「エヴァ」というできごと

 『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメがあります。
 
 一昨年秋から昨年にかけてテレビ東京系列で放映され、後半、物語の異様なまでの混乱も含めて爆発的な人気を呼びました。その後、ビデオやレーザーディスクになったものも驚異的な売り上げを示し、来春には劇場公開も決定しました。

 わが国のアニメ表現の歴史は『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』とで画期される、と言われますが、僕のようなアニメ門外漢の眼から見ても、最近のアニメは明らかに以前のような“子どもだまし”ではなくなっています。“おはなし”という約束ごとの中での新たな“リアル”を立ち上がらせるために、膨大な同時代の才能が惜し気もなく注ぎ込まれてきている。ひとまずその成果は実にめざましいものです。

 『エヴァンゲリオン』には全編にわたって「父性」が潜在的なモティーフとして影のように立ちはだかっています。とは言え、描かれるのは研究者や技術者など「わたしたち家族という現実から逃げてばっかりの人だった」(登場人物のひとり葛城ミサトの述懐)という父親ばかり。製作者も含めた今のアニメ世代が現実に親になり始めた体験をくぐった後の自己認識なのでしょう。その自分たちの子どもの世代が、西暦二〇〇〇年の「セカンド・インパクト」という謎の大破滅の後の日本を舞台に、次々と来襲する「使徒」と呼ばれる侵略物体との闘いを通じて自己実現しようとしてゆく、それが“おはなし”の骨組みです。花形は、秘密裡に選ばれた一四歳の子どもたちの操縦する「汎用人型決戦兵器」エヴァンゲリオン。『ガンダム』のモビルスーツ以来、すでに日本アニメのお家芸の巨大ロボットです。そのパイロットの子どもたちが通う中学校と、「使徒」と闘うネルフと呼ばれる国連直属の特務機関のふたつを主な舞台として“おはなし”は展開されてゆきます。

 しかし、これは何と自閉的で自己中心的な“おはなし”なのでしょうか。最終兵器エヴァンゲリオンを独占し、あらゆる国家も権力も平然と超越する権限を持つネルフ。もちろんそれはかつての怪獣もの以来の「地球防衛軍」的設定に過ぎないとも言えるわけですが、にしても、“子どもだまし”でないリアリティに歩み寄ろうとし、事実それだけの表現技法の成熟を現実のものにしてきている分、製作現場の中枢にいる高偏差値世代(それは観客であるアニメ世代の中核でもあります)の自意識や世界観が無惨なほど反映されてしまっています。

 それはたとえば、少し前評判になった小説『パラサイト・イヴ』の気色悪さにも近い。いくら表現という枠組みの中とは言え、ここまで公然とセクシュアリティも含めた「内面」をむき出しにしてしまう自意識の無防備さ。その無防備さや社会的距離感のなさゆえに『エヴァンゲリオン』に胸熱くしている二十代から三十代の若手高級官僚や企業エリート、あるいはコンピューター労働の現場や企業の研究所に勤務するような理科系技術者たちなどがすでに一定量存在していることを僕は確信していますが、しかし、彼らのその「感動」はひとつ間違えるとこの先、そんな無防備で社会的距離感のない独善を再び大文字の「正義」の名の下に鼓舞し、正当化する根拠になってゆくかも知れない。あのひとりよがりな暴対法の立案に携わった若手官僚たちのデオドラントな世界観にも通じるある構造的な差別意識、選民意識すら感じるところが、僕にはどうしてもあります。

 “おはなし”の中でリアルなつくりものを養成してゆく愉しみを活字の文学が喪失している今、新たな“おはなし”の培養基として確かにアニメはすでにとんでもない力を獲得していて、それはゲームソフトの創作現場などにまで広大な裾野を持っている。けれども、高度経済成長の「豊かさ」を前提にわれわれの社会が獲得してきたマンガからアニメに至るこれら新たな映像的表現の最大の欠陥は、そのとんでもない力のありようについて自ら他者に語りかける言葉を内側から持とうとせず、また鍛えようともしてこなかったことにあります。

 中心となる登場人物の名前が村上龍の『愛と幻想のファシズム』からとられていること。同時にまた、旧帝国海軍の艦名を想起する苗字や旧字の漢字表記を使っていること。明らかに子宮を思わせるエントリープラグのこと。「念じる」ことに過剰に思い入れる性癖のこと。カップ麺や缶入飲料やコインランドリーといった今どきのひとり暮らしの細部が繰り返し描かれ、それはどうやらアニメ一般に共通する“リアル”の表現になっているらしいこと……それら些細な細部を、しかし単にマニアックな問いを引き出す愉快にだけ淫したやせた言葉でなく、開かれた関係と場の構築へと向かう器量の大きな「批評」が切実に必要です。先に触れたような危うさをはらんでいるかも知れない「感動」を前向きに制御してゆける手立ては、やはり言葉と言葉の作り出す関係の中にしか芽生えないのですから。