福本日南とマクルーハン

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 言葉にまず意識を合焦させて「うた」を聴く。それが音楽であれば、歌謡曲でも洋楽でも、歌詞があるならまずその歌詞に耳がゆく。こういう性癖みたいなものは、個人差や濃淡はあれど、誰しもある程度持ってしまっているのだろう。少なくとも、戦後の本邦の教育を同時代の情報環境で受けて、人となってきた世代にとっては。

 そこには、当然「意味」が伴っている。というか、むしろその「意味」こそが耳を、こちらの意識を吸い寄せる磁場の中心にあるようにさえ感じる。言葉とはそのような「意味」へと意識を導く糸口、目安みたいなものでもあるらしい。

 ならば、いわゆる音楽ではない、言葉が音声として、あるいは文字としてでもいいが、いずれそのようにそこにあるだけの「うた」はどうだろう。「詩」であれ「短歌」であれ、そしてそれが朗読、朗詠されて耳によって受け入れられるかたちであれ、紙や短冊などの上に文字や活字として定着されたものが眼を介して認識されるかたちであれ、そのように広義の言葉としてそこに「ある」というだけのありようの「うた」は。それらいずれ言葉と、その言葉に伴う「意味」をこちらの身の裡に浸透させてくる、そのことから湧き上がる感情なり感動なりココロのありようなりは、いわゆる音楽をも含めた身体的表現一般としての「うた」と、どのように繋がり得るものなのだろう。

 まあ、柄にもない大文字のもの言いをおぼつかぬ手つきで振り回しての大風呂敷広げてばかりでは芸がない。いつだって話は個別で具体的で、そしてできれば素朴なのがいい。抽象度の高い、だからそれだけ射程距離も長く、カバーできる範囲も無駄に大きい大文字のもの言いを、日々の個別で具体的な言葉と同じように扱えるとうっかり思い込んでしまわされている多くのわれわれの意識にとって、つい忘れられがちなこと、というのは案外に、そこここにある。それも、よほど意識して立ち止まって省みようとしなければ、まず思い至ることすらないほどに。

 たとえば、文字による作品としてできあがったものは、紙を介して読まれることより先に、まずそれを朗読することが、ある時期までは半ばあたりまえだったらしいこと。近代の文学史を専門としている向きなどには、何をいまさら、と嗤われるだろうが、個別具体の相からしかものごとを「わかる」に導けないのが持病の民俗学者にとっては、その「何をいまさら」こそが新鮮で、〈そこから先〉へ赴くための大事な橋頭堡になる。

 それはどうやら小説のみならず、詩なども同じことだったという。仲間や同人による合評会というのはそのように作者筆者自らその作品を「読む」「朗読する」というのが作法だった。というか、そのような朗読という発表の場があたりまえに想定されていたからこそ、仲間や同人といった「関係」も生身を伴った具体的な「場」と共に繫がれていたところがあったらしい。これは小説など新しく成立してきた表現のジャンルよりも、それ以前からのもの、たとえば短歌などでは言わずもがなのことだったのだろうし、だからこそ「朗詠」といった「朗」と「詠」もまた、敢えて一緒にひとつの言葉になっていたのだろう。

 いま、「うた」と言った時、つい忘れがちになり、だからこそまたそれらを考えなしに「詩」などとひとくくりにして片づける習い性になっている領域ひとつとっても、そのように立ち止まって考えてみれば、結構多様で多彩な内実がはらまれているらしいことが、まだ新たに見えてきたりする。

「我國の歌は、紀・記の神詠に發して、萬葉の諸什に至るまで、歌つて其懐を述べた。それで其歌は神氣蓊鬱、泣く可く、笑ふ可く、悲む可く、喜ぶべく、世を動かし、人を感ぜしむるものがあった。それが一たび平安朝に入り、延喜の綺麗となり、天暦の繊巧となり、幾んど一定の窠窗に落ち、寄木細工かモザイツクのごとく、巧むもの、作るものとなつて歌謡の原意は何時か消失せた。されど祖先の血は一日も枯れず、繼々承々して今日に至れば、其熱情の發動する毎に、何物をか假りて、託出せざるを得ぬ。是れ其の時代々々に由り、或は催馬楽となり、或は今様となり、下つては甚句となり、都々逸となつた所以である。それで詩・賦・歌・謡の原意と其徳とは所謂俗謡に就いて見る事が出來る。」(福本日南「詩・賦・歌・謡の徳」、1919年)

 形式は問わない、何でもいい。「熱情の發動」があって、それが「うた」になる。それを自分のみならず「世を動かし、人を感ぜしむるもの」にしてゆくことまでも含めて想定している。表現はそれ自体で完結しているのでなく、それを受け取る側との相互性において初めて十全に成り立つものである、というこの認識。だから、「うた」という表現は、そのように感情を動かすこと、自分と同じように自分以外の誰かのココロをもざわめかせることが大事な目的であり、それによって「関係」とその先にあるべき「場」に、「熱情」という感情を介した何らかの共感、共同性を宿してゆくものとしてとらえられている。つまり、これはある種のアジテーションなのであり、だからこそそれは、生身を介した「関係」と「場」において直接に、〈いま・ここ〉という設定において朗読されねばならない。

