- 作者: 内橋克人,佐高信
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1986/11
- メディア: 単行本
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この国にひしめく大小無数の「企業」たち。だが、その形態はさまざまに異なっているにせよ、そこで働く人間たちの実像について詳細に書かれたものは案外に少ないのではないだろうか。「ホワイトカラー」という語でくくられてしまう現実が確かにあるにしても、そのようなステレオタイプの「ホワイトカラー」自体の持つイデオロギッシュな効果についても、我々はそろそろ考察しておく必要がある筈だ。
背広を着、ネクタイを締め、毎朝通勤ラッシュにもまれ、勤務時間外のつきあいに追われ、そして子供の代の未来までを売り渡した住宅ローンに苦しめられ……というのが、概ね、「ホワイトカラー」の語にまつわって喚起されるディテールだろう。新聞の論説にせよ、あるいは学者たちの論文にせよ、そのような不特定多数の、もしかしたらどこにもない「ホワイトカラー」や「サラリーマン」像をあらかじめ設定した上で何かを論じようとしているのではないだろうか。
さらに、具合の悪いことにそのようなイメージに当の「サラリーマン」たち自身が呪縛されているフシもある。例えば世論調査などのたびに感じることなのだが、彼らが態度表明をするのは、もしかしたら自身の生活感覚に根ざしたディテールにおいてではなく、すでに準備された自己像としての「ホワイトカラー」や「サラリーマン」の描く均質性においてなのではないのだろうか。でなければ、そのような「調査」で得られるハードデータに依拠したさまざまな「分析」が、ここまで不気味に現実肯定的な色合いを見せていることの説明がつかないではないか。
しかし、一方で、抑圧され続ける生活感覚の領域というものも確実にあり続ける。規範として自明のものになってしまった「ホワイトカラー」の現実と、身体を介して構造化されてゆく自らの日常との間の距離は、自覚的に意識されることはなくなっても、世界の昏がりに確実に沈殿され、堆積されてゆく。例えば、ビジネス・ジャーナリズムと呼ばれる分野で大量に生産され、消費されているあのなんともやりきれない言説は、そのような距離をどこか違ったベクトルへと解放してゆこうとするための巧妙な、しかし必然的な装置になっているのかも知れない。
この国の「企業」を支える人々にとってのリアリティについて、少なくともそこらのビジネス雑誌より真摯にディテールの側から見てゆこうとする態度を基調とした対談が本書である。それは、この国の中、ある部分では国家を超えた拘束力すら持ってしまった企業社会についての考察であり、一般に流布され、信じ込まされている「ホワイトカラー」の神話を相対化してゆく方向において、意識的に仕掛けられているものと言える。ジャーナリストとして集めたディテールをできるだけネガティヴな文脈で置き直し、解読し直してみることで、読者――おそらくはまさにその「ホワイトカラー」として想定されているのだろうが――に対して相対化の視線を与えるという戦略は、それ自体が旧弊な啓蒙主義の枠組みから逃れられていないという批判を棚上げにしておく限りで、ある程度成功していると言っていい。
かつて、「封建的」、あるいは「前近代的」とレッテルを貼られ、早急に解消されるべきものとされてきたさまざまな要素が、時代がひとめぐりした今、日本経済の「強さ」の秘密であるかのように喧伝されていることは、昨今の財界御用イデオローグたちの言説をとりあげて証明するまでもないことだろう。例えば、QC運動が本家本元のアメリカ以上に日本において「成功」したことの意味について、それを日本人の「勤勉さ」に還元して説明してしまおうとする議論すら現実に存在している。この国の人間たちが「文化論」が大好きなのはこれまでにも言われてきたことだが、そのような志向性自体を「文化論」の脈絡で解釈しようというトートーロジーすらまかり通る中では、それらの「文化論」、あるいは「文化論」的解釈が、現実に現象として存在するさまざまな差異をある種不可避の、宿命的なものとして意味づけ、極めて現実肯定的な、批判的視座に乏しい消極的精神を育てる温床になっていることすら問題として見えてこないのかも知れない。QC運動の「成功」について、本書では小集団運動によって労働組合の組織力がなしくずしに崩されていったこととからめて考えようとしている。それは、確かに「 左翼」的律儀さと、単純明快からは対極のうんざりするような言葉本来のリアリズムに裏打ちされた説明体系の糸口ではある。しかし、社会の全域をおおってしまうまでに「成長」した不気味な「企業」の姿は、一見快刀乱麻の単純明快さによってはおそらく浮かび上がってはこないというのもまた事実だ。いまの企業が「研修」と称するイニシエーションを経由しないことには新たに組織に加わってくる人間たちを受容できないのは、学生を信用していないことのあらわれであり、それはかつての軍部が徴兵されてきた兵隊たちを信用せずに「新兵教育」という名のもと、さまざまな洗脳装置に放り込んだことと酷似しているという指摘は、その限りでは圧倒的に正しい。ここで提示されているような視点すらもが、そのような奇妙な現実を保持してゆくシステムの一環として機能している、というシニカルな批判を踏まえておくにしても、応急治療のための処置として、このような姿勢に貫かれた良い意味での「ビジネス書」はやはり貴重だし、必要な筈だ。
それにしても、社会があって初めて企業も存在し得るのだ、という認識を逆転させてしまった地点に、いまの日本の「繁栄」がある。社会のためにリスクを負うということも経営のうちである、ということを、日本の経営者のどれだけが認識しているだろう。かたちだけの能率主義は、それを支える最前提としての「個」が欠落してしまっている社会において、最もよく「機能」しているというパラドクス。ああ、ここでもまた「個」なのだ。この国は、きっと、驚くくらいに変わっていない。
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*1:刊行時、『あるく速度の学問』と改題された。版元は河合出版。