いまだに「サヨク脳」の不気味


 「サヨク脳」というもの言いがある。いまどきテンプレ並みの「サヨク」的もの言いと身振りとで、何かもの申して世渡りしている、主にマスコミ文化人や評論家の類を評するもの、らしい。

 いずれネット界隈から発したもの言いだから、気分次第で意味は千変万化、杓子定規な定義沙汰なんざ意味ないのだけれども、それでもかの「ウヨ/サヨ」図式の中での「ネットウヨク」のレッテル貼りに対抗して出てきたものであり、かの「右脳/左脳」を下敷きにした微妙なパロディ気分も含まれているものの、でもこれに対抗すべき「ウヨク脳」ってのはほとんど使われていないというあたりからしても、どのへんの自意識がどんな気分で使いたがるもの言いか、ってのは推して知るべし。

 で、その気分というのはひとまず正しい。いかにずさんであっても、今のこの状況においてはまっとうなものだ。事実、そんな「サヨク脳」としか見えない、ほんとにものを誠実に考えて発言してるとは思えないようなのが、メディアに跋扈している。たとえば斉藤貴男、森達也姜尚中小森陽一香山リカといった手合いである。十把ひとからげにするな、とぬかすだろうが、実際にこいつら、ひとからげでかたづく程度なのだから仕方ない。

 「反体制」というのがまず基本形。その「体制」というのも単純で「政府」「自民党」であり「大企業」であり「官僚」であり、時に「学校」や「男性」なんてあたりにも横転してゆくけれども、せいぜいそのへんまで。ほんとは「マスコミ」なんてのも正しく「体制」のはずなのだが、そのへんはおのれの世渡り、商売にさしさわらない限りにおいてとりあげる。かつては「資本主義」「帝国主義」なんて思いっきり大文字をラスボスとして想定していたはずだが、冷戦構造崩壊以降、そのラスボスを倒すはずだった「社会主義」「共産主義」に依拠できなくなっちまって、いまどきそれはさすがに言えないから、その分「ボクはサヨクじゃない」的な立ち位置の表明を随所にかましてくるのが、卑屈で狡猾。「サヨク脳」と呼ばれても蛙のツラに何とやら、なのはそのへんが原因だ。

 弱い者の味方であり、それが正義である、といった気分もまあ、ある。それはそれでいいのだが、問題はそういう「正義」を振り回すおのれ自身がどういう存在か、というあたりがきれいにマスクかけられちまう。except me で棚に上がって世間との間に高い敷居をこさえるのは近代インテリ/知識人の自意識の常、すでに伝統ではあるけれども、しかし情報環境の変貌と共にそれが相対化され、敷居がほぼなくなりつつある昨今、相変わらずの棚上がりのまま、上から目線でもの申すイタさはまた格別。当然、目の前に広がる現在の社会現象一般に対する「批判」というのもデフォルトで実装。実際にはいちゃもん、屁理屈、言いがかりに等しいのだが、現代社会の「ゆがみ」や「矛盾」を何が何でも見つけては、それを先の「体制」に対する「批判」へと結びつけるのが基本技。

 と同時に、そんな発見をする、できるボクやワタシってアタマいい? といううっとり加減が十分に示されるというところも結構大事で忘れちゃいけない。強いものに楯突くボクってカッコいい、という、いまどき浪漫主義由来のヒロイズム全開の方程式なわけで、まあ、教室で教師にじゃれかかってみせるのと同じこと。あるいは、かつて機動隊に隊列組んで対抗してみたデモ学生の「若気の至り」、とか。ああ、恥ずかしい。

 こういう種類の「恥ずかしさ」ってのは、要は高度経済成長期に社会化していった「豊かさ」チルドレンの中の高学歴優等生キャリアたちの一部に、主として学校教育の場とメディアを介してとりついた「左翼」「リベラル」ウイルスが潜伏期を経過して、90年代の「失われた十年」をくぐった後のこの二十一世紀の情報環境でうっかりと発症しちまっている連中に特有の症状である。サヨク小児病? いや、いまならサヨク中二病(笑)の方がよりわかりやすいかも。

