「ブスかわ」の謎

 

 「ブスかわいい」と呼ぶんだそうな。青木さやか森三中にハリセンボン、いずれそのへんの、主にお笑い系な最近の「十人並み」ご面相女性タレントたちのこと、である。

 「エロかわいい」というのもすでに周知。倖田來未とかエビちゃんとかそのテをさすらしいが、その「ブス」なり「エロ」なりと後半の「かわいい」との間には「だけど」という接続が介在し、本来マイナスの属性の前半が何であれ、一気にプラスの「かわいい」になる、という仕掛け。何より、これらがほぼ同性であるオンナの側から投げかけられるもの言いであることが重要。仲間だよ、という公認の視線であって、もはや表層の美醜など関係なし。「かわいい」=認めている、という意味がほとんどなのだ。

 彼女らは全て、世界と対峙するほどの「ブス」や「エロ」ではない。異形、ではないのだ、決して。出てきた頃のしずちゃんあたりは若干そんな気配はあったけれども、今となってはなめされちまってただの置物。異形としてのオーラの芽も隠されちまった。

 存在そのものに骨がらみな業の深さ、どうしようもない異形ぶり、の欠如。もの書き系で言えば、かつての林真理子ナンシー関のような、間違っても「ブスかわいい」などと呼びようもない底知れぬ因業ぶり、がないのだ。いまどきの「ブスかわ」連中ときたら、別に「お笑い」で生き残れなくても構わない、という感じがありあり。山田花子ですら最近は「姐さん」扱いされてヨシモト公認の箱詰め製品だし、かつて舞台で素っ裸で開脚ポーズもいとわない創価の外道だった久本雅美も、いまや「好感度タレント」に堕落した。ほんとの意味での「ブス」の衝迫力を保っているのは、モリマンくらいになっているかも。

 何もかも「かわいい」にして公認してしまうこちら側の視線、同性のオンナたちの視線のその残酷さが、彼女たちの芸へのポテンシャルを去勢している。オンナの視線が敵意に満ちたものになるような存在を、今のメディアは商品として許容しない。オンナの内輪、と化したメディアの空気。少なくとも、地上波テレビの凋落というのはその「オンナの内輪」の独裁に原因があることだけは間違いない。そして、広告資本の「意志」がその内輪の形成に根深く関わっているらしいことも、また。

 そんなオンナの「内輪」自体を見せる番組(ex.『グータン』とか)がなにげに増えている事情については、紙幅が尽きたので別の機会に。