組織のこわれかた(草稿)

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 あまりと言えばあまりな、まるで寝小便がバレるのをビビる子供のような動燃の資料隠しの醜態を眼のあたりにして、五年ほど前に書いた原稿のこんな一節を思い出した。

 〈滅亡のイメージというのがある。ある日突然やってくる最終核戦争、空を飛び交うミサイル……そういう派手な滅亡のイメージについて、僕たちはかなり慣らされている。冷戦というのは、一方でそのような滅亡のイメージをあおり立てる仕掛けでもあった。しかし、ここまでふくれあがった近代のシステムは決してそのように派手に壊れはしないだろう、と僕は思っている。 たとえば、「情報化社会」の危うさを云々するのに、銀行のオンラインシステムがダウンしたら、ということがよく言われる。(…)けれども、それが機械的なシステムである限り、バックアップのシステムを作ることは可能だ。


 だが、人間に根ざした領域のバックアップは簡単ではない。そのようなシステムの末端で働く人間たちに要求される水準の注意力や集中力、倫理感などを、それぞれ生身の人間が支え切れなくなったとしたらどうだろう。郵便がどうにも届かなくなる、レジの精算が狂い始める、ビル警備に穴が出てくる、機械としてのシステムは壊れていないのに、システムは働かない。そんな“崩壊”が緩慢に、しかし確実に日常化し、拡散してゆく。〉

 あれは九二年の夏、信楽鉄道や地下鉄日比谷線などで、本当に「不注意」としか言いようのない原因による鉄道事故が続いていた頃だ。あの時に何となく「あれ?」と感じたこんな違和感が今、もっとはっきりと形になり始めているような気がする。

 確かに、どこかがおかしい。けれども、そのおかしさは組織や官僚制度の問題というよりも、それらの内側に生きて動いている生身の「人間」そのものに深く関わっている。敢えて言えば、ほとんどそれだけのような気さえするのだ。 以前、慣れない「学者」ヅラしながら大学にいた時も、ああ、何かひとつの組織がこわれてゆく時ってのは案外こういうものなのかも知れないなあ、と思うことがあった。特に激しい痛みや苦しみがあるわけでもない。なんとなく不快な感じがぼんやりと続いていて、そのうちあちこちが少しずつ壊死してゆくのがわかってくる。なのに具体的な対策が講じられないし、誰もまたせっぱつまりもしない。ただ、不快な感じだけがゆっくりと、しかし確実に堆積してゆく――そんな妙な感じ。

 言葉と「自分」との間のつながり具合が、これまでの日本人の当たり前とはずいぶん違ったものになってきている。とりわけ「豊かさ」の中で生まれ育った世代にそれは顕著だけれども、しかし、ことは若い世代だけの問題ではない。民俗学者の眼には、「人間」というソフト自体がこれまでの日本の制度=ハードにうまくなじまなくなっちまってるように見えて仕方がないのだ。 そう言えば、以前は「気ばたらき」なんていいもの言いもあったんだけど、最近とんと耳にしなくなりましたねえ。

*1:草稿というか、結果的にダミー原稿みたいになった。掲載原稿はほとんど別稿になったが、その間の事情は例によって記憶の彼方……。