―― 一般の人は、花柳界といふ名で特殊部落のやうにかたづけ、時としてさげすみさへするし、文人たちも花柳小説と呼んで外道のやうにあつかひ、花柳界の人たち自身も弱い稼業とか、水商賣とかいふ風に、自らを卑下したがるのだが、もっと眞實に、親切に見なほすことは文人として大事なことだと私は考えてゐる。*1
―― 平山蘆江は気分の好い男にて、気が乗りさへすれば、骨身を惜しまずに働き、文章にも一家の風味を有す。都新聞の記者として、この平山蘆江ほど、都式に出来て居る感の人は、他に一人も無し。*2
1.はじめに
平山蘆江、のことを、そろそろ語ってみようと思います。
明治末から昭和初年にかけて活躍した新聞記者であり、その後、社を離れ独立、戦後に没するまではずっと作家として仕事をしていた人。1882年(明治15年)生まれ、1952年(昭和27年)没。享年70。本名、平山壮太郎。号の蘆江は、若い頃、与謝野鉄幹の新詩社に出入りし、投稿していた時期の号「蘆汀」が「蘆江」と誤植されたのをそのまま使うようになったものとも、江戸時代の名優瀬川菊之丞の絵に顔つきが似ていたのでその俳号「路考」をもじったもの、とも言われています。*3一般的には「花柳もの」の書き手、であり、大衆文学がその輪郭をみるみる確かにしてゆく勃興期の新たな作家の群れのひとり、といった位置づけになるのでしょう。
とは言え、斎藤緑雨や泉鏡花、岡鬼太郎などから永井荷風へ連なるとされる、文学史的間尺からの一般的な「花柳小説」の広がりからも、また、中里介山や岡本綺堂、白井喬二、吉川英治から山本周五郎といった固有名詞の連なりで記される大衆文学の教科書的な脈絡からも、いずれも共に彼、平山蘆江の名前が積極的、かつ同情と共に言及されることは、ほとんどありません。*4今日ではありていに言って“忘れられた人”と言っていいようなものです。
けれども、この平山蘆江という“忘れられた人”が、ある時期からずっと気になっていました。それはありがちな好奇心、埋もれてしまった知性に対する“おたく”的で平板な単なる執着というよりも、まず、どうして自分の見聞きしたこと、その場に身を置いて体験した眼前の事実に対するこういう書きとめ方が平然と可能だったのか、という、ひとりの読み手としてのごく素朴な驚き、感銘に根ざしたものでした。*5
その感銘の質について、あとづけでつけられるもっともらしい理由もいくつかありますが、ひとまず最低限ざっくり言っておくならば、その民俗学的知性としての身体のあり方、ということになるでしょう。「現場」を発見し始めた勃興期の新聞記者に特有な「取材」の現場に宿った身体を存分に駆使しつつ、眼前の現実、〈いま・ここ〉の手ざわりやたたずまいを活字に、散文に移し替えてゆく、その過程の今日性とそこに根ざしていたであろう技術、読み書き、聴き話す“わざ”の卓越です。
特に、「花柳もの」「情話」などとくくられてきた比較的短いもの、そして晩年、ゆったりとことばを繰り出せるようになってからの、「芸」の領域にまつわるさまざまな角度からの見識を披瀝したものは、常にとりとめなく、かつまた容易にことばに、意味の相に定着させてゆくことをことの本質として許してくれないまるごとの現在=〈いま・ここ〉をここまでなにげなくさらりと文字のテキストとしてすくいとって見せることの効果について、この上なく具体的な実例として示してくれるものになっています。
それらかつて「花柳もの」や「情話」とひとしなみに言いならわされていた彼の書き残したものから、もう一度、おのれの生きる〈いま・ここ〉の側から抽出し、おのが身に投げ返せるように読み取って行くこと。それは、今日の情報環境において広義の「取材」のあり方とそれを可能にする身体をどのように復権してゆくかということ、ひいては「現代民俗学」と言挙げする民俗学の今日的再生にとっても、地味ながらきっと役に立つ作業のひとつであると、確信してきました。
