マンガが「読めない」若い衆から

 マンガを読めない学生若い衆が増えている。そう言うと、ぽかん、とした顔をされます。嘘でしょ、冗談ですよね、といった大真面目な問いかけと共に。

 そんな顔を目の当たりにするたびに、こちらはこちらで、ああ、やっぱりそういうことなんだ、と同じように呆然とします。マンガを読み楽しむのにも能力が必要なこと、メディアリテラシーのありように対する理解ってのがその程度に未だ「活字」「文字」前提でしか解釈されないことに、わかってはいるつもりでも改めて。

 はい、本当です。何も最近になって起こり始めたことでもない、少し前、少なくとも概ね今世紀に入るあたりの頃からは学校現場で広く確認されていた現象です。

 それどころじゃない、昨今ではアニメも「読めない」、おはなしの流れに沿って観ることができないことも、こんなの例外だろ、と無視できない程度に起こり始めています。紙のメディアに印刷された情報をうまく摂取できないだけでなく、映像メディアに対しても同じような不自由、こちらからすれば「障害」としか思えないような症状がこの国の若い衆のある部分に想像されている以上に広汎に認められるようになっています。

 マンガを読む大学生がある種社会問題としてとりあげられるようになったのは、60年代半ば過ぎ、マンガが専門の週刊誌を介して広く当時の子どもたちに受容されるようになり、その子どもたちが成長して青年期に達するようになった頃のことでした。その後彼らは社会に出て、背広姿の勤め人姿になってもマンガを人前で読むことに抵抗を感じなくなっていった。世間の視線の側もまた、それを日常のものとして受け入れるようになってゆきました。今はそれが携帯やスマホに変わってきています。

 アニメもまた、少し遅れて同じような過程をくぐってきています。テレビで放映されるアニメはもちろん、映画館で上映されるアニメも「長編漫画映画」といった呼び方をされていたいたわけで、アニメはマンガと同じく「子どものためのもの」でした。そんなテレビアニメで育った子どもたちが成長し、青年期に達するようになるとアニメもまたそれまでと違う消費のされ方をされるようになる。概ね70年代半ば過ぎくらいのこと、映画館で子ども向けに上映されていたはずのアニメに、高校生や大学生とおぼしき若い衆がたくさん押しかけるような現象が現われるようになり、専門誌なども創刊、マンガに加えてアニメもまた新たなユースカルチュア、単なる子どものためのコンテンツからひとつ別のステージへと移ってゆきました。

 年月は過ぎ、その彼ら彼女らが家庭を持ち子どもを持つようになり、自分たちがそうだったように当たり前のようにマンガやアニメを与え、ある種ベビーシッター的な役割を持たせながら子育てをするようになります。家庭だけじゃない、学校でさえもその日常にマンガやアニメの要素を組み込むことに抵抗を持たなくなってゆく。教科書ひとつとってみても驚くほど薄くカラフルになり、文字よりも絵やイラストの占める割合が格段に増え、教室で使われる教材にしても映像やアニメを使ったものが当たり前になってゆく。何より子どもたち自身が、親たちもまた自分たちと同じようにマンガやアニメが好きで楽しんでいることを早くから知っている。ざっと振り返ってみるだけでもこれだけの環境の変貌がすでに「歴史」としてわれわれの日常に織り込まれてきているのにも関わらず、いやだからこそ、でもあるのでしょうか、マンガを読めない若い衆がいまや平然と眼前に存在する、ということにいま、驚かねばならなくなっています。

 マンガやアニメが当たり前に存在する環境でものごころつき、親や大人たちもまたそのような環境と地続きに生きている、そんな感覚を持ってきた若い衆世代がなぜマンガやアニメをうまく受容できなくなっているのか。これは大きな問いですが、ひとつこの場で指摘しておきたいのは、文字や活字を「読む」という経験とそこで醸成されてきたリテラシーが、同じくまたマンガやアニメを「読む」能力の前提になっていたらしい、このことです。

 文字や活字を介して醸成される文脈を読む感覚や能力、広義の「おはなし」を受容する力と言い換えていいと思うのですが、そういうものがまたマンガやアニメを観る/読む時にも自明の前提になっていました。文字や活字のリテラシーが情報環境と接する再前提になっていた状況から、文字や活字になじむ前にマンガやアニメ、文字以外の映像その他のメディアに接してしまうことで形成されるメディアリテラシーというものは、どうやらこれまでわれわれが当たり前に共有してきた「読む」ことと、少し別の能力にすでになってきているような気配があります。

 「ゆとり」教育の見直しはすでに始まりました。遅きに失した感もあり、まただからこそ教育の失地回復は急務なわけですが、しかし、と同時にその「見直し」の中身もまた、このような情報環境の変貌とその中で育ってきたいまの眼前の若い衆世代の能力、メディアリテラシーとの関連で慎重に画策されねばならないところがあります。文脈を追えない、筋道立てて話ができない、関心が持続しない、ひとつの作業に集中できない……ひとつひとつは個別の現象として、いまどきの若い衆の症状としてとりあげられてはいても、それらの背景に横たわっているわれわれの「現在」をそこに織り込まれてきている「歴史」と共にどのようにゆったりと、包括的に見ようとすることができるのか。われわれ大人の側の知性、未来をつくってゆく知恵の器量もまた、同時に問われています。