新型コロナウイルス騒動の「効果」

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 中国は武漢発の例の肺炎、当初の予想を越えて世界規模で猖獗を極め始めているような気配があります。この原稿が活字になる頃には、またどうなっているかわかりませんが、少なくとも今、1月末の時点では、政府のチャーター便で帰国した邦人たちの間にも感染者が確認され、人から人への感染経路が国内でも存在し始めているらしいことが、報道の回路に乗ってきています。

 呼び方も二転三転、最初は「新型肺炎」「武漢風邪」などと呼ばれていたのが、ウイルスの形態からコロナウィルス、それも新しい変異をしているとかで「新型コロナウィルス」あたりで落ち着いたらしく、ヘタに「武漢」だの「中国」だの具体的な地名をつけて差別を助長するのはよろしくない、などと例によってのポリコレ準拠の配慮の声もどさくさにまぎれてあがってたり。まあ、100年前に猛威を振るった「スペイン風邪」などの時代とは違っているということでしょう。

 とは言うものの、人間そうそう変われるはずもないようで、海外、殊に欧米が主でしょうか、感染した患者が出始めた頃からこれを「アジア系」一般に当てはめてひとくくり、肌が黄色く目の細い人たちに対する忌避や差別が露わにされ始めた、という報道も聞こえてきています。

「買い物をしていたら何メートルか先で、高齢カップルがアジア系レジ係の接客を拒否し、母国に帰れと言い放った。レジ係の女性はショックで泣きだした」

新型コロナウイルス感染症が拡散すると、ある中国女性がコウモリを食べる映像がネット上で拡散し、これはアジア人に対する偏見を大きくした」

「昆虫や蛇、またはネズミを食べる中国人や他のアジア人の映像・イメージはたびたびSNSを通じて広がったが、今回は『汚い中国人が病気をまき散らす』という長年の偏見と共に広がっている」

 感染源が未だによくわからず、武漢の海鮮市場だ、いや、現地の細菌研究所があやしい、などとあれこれ巷間取り沙汰されるようになっていたことも、これら差別と偏見を助長したようです。

 ただ、「中国人」と「ネズミ」の組み合わせは、これまで都市伝説でも定番になっていますし、その繁殖力の旺盛さが北米に移民として大挙押し寄せた彼らのイメージと重なって差別意識を刺戟した、といった解釈もよく知られています。なじみのない食習慣、とんでもない生きものまで食べてしまう連中という、それまで蓄積されていた印象の断片が、こういう非常事態に一気に「おはなし」として新たに編成されてゆくこともお約束。とは言え、それらに加えて今回は、移民によって社会が作られてきた歴史の長いアメリカなど新大陸系の国々のみならず、近年の政策でそれまでに比べると急激に移民を受け入れるようになったヨーロッパでも、同様の差別言説の話法・文法が割とはっきり出現し始めているようで、と同時に、これらの事例が現地の大手メディアの一応は客観的な報道という立場からだけでなく、アジア系移民や住民の権利を守る団体や組織を背景にした政治的色彩のあらかじめ強い報道としても同様に流れてきているのが、移民や観光を介して世界的規模でそれら異文化・異民族との接触が急速に常態化してきた昨今の状況を反映しているように見えます。

 対して、わが国内はというと、マスクが店頭から姿を消したり、それらを転売して儲けようとする向きの阿鼻叫喚などが報道バラエティ話法・文法で伝えられたり、また帰国した邦人の個人情報を執拗に問い詰める報道陣の様子が晒されたり、例によっての日常感覚の末梢神経を「ネタ」でなで回すような特殊報道環境のルーティンではありますが、ただ、誰もが身のまわりではっきり確かめられるのは外国人観光客、それも中国系とおぼしき人たちの激減ぶり。中国自体が団体旅行を禁止したのですから当然と言えば当然ですが、それにしても多くの街の賑わいがこうまで外国人観光客に支えられていたのか、ということに改めて気付かされているのも、今回の新型肺炎、いや、コロナウイルス騒動のもうひとつの「効果」ではあるようです。

*1:ポーランドボールのこの風刺画、この1月末の時点ではこれだったのが、その後、事態が進展するにつれてさらにバージョンアップされていったのもまた一興。

大学はどうなる?

