オンナたちの孤独――「東電OL殺人事件」をめぐって

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 「東電OL殺人事件」の語られ方は、例によってメディアの舞台にある発情をもたらしています。

 だいたい、これって殺人事件ですよね。で、彼女は被害者ですよね。なのに、その犯人像の推測などはほぼそっちのけ、ただただその被害者である「彼女」の輪郭にだけ、みんな意識を集中しようとしている。プライベートな領域のあれこれまでがこと細かに掘り起こされていって、一部の週刊誌なんか裸の写真まで探し出しそのまま掲載してしまったり。なんかもう、オウム報道の反省もヘチマもあったもんじゃない。「あれって、犯人はもうつかまってるんだよね」なんて勘違いしてる奴が結構いたりするんじゃないですかねえ。

 どうしてみんなこのような盛り上がり方をしてしまうのか。まあ、こういう問いかけをすると、おのれはいきなり高みに登ってメディアの報道姿勢をまるで他人ごとのように批判して見せるという、最も悪い意味での評論家的もの言いがまたぞろひと山いくらで垂れ流されるのも“お約束”なわけですが、しかし、それではもう何の解決にもならないこともまた、すでに世間の常識になっています。新聞であれ雑誌であれ、はたまたテレビであれ、そのような発情した報道現場を仕事として走り回っている人間たちにとっては、そんな評論家的もの言いはほぼ何の役にも立たないばかりか、何かことが起こるたびにそのような不条理な発情の現場に巻き込まれるのが日々の仕事である自分たちの日常にとっては抑圧ですらある。何より、いかに外道な報道のされ方であれ、それを消費者として求め、読者として支える世間一般の雰囲気というのもあるわけですし。

 報道の倫理とか、被害者の人権がどうのとか、そういう型通りの理屈はひとまず棚に上げましょう。ことの善悪はともかく、誰もがそのように語りたいと思い、また、事実そのような方向で語られてゆくべき何か深い理由がこの事件にはある。まずその一点から考えてゆく必要があると思います。あの「彼女」はどうしてここまで誰もが――報道現場にいる者たちも、そしてまた読者であるわれわれも、いずれ同時代の人間たちの多くがどこかで気になる存在になっているのか、そのわけを少し静かに考えてみましょう。


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 メディアの舞台で語られている「彼女」についての“おはなし”の骨組みはきわめて素朴なものです。遠慮なく言わせてもらえば陳腐でさえあります。

 「慶応卒」の「総合職」の「エリートOL」が「売春」をしていて「殺された」――それが“おはなし”の基本的な要素です。もちろん、「殺された」以上、それは必ず「美人」でなくてはなりません。そして、それらの要素が作り出す「落差」こそが“おはなし”を律動させてゆく。

 もちろん、実態として考えれば、「慶応卒」の「エリートOL」だからといってそんな杓子定規に品行方正であるわけもありませんし、また、そんな必要もない。何より、もうじき四十になろうかという大人の女性にそのような、世間並みの感覚からすれば「奔放な」男性関係があったからといって、何せこれはプライベートのこと、人間そういうこともあるだろうとしか言いようがありません。

 けれども、“おはなし”というのは、これまでのありようからいきなり別のものになれるものでもないらしい。いかにその“おはなし”の枠組みがすでに眼の前にある実態から遊離してしまっていても、そしてそのことを多くの人が冷静にうなずける程度の陳腐なものになっていても、メディアの舞台を動かしてゆく情報の生産現場はその空中楼閣となった“おはなし”の枠組みにますます忠実になってゆくしかないらしい。言葉は、とりわけメディアの舞台に使い回される宿命にある、しかし“おはなし”をつむいでゆくためには不可欠な大文字の言葉は、このようにして身の丈の現実から浮き上がってゆく。

 そのこと自体がいけないというわけではありません。いけないとすれば、その浮き上がった言葉をすでに反射的に使い回すまでになってしまったメディアの生産点の速度であり、そのように生産される情報に接するわれわれも含めて、その速度に巻き込まれたまま身動きできなくなってうずくまっている、そのことです。


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 まず前提として言えるのは、おおむね次のようなことでしょう。

 かつて八〇年代の始め、「会社」の中に大量に入り込んできた高学歴の女性総合職たちがいた。結婚までの腰掛けのお茶汲みOLしか知らないそれまでの「会社」の約束ごとからすれば彼女たちは明らかに“異物”だったし、その分、きちんと言葉で存在を意味づけられないようなものだった。そして、その後十年あまりの年月を経て、去るべき者たちは去り、降りるべき者たちも降りてしまった後も、やはりかつてと同じようにその存在にまっとうな説明の言葉を与えられないまま、取り残されていた。十年あまりの「キャリア」とそれに見合った年齢と、そしてそれらに対応する「自分」の鎧い方をなけなしの財産として。

