恥ずかしながら、これでも大学、それも私立大学で禄を食んでいる身の上、それも首都圏や京阪神などの立地条件も良ければ経営規模も大きい名のある大学ならいざ知らず、いずれ地方の小規模私大、しかも昨今の少子化の荒波の中、毎年の学生集めにも青息吐息で難渋しているような現状では、「研究」であれ「教育」であれ、安心して専心できるものではなくなってきています。まして、「実用性」に乏しい、就職にすら役立たない大学教育などはとっとと市場から退場しろ、というのが昨今の世間の風向き。開き直って就職予備校と化すか、さもなければ高校教育までの漏れや落ちを4年かけて補填する、いわば補習のための高等教育を模索するか。世間の耳目に触れやすい金看板の大手以外の、その他おおぜいとしての大学経営の現状とは、どこも概ねそんなところを右往左往しています。
けれども、世の中はそんな現場の事情など知ったこっちゃない。注目されるのは何か事件やスキャンダルが起きた時。あのSTAP細胞をめぐるゴタゴタで有名になった小保方某女史の一件や、外国人留学生を見境なく入れていたのがバレた東京の某大学、本誌でも追跡報道のあった北海道の私大の中国系語学学校による乗っ取られ疑惑など、こと「大学」が世間の話題になる時はそういう良からぬできごとがらみがお約束。先日もこんなニュースが報じられました。
大阪観光大(大阪府熊取町)などを運営する学校法人「明浄学院」(同)の元理事長の女性が運営資金を流用したとされる疑惑を巡り、大阪地検特捜部は29日、法人などを業務上横領容疑で家宅捜索した。元理事長は大阪観光大の運営資金1億円を暗号資産(仮想通貨)の購入に流用した疑いがあるほか、運営する高校の土地に関する売却契約の手付金21億円が所在不明となった。(日本経済新聞 10月29日)
この明浄学院というのは、もともと日蓮宗系の学校法人の由。女子高と大学を経営していたようですが、どうやら理事会の承認を得ないまま理事長とその周辺がカネをいじってその行方がわからなくなったらしい。まあ、大学に限らず私立の学校経営まわりではありがちな話ではありますが、どうも宗門系が経営母体の学校に眼につくような印象もないではない。お寺の坊さんだから世事に疎いんだろう、といった解釈もお約束でついてきますが、そんなことを言えばそもそも「学校」自体が世間離れな空間なわけで、なんの、天下の京都大学でもゼニカネがらみの醜聞が伝わってきています。それも霊長類研究所という世界にも名を知られた研究機関で、研究施設を建設する際に関わっていた出入りの業者に訴えられて明るみに出た。そんなこんなの併せ技で、ああ、大学ってのはほんとにどうしようもないんだなぁ、というイメージだけが、これら事件の通り過ぎた後の世間の意識の銀幕にくっきり残ってゆくのでしょう。
そもそも、世の中の側の「大学」理解も現状とかけ離れている。個人的な印象ですが、どうも昭和いっぱいから平成初めあたりまで、ざっと四半世紀は前の時代の認識からうまくアップデートされていない感じです。つまり、今の高校生や大学生、二十歳前後の若い衆らの親の世代たちが若い頃、同時代で見聞きしてきていた大学のイメージのままで現状を見ている。それは報道機関なども同じことで、それらの上で「大学」を語るから、申し訳ないですが、そこで披瀝される各種ご意見提案提言などの多くは、現場の現状とうまく関われないものになる。いや、「教育」を所管する文部科学省自体が、大学はもちろん高校以下も含めた「学校」という現場でいま起こっている事態についてきちんと把握できているとは思えない。それは同じく最近少しは報道されるようになった、大学入試の英語科目を民間業者に丸投げする「改革」を現場や高校生などの事情を勘案しないままゴリ押しに進めようとしていることひとつ見ても、何となくわかっていただけるのではないでしょうか。
官庁や報道機関、一般企業なども含めて、眼前の現実をことばなり数字なりにして認識してゆく、そのための手立てや技術などが加速度的に劣化してきているかも知れない、という懸念はここ20年ほど、ずっと感じてきていることです。世間のイメージという漠然としたものもまた、それらの過程と無関係ではない。立場や職分は何であれ、自分のことばと〈いま・ここ〉をもう一度穏当に紐付けてゆこうとすることは、よりよい明日を見通し、築いてゆく上での喫緊の課題だと信じます。