 恥ずかしながら、これでも大学、それも私立大学で禄を食んでいる身の上、それも首都圏や京阪神などの立地条件も良ければ経営規模も大きい名のある大学ならいざ知らず、いずれ地方の小規模私大、しかも昨今の少子化の荒波の中、毎年の学生集めにも青息吐息で難渋しているような現状では、「研究」であれ「教育」であれ、安心して専心できるものではなくなってきています。まして、「実用性」に乏しい、就職にすら役立たない大学教育などはとっとと市場から退場しろ、というのが昨今の世間の風向き。開き直って就職予備校と化すか、さもなければ高校教育までの漏れや落ちを4年かけて補填する、いわば補習のための高等教育を模索するか。世間の耳目に触れやすい金看板の大手以外の、その他おおぜいとしての大学経営の現状とは、どこも概ねそんなところを右往左往しています。

 けれども、世の中はそんな現場の事情など知ったこっちゃない。注目されるのは何か事件やスキャンダルが起きた時。あのSTAP細胞をめぐるゴタゴタで有名になった小保方某女史の一件や、外国人留学生を見境なく入れていたのがバレた東京の某大学、本誌でも追跡報道のあった北海道の私大の中国系語学学校による乗っ取られ疑惑など、こと「大学」が世間の話題になる時はそういう良からぬできごとがらみがお約束。先日もこんなニュースが報じられました。

 大阪観光大(大阪府熊取町)などを運営する学校法人「明浄学院」(同)の元理事長の女性が運営資金を流用したとされる疑惑を巡り、大阪地検特捜部は29日、法人などを業務上横領容疑で家宅捜索した。元理事長は大阪観光大の運営資金1億円を暗号資産(仮想通貨)の購入に流用した疑いがあるほか、運営する高校の土地に関する売却契約の手付金21億円が所在不明となった。(日本経済新聞 10月29日)

 この明浄学院というのは、もともと日蓮宗系の学校法人の由。女子高と大学を経営していたようですが、どうやら理事会の承認を得ないまま理事長とその周辺がカネをいじってその行方がわからなくなったらしい。まあ、大学に限らず私立の学校経営まわりではありがちな話ではありますが、どうも宗門系が経営母体の学校に眼につくような印象もないではない。お寺の坊さんだから世事に疎いんだろう、といった解釈もお約束でついてきますが、そんなことを言えばそもそも「学校」自体が世間離れな空間なわけで、なんの、天下の京都大学でもゼニカネがらみの醜聞が伝わってきています。それも霊長類研究所という世界にも名を知られた研究機関で、研究施設を建設する際に関わっていた出入りの業者に訴えられて明るみに出た。そんなこんなの併せ技で、ああ、大学ってのはほんとにどうしようもないんだなぁ、というイメージだけが、これら事件の通り過ぎた後の世間の意識の銀幕にくっきり残ってゆくのでしょう。

 そもそも、世の中の側の「大学」理解も現状とかけ離れている。個人的な印象ですが、どうも昭和いっぱいから平成初めあたりまで、ざっと四半世紀は前の時代の認識からうまくアップデートされていない感じです。つまり、今の高校生や大学生、二十歳前後の若い衆らの親の世代たちが若い頃、同時代で見聞きしてきていた大学のイメージのままで現状を見ている。それは報道機関なども同じことで、それらの上で「大学」を語るから、申し訳ないですが、そこで披瀝される各種ご意見提案提言などの多くは、現場の現状とうまく関われないものになる。いや、「教育」を所管する文部科学省自体が、大学はもちろん高校以下も含めた「学校」という現場でいま起こっている事態についてきちんと把握できているとは思えない。それは同じく最近少しは報道されるようになった、大学入試の英語科目を民間業者に丸投げする「改革」を現場や高校生などの事情を勘案しないままゴリ押しに進めようとしていることひとつ見ても、何となくわかっていただけるのではないでしょうか。