 実際、ほれ、こんな風におっしゃってます。斉藤貴男ですが。

 「僕の考えは昔と特に変わってない。変貌する世の中から取り残され、気がつけば“サヨク”なんだってよ。」

 冷戦崩壊してもバブルがはじけても、ボクの立ち位置はずっと同じだ、変わったのは世の中の方だ、だそうです。もちろんその「変わった」世の中の方が「間違っている」わけで、その「間違っている」世の中がボクを「サヨク」だなんてレッテル貼りしやがる、と文句たらたら。それでも、つい「取り残され」って言ってしまうあたり、やっぱりどこか不安なんでしょうな。やっぱりこの手の優等生ってのは、うっかりとマジメで正直のようで。

 「ずっと同じ」と言い張るその根拠自体、謎だが、仮に真に受けるとして、じゃあかつては何だったのか。「左翼」だったという自覚が本当にないのなら、それはかつての新左翼と同じ、代々木共産党に、スターリニズムに反対してた、という一点で自分の「正しさ」を未だに信じていられる団塊サヨク脳(笑)と変わりゃしない。それは自己同一性の「個性」神話、ゆるぎない「個人」が最後の砦、ってことで、かのポパイよろしく「ボクはボクなんだ」という信仰告白の黄金律。ああ、戦後民主主義の最終進化形態、極限まで肥大しきった自意識の野放しはここにも、また。

 「読み解く」「解釈する」てな傍観者スタンスも一貫している。「キーワード」なんてのも大好き。謎解き、絵解きである、というのが認識の前提にあるから、実際に何か運動に関わる局面があっても、自分たちがストレスなく泳げる生態系、情報環境でしか回遊しない、できない。岩波や筑摩、講談社あたりから、朝日や毎日、NHKまでのお墨つきがもらえればしめたもので、その手の回遊経路はひとまず安泰、というわけで、最近この「サヨク脳」が集結している「九条の会」など、まさにこのエサ場。一部のマスコミや学校、ある種の政党の周辺「だけ」が世界になってるわけで、しかも、それがすでに磯の潮だまり程度に干上がりつつあることについては不思議に直視しない。間違って視野に入ったとしても、その追いつめられつつある現状認識も次の瞬間には「少数派」の「正しさ」、という浪漫主義を刺激する材料になるのが関の山。どう転んでも彼らのうっとり加減、脳内お花畑状態はめでたく維持される。つまり、とてもシアワセらしいのだ、とりあえず。

 斉藤貴男は、もともと梶原一騎の評伝で注目されるようになった書き手。当時としては、いい仕事だった。それがいつの間にやらサヨクマスコミ御用達、あれよあれよという間に「サヨク脳」丸出しになっていった経緯というのは、岡目八目で見ていて素朴にオモシロい。何か根深い理由があるとしか思えない煮崩れ具合なのだ。その意味で、当初はひとまずマジメな映像ドキュメンタリー作家として出てきた森達也ともよく似ている。ごくざっくり言って、「ジャーナリズム」や「報道」といったもの言いの周辺にかなりのトラウマ、ないしはコンプレックスがらみの執着心が微笑ましいくらいにあからさま、なのだ。

