ジャーナリズムの「本領」

 メディアの現場でいま、ほんとに何が起こっているのか、誰もが気にするようになってきています。なのに、それでもその〈リアル〉について、つぶさにことばにされることはほぼないまま、です。

 このことは、これまでも折に触れて指摘してきました。いわゆる「マスコミ批判」のもの言いは、いまやもうひとつのルーティンになっていて、「反日」「偏向」といった冠すらもう当たり前のものに。もちろん、当たり前になってしまうくらいにヘンなものになっている、というのはひとまず素朴な実感に基づいた事実なのですが、それでも、同時に言っておかねばならないといつも痛感し、心がけてもきたのは、組織ぐるみ、会社まるごと一枚岩でそのような「反日」「偏向」イデオロギーに染まっているようなマスコミというのは、現実にはほぼ存在しないだろう、ということでした。

 それは警察的な事実としてあり得ないかどうか、といった水準よりもっと手前のところで、どこまで言っても当事者ではない、そのような意味で「現場」に直接関与できる立場にない〈その他おおぜい〉としてのあたしたちが、その分際をうっかり踏み外さずにココロの中庸を保っておく上で、最低限自覚しておかねばならない一線、といった自戒を込めてのことでもありました。わかりやすく言えば、「陰謀論」の呪縛にどこかで歯止めをかけておきたい、ということですね。「デンパ」に敏感であるがゆえに、自らそのような「デンパ」に浸食されてゆくことにも注意深くありたい、という、まあ、突き詰めれば個人的なルールみたいなものなのですが。

 そんなあたしでさえも、とここは敢えて言わせてもらうのですが、さすがにこのところのTBSのていたらくなどを傍観していると、あれ、もしかしたらこれはほんとに会社ごと「反日」「偏向」を意識的にやらかすようなオーダーが、組織としても出ていたのかしら、と訝ってしまうくらいの悲惨さです。いや、TBSだけでないのは言わずもがな、同じくこういう文脈で必ずやり玉にあげられるNHKにせよ、あるいはまた放送以外、報道の金看板としては本家本元のはずの新聞ジャーナリズムにせよ、いわゆる「マスコミ」のくくりで眼に入ってくるできごとは、どこもまあ、ひと頃よりさらにひどいことになっている。

 どうしてここまでボロが露わになってしまうのか。自分たちのようなシロウトが素朴に眺めるだけでも、簡単にバレてしまうような手抜かり、横着な仕事ぶりを平然としてしまうメディアの現場って何?――この「メディア」の部分はおそらく、「公務員」や「大企業」や「政党」などに置き換えてもそのまま通用するような、同時代に構造的なフラストレーションの表現、なのでしょう。

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 自分たちの日々生きている現実を穏当なことばにしてゆく。誰もが普通に「わかる」ようなことばに。そうやって、自分たちの生きている時代、暮らしている土地や国がどのような現在を経験しているのか、共に考えてゆくための下ごしらえをしてゆく。ジャーナリズムと言い、報道と呼ばれてきたような領域の役割とは、つきつめてしまえばおおむねそのようなもの、だったようです。

 でも、そんな理想的なジャーナリズムやマスメディアなど歴史上あり得たためしはない――なるほど、そうでしょう。けれども、あり得ないからこそ理想であり、目指すべき境地にもなる。何より、そもそもそういうものであるべきのはず、という守るべき一線すら忘れてしまい、だからその一線を足場に自分たちの情けない、うまくゆかない現在を耐えてゆこうとする持久戦の意志なども到底宿りようがない。

 さらに、悪いことにそんな規範のゆるんだ現在を正当化してゆくために「個人」の「私生活」の充実、という理屈がこってりと同伴してきます。かくて、どんなにひどい仕事の現場であっても、おのれひとり生きてゆくためには致し方ない、何もかも眼をつぶって日々の業務を淡々とまわしてゆくだけ、何より先行き危ういのは確かにせよ現状はまだそこそこ恵まれた収入を保証してくれる環境はあるのだし――こういう種類の頽廃が、何も遠くのメディアや大企業の現場を持ち出さずとも、それぞれの身のまわりに個別具体的に現前している。ありがちなメディア批判、マスコミ糺弾のもの言いや身振りがひとまずどれだけ正当なものであっても、しかしそれが間違いなくわれわれひとりひとりの日常にはらんでいる種類の地続きの頽廃であることも同時にいやになるほどわかっているがゆえに、本腰入れて体重乗せての現状打開の方へと歩みを進められないというジレンマが常にあります。web環境も含めてこれまでよりずっと広汎な動きに連なるようになってきたそれらメディア批判の運動ですが、しかし同時にそれらにさまざまな違和感、距離感も広く共有されるようになっている現実は、決してないがしろにしていいものではないでしょう。

 これだけ総選挙が眼前に迫っても、何とか現状を変えてゆかねばならないことも切実に感じていても、現実問題として投票行動ひとつとってもどのような選択肢があり得るのか、何も難しい理屈を振り回すまでもなく、呆然と立ち尽くすしかないような虚無感、脱力感に見舞われるというのが、年明けここ半年あまり一気に煮詰まって見えてきた状況のようです。


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 人並みであればそこそこ生きて行ける、生かしてもらえる場所がある、それがわれらニッポンの世間のものさしでした。少なくとも、近世以降に形成されてきた「日本」のありかたにおいては。

 なのにここにきて、働いて生きてゆく上での器量というやつが、「能力」とか「スキル」とかのもの言いで、「人並み」であることを何かバラバラに数値化、データ化してゆくような動きが少し前から激しくなってきています。そしてそれは、あの派遣労働がクローズアップされてきた頃と重なっています。

 働いて生きること、についての「不安」が広がっています。それは間違いない。「格差」というもの言いにまつわって言われ続けている雇用の不安は、しかしかつてのような、明日にでもクビになり食べる米にさえ事欠くような追い詰められ方とは微妙に異なり、漠然とした「先の見えない」不安、先行きが保証されないこととしてのみ意識される。そのような、終身雇用への過剰とも見える憧憬は、思えばどのように肥大してきたのか。その日暮らしと言わずとも、眼に見えない世間の懐でどこか抱かれ、助けられている、そんな感覚がどうしてここまで見失われてしまったのか。民俗学者としても、気になっている今日的問題です。

 その分、安定した身分と見なされる立場の公務員への憎悪、反感も肥大しています。そして、それに対して「嫉妬」「やっかみ」としかとらえられない、理解しようとしない感覚の鈍麻も、また比例して。反感が投げかけられている当事者である公務員、「勝ち組」第三次産業系ワーカーに限らず、それら反感のあらわれを批評するスタンスの中に、確実にそのような「嫉妬」「やっかみ」論が根を張るようになっているから、いまどきの公務員批判をめぐる言説の場、というやつは厄介です。そして、その厄介さは、マスコミ批判をめぐる場の難儀とも通じています。

 自足すること。自ら「分」を知り、その上で満足すること。そういう「生きる」上での安心立命を保ってゆく素朴な知恵が、われら常民の間からどんどん希薄になってきている。世の中が気詰まりになり、うまくこの先変わってゆけそうにないらしい、という〈いま・ここ〉のこの閉塞感の背後には、そんな近世以来、これまであたりまえと思われてきた「日本」の輪郭自体がフェイドアウトしてゆきつつある流れが、確実に加速されてきているようです。