時代性や社会性と関わってきていたのかなどについて方法的に自省してゆくことを同時進行で行っておけるだけの余裕なり迂遠さなりを担保しておくことが求められます。

 たとえば、かつてテレビ番組を「記録」したい、と熱望したわれらガキどものあの情熱。音声にはカセットレコーダー、映像には銀塩カメラしか機材のない時代とは言え、そもそもなぜあそこまで「記録」したいと熱くなった/なれたのか。ならばそれ以前、テレビがなくラジオしか放送媒体がなかった時代、人気のラジオドラマなどの番組を「記録」しようと、一般の聴取者がそこまで熱くなっただろうか。手段としては手もとで文字のメモをとるくらいしかできないにせよ、ラジオに対してそのような「記録」はさて、実際にはどれくらい試みられたものだったのか。

 映画ならばあり得たらしい、というのは、かつての映画好きの中にはひたすら映画館のくらがりでメモをとり、それらをもとに同人誌的な媒体を自らこさえて、といった経緯から、ファンジンのはしりみたいな活動をしていた御仁たちがサイレントの無声映画、あの活動写真の頃からすでにいたようです。一方、ラジオとラジオ番組について、そのような挿話はまず見かけたことがない。映画館というくらがりの中の「個的」な「おはなし」体験と化していった映画と、本質的に「家庭」ベースの開かれた聴取体験だったラジオとの違いもあるでしょうが、同じ「家庭」向けのマス・メディアとして出現したテレビの番組に対しては「記録」したがるガキどもが簇生したのは、それを可能にする技術と道具の出現に刺激されたという下部構造由来の理由と共に、視覚的な映像と聴覚的な音声とが「家庭」という開かれた場において〈いま・ここ〉化した「おはなし」媒体になるという属性も大きく作用していたように思われます。

 つまり、それがどのようなものであれ「批評」的な視線、「おはなし」を受け止めると共に対象化する方向へと向う情熱も宿るような場において初めて、それら「記録」への情熱もより輪郭確かに宿るということらしい。だとしたら、それらの情熱はもしかして、文字・活字の読み書きによって下地が作られた上に初めて、生身の裡にスパークするようなものだったのではないか。〈いま・ここ〉の体験をバラして対象化し「記録」してゆきたいという欲望も、やはりどこかで映像も音声も共に、つまり「絵」も「ことば」も一緒に生身の裡にまるごとの〈いま・ここ〉として上演される場があり、そこに生身が接することで、「おはなし」は「記録」へ向かう情熱を主体に喚起してゆく媒体にもなってゆく。

「草双紙式に絵入にしなければ読者が喜ばない、挿絵を入れようと古くは挿絵が独立して画報であった時代があります。その結果「錦絵新聞」が始り、絵と絵の説明の新聞が発行され、そこに閃く知恵者の考えから芳年や芳幾の錦絵をこしらえ、新聞の雑報を絵にしたものでした。」

「この「錦絵新聞」は、一説に江戸土産は錦絵に極っていて、田舎から来た見物人は必ず錦絵を買って帰るから、錦絵屋の繁盛を極めたものでした。新聞ができて珍しいので新聞を錦絵の代わりに帰国土産にする田舎人があることから、それなら「錦絵新聞」にしたらよいお土産になろうという趣向でした。」(篠田鉱造『明治新聞綺談』 1947年)

 そう言えば、かつての写真アルバムの既製品には、「おもいで」とか「おもかげ」とか、そういうタイトルがすでにつけられた商品が多かったような記憶があります。いずれそういうポエム的なキーワードを散りばめる手法というのは、それによって喚起され得る何ものかがすでに定型的なものになっていることを前提にして成り立つ手法ではあったのでしょう。あるいは、アルバムに貼られるスナップ写真だけでもなく、絵葉書や雑誌グラビアの切り抜きなどにも自分の手でちょっとした「キャプション」を添えてみる習い性なども、また。

 「旅情」なんて言い方ももう忘れられつつあるようですが、旅行に出て何かきもちやこころが動いた時、つまり「うた」につながるような感情の常ならぬ波立ちやざわめきがあった場合、あたりまえに「うた」を「詠む」ことにつながっていた時代もあったらしい。もうずいぶん前、まだいたいけな三流大学院生だった頃、あの折口信夫ご一統のフィールドノート的なものがそのような「うた」の形式で「記録」されるものだった、というのを知った時の衝撃は、いま思えばそのような生身に近い手わざによっても「記録」が成り立ち得た情報環境がかつて平然とあったことにいきなり出喰わしてしまった、そういう種類の「生活の古典」との出会い頭の遭遇のもたらしたものだったように思います。