ルポ・ノンフィクション、の行く末


 朝倉喬司さんが亡くなりました。すでに報道等でご存じの向きもあるでしょうが、いわゆる孤独死、と呼ばれてしまうような、とても残念な最期でした。

 ルポライター、ノンフィクション作家、犯罪評論家……肩書きは何でもいいでしょう。いずれ同時代を駆け抜けた足腰確かなもの書きのひとり。さらに言挙げすれば、もはや絶滅品種になりつつあるらしいような、カラダとことばがいい具合にシンクロし、統合したままメディアの現場で仕事ができた世代のおそらく最良の部分、とも付け加えておきましょう。間違いなくある時期、同時代の第一線を疾走していた、それだけの仕事をしていたひとかどのプロ、の訃報ではありました。

 享年67。昭和18年生まれということですから、かろうじて戦前生まれ、タッチの差でいわゆる「団塊の世代」の直前。昨今webなどでは蛇蝎のごとく忌み嫌われ、何かというといまのこのニッポンのていたらくを招いた元凶、諸悪の根源のように語られるのが常の、あの「団塊」の、世代的にはわずかながらも兄貴分、になります。

 ところが案の定、訃報が流れて後のwebでの反響ぶりには、「団塊サヨクライターがくたばったか」程度の脊髄反射の書き込みが一定比率で混じり、昨今まあ、特に珍しくもない光景ではあるものの、でも、それなりにおつきあいのあった人がやり玉にあげられているだけに、さすがのあたしもちと鼻白みました。あんなあ、おまえら、ミソもクソも一緒くた、とにかく「団塊」叩いて溜飲下げてりゃそれでいいのかよ、と。


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 そもそも、取材してものを書く、といった営みが仕事として成り立つのは、新聞記者や雑誌記者、いわゆるジャーナリストなら当たり前なようですが、しかしそれが徒手空拳の個人、フリーランスのなりわいとして継続的に、しかもある程度のボリュームを伴って「群れ」として可能になるためには、もちろんいくつかの前提条件が必要でした。

 ルポライターやトップ屋といったもの言いはその少し前、60年代半ば頃に出現したと言われ、朝倉さんもおおむねその頃に週刊誌などを経由してメディア稼業に足を踏み入れるようになったはずですが、「団塊」はその直後に流入してくる。彼らの多くは、70年代の初めに週刊誌の契約記者などから、そのキャリアをスタートしました。高度成長が一段落しての第二次週刊誌ブームで、それまでとは別の出版社系の週刊誌が新たに市場参入、雑誌市場がさらに賑わいを見せていた時期です。彼ら「団塊」が流入するようになって初めて、それらフリーランスのメディア稼業が「群れ」としてのプレゼンスを示すようになったと言っていいでしょう。

 「量を質に転化させた」(三浦展)というのは、「団塊」に対する評言としてなかなかに適切ですが、ここでも「量」が「質」を保証するその仕掛けは稼働しました。学生運動からドロップアウトした者も含め、既存のレールからはずれた生き方を積極的に希求せざるを得なかった者たちのある部分が、そのようなメディア稼業の現場に吹き寄せられた。物情騒然の時代はひとまず過ぎ去っても、その記憶をカラダのうちになおくぐもらせたまま、彼ら「団塊」のある部分は、20代から30代にかけての時期をひたすら自らの足腰で動き、現場を這い回ることで何か自前の〈リアル〉を獲得しようとしていました。その運動力は当時、ヒーローとしての「個」をルポ/ノンフィクション界隈に幻視させるに足る“熱さ”すらはらんでいました。

 図式的にくくってしまえば、鎌田慧沢木耕太郎、これらを両極として、そのヒーロー像は分裂してゆきました。実際、ルポとノンフィクションの違い、みたいなものが、当時は大真面目に論じられ、語られていたものです。後に80年代のベストセラーとなった渡辺和博の『金塊巻』に一節が設けられていて、そこでは明らかに沢木とおぼしき「マル金」と、対しておそらくどこかで朝倉さんやその仲間たちに取材した結果と思われる「マルビ」とが対比されてた。出版社に囲われ、「商品」としてプロモーションを受けるようになったノンフィクション作家と、相変わらず地の底をはいずりまわるような日々を送る、でも何らかの志と共にそのような境遇に甘んじているルポライターおよびその予備軍、というその図式は、いまとなってはある種の民俗資料的なおもむきすらあります。