 たとえば、こんな具合。再度、斉藤貴男のご発言。

 「親の七光りだけで生きてきたお坊ちゃまが、自分の力で必死に生きている人間に向かっておまえたちの生き方をおれが定めてやるとホザいているわけです。」

 「お坊ちゃま」と「自分の力で必死に生きている人間」という善玉/悪玉の図式。エリートと庶民、権力と民衆……何でもいいけど、もちろん自分は後者の味方であり、もしかしたら後者自身でもあったりするらしい。「左翼」「前衛」以来直系のインテリ/知識人自意識の動態保存だが、しかし、この善玉/悪玉図式からはほんとの意味でのおのれの実存、ってやつはきれいに抜け落ちてるらしい。斉藤自身は1958年(昭和33年)生まれで、東京出身で北園高校ってことは当時は小石川に次ぐ進学校、いきおい左翼系の拠点だったりするわけで、事実、かつては網野善彦が教師やってたこともあるくらい。聞くところでは家はそこそこ貧しく苦労もしたらしいが、でも、ビンボで苦労したからってみんながみんな「自分の力で必死に生きている」とも限るまい。たとえば、このもの言いを「左翼親の七光り」だけで生きてきた「左翼エリートのお坊ちゃま」に置き換えたら、ほうら、きれいにそのまま、小森陽一(オヤジは共産党員、オフクロも原水協に関わるようなそれ系詩人で、本人は都立進学校の「闘争的」(笑)生徒会長で、なのになぜか北大出)じゃないのよ。生まれが貧しく育ちもよくない自覚がちゃんとあるのならあんた、ほんとの敵はすぐそばで味方ヅラしてるいまどきの「サヨク」「リベラル」インテリ/知識人の中にいるんじゃないの?

 敢えて斟酌すれば、これは「現場」に過剰に信心を持ってしまうような平均的優等生のマジメさの不幸、である。だから、この「サヨク脳」たちには、自分は「正しいこと」を主張している、という熱血教師のような気配がありありで、キツいのだ。憤る、悲憤慷慨する、世の中間違ってる、と青筋立てて嘆くさまは、昔ながらの古典的インテリ、知識人の自意識そのまま。いまどきそういう風にそのままスッポンポンでいられること自体がまず、あたしなどには驚異なのだが。そしておそらく「サヨク脳」と揶揄してしまう気分の側にもそういう種類の違和感が間違いなく共有されている。主義主張の中身より先に、そういう自意識の気配がなんだかなあ、というあたりののっぴきならなさが、しかしご本尊たちはどうやら認識されていないらしい。

 でも、これが何か世間的に受け容れられやすい肩書きでもついちまったら、簡単に先の小森陽一姜尚中(こいつも生まれはビンボな在日だ)や高橋哲哉になる。実際、こいつら「東大」の肩書きがなくなっちまえば、ただのデンパ。肩書き頼りに仕事を発注している一部のメディア的にも使い道もほぼなくなるはずだが、それでも当人たちはそんな懸念などどこ吹く風。何より、絶対にこやつら「東大」にしがみつき続けるだろう。そして斉藤や森も、そのコンプレックスが軽減されるような立場や肩書きがついちまえば、断言する、小森や姜や高橋のようにいぎたなく厚顔無恥にその椅子にしがみついて見せてくれるだろうこと、間違いない。

 人というのは、実にこういう具合に腐ってゆく。学者・研究者としての仕事がどうの、文化人としての実績がこうの、といった抗弁や、人格や世渡りと仕事や作品は別、てなありがちで聞いた風な能書きはこの際、全部まとめて却下。シナ産食い物が毒入り全開なのは、作ったシナ人がまず信用できねえ、ってのと同じこと。ましてや言論、思想の文化商品、まず人として、同時代の誠実な知識人として信用ならねえ、だからその仕事や能書きも同等に信用ならなくなる、単にそれだけのことだ。

 斉藤が最近出した『安心のファシズム』あたりは、その「恥ずかしさ」の集大成。なにせ岩波新書だし。それだけで大学の授業で安心して使われ、新聞にも書評が出、「検閲済み」として読まれるもの、という「戦後」の読書市場のサイクルは未だその程度には存在している。中身は……いや、あたしが言うのもアレだけどさ、おいおい、ここまでずさんでいいのかよ、と心配するくらいの男前な書き殴りっぷり。堂々、「嫌煙ファシズム」なんだそうだ。なのに、本人はタバコを吸わず、個人的にはなくなってもいいと思っている由。でも、そんなボクでも今の嫌煙運動はファシズムだと思うから抵抗するぜ、と。

