国を「愛する」というもの言い


 

*1

「息子はアメリカを心から愛していました」

 一瞬、のけぞった。のけぞってなお、その言葉が耳に残った。

 ロサンゼルスで日本人留学生二人が銃撃されて死亡した事件で、例によって被害者の父親が記者会見の際、言った言葉だ。

 別におのれの国でなくても、「国を愛する」というもの言いは今の日本語の中でどことなく言葉にしてはまずいようなものになっている。いや、それより何より、まずもって「愛する」という動詞自体、いわゆる団塊の世代より少し上、この五十代前半あたりの世代の日本の男たち、つまりオヤジってことなのだが、彼らにとっては日常的にまず絶対と言っていいほど使ったことのない言葉のはずだ。どちらにしても尋常ではない。そのような言葉を平然と口にすることができるくらいに日常からかけ離れた心境になっているということはもちろんだが、しかし、それにしても素直に出てくるはずの「好き」などではなく、わざわざ耳に立つ「愛する」という動詞を選択したことの向う側に折り重なっているはずの気分や意識の堆積はそうそう単純なものではないだろう。

 息子や娘を留学に出す時の親の意識というのがある。高校生ぐらいでわざわざホームステイしたり、日本の大学に入れない代わりに語学留学でお茶を濁したりとかする手合いに共通する親のありようというのがあると思っている。とりわけ、ずっと気になっているのは父親の方のそれだ。とろけるような困り顔しながら「いやぁ、ちょっと留学させてましてね」などと言う時の顔つきを前にして、ははぁ、こりゃ息子や娘をダシに自分自身の抱え込んだ欠落感を埋めようとする快楽の表現なんだな、と思うことがこれまでもあった。

 海外で日本人が日本人として狙われることが増えていると言われる。だが、国境を超えることの想像力を今、この国でまっとうに宿らせることは、当の本人だけでなくそのまわりの人間関係も含めた問題のはずだ。

*1:確か、通信社か新聞の依頼原稿。掲載はされたと記憶する。