「国家」と「くに」の間

 国家が見えにくくなってる、ってことですけど、そんなもんいつの時代だって見えにくかったと思いますよ、ほとんどの人間にとっては。また見えなくても構わないようなものであり続けてきたんだろうし。誰もが「国家」が見えるように思える状態なんてそれこそロクなもんじゃない。そういう意味じゃ「国家」って言った瞬間にわからなくなるものが今じゃ厖大にあって、そっちの方がよほど問題ですよ。だったら、単に「くに」でいいと僕は思うんだけど、でもやっぱり「国家」って言っておかないとカッコつかないらしい現実もまだあって、だから「くに」は今もご丁寧に「家」までしょわされちゃってる。もともと何という単語の翻訳なのか、これは専門家に尋ねてみたいんだけど。

 唐突だけど、「国体」って nationality って意味なんですね。これは最近調べて初めて知ったからうれしくて言うんですけど。間抜けでしょ、民俗学者って。じゃあこの間の戦争に敗ける時みんな一生懸命「国体明徴」とか言ってたあれって、ナショナリティをはっきりさせようってことなんだな、と。じゃあ、そのナショナリティって何なんだろう、「くにのありよう」かな、とかね。でも、それって今なら「文化をまもれ」とか「環境を保全しよう」とかになりかねない。だって、辞書的な意味は違っても、同時代の相の中での言葉の上演のされようとしては似たようなものかも知れないじゃないですか。

 戦後の「エラい」を形作ってきたもの言いの約束ごとって、「くに」をちゃんと正面から語る言葉をないがしろにしてきたでしょ。で、それじゃ落ち着かないもんだから「くに」の担当部分を「文化」方面の言葉で代用しようとしてきたところがあって、その結果、なんでもかんでも「文化」論になっちゃったところがある。

 春先、サッカーのワールドカップ予選がアラブの方であったじゃないですか。あの時。テレビで日本人応援団の日の丸の波を見てて、あ、これはなんかいやだな、と思ったんですよ。どうしてかって言われると困るけど、とにかくオリンピックなんかによくいる羽織袴の応援オヤジの日の丸とそれはまるで違ってたんですよね。別にたくさんいたからってわけじゃない。いくらたくさんあったって、たとえば皇太子ご成婚パレードの時の沿道の日の丸なんかはほとんど意味を漂白されちゃってたし、細川の殿様が総理大臣になったって喜んだ熊本の提灯行列の日の丸だってそれ自体はどうってことないただの模様です。でも、あのスタンドの日の丸はすごく獰猛な印象だった。別に「あの暗い侵略戦争の記憶がよみがえる」なんて能書き持ち出さなくても、全くただ眼前の現象としてそれはいやな印象を濃厚に持つものだった。なんかすごくみっともないんですよ。それは日の丸そのものがみっともないんじゃなく、日本人そのものがみっともないんでもなく、国旗をダシにスポーツの応援をするという、きっとどんな国のどんな人間でもまぁやることについてさえ、たかだかそういう痩せた集まりのありようしか呈示できないという、そのことがすごくみっともない。反日感情って、日本の「エラい」方面はすぐ歴史がらみで解釈しがちだけど、結構そういう「現在」のありようがみっともない、ってところが絶対あるはずですよ。

 で、この先どうやったらきちんと日の丸を気持ち良く振れるようになれるんだろう、と考えたら、結局「くに」を語る言葉を取り戻すことからやるっきゃないだろう、と。でも、その「くに」を語る言葉を最後にどこに持ってって身の大きさで活きて役に立つもの言いにできるか、ってところまで来てマジに煮詰まっちゃった。「くに」を語る言葉が言葉だけで勝手に回転始めて空中楼閣作っちゃいそうなのが、よくわかるんですよ。

 「くに」の前に、これも専門的にどういう素性の言葉かよく知らないけど、たとえば英語に community って言葉があるじゃないですか。あのニュアンスというか、ああいう言葉ひとつに込められた内実ってのをうまく一発ですくい上げられる日本語って、ほんとにないですよね。「共同体」なんてどんな文脈にせよもはや論外だし、と言って「ムラ」でもない。社会学の人なんかはお勉強できる人が多いせいか臆面もなくそのまま「コミュニティ」なんて言ってるけど、あんたら一体どの口でそんな言葉しゃべってんの、って言いたくなるほどしらじらしくてね。ほら、近郊住宅地に「コミュニティセンター」なんてよくあるじゃないですか。あの看板の字面のしらじらしさですよね。

 僕の感覚で言うと、抜き差しならない関係とか、逃げちゃいけない場だとか、だからその分濃密なものにもなるしヤバいものにもなる、そんなある見通しのきく広がりっていうのかな、どうもそういう内実が community にはある。「仲間」とか「身内」とか「ツレ」とか、そういう語感のある部分がからまりあい重なりあって含まれてる。足つける場所についての自覚を編み上げる言葉っていうのかな。そういう一番確かなものにつながる言葉って、人間の社会である以上やっぱりあるはずなんですよね。いや、あった、というか。民俗語彙としての「ムラ」とか「イッケ」とか「マキ」とかって言葉に込められていた感覚って、そのままじゃもちろん無理でも、何かその間に手続きや仕掛けをしてやれば community とだってうまく通底できたかも知れないと思う。組合と union の間の距離もそうだし、あと、team って言葉とかね。身びいきになりますけど柳田國男って、少なくともそういうオーラルな言葉の、民俗語彙レヴェルの感覚の鋭敏さがきっとすごくあった。

 そういう最低限間違いない場についての自覚がうまく宿せないところに、「国家」もヘチマもありゃしない。そことの距離で「くに」なり「国家」についてのリアリティも立ち上がってくる。「くに」のために何かしろってんならしてもいいけど、でも「仲間」は売らねェぞ、とかね。それを、抵抗の拠点、とか、権力に抗う関係の場、とか、なんか「エラい」方面だけで言葉が編み上がっちゃってる人はついそういう面倒なもの言いしちゃいがちだけど、それ言った瞬間に「国家」と同じ、失うものがもう厖大にありますよ。

 冷戦構造の崩壊があって、でもってここ最近はまた五五年体制の崩壊なんて新手のはしゃぎ方もあるみたいだけど、それってあんたらがこれまであぐらかいてきた「エラい」の言葉のあたりまえも一緒に崩壊してるってこと、ほんとに身にしみてわかってんの、って思いますね。で、「国家」と言った瞬間に終わってしまうものはちゃんと言葉を与えられないままどんどん厖大になってて。だから、その厖大さについてがっぷり四つに組んでうんうん唸り続けて、なおグシャッとならないだけの脳天気に強靭な体力気力のある人間じゃないとこの先、日本語に依拠した思想も学問も支えられませんよ。そんなの思想でも学問でもないぞ、って言われるなら、そこから先はもう全面戦争、孫子の代まで持ち越す覚悟のなんでもありの徹底抗戦っきゃないですけど。