「実際に色街に棲み、そこで見聞きしたことを「おはなし」の形式に移植しながら書きつづる。似たようなモティベーションを持っていたはずの、たとえば永井荷風などのように「文学」の枠組みから光を当てられることは少なかったにせよ、その場合に彼が依拠した形式というのは、柳田が選択したものとはまた別ものでしたが、しかし、その初志としては柳田が『明治大正史・世相篇』で目論んだはずの同時代の読者に対する読まれ方、届き方を配慮した上で選択されたものだったはずです。
棲んで、書く。その場に身を置いて、書く。その場にはらまれた日々の暮らしの速度にできる限り身を寄り添わせながら、その速度からなるべく離れないように、「書く」ことを注意深く制御しながら、書く。どう表現してもめんどくさい言い方にしかなりませんが、蘆江の書き残したテキストが今の時点から読み直してみても、「民俗誌」の初志に沿ったものとして読むに耐え得るのは、表面上の文体や記述の形式といったところ以上に、そのような「書く」ことへ向かう時の作法のありようこそが、民俗学が「民俗誌」のもの言いの下に想定していたような記述の方法意識とシンクロしてゆくような質を持っているからだと思います。」*6
舌足らずで、なおかつまわりくどい言い方ですが、蘆江に対する初発の関心、惹きつけられた理由というのは、ざっとこういうものでした。この続きをもう少していねいに書いておかねばならない。
先回りして言えば、それは良質なエスノグラファーの身体にも通じるものです。
あらかじめ自分との関係を切断したところで設定される、良くも悪くも他人ごととして知的操作を伴って横たわるような「対象」としてなどでなく、現実に生きて呼吸している自分自身とののっぴきならない関係を前提に多様にうごめきながら、初めて遠近法を伴って見えてくる風景としての「現在」=〈いま・ここ〉を、ひとまずただそのようなもの、として十全に、ゆったりと受け止めることのできる生身。それは、どうしようもなく個別具体で、だからこそ生身の、生活における出自背景からそれこそ性的な領域までもあたりまえにはらんだ上での自分自身から一点透視で見通せるものでしかないような現実です。*7
彼、平山蘆江の書き残したものから察知できる、紙の向こう側にかつて確かに生きてそこにいたはずの生身とは、おおむねそのようなたたずまいを伴った等身大です。そして、そのような等身大である生身を介して再度、おだやかな解釈の視線を活字に対して現在から与え返してゆくことで、それらのテキストもまた、〈いま・ここ〉の手もと足もとで最もいきいきとなまめかしい〈リアル〉を放射し始めます。そう、紙の文字、それ自体は平板なテキストはしかし、文字を文字として生産していったかつての生身のたたずまいを、想像力をめいっぱいふくらませて手もとに引き寄せることで手にできる新たな解釈格子を介して、またいきいきと解凍され、これまでと異なる相貌を見せてくれる。
「歴史」といい「文化」と呼びならわされてきた領域も、そのような営み、連続してゆく過程の中に改めて、日々の生身にまっすぐに関わるような質を伴って、同時にその生身に寄り添いつつ日々新たにうまく宿ってゆくようなものかも知れない、そう思います。
2. 平山蘆江という人
それにしても、忘れられています。ものの見事なまでに。