 「人権」真理教、的な昨今のメディア主導の発情ぶりがけったくそ悪い、ってのは、まあ、わかる。その延長線上に嫌煙権運動も、という理屈もありだ。しかし、タバコ吸って不健康になるのも自己責任だろうが、ほっといてくれ、という、オヤジの放言程度のことを<なんでわざわざしちめんどくさい小理屈こねてそんな大文字の「正義」に仕立てようとするのか、その野暮天丸出しな「作風」(いや、なつかしいもの言いだな、こりゃ)自体が根本的になんだかなあ、なわけで。まして、この「嫌煙ファシズム」戦線で、小谷野敦栗原裕一郎(共に喫煙者)あたりも一緒くたに「反嫌煙権」で結託させられているから、なんともはや。サヨク/リベラル市場以上にもはや干上がる寸前のブンガク市場界隈発の商売ネタになってるらしいギョーカイ事情もわかるが、でもこれ、もしもその組む相方がただの「保守」オヤジだったらあんた、こんな「人民戦線」(笑)ぶりっこもしなかったんじゃないの? と茶々のひとつも入れたくなるのも、言ってる中身以前にご本尊の自意識からしてずさんなまんま、だからだ。そのずさんさにおいて、そしてそのずさんさの現われを何か「デキる」ことの証明とだけ、なぜか思い込んでるフシにおいて、そのたたずまいは正しく日垣隆勝谷誠彦など、一連の昨今の「恥ずかしい」系文化人にも共通している。 

 これが香山リカになると、ただの目立ちたがり、常に注目浴びてたい、という病いもあらわな病人で、斉藤や森のコンプレックスのような斟酌の余地もない。単なるキチガイ、バカ文化人、メディアの珍獣として、世間の視線でマーシーキリング(安楽死)させてやるのが人の道、人前で偉そうにもの言わせていいブツでは、すでにない。もっとも、昨今では何か事件があるたび、新聞社や雑誌の編集部に自分で電話をかけてきて、何かものを言わせてよ、とやらかすまで症状が重篤になっている由。まあ、芸能プロや事務所に属していない分、営業活動にご熱心なことで、と言うしかないが、でも、そんなコメントをひとつふたつ寄せたところでゼニカネ的には大したことないはず。だとしたらやっぱり、常にメディアで何かものを言いたい、目立ちたい、このアタシがひとこと言わねばならない、と思いこんでいるココロの病気の現われに他ならない。

 ただ、問題はこれでもこやつ、精神科医だということだ。あたしが民俗学者名乗ってるのなんざ、間違っても人サマの命や精神衛生に直接関わらないだろうから害はないが、こやつ嘘でも「医者」で、実際に医療行為にも関わっている。そりゃいまどきのメンヘラー相手のクリニック程度のこと、少し話を聞いたふりして精神薬を適当に処方するだけの仕事にせよ、メディアで営業活動して客寄せしている以上、その使っているメディアにも社会的責任ってやつは生じるよなあ。シナの毒入り野菜は輸入元、販売元にも責任があるわけだし。

 というわけで、「サヨク脳」にも個々に腑分けしてみればいろいろある。共通しているのは、ほめられたい、同調されたい、そうだそうだ、と声を揃えてくれる取り巻きがキモチいい、そういう根本的なココロの弱さ、だろう。その程度にお人好しというか、どこかがゆるいのだと思うのだが、まさに「鈍感力」なわけで、でなければいまどきここまでテンプレ並みの言説を偉そうに垂れ流してまわる、その理由が説明できない。

 かくて、「サヨク脳」とは、単なる言説の水準だけでなく、それらを平然と垂れ流す自意識が同時代の信用すべき人格としての何らかの欠陥がある、ということを含めて評されているもの言いである。今後、ぜひともそのように使われんことを。