遠い「歴史」「日本」

 「昭和」というもの言いを、若い世代が好んでするようになり始めています。

 何か自分たちの感覚からして違う、違和感があるできごとに遭遇すると、それって「昭和」だよね、と口にする。ちょっとした言動や身振りはもとより、テレビや映画の登場人物、レストランのメニュー、音楽のメロディ、道行くオトナたちの着ている服のセンス……などなど、何でもいい、ある種の距離感を抱いてしまったものやことに対して、とりあえず「昭和」と表現してみる、そんな感じです。

 仲間同士や気の置けないふだんの関係だとそれだけれども、これが学校や会社、あるいはある程度世間体を気にしなければならないような場だと、「戦後」に置き換わることもあります。「昭和」と言ってしまうと、そこにどうしても軽侮する、見下すといったニュアンスが伴ってしまうことを自分たちでも気づいている、ということなのでしょう。あるいは、古くさい、時代遅れ、といった意味あいがこもっていることを、言われている側もきっと気づいてしまうだろう、とか。でも、「戦後」と言っておけば、「昭和」に比べてどこか教科書的、テレビのニュースキャスター的な「公認された」もの言いだから、そういう生身の思惑や隠しておきたい気分ってところはコーティングされ、ガードされるようなところがある分、オトナたちからは見えないはず、と。

 けれども、その前提になっている感覚というのは、基本的に同じ。ありていに言って、いまどきでない、古くさい、時代遅れ、といった感覚がかき立てられるようなものやことに遭遇した時、この「昭和」、あるいは「戦後」というもの言いが発動されるようになっている、ということのようです。

 一方で、「歴史」好きが増えている、とも言われています。特に若い世代の女性。彼女たちのことを特に「レキジョ」などと呼ぶ呼び方も、一部では出てきているとか。

 と言っても、何も歴史書や専門書をいきなり読んでのこと、ではもちろんない。ならば、歴史小説大河ドラマが好きでそれがきっかけで、というありがちな経路かと早合点していると、実は必ずしもそれだけでなく、入り口となるメディアの多様化が著しい。ゲームやマンガ、ライトノベルといったものがむしろメインゲートで、しかも誰が見ても歴史もの、とわかるようなものだけでなく、一見関係なさげなファンタジー系などの中に、あらかじめ歴史上の人物やできごとなどがひとつの要素として埋め込まれている、それらの要素に対して反応しての「歴史」好き、ということになっている場合がこのところ、特に目立っているようです。言わば、キャラとしての歴史上の人物、アイテムとしての「歴史」、という感じでしょうか。

 それって何が違うのか。たとえば、ある歴史上の人物やできごとに興味を持って、それらについて知ろうと思って調べてみる、するとまわりの人物や事件などにも関心が広がり、というのは普通だと思うのですが、どうもいまどきの若い「歴史」好きの話を聞いていると、様子が少し違う。興味を持ち、調べ、「知る」ことによってためこまれていったそれら個々の情報というのが、歴史像や社会像、人物像といった言わば「台紙」にバランスよく配置されて輪郭が立ち上がってくる、というプロセスへ向かうことが、あらかじめ見失われているようなのです。

 つまり、文脈がない。というか、そんな文脈や背景など関係ない。歴史上の人物も事件も、それが「歴史」に関する要素であるなら、洋の東西、時代の前後を問わず全く等価に扱われてミックスされる。初手から創作のファンタジー小説やSFマンガなどの要素もさらに何でもありに加わって、そんな時空の位相をまるで無視した文脈抜きのところに新たに宿る世界というのが、彼ら彼女らの言う「歴史」だったりするらしい。時間や時代の遠近法、空間や地理、文化文明の彼我感覚、などが、こちらの感覚からするとはずされてしまった無重量状態のような「場」で、キャラやアイテムとしての「歴史」をパズルのピースのように好き勝手に弄んでいる、という印象さえあったりします。


●●

 おそらく、こういう世界観、現実認識というのは、何も「歴史」に関することだけではなく、彼ら彼女ら若い世代の生身そのものにいま、現実に宿ってしまっている〈リアル〉の感覚に根ざしているはずです。デジタルネイティヴ、などということもちらほら言われ始めているようですが、これもある種日本的な文脈でのデジタルネイティヴ世代のある側面、ということが言えるかも知れません。

 歴史認識が改めて問題にされてきたり、あるいはまた、若い世代の「右傾化」が懸念される、などという論説が未だに堂々とまかり通る現在というのは、それらを確実に下支えしている若い世代の感覚というものが、もしかしたらそのような現在の表層を覆って流通していることばの水準からすれば、すでに異質なもの、ことば本来の意味での「異文化」の様相をはらみ始めているということのように思えます。 是非はひとまず措いておきましょう。というか、措いておかざるを得ない。なぜなら、好むと好まざるとに関わらず、ひとまずそれが〈いま・ここ〉のわれらの現実、いまどきのニッポンの〈リアル〉のある部分、なのですから。

 そのような感覚を装備した新たなニッポン人、たちの感覚は、外国人の視線と期せずしてシンクロしてゆくようなものになっています。「歴史」への興味を言い、「日本」にもう一度関心を持つような傾きを熱く表明する、その内実を静かに照射してみれば、どこか外国人、具体的には欧米の白人の語る「日本」や「歴史」の手ざわりと通じるものになっていたりする。そんな彼ら彼女ら若い世代が、「日本」を口にせざるを得なくなっている。その〈リアル〉の重層性、入り組んだ事情というあたりを、さて、新聞や雑誌、既得権益護持精力の典型と化したマスコミ周辺、学者や評論家以下の日本語の広がりの中での知的アクティヴを自認する方々は、さて、どこまで気づいているのでしょうか。一部で言われる「ネトウヨ」問題というものにしても、ある本質として背後にそのような根本的な難儀が横たわっていることは、思想信条が右だの左だのを超えたところでまず、認識されねばならないことのはず、です。

 これまで当たり前だとされてきた現実感覚、それに依拠した〈リアル〉でさえも、彼ら彼女らとってはあらかじめよそごと、です。良い意味でも悪い意味でも。でも、この場合は敢えてその良い意味、においての部分に焦点をあてておきましょう。何も悪い面ばかりでもない。結果としてそのような〈リアル〉、あらかじめこれまでの時空の位相からひきはがされたところで生まれ育ってこざるを得なかった彼ら彼女らもまた、経緯はともあれ、やはり「日本」と対峙せざるを得なくなった、その一点はとりあえず確かです。当面、抱いてしまっている「歴史」や「日本」がどれだけ荒唐無稽で、時間も空間も考慮しない文脈抜きのものになっているとしても、そこから広がりも奥行きも均衡のとれた歴史や日本に出会ってゆくことはできる。

 人はよそごとの〈リアル〉に生き続けることはできない。よそごととしての「日本」、よそごととしての「歴史」、そんな感覚を前提にしてしか、しかしこれからの世代の多くは、おそらく〈リアル〉に接近してゆくことはしにくくなり始めている。ならばよし、そのよそごとの現実感覚をもう一度、こちらの〈リアル〉と関係づけてゆくこと。そんな懐の深い関係性を持とうとしてゆく作業の向こう側にこそ、本当の意味で穏当な「日本」が立ち現れてくるはず、です。