 紙の上の文字や活字とひとり対峙し、しかもそれを黙読する作法では、そのアジテーションとしての効きは減衰するだろう。詩や短歌はもとより、たとえ小説であってさえも、作品として作者自身が朗読することがまずあたりまえに求められていたのは、そのような紙媒体と黙読の組み合わせで「読む」ことが、個人的で内面的な行為に切り縮められてゆく過渡期ゆえのありようではあっただろうが、しかし、逆に言えば、たとえ小説という、詩や短歌などに比べて静態的で「冷たい」表現の形式であってさえも、「うた」としての役割、「世を動かし、人を感ぜしむる」目的のためにあるという初志が未だ忘れられていなかったことの、それは現われでもあるかも知れない。つまり、表現とは、それがどんな形どんなありようであれ、その向こう側に必ずそれを受け取る側が存在する、ゆえに、あらゆる表現とは媒体であり、その目的とは「世を動かし、人を感ぜしむる」ことである――あれ? これはあの「メディアはメッセージである」という、これもまた「今さらなにを」な程度に耳になじんだ能書きにも関わってくる、そんな認識にどこかで重なってはいないだろうか。

 よろしい、ならばそのマクルーハンと福本日南を、春秋戦国の古典を縁に結びつけるというワヤを敢えてやってみる。

 マクルーハンの言ったあの「メッセージ」とは、伝えられる内容、つまり中身が前提になっていたもの言いであり、それは当時、20世紀半ばあたりのいわゆるメディア論、コミュニケーション論のたてつけだったはずだ。そしてそれは、「外見と中身」「見てくれと内実」「表層と本質」といった、いずれ人間存在の本質にまでもうっかり関わる大風呂敷な二分法の発想にも下支えされていただろう。学者であると同時に商売上手な書き手でもあった彼は、それを逆手に取って伝えられる内容、つまり「中身」だけがコミュニケーション――「情報伝達」などと、例によって本邦ならではの生真面目に訳され始めていたが――において重要なのではなく、それがどんな媒体、つまりメディアという「外見」「見てくれ」を介して伝えられるのか、という部分もまた重要なもうひとつのメッセージであり、伝えられる内容になっている、ときれいに引っ繰り返し、鬼面人を驚かすことをやってみせた。

 外見や見てくれも中身と同様、何らかの伝えられる内容に同時になっている、人と人とのやりとりとは実はそういうものだ、というこの言挙げは、まさに「コミュニケーション」communication――「関係」と「場」を介してやりとりしながら何ものかを共有させてゆくこと、に理会してゆくために重要な転轍機として作用した。本邦日本語環境においてはともかく、少なくとも彼の地ではそういう役割を当時、果たしていたはずだ。その伝でゆけば日南の、表現としての「うた」理解も、表現の形式ではなく、それによって何を共有させてゆくためのものか、というあたりの視点において、実は裏返し気味にマクルーハンと案外に近いものにも見えてくる。

 もちろん、日南は「熱情」を最重要な要素とし、それをいわばダイナモとしエンジンとして、伝えるべき内容を形式不問で伝え、共有してゆくための媒体という意味での「うた」を語っている。その意味で、中身も形式も共に伝えるべき内容になり得ているという、言わばメディア論的な相対主義に踏みとどまることで持論を全面展開していったマクルーハンとは違う。違っていてあたりまえだ。生きた時代も背景も違う。

 だがしかし、形式不問と言いながら、表現の〈いま・ここ〉における役割を先に述べたような意味での「コミュニケーション」の相において説明しようとする、その社会的な視点において、個体としての「個人」にだけ偏執的に繋ぎ止められ、それら個人的かつ内面的な桎梏に身動きとれなくなっていった本邦の近代の「作者-作品」系至上主義の貧血症状とは違う、むしろ近年ようやくあたりまえになってきつつあるかに見える、作者や作品のみならず読者との関係なども含めて言葉本来の意味での歴史社会的な文脈からとらえなおそうとする「文学」その他、われらニンゲンの表現一般に対する理解などに、むしろなじみやすいものになっていないだろうか。

 近代の小説のはじまりをどこにとるのか、専門的にあれこれ山積されてきた議論とは別に、まずは「朗読」されるのが当然というこの認識が、当時目新しい表現の形式として注目を集め始めていただろう小説においてさえも、何らかの理由や来歴によってうっかり引き継がれていたことを足場にしてみる。そこから、言文一致の文体の浸透にしてもそれら「朗読」の作法のあたりまえと関係がなかったか、詩と小説、さらには絵画や彫刻などいわゆる美術とくくられる領域との相互作用が、どのように新たな「関係」と「場」を紡ぎ出し始めていたのか、などなど、「今さらなにを」に敢えて立ち止まろうとすることで初めて、新鮮な問いは数限りなく浮び上がってくる。

 「噫『詩は志を言ひ、歌は言を永うす。聲は永きに依り、律は聲を和す。八音克く諧ひ、倫を相奪ふ無ければ、神人以て和す』詩・歌の妙用は此に在る。」