 官庁や報道機関、一般企業なども含めて、眼前の現実をことばなり数字なりにして認識してゆく、そのための手立てや技術などが加速度的に劣化してきているかも知れない、という懸念はここ20年ほど、ずっと感じてきていることです。世間のイメージという漠然としたものもまた、それらの過程と無関係ではない。立場や職分は何であれ、自分のことばと〈いま・ここ〉をもう一度穏当に紐付けてゆこうとすることは、よりよい明日を見通し、築いてゆく上での喫緊の課題だと信じます。 

生きものの「死」の現在

 先日、猫が一匹、亡くなりました。新千歳空港の駐車場で推定生後2ヶ月くらいで拾って以来18年、概ね老化と老衰の結果で、まずは大往生と言っていい逝き方でした。先に昨年9月、これは名寄の保健所でわけありの飼育放棄で保護されていたのを縁あって引き取ってきた推定11歳の黒猫を、共に暮らして2年半で見送っていましたから、これでもう身のまわりに生きて動いているものはとりあえずいなくなったことになります。

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 日々の散歩が日課にならざるを得ない犬と違い、猫の場合は外との出入り自由にしているならまだしも、アパートやマンションの部屋飼いの場合はそれを介しての知り合いや顔見知りが増えることはまずないですし、だから亡くなったことをわざわざ話すこともないのですが、それでもどこかでふと口にしたその死に対して、まわりの人たちが実に丁重に、心を込めたお悔やみを言ってくれることにはちょっと驚いたりしたものです。まるで人間の身内が亡くなったように、いや、むしろ印象としてはそれ以上にこちらの心中を気遣ってくれるその態度に、もしかしたらわれら日本人にとっての「死」とは、いまや人間を介してよりもむしろこれら犬や猫、ペットなどの生きものを介して初めて、最も「同情」のもの言いに等しい何ものか、を実感しているのかもなあ、とさえ感じたものです。

 思えば、猫に限らず犬はもちろんその他各種ペット一般、それら家の中で生きて動く生きものと共に育つ子どもらもあたりまえになっている。なにせ少子化の進んでいるご時世のこと、かつての兄弟姉妹に代わってそれらペットと最も身近な関係を保ちながら大きくなって、できればそれら生きものに携われる仕事をしたい、と獣医やトリマー、動物園の飼育係などを志望する若い世代も増えていると聞きます。子どもたちだけでもない。年寄り高齢者の側もまた、それら犬猫ペットの類と共に生きるようになってきている。介護系も含めた高齢者施設などでも、それら犬や猫、生きものの類を定期的にさわってもらえるような機会を作ったり、身近に共にいられるような環境を整えたりすることで、メンタル面での安定に大きく寄与するようになっているといった話も耳にします。事実、ホースセラピーのように、具体的な医療や治療の局面でそれら生きものが積極的な役割を果たせるような試みも国内で近年、研究が進んで実際の事業も積極的に推し進められるようになっている。生きものと共に生きる世間は確実に拡がりつつあるらしい。

 「死」についても同様で、今回やや立て続けに二匹を見送ったことで、ペット斎場の類の昨今の充実ぶりにも改めて眼をみはりました。人間の「死」の「処理」の作法がどんどん簡素化簡略化され伝統的な儀式儀礼が省かれた「家族葬」的なものへと移行しつつあり、それに伴う「葬式」ビジネスも大きく変貌しつつある昨今、人間ではない、でも共に生きてきたそれら生きものの「死」を悼む作法はある意味人間以上に充実し始めていて、ビジネスとしても確実に拡がりつつあるらしい。たとえば、いわゆる宗教の影はそこにはほぼ薄いか、あっても希望によって読経等が加えられる程度の「オプション」でしかない。昨今の「家族葬」的なものに求められている「死」を「処理」する形が、そのかなり本質的な部分だけ抜き出されて商品として提供されている印象です。墓所も用意はされていますが、聞くと遺骨は、それを使った小さなモニュメントやアクセサリー的なものにすることも含めて、持ち帰って身近に置いておく人が多い由。このあたりも含めて、今後はむしろ人間の「死」の側がそれら生きものの「死」にまつわる作法に影響され、包摂されてゆくような気配すら感じられるものではありました。機会があればこのへん、また改めて。

ランドセルと北海道

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関連のご当地『北海道新聞』新聞記事

NA)ところで、ランドセルって何年生まで使いましたか?