 確かに、彼らの多くは無名の、いまどきなら「名無し」に等しい営みとして、時には自ら「行」を課すようなストイックさすら伴い「取材」に、「現場」に赴くこともありました。立場としては契約記者やライター、取材費が出るとは限らず、何か事故やトラブルがあっても裏付けも補償もない、そんな不安定な境遇のまま仕事を続けていたわけで、それでも何らかの使命感、それが社会的なものであれ私的なものであれ、自分の仕事に対する何らかの誇りや矜持を抱きつつの営みだったことは確かでしょう。


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 何よりも大きかったこと。仲間がいた。同時代を生きる世代的にも近い同業者の群れが、具体的に顔の見える範囲に存在した、その環境がおそらく最も心強いものでした。

 ケータイもネットもまだはるか夢物語。せいぜいが公衆電話くらいが個人をつなぐリアルタイムの通信機器で、原稿も紙と肉筆、取材の現場から執筆、編集の過程に至るまで、とにかくおのがカラダを介したやりとりが中心の遠近感が情報環境にも備わっていた。

 酒の場、議論と討論、時にはケンカ沙汰も含めて、彼らの日常はそのようにまるごと身の丈で編み上げられていて、そしてその分、何かとりとめないもの、とほうもないものをありありと幻視してしまう欲望もまた、濃密に宿らざるを得なかったらしい。カラダの場が呪縛であるほど、幻想はより遠く、高くはばたくようにふくらんでゆく。そしてそれはまた、再びカラダの場に還元され、ことばに、声にも避けようもなく何らかの影を落としてゆく。

 思えば、昨今「団塊」に対する違和感、疎ましさの表現として語られるもののかなりの部分は、そのようなメディア稼業の現場で濃厚に現出させていたものでした。必要以上に「個人」であろうとし、カラダが過剰で、関係性において緊張と執着とが常にまつわっているような、そういう種類の「うっとうしさ」。けれども、何かものをつくり、表現してゆく営みにおいては、その「うっとうしさ」とそこに根ざした共同性は、間違いなくある武器として作用しました。再び、その彼らの「量を質に転化する」世代性と共に。そんな「団塊」の共同性にとって、共に仰ぎ見る視線の先にあったのが、たとえば朝倉喬司のあのカラダとそれを媒介にした仕事、だったようです。


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 それら「団塊流入の後、70年代と80年代の間に亀裂があるとすれば、たとえば「広告」をめぐるカネまわりの速度と密度とが一気に加速されていった、そのことにまつわってのものがひとつ重要でした。80年代にメディア稼業に参入してきた世代にとって、「広告」を意識することはあらかじめ当然であり、だからこそ「おしゃれ」で「ナウ」(笑)であることが所与の価値としてあった。70年代出自の「団塊」にとって、そのような感覚はまごうかたない異物、決定的な亀裂をはらんだものだったはずです。

 世代的に言えば、おおむね今の40代末から50歳前後を境にして、そのような現場に還元するカラダを抱えたような書き手は、ほぼ姿を消します。いまなお「現場」を標榜する者はいても「団塊」とはどこか肌合いが違う。それは「広告」まわりのカネが過剰に流通することで、あるバーチャルな空間をあらかじめこさえてしまい、その向こう側でしかメディアの現場をイメージできない不自由を当の彼ら自身相対化できない、そんなあり方です。そして、そういう者たちだけがこの忙しいのになお、「現場」という思い込みに足をとられ、勝手にジタバタしているような無残な印象でしかなかったりします。

 カラダの回復、手もと足もとの現場に即した呂律で呼吸し、見聞きし、そしてもの語ることのできるおのが身の復権。ジャーナリズムやメディアの現場に限らず、今後このニッポンで生きてゆく上で不可欠の条件だとさえ思う。それはしかし、webやケータイ環境が輻輳して〈いま・ここ〉を覆うようになったいまどきの情報環境においては、「団塊」たちとも、またその後の世代の経験とも異なる、まだ見知らぬ戦略と戦術をさえ、要求されるようになっているもののようです。