いわゆる大衆文学にまつわる歴史をひもとくと、たとえば第一次『大衆文芸』同人の連名を始め、それら大衆文学勃興期の書き手のひとりとして、随所に名前が出てはきます。雑誌『大衆文芸』の下地になった大衆小説作家の親睦会「二十一日会」のメンバーをもとにした名前の中にも、白井喬二、長谷川伸、直木三十三、正木不如丘、矢田挿雲、本山萩舟、小酒井不木、土師清二、江戸川乱歩、と並んで平山蘆江、と記されている。これらに名前を現在の時点から見ると、まず直木や乱歩、長谷川伸あたりが固有名詞として突出して見え、白井喬二や土師清二も大衆文学史上はやはり大きな名前になります。また、小酒井不木も探偵小説の周辺で再評価の視線が与えられていますし、矢田挿雲は言うまでもなく江戸東京もの、本山萩舟は主に食通関連と、それぞれ生きてある間に精進した仕事が後世、時を隔てて再評価されたり、あるいは復刻すらされていたりします。*8
なのに、平山蘆江の名前はそのような現在のわれわれの視線からは、ずっと背景にまぎれたまま、ひとり遠景にかすんで見える。
よく言われているように、古い記念写真などが資料として提示される時に、「ひとり置いて…」とキャプションがつけられる、そのひとり置かれる人ほどでなくても、いや、ひとり置かれて初手から名前も詳らかでないくらいなら昨今はその「無名」であることが逆に新たな注目の理由になり、何かのはずみで後世に思わぬ知己が現れたりもするからまだましかも知れない、蘆江のように間違いなく名前は固有名詞として残り、その仕事もひと通り覚えられているにも関わらず、時代のあやにとりまぎれ、遠く時間の彼方に生身の気配が消されてしまっている、そんな印象のやるせなさはただの「無名」の境遇よりもなお、格別です。
当時としては相当活発に動き、実際、『大衆文芸』創刊に際してもさまざまな人を紹介したり、つないだりといった動き方をしていたらしいことも、伝えられています。『大衆文芸』自体、いったん休刊した後に、敢えて第二次の世話役を買って出て会社まで設立、借金しながら立て直しに努力したこともあるくらいなのに、そのことを評価する向きすら少ない。このあたり、蘆江自身の性格や周囲とのつきあい方と共に、やはり「花柳もの」の書き手という見られ方が陰に陽にからんでのことなのは否めなかったようです。*9
「先日ある宗教雑誌が創刊した時、小説を頼まれ、快く承諾しておくと、あとからすぐに断ってきた。平山蘆江は花柳ものばかり書く人だからいけないのださうだ。私を観る世間の眼は皆さうかも知れない。」*10
ならば、当時その「花柳」とはどのような内実を伴って認識されていたのか。すでに遠くに去った「歴史」の個別具体を「まるごと」として回復してゆこうとすることは、ここでもまた必須の作業になってきます。
ともあれ、まずは書き手として蘆江が一本立ちしてゆくまでの経歴を、ざっとさらってみましょう。
生まれは神戸。薩摩藩長崎屋敷の船御用を勤めた「さつまや」という船問屋の子として生まれたものの、父と死別、長崎の旧家で酒屋の平山家に引き取られて育ちました。小学校へあがる前から英語と漢文の私塾に通わされ、当時日本で初めてできた幼稚園にも通わされた。元士族の子弟ばかりで、酒屋の息子は町人扱いされ辛かった由。
長崎の商業学校を本科2年で中退、養家の知り合いを頼って1901年(明治34年)に上京、「与謝野鉄幹の詩集、落合直文の文集、正岡子規、上田敏、森鴎外など手当たり次第に読んだ」。知り合いの家に寄寓しながら、東京の中学へ転入するためでした。
結果、府立第四中学に入学、同時に、半年先に上京していた同郷の友人、野村汀舟の引き回しで、与謝野鉄幹の新詩社に出入りをするようにもなりました。また、同じく長崎出身の水谷武とも知り合っている。水谷竹紫、初代水谷八重子の義兄です。彼の夫人になった八重子の姉が神楽坂の芸者だったことから、蘆江もこの時期、花柳界の雰囲気にも少しは触れるようになったようですが、実際に入り浸るようになるのはまだずっと先のこと。
