「外厩」をテコにせよ

 現在の日本の競馬において、「外厩」を導入するメリットは何かというと、馬主さんに一番近いところで言えばまず、預託料の軽減、でしょう。

 いまのJRAの制度の中で、馬を持とうとする場合の経済的な負担の大きさは、改めて言うまでもない。そして、そのかなりの部分が人件費によって占められていることも、すでに充分知られていますし、それらがほんとうに合理的な設定になっているのかどうかについも、以前からさまざまな議論がされています。でも、事態は一向に改善される気配はない。馬を持つことがカネのかかることは百も承知だけれども、そして儲かるなんてことも考えてないけれども、それにしても、かかったカネだけの満足をオレは果たして得ているのかどうか――そんなことを言って首をかしげる中央の馬主さんの声を、よく耳にします。

 こんなことを言うと、いや、休養馬の補償やさまざまな手当ても含めて、やっぱりJRAの馬主は恵まれているんだからそのあたりも考慮しなければ、といった反論も出ます。現状としてはそれもその通りです。白状すれば僕も、地方競馬で馬を持っています。それも高知や福山、荒尾といった、一着賞金にして10万円そこそこから20万円もない、言い方は悪いですがつぶれるかつぶれないかの瀬戸際でかろうじて生き延びている、そんな小さな競馬場専門ですから、偉そうなことはとても言えませんが、JRAのそういう補償や手当ての手厚さを聞くたびに、ほんとうにうらやましく思います。

 でも、多少ガタのきた馬でも、何とかもたせながら無理して使うよりもいっそ休養させてしまう方が馬主経済的にも、また厩舎経営的にもトクである、という考え方だけがあたりまえのようにまかり通ってしまう、果たしてそれが競馬として健全なものかどうかは、また別なんじゃないか、とも思います。

 たとえば、中央と地方の交流競走などで、それこそ地方の小さな競馬場、食べてゆくのもやっとの貧乏な競馬場の馬がこのところ、立派に着に突っ込んでくることが珍しくないことに、みなさんは気づいていらっしゃるでしょうか。

 月に50万円もその上も預託料をとっているJRAの馬と、その何分の一以下の経費しかかけられない競馬場の馬とが、同じ馬場で勝負をして、そんなに差のない結果が出る。もちろん、一部の馬だけで全てを言うことはできませんが、でも、おそらくは賞金の違いを下敷きに世間がイメージとして何となく持っている中央と地方、競馬場間の「格差」を見事に裏切るような結果が往々にして現実になってしまう、それもまた競馬です。何より素晴らしいと思うのは、そんな食べていくのがやっとのような競馬場からでも、ようし、いっちょうちの馬で交流競走に参戦してやろうか、と思う厩舎人がまだいる、そのことです。

 もちろん、中央と地方では馬自体の素質が違う、それは事実でしょう。中央や、地方でも南関東の厩舎にいきなり入るような馬は、やはりそれなりのレベルのものになるわけで、そこからもっと小さな競馬場に流れてゆくにはさまざまな事情や運不運があるにせよ、全体としてはやはり馬の素質という面での選別、淘汰というのが一応の水準で行われていると言わざるを得ない。だとしたらなおのこと、そんな人並みないしはそれ以下の素質の馬たちを擁して、その中から何とか全国区の競馬に参戦できるような馬を探し出してはつくって勝負してくる、その前向きな気持ちというのが、おそらく今の日本の競馬にとっては、最もかけがえのない貴重な「資源」だと思うのです。

 馬で生きてゆく人たちの仕事の場である厩舎の創意工夫、彼らの熱意とそれに支えられたさまざまな技術の総体が、そんな「強さ」となって現れる。言い方は悪いかも知れませんが、黙っていても食いっぱぐれることはない、一年に何勝もしない騎手が外車を乗り回し、ロクに仕事もしない厩務員が高給をふんだくる、悪い意味での公務員のような生活保障の中で競馬という仕事をしているかのような、今のJRAの「内厩」制度の弊害は、ほんとうの意味での競馬、それこそ「国際標準」のホースマンの現実からもしかしたら、あらかじめ隔離しておくような仕組みになっているのかも知れない、僕はそう思っています。

 「外厩」をもっときちんと位置づけ、今ある「内厩」だけが当たり前のように思われている競馬を一度、相対化してゆくことで、馬を持つ、というのがどういうことなのか、もまた、改めて意識されるようになる。ここまで発展してきた日本の競馬の、まだきっと抱えているはずの本当の可能性やポテンシャルを存分に解き放ってやるためにも、「外厩」をテコにして、今ある「内厩」制度の問題点、それらにあぐらをかいたままのJRAの競馬のあり方を、もっと洗い出すことが必要だと、僕は思っています。