道民への街録ON
★6年生まで使っていない
★何年生で何に変えた?なぜ?変える事への抵抗なかった?
「周りが変えていたから」「ランドセル格好悪いから」「変えるのが当たり前」


NA)道内出身者100人にアンケートを取ってみると、
   およそ?割の人が6年生まで使っていないという結果に。


NA)そこで今度は道外出身者にも同じ質問をしてみると・・・。


道外出身者への街録ON
★6年生まで使っていた
★変えようとは思わなかった?なぜ?周りで変えていた人は?
「6年間使うのが当たり前」「変える必要がない」「学校で決められていた」


NA)ランドセルメーカーが行った調査によると、
   全国の76%の人が、6年間使っていたという結果に。


NA)なぜ北海道ではランドセルを6年間使わない小学生が多いのか?
調査しました。

*3
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 おもしろい事例ですね。どこかで決まった/決められたことでなく、何となくそうなっていった、というあたりがとてもおもしろい。北海道っぽいなぁ、と。

 そりゃ個々の地域でそうなっていった事情はいろいろあるとは思いますし、理由の説明の仕方もあるでしょうが、ただ、やっぱりその下地の部分、ベースには道民気質というか道産子かたぎみたいなところもあるんじゃないですかね。

 ランドセルは別に法律や規則で使わなきゃいけないものでもないですよね。どこからも使えとも使うなとも言われていない。何となくそういうことになっている、という言わば生活の中の慣習、習い性なわけで。だから自分たちで不便と思ったりしたら「変えていい」という感覚。「上」からの規則や命令などには従うけれども、でも〈それ以外〉の日常生活の部分は関係ないよね、という公私の住み分けというか、日々の暮らしと「上の方」とがきれいに別のものになっている。

 これ、内地だったらいくら慣習的なものでも、「やめよう」となったらいろいろしがらみとか利害関係とか出てきてなかなかそうならないと思うんですよ。こういうのは業者さんの利害とか学校側の思惑とかはっきりした規則などで決まっている部分以外のあれこれが絶対出てくる、まあ、世の中ってそういうものなんでしょうが、ただどうも北海道の場合は、あ、それ確かに不便だわ、だったらこうしたらいっしょ、で割とすんなりみんな納得してしまえる度合いが大きいように感じています。同じ「決まりごと」にもふた通りあるというか、「上から」決められた枠組みとしての「決まりごと」と、自分たちの日々の暮らしの中の「決めごと」の違い。現実ってのはその後者の部分、自分たちの「決めごと」が基本なんだという感覚ですね、そうとははっきり言わないし自覚もしてないけど、でもそういうもんだよね、とみんな何となく思ってる。

 「なんもだよ」って、よく言うじゃないですか。あの「なんもだよ」って実は翻訳できないですよね、外国語にも、同じ日本語の中でさえもかっちり定義があるわけでもない実に何でもありな使われ方してますよね、文脈に応じて意味がものすごく変わってくる。でも、「なんもだよ」で日常はすませてゆけるし、すませるからこそ回ってゆくみたいな。それまでやっていたことでも不具合出てきたり不便だったりしたら変えてゆく、あれこれリクツや意見の違いなんかあっても「なんもだよ」でくくって実用性や実利に即したところに適応してゆく。

 良く言えば「おおらか」悪く言えば「いい加減」なんでしょうが、それくらい「生きている」こと「日々のこの現実」第一になっている、そうせざるを得ないくらい環境的にものが大変だったということと共に、内地の「日本」と違って生きているだけで否応なくしがらんでくる歴史とか伝統とかしきたりみたいなものの縛りが薄かった、そんなものいちいち気にしていられなかった、というのもきっとあるんでしょう。