もっとも、「文学」には長崎時代から染まってはいました。新詩社の長崎支部を仲間と共に立ち上げて、同人誌を出したこともある。1899(明治32)年に石橋忍月が弁護士として長崎に赴任、それを記念して開かれた集まりをきっかけに地元の文学青年たちの交流が始まり、雑誌も五号まで出していたそうです。新詩社が設立されたのが同じ年、機関誌である『明星』創刊はその前年のことですからこの支部設立は早いと言えるでしょう。ちなみに、石川啄木が初めて新詩社の会合に出席したのは、1902年(明治35年)11月9日。鉄幹とその新詩社を中心とした、新しい短歌のまわりにできていった彼ら若い世代の全国的な広がりの中に、若き日の蘆江もそのように吸い寄せられていたひとりでした。*11
世代的にも、明治期に全盛をきわめた硯友社系の文章修行を正面からくぐってきた人とは言い難い。まず世代的にずれがあるし、何より背景となる教養が彼ら硯友社の世代より確実に新しく、当然、それら教養を前提にした友だち、仲間づきあいのあり方も変わっている。むしろ、後の「大正」という時代を先取りしてゆく、大正期の知性の最大公約数を下ごしらえしていった世代のあり方と言う方がいいでしょう。それは教養の内容だけでなく、その生身の出自背景、具体的には地方のそれも商家出身の親たちの世代にとっては単に立身出世のためとしか認識されていなかったような「学校」経由の勉強が、もう少し違う広がりを持って子弟の世代に宿るようになっていた、そういう世代という意味も含めてのことです。*12
とは言え、世に出てゆく過程で先輩として、先行者として硯友社系のリテラシーを持つ書き手たち、もっとゆるやかに言い換えれば明治の知性とその読み書きのあり方を、後ろから眺めていたことも間違いないでしょう。しかし、定型詩という形式を媒介にしか、まだ「自分」を表現できそうな手段は身のまわりになかった。短歌なら短歌で、しかしその短歌もそれまでは違う、確実に「新しい」と感じることのできる何ものか、を盛りつける器へと変貌しつつあった、その気分が蘆江たちの世代に感応したと言っていい。鉄幹の新詩社に出入りしたのも、蘆江たちの世代にとっての文学とはまだ散文による言文一致の自己表現があたりまえのように可能な環境ではなく、定型詩を入り口に何か自己表現へと向かうしかないような状況だったからでしょう。
詩から、定型の表現からようやく散文へ、というこの経路は、まさにこの明治末から大正にかけての時期に一人前になっていった知性にとってある種の共通項でした。蘆江の場合はそれが短歌や新体詩から写生文、あるいは紀行文といった方向にだけでなく、おのが生身を介した「うた」の方へも開いてゆき、同時にその感覚が、後に新聞記者として現場に身を置くようになってからも全方位でおのが官能を開いてゆくように働き、良質なエスノグラファーとしてのあり方を現出させたのだと思います。
「二十五の夏、父の勘気に触れて、日本に居どころがなくなった末、満州へ渡った。時は丁度日露戦争の末期で、日本を食ひつめた連中は、我れも我れもと満州へ渡る事が流行ってゐる時の事だった。(…)私は満州で満二カ年暮した。而も止むを得ずに暮した満二カ年だから、そこら中の名士や文人諸大家のやうな大盡ぶった視察談とはわけが違ふ。仕事が亡くて、金がなくて、着るものがなくて食へなくて、あるものは度胸と痩せ我慢ばかりだから、結局、真剣かけ値なし命がけの二カ年間である」*13
この満州放浪は二年とも三年とも。二十代初めから半ばにかけてのことです。営口で義兄がラムネ屋を開業していたのを頼ってでしたが、うまくゆかずじきに辞めたので放り出される形でそのまま放浪、落魄して屑屋の元締めをやっていた大井憲太郎に出会ったり、軍の特別任務隊、いわゆる「馬賊」の末端でその片棒をかついだり、はたまた海賊の水先案内のようなことに手を染めたり、と真偽定かでないような逸話も含めてさまざまな体験をしていたようです。*14この時期、一時ハルピンで『東清時報』の、後に『満州日報』の記者もしていたと言われていますが、この満州時代のことを書いたものはあっても、その間の経緯に触れたものがないので詳細はわかりません。