 今、メディアの舞台で語られる「彼女」が発しているどこか荒涼としたイメージは、そのように手もかけられず、きちんと関わってももらえないまま「会社」の中で遠ざけられほったらかしにされてきたいわゆる偏差値世代の高学歴の女性たちの内面と対応しています。そして、そのように彼女たちをほったらかしにしてきた「会社」に代表される世間の側の漠然としたうしろめたさや居心地の悪さも、知らず知らずのうちに世間にたまっていた。「あんたたち男って、実は何もわかってないじゃないの」というフェミニズム方面から発するもの言いの「正義」が、世間のそういううしろめたさをさらに増幅させていった。それまでならば「しょせん女じゃないか」とおおっぴらに言いっ放してすんでいたようなことが、それではすまなくなっていたし、何より男たち自身がそんな言いっ放しにどこかで疑問を感じるようにもなっていた。

 今やその制定趣旨すらなかったことにされているような男女雇用機会均等法というのも、しかしその程度には「会社」という場に宿る意識に影響を与えてきていたらしいんですね。この雇均法の成立によって大量に「会社」に入り込むようになった高学歴の女性たちは、まさにその雇均法のもたらした効果によってそれまでのように見過ごすことのできない“異物”としてはっきり認識され、意味づけられることになった。だからこそその反動として、今回の事件をきっかけに「抱え込んだ内面の荒涼を“売春”で癒そうとしていた女性エリート」という「彼女」のイメージが“おはなし”としてみるみる形成されていった。それまで言葉を与えられなかった存在にかりそめの言葉を与えられたかのように感じた世間の気分が一気にある方向へ向かって発情し、沸騰した。かつて、「おたく」というもの言いが、宮崎勤の幼女連続殺人事件をきっかけにみるみる市民権を獲得していった過程を思い起こしてもらってもいい。今回の「彼女」をめぐる盛り上がりの輪郭はおよそこのようなものでしょう。

「八〇年代前半、「会社」の中の“オヤジ”たちは大量に女性の部下を持たされることになった。それは彼らにとっては、女性であるという以前に、まず「会社」という枠組みの中で上の方から「必ずうまく使いこなさなくてはならないもの」として天孫降臨してきた「絶対に取り扱いに失敗できない難儀な道具」だった。そのような「会社」の命令系統で縛られて硬直しているところへもってきて、なおかつそれがキュッとルージュをひいた「若い女性」だったりしたから、接待の場での「若い女性」への対し方しか知らない彼らは余計に混乱した。しかも、その彼女たちは当時、時を同じくして仕事場に侵入してきたワープロやらパソコンというもうひとつの異物たちとも仲がよかったりしたから、プレッシャーは倍増した。つまり、初めに女ありき、ではなく、社命ありき、だったのであり、さらにその向こうに、雇均法やフェミニズム、あるいはOA機器に象徴されるよくわからないけれども避けられないらしい世間の大きな雰囲気ありき、だったのだ。」

 今から六年前、ある女性誌に書いた原稿の一部です。
 
 このような“異物”としてあの「彼女」もまた、“オヤジ”のひしめくこのニッポンの「会社」へと勇躍入り込んでいった、そんな厖大な同世代のひとりだったはずです。


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 今、「彼女」をめぐる“おはなし”にうっかりと関心を示してしまう世間の気分の大勢というのは、ああ、やっぱりそうなのか、という解放感なのだろうと僕は思います。
 
 いつまでも嫁にも行かずに、男の自分たちだとて決して楽しいと思っているわけでもないこの「会社」の現実の中で、女の身でひとりでずっと耐え続けている。どんな仕事が彼女にふさわしいのか。どんな責任を与えることが、間違いなく「真面目」で「優秀」ではある彼女の「自分」に見合ったものなのか。自分たちも正直わからないままだ。だからこそ、おっかなびっくり適当な肩書きと適当な仕事を与えて何とかお茶を濁しているのだけれども、そんなもので彼女が本当に幸せになれるとはとても思えないし、何より今の時点でもいつも不機嫌そうなままだ。まわりとのつきあいも悪い。「会社」としては特に問題があるというわけではないのだけれども、場違いな印象は今もずっと拭えないままだ。

 そんなオヤジたちにすれば、今回の事件に接して、むしろほっとしたところがあるのかも知れない。

 あんな「昼間」の暮らしで満足できそうに思えない彼女が、「夜」の「プライベート」では案の定そのような生身の満足を求めていた。ほうら、やっぱり。そういうところがないことには人間やっぱりやってけないんだよ。

 オヤジたちは、初めて「彼女」を自分たちの仲間だと思ったかも知れない。同じ「会社」の現実の中に生きる者だと感じたかも知れない。たとえば自分たちが、決してそれが心底楽しいことだとは思えないままに酒を飲み、風俗でぎこちなく遊び、たまにハメを外してみせたりしてみせているように、あの「彼女」もまたそうだったということをかりそめに発見したつもりになって、何か共犯者の安心感と共に盛り上がったのかも知れない。

