解説 業田良家『世直し源さん』

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 マンガは童話でなくてはならない――かつて、業田良家はそう言っていた。だが、その後何も言っていない。だから、ここであたしが勝手にその先をほどいてみる。

 童話、と言い、寓話、と呼ぶ。あたしゃ民俗学者だからもっと端的に「民話」と言っちゃう。フォークロア、フォークテイル、なんだったらいっそトールテイル(バカ話、トンデモ話)でも構わない。ぶっちゃけ、こまかい定義はこの際どうでもいいのだ。何にせよ、おはなし。ある約束ごとの上に構築される、コトバと意味を呼吸するイキモノであるニンゲンゆえの〈リアル〉の作法。「むかしむかしあるところに…」という型通りから始まり、全てはそういうおはなしの枠組みの中で、おはなしの約束ごとに従って動いてゆき、人はその世界をまるごと〈リアル〉に生きて、何か大切なものをココロの中に受け取ってゆく。

 マンガとは、そのように“おはなし”である。そして、業田良家はそのことの力を信じている、そういう描き手である。

 
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 マンガがおはなしであることを、わがニッポンマンガはこれまで無意識のうちに自覚してきた。

 とりわけ、少年マンガから青年マンガに至る系譜にそれは顕著だ。たとえば、山松ゆうきち。たとえば、つの丸。たとえば、バロン吉元水島新司松本零士谷岡ヤスジ吉田聡、いい時の吉田戦車にさえも、もちろんそれは存分にはらまれていた。

 絵がうまい、とか、構図が斬新、とか、あるいはもっと素朴に美男美女を上手に描ける、とか、何でもいいがそういう狭義の技法、通りいっぺんのテクニックの問題とは少し違うところで、でも、少なくともニッポンのマンガを語る時に絶対にはずしてはいけない重要な要素として、このおはなしとしての腕っぷし、というのが確かにある。民俗学者としてのあたしが敢えてマンガを読み、解釈しようとする時に、その一点はいつも気にするようにしている。

 おはなし、の腕っぷしというのは、しかし、はっきりと眼に見えるものではない。ここがこうだから、と指摘もしにくい。けれども、読み手それぞれの「読み」と、それらが重層してゆくうねりのような相互作用の過程にふと、宿ってしまう、そういうものだ。週刊サイクルでの数百万部、というニッポンの達成したとんでもないマンガ週刊誌システムは、そのようなおはなしを宿してゆく上で、期せずして希有な培養基となっていた。それは個々の作家の個性や才能がどうの、といったところをひとつ超えた局面で、まさにマス・メディアを介したコミューナル・クリエーションとしてのマンガを、世界でも初めて可能にした。そのようなおはなしとしてのマンガを読み、楽しみ、評価するだけの資質を不特定多数の読者=消費者もまた備えるようになってしまった、そういう市場があたりまえに現実のものになってしまっている、それが現在の、この二一世紀初頭のニッポン、なのだからして。

 
 
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 だから、この「世直し源さん」も、いま、この状況でこそ改めて広く読んでもらえるようになったことは、実にシアワセである。そう、これは初出時よりも、いま、この状況だからこそ、そのおはなしとしての底力に正しく瞠目してもらえる、そんな作品である。

 言わずもがなだが、この源さん、どうしたって今の小泉純一郎と重なって見えてしまう。す、すごい、業田良家には予知能力があるのか、などと舞い上がるバカも出るかも知れないが、もちろんそういう話では全然ない。マンガが童話であること、そういう“おはなし”であることを彼が直感的に察知していたからこそ、そのように時代や状況を超えた洞察力をうっかりとはらんでしまっていた、要はそういうことだ。そして、それだけのこと、である。だからこそ、業田良家という描き手は隅に置けないのだ。

 この源さん、おはなしの主人公としてひとまず申し分ない。何が、って、あまりに空虚で内面も薄く、現実離れしているから、だ。作者が西南日本、おそらくは九州の出身ということがからんでいるのだと思うが、「九州男児」的なマッチョイズムの影も見え隠れする。「重婚」という要素などは、そのへんと抜き難くからんでいるはずだ。一躍、業田良家の名をあげることになった『自虐の詩』のあのイサオなどと同じく、源さんもまた、まわりのオンナたちとの関係があって初めて、うっかり光り輝けてしまう、そんな空虚さ、あり得なさである。失われた父親、いや、もっと抽象的に、家父長制度を司る中心人物と言った方がいいかも知れない、そんな運命共同体の中心人物、群れの長(おさ)。源さんと五人の妻たちの暮らしぶりに、あの千石イエスとそのまわりに集まった娘たちを思い起こしたのは、唐突だろうか。

 さらにまた、冴えないオヤジが実はスーパーマンで、というしつらえに、加藤芳郎の『モテモテおじさん』や、東海林さだおの『トントコトントン物語』などを想起してしまったのは、こちとらもうトシだからだろうか。あるいは、ギャグマンガの文法と作法とで、政治的状況をおはなしとして扱おうとした、いしかわじゅんのあの『憂国』などもまた。思えば、これら青年誌系ギャグマンガの系譜からは、案外おはなしとして昇華された作品が出現している。政治マンガ、というと、かつての本宮ひろ志の突撃モノとか、最近だと『加治隆介の議』とか『クニミツの政』とか、それなりの系譜があったりするけれども、政治の現場を〈リアル〉に描こうと力むあまり、単なる絵解き、ないしは悪い意味で永田町に場を借りた単なるスポ根や恋愛ものになっちまってる場合が少なくない。さらには、政治の知識を断片的に与えるための紙芝居、とか。それらも全部ひっくるめてニッポンのマンガ、ではあるのだけれども、しかし、である。その中にはらまれる可能性の質についてもまた、改めて語られる場がないと、文化としてのマンガに未来はない。だから、この『世直し源さん』をきっちり読み、穏当に語れるかどうか、は、いま、ニッポンマンガの良き読み手としての器量を試す、絶好の試金石にもなる。

 童話こそ、おはなしこそが〈リアル〉である――おそらく、業田良家はそこまで覚悟している。そうやってマンガという表現を自ら選択しようとしている。もしそうなら、オッケー、上等だ。同時代を生きる同世代のひとりとして、全力で慶賀してやろう。業田良家、あんたは正しい、そのままどんどん、あんたの身のうちにはらまれているはずのおはなしの文法に、わがまま勝手に身をゆだねてゆけ。それがあんたの自由、あんたの福音になるはずだ。

 おはなし、に身をゆだねると、自然に「自分」は後退する。いらぬ自意識、功名心、おれがおれが、の煩悩は昇華されてゆき、ただそういう語り口にゆったりと包まれ、包まれてゆく分、いつ、誰が、どこで、何を、といった、現世の現実の位相からどんどん勝手に遠ざかってゆくことができる。敢えて言う。そういう水準の〈リアル〉、そういう種類の現実のとりとめなくもどっしりした手ざわりをこそ、マンガに限らず、あらゆる表現は回復するべきである。それは、われわれ不特定多数の読者にとってのミッション、でもある。

 もしこれがアメリカだったならば、ハリウッドで真正面から映画に仕立ていただろう。このおはなしの手ざわりを、いま、文庫版で手軽に堪能できるわれわれはおそらくシアワセ、である。ハリウッド版源さん、があるとしたら、主演はブルース・ウィルス、あたりをぜひとも希望したい。