「あの頃の満州、遼河の氷を橇で渡ったり、郊外の墓場の白骨の中をうろついたり、茫漠たる平原の中で、百匹あまりの野犬にとりかこまれ、進退の度を失ったり、一尺直径のビスケット風につくった食物と、寝具をかついで、何百里の道をもあるいて旅行する回教徒の支那人と道づれになったり、又は娘々廟の廣庭で、首かせをはめて日向ぼっこをしてゐる囚人とムダ話をしたりする満州の生活は、兎に角呑気だった。人間の生活から理窟といふ厄介ものを除き、こだわりといふ面倒を捨て去ったら、即ちあののんきさだけが残るのだ。あの頃が戀しい。」*15
帰国して、『満州日報』の来島(一説には「来原」とも)慶介の紹介で都新聞に入社。とは言え、ぜひにと望まれてのことでもない。主筆田川大吉郎との面接では、「なぜ新聞記者を志願したか」「私に適してゐるやうに思ひました」「学校はどこを出たか」「中學と商業學校と二つゆきましたが、どちらも中途退学です」「なぜ卒業しなかったか」「落第しさうになったからやめました」「英語が讀めるか」「どうにか、讀める程度です」「話せるか」「話せません」「繪がかけるさうではないか」「かけません」「いや、君の紹介者は繪が旨いと云った」「多分、ひいきをして下すったのでせう」「何が出来るか」「支那語なら一人前です」「そんなものは東京では役に立たん――つまり何も出来ないといふ結論になるな」「さうです、然しやれば一人前はやれると信じます」といったやりとりで、「臆面のない馬鹿だが、だから役に立つと見た」田川の判断で入り込めた、と述懐しています。*16
1907年(明治40年)5月21日に入社、以後、1929年(昭和4年)9月1日まで22年間在籍、記者として仕事をしました。書き手としての平山蘆江の修行はこの都新聞での新聞記者時代になされたことになります。
3.「三羽烏」のやんちゃ――みはる、芋作、そして蘆江
記者時代の蘆江は、伊藤みはる、山野芋作、と共に「都新聞の三羽烏」」と呼ばれるようになりました。山野芋作は後の長谷川伸、です。彼らはまた、同業他社の同時代人である松崎天民などともに、世代的な共感にも後押しされながら存分に暴れ回ったようです。*17
「新コは伊藤御春という艶ダネ書きの記者と、服飾と歌曲などの通の平山蘆江と、この二人に加えられて三羽烏と、社外の人がいうようになったが、(…) 強情我慢な大谷誠夫は、彼等三人の言語の野卑なること匹夫に等し、三羽烏に非ず三雲助なりと高唱したものです、そうかも知れませんこの三人の話振りは、職人部屋の会話にそっくりで、隠語をつかい通言をつかい、他人では訳がわからないいい方が、本人達にはよく訳がわかる話し方だったのです。」*18
やんちゃぶりが芸になり、またそれを愛でる視線も周囲に確実に保たれていた環境では看板にもなり、ひるがえって自らもまたそれらの視線を存分に吸い込んで立ち居振る舞いを意識していた、そんな幸せな関係が見て取れます。
「艶ダネ」記者、という名称は当時、仲間うちの符牒のような形で流通していたようです。都新聞には吉見蒲州という先達がいて、これは義和団事件から日露戦争にかけては従軍記者として前線に派遣され、戻ってきて社会部で「軟派」専門になった御仁。*19明治末年に彼が没して後、蘆江が入社後じきに仲良くなった伊藤みはるがその後釜と目されるようになっていました。
伊藤みはる、は「御春」と記すのが正式だそうで、流浪時代に芸者までさせて世話をかけた女の名前にちなんでの俳号だったことを、本人談として蘆江が記しています。本名は伊藤万三郎で、旧幕臣の国学者にして歌人、井上文雄の孫と自称していた由。「陸軍輜重兵軍曹として日露戦争に従軍、手柄をたて功七級金 勲章を授けられた。戦後『東京新報』に在社中、戦友松岡俊三に誘われて本社に移ってきた。」*20