 そのようにお手軽にわかったつもりになって安心しようとするオヤジたちを、僕は悪く言えない。女もまた「会社」の現実の中に巻き込まれた時には平然とそのように“オヤジ”と化してゆく、それもまた一面の真実であることは間違いない。それに、そのようなわかったつもりがきっかけになって事態が改善されてゆくことだって現実にはいくらでもある。人間というのは、どうやらその程度に前向きにいい加減な生きもののようです。

 けれども、それは何とまあ、さびしい真実なんでしょう。

 雇均法が施行されようが俗流フェミニストが金切り声をあげようが、「会社」というこの“オヤジ”社会にとって、未だに「OL」とはお茶汲み以上の存在にはなれていません。 “オヤジ”たちは、「若い女性」を対等の仕事仲間と見るための約束ごとをまだ作ることができないでいる。いや、何もことは女性に限ったことではない。自分たちの子供に対してであれ、はたまた外国人に対してであれ、そのような自分たちとはまた少し別の輪郭の「自分」をすでに持ってしまっているかも知れない存在に対してどのように関わり、どのように関係を持ってゆくか、ということについてあきれるほど不器用で想像力に欠ける、それこそがわがニッポンの近代化を支えてきた“オヤジ”という意識の重要な属性のひとつです。

 それは、性的存在としての人間という部分についての理解をある幅の中でしかできない、ということでもあります。チンポコとオマンコを持った生きものとして社会の中を平然と歩いている存在としての人間。チンポコの現実だけで「社会」を作ってきたこれまでがある以上、その「社会」にオマンコを持った人間が等しく存在しているということにいきなり慣れろというのも無理な話です。彼らチンポコの現実からすれば、「家庭」の中か、さもなければ「水商売」の現実にしかオマンコはオマンコとして存在を許されていなかったのですから。だからこそ、“オヤジ”たちがお茶汲みとしての「OL」を評価するものさしというのも、彼女たちがそれぞれにオマンコを持った「自分」という人間であるとしてよりも、「会社」という「家庭」の中にいる許されたオマンコ一般としてでしかなかったし、事実、今でもそうなわけです。「優秀」だろうが「高学歴」だろうが実は関係ない。「女」であるということだけで、“オヤジ”の生息するチンポコの現実にとってはきちんと制御され管理されるべきオマンコ一般としてしか認識されようがないのですから。とは言え、そのような認識がいけないのではない。そのような認識を持ってしまう世間というのが今も厳然としてあるのならば、その中から異なる未来を選択してゆけるような芽を少しずつ育てるしかない。

 それは、そこらの俗流フェミニストなどのように、大文字のもの言いで事態を糾弾して育つものではない。むしろ全く逆です。オマンコを持った「自分」を言葉にしながらどうやらずっとそうであり続けているらしいこのチンポコの現実、“オヤジ”の世間とうまく関わってゆける関係をそれぞれがそれぞれの与えられた条件の中で探してゆく。「自分」を大切にするとは、おそらくそういうことです。

 他でもない、その雇均法世代の高偏差値「OL」たち自身が「会社」の中で責任を負うことからドロップアウトしていった、そんなここ十数年もあるわけですし、またそれが彼女たちにとって必ずしも不幸なことだとも僕は思わない。「この先何十年もこんなことやってらんないわよ」と決然と「会社」をあとにした雇均法世代の高偏差値女性たちの群れは、これから先、こんな“オヤジ”社会の中でまっとうに「自分」であり続ける女性の雛型を、どんなに七転八倒しながらでも作り出す責任を負ってしまった。それが今の三十代から下の彼女たちの、敢えて大風呂敷広げれば文明史的なめぐり合わせですし、その責任の半ばをこの“オヤジ”の世間もこれからは負わねばならない。


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 思えば、高度経済成長の「豊かさ」は、実にさまざまなものをもたらしました。

 たとえば、人々の心に「平等」に「自分」をもたらした。もう少していねいに言うと、人それぞれ千差万別の具体性と共にあるしかない身の丈の暮らしの限度を超えたところで「自分」を勝手気ままに形づくってゆくだけの材料やそうできるための条件を、誰もが身軽に自分のものにしてゆけると思えるようにさせてくれた。

 それは間違いなく「自由」へと近づくことだったし、またそう信じることのできる前提があったからこそ、「豊かさ」はそれ以上突き詰めてほどいてゆかれずとも常に「善」であり続けることができた。

 その結果、今、ニッポンに棲む者のほとんどが、そのようにいつの間にかふくれ上がってしまっている「自分」を持てあましています。そしてその「自分」の内訳には、チンポコとオマンコという性的存在としての違いに規定された面倒臭い部分も間違いなく含まれている。

 ことはこのように厄介で、こんがらがった様相を示してゆきます。

 そのような現実を「OL」とひとくくりにして、それが自分の今ひとまず安住しているチンポコの世間からは“異物”であるという前提だけで“おはなし”をつむごうとすると、これから先、まだいくらでも出てくるはずのこのようなほったからかされた「彼女」たちの内面の荒涼に発する事態に右往左往し続けると思いますよ。