 地元と学校のつながり具合があたりまえに強い。運動会でも朝から場所取りして、家族から親戚みんなして弁当作って持って来て一日中楽しむじゃないですか。学校以前に、神社やお寺だってそうで、そもそも神社やお寺のあり方が内地の「日本」とは違ってます。内地だとそれぞれそこの神社にどんな神様がいて、それは地元や地域とどう関わってきた歴史や来歴があって、てのが絶対あるし意識もされてる、お寺もお寺で宗旨や派閥なんかでしがらみが強いのが当たり前、でも北海道じゃ神社もお寺も割と同じハコに入れられてる感じで、どんな神様がいるのか宗旨が何かとかあまり気にしない。でも、何かある時に地元のみんなの集まる場所という実用性の部分だけはしっかり共有されてて、お祭りでも何でもそこでやることにはなっている。そのくせ、そこにどんな神様が祭られてるのか、とかは年寄りでもよく知らないし気にしてない。実は「歴史」や「伝統」に基本的に興味ないんだろうと思ってます、北海道の人って。生きてく上でそんなの関係ない、〈いま・ここ〉にいて一緒に生きてかなきゃしゃあないんだから、でそのことが何より優先されてきた。だから神社もお寺も同じような意味でしかなく、学校もそれと同じような感じです。そういうゆるい「地元」意識の強さ、ヘンな言い方ですがそれは北海道っぽいのかなあ、と思っています。

 ファイターズだってあれ、勝っても負けてもみんなニコニコしてるじゃないですか。中田なんであそこで一発打たないんだ、だから負けちまっただろう、給料返せボケェ、みたいなのはほんとに薄い。ドームから帰るお客さんたちの顔見てても、今日ファイターズ勝ったのか負けたのかわからないですよ。これ、たとえば甲子園だったら帰りの阪神電車乗ったら一発で、あ、今日タイガース負けたな、ってわかりますよ。そういうのがない。いやぁ、負けちゃったね、でもまあ、明日もあるし中田見れたからいっしょ、で穏やかに帰る。あきらめがいいというか、まさに「なんもだよ」で、こだわりとかそういうのが薄く見えます。悪く言えば「反省」がない。失敗したこと悪かったことを振り返って、よし、次は失敗しないようにしてやろう、的な方向にあまり持続して考えない、「なんもさ」でスルーして、優勝しても日本一になっても「あん時いかったね、いやあ、ほんといかったんだわ」でひとくくりにする。

 北海道的デモクラシーというかナショナリズムというか、別にそんな大層な言い方しない方がいいんですが、とにかく自分たちの日々の暮らし優先、実用本位でつながっている「地元」意識ってのがそれこそゆるく広くあるんだろうと思ってます。それっていわゆる「地域」「地元」意識、おらの村が地元が一番で隣村とはやってけねえ、的な偏屈な自分中心のこだわり方とも少し違う。だって、自分たちの地域以外の地元だってあまりお互いに興味関心ないですもん。道内の他の地域のこと互いによく知らない。でも、「北海道」ってくくりについては「日本一いいところだ」とみんな何となく思ってる。なんかそういうフシギなナショナリズム、地元意識みたいなのがあるみたいですね。

*1:ご当地地元某テレビ局のコメント取材用草稿。北海道ではランドセルを小学校6年間通じて使わないのはなぜか、というお題で。夕方の帯番組のニュースワイドショウ的な番組内でのコーナーもの、というよくある企画。1週間くらいしか取材期間がなかったそうだけれども、でも担当PDはひとりでよくしらべものしてあった。

*2:聞けば、制作会社からの派遣スタッフの由。40代始めでこの業界入って10年ちょっとだそうだが、企画ネタ出しから取材、撮影、編集その他全部ひとりでやらされている、と。予算その他のリソース不足と若い衆はすぐに辞めてゆくのでシワ寄せが自分あたりのところに集中してます、と疲れた苦笑いをしながら話してくれた。

*3:事前に送ってくれた番組構成案のハコ書き冒頭部分抜粋。もちろん取材中なのだから草稿なのだろうが、こちらに連絡してきて取材交渉の段階でこういう台本を示して企画全体の意図や取材過程含めて示して説明してくれる、というあたりからも、このPD氏がいまどきオワコンありありなテレビ業界、それもご当地のような地方民放の末端の現場で淡々とまともな仕事をしている御仁なことがわかった。

*4:で、もちろん以下もコメントの手控え程度の草稿。この通りしゃべったわけでもないし、何より実際の放映では「つまんで」≒編集して使われるのだろうからせいぜい数十秒、そんなことはこちらも承知しているけれども、でも昨今良く言われるそういうテレビ作法の「編集」にしても、取材担当のPDなどとよくすりあわせをする/できる関係で、こうこうこういう文脈でこっちはこういうことしゃべるけどいいかな? 的なことを伝えておけば、まともなPDならその「つまんだ」個所のつまみ方、抽出編集の仕方もそのこちらの発言の意図の文脈に沿ってやってくれるもの、ではあるんだとまだ信じているところはある。まあ、それすらしない/できない「速度」で日々まわっているトーキョーエリジウムなメディアの現状の荒廃ってのもまた全面化してはいるんだろうけれども。

からあげクン、と、天皇

 元号が変わりました。Webを介した世間では、「退位」か「譲位」かで物議を醸したり、はたまた「上皇」をどう呼べばいいのか、「陛下」になるのかそれとも「上皇さま」でいいのか、などなどあれこれ些末な悶着が例によってメディアの舞台を反響板としながら流れてゆきましたが、現実の世間は概ね「ちょっと変わった大晦日ないしは年越し」といった感じでそれはそれ、「時代が変わる」という気分をそれほど難しく考えることもなく味わっていたような感じでした。

 前回の改元は言うまでもなく30年以上前、昭和天皇の「ご不例」から「自粛」ムードがしばらく続いた後の「崩御」でそれがさらに加速、大喪の礼という国ぐるみの大きな葬式に続いて経済活動にまで影響があるくらいの沈滞した雰囲気の中での「平成」改元だったわけで、今回のようにまずはご存命のままの言わば「引退」という事態は、賢しらぶって新聞その他で202年ぶりなどと教えられずとも、あの時みたいな改元よりははるかに気が楽、何となくめでたいくらいの空気で迎えられたということだったのでしょう。

 そんな中、ちょっと印象に残った挿話というか、世相世情の断片のようなものが例によってweb上をよぎってゆきました。

コンビニ前で男子高校生たちが

天皇さまさ、5月からマジでゆっくりしてほしい」
「俺のじいちゃんは毎日クレープ買いに行ってるから、そんな感じで好きなモン食ってほしい」
天皇さま、何食べんのかな」
からあげクンとか食うのかな」
からあげクンおいしいから食べてほしいよな」

と雑談している。



 真偽不問、いずれこういうweb介した世相世情の断片描写の挿話では、「マクドナルド」の「女子高校生」というのがすでにある意味定番、その話にリアリティを付与する大事なディテールになっているのですが、ここは意表をついた 「コンビニ前」の「男子高校生たち」がいい味を出しています。そこに「からあげクン」というコンビニのレジまわりのあのケースに入れられたスーパーの惣菜の唐揚げなどよりさらに安っぽい廃鶏のなれの果て、実質夜店の屋台露店の食べ物と選ぶところのないような、それでも「肉+揚げ物」という食い気旺盛絶好調な十代若い衆なら問答無用で「おいしい」と感じる商品があしらわれて、そのどうしようもない日常感、日本全国どの地域どの街角ででもいまどきの普遍として見られるようなありふれた光景の〈リアル〉に、ああ、「天皇さま」が自然に違和感なく降臨している。しかも、「俺のじいちゃん」と地続きにして、その体感実感をテコにできるだけ身近な存在として、手もとに健気に引き寄せようとしながら。

 申し訳ない、うるっときました。

 かつて、日々の「農」の営み、稲作りを中心として成りたってきている作業の繰り返しと同じ雛型を宮中でもお祀りとして執り行っている、その日常感との連続の先に「天皇」や「皇室」があるのだ、といった柳田國男以来の民俗学的な「日本」の説明の文法話法が、誰が教えたわけでもないはずなのに、21世紀の〈いま・ここ〉にも何となく転生している、できているらしい。

 「伝統」とか「民俗」とか、そういう漢字二文字の術語概念で説明してしまうことなどどうでもよくなってしまうほどに、こういう不意にうっかり出会い頭に出喰わしてしまう世相世情の断片描写の挿話というのは、概ねどこかこのような「民話」的な文法話法に下支えされているもののようです。そして、その程度には敗戦後の現行憲法下の「天皇」「皇室」もまた、やはり〈いま・ここ〉の日本の世間にそれなりに息づく存在になっているらしいことを確認できた、令和元年劈頭のできことではありました。