大正十年、四三歳で早世しましたが、ある時期までは酒呑みで「おれんちは根津の大八幡だ。根津が洲崎へ引けてから、おれんちも駄目になったし、おれだって牛殺しの帳づけをするまでに身を落としたんだ」と巻き舌でタンカを切るのが癖、酔うと女が欲しくなり、腹を空かすとてきめんに機嫌が悪くなり、そのくせ「女をぢらしたり、怒らせたり、平地に波風を起すやうないき方をするのがみはるの好みだった」。
そして、蘆江に曰く、「お前は女をいたはりすぎるよ。女ってものは邪慳に扱かふほど、くっついて来るもんだ。さんざん怒らしておいて、程よいところで仲なほりをしてやる、そんな事を重ねてゆく仲にだんだん深くなるんだよ。」*21
そんな同時代、世代も同じくする新たな仲間の中で、葦江は新聞記者としての経歴を重ねてゆくことになります。
当時の新聞社の世界観では、政治面の「硬派」に対して社会面担当は「軟派」と呼ばれていました。その統括が遅塚麗水で、言わばデスクにあたりこれが内勤記者、蘆江ら「三羽烏」たちは外交記者でその下の兵隊、言わば若い衆でした。
決して幹部社員になれるわけでもないし、何より彼ら自身そんなことを望んでいたわけでもない。それぞれ世間の荒波にもまれつつ食べてゆくことに全身で格闘しながら、ひとまず勤めにありついた無名の若い衆であり、そういう「個人」でもあった。後に長谷川伸が社会部次長に何度も推されながら固辞し続けたという逸話も、当時つきあっていたのが芸者あがりの女性だったことを理由にしてのことと言われています。曰く、「おりゃあな、都新聞で、社会部長になれといわれた時、芸者をかかあにしとっちゃ、部下へしめしがつなかいと云って、ことわったんだぜ」。当時の新聞記者という枠組みからしても十分、「ロクなもんじゃねえ」だったわけです。
外交記者はしかし、彼らが報道の現場に身を置くようになった明治末年あたりを境に、その存在感を増してゆきました。彼らの下にはさらに探訪と呼ばれる情報収集だけを主にする、後のデータマンに当たるような手足がいたのですが、それら探訪が拾い集めてくる断片的な事実や情報、市井のあれこれを、社内の机に陣取る内勤記者に取り次いでゆく、その翻訳装置であり転轍機が彼ら外交記者でした。
そのせいでしょうか、次第に外交記者が内勤記者を侮るような風が出てきたといいます。*22けれども、そんな上げ潮の外交記者の群れに身を置くことになり、事実自らそのような流れをつくっていったひとりでもあった蘆江には、一方では、そんな外交記者たちからも微妙に距離を置いた感覚もあったようです。
「私は田川主筆の紹介で入社したおかげで所謂警察署まわりといふのを一度もやらないで済んだがその代りに、警察まはりで鍛えられた人たちからは、幾分、あまく見られる気味があった。いはば軍隊で志願兵がまま子扱ひにされた事もあったやうに、さうした地位にあったのだ。それやこれやの関係で、私にはどうしてもナマものという種はまはって来ない。云ひつけられるものは大抵冠婚葬祭の記事や今の言葉でいふインテリめいたネタばかり扱はされる事になった。」*23
とは言え、内勤記者の目線からすれば、蘆江とて同じ外交記者の若い衆でしかなかった。そのせいもあるのでしょう、「蕩児」という言い方もされています。それも他でもない「三羽烏」のひとり、長谷川伸に。家が没落してロクに学校にも通えず、渡り職人や街の愚連隊もどきの間を渡り歩いた長谷川伸は言わずもがな、蘆江にしたところで中学中退のまま満州に飛び出して放浪数年の後、帰国してひょんなことから都新聞に転がり込んだという経歴の持ち主。伊藤みはるも元士族の家柄という矜持はたたえていても、没落士族の子弟という屈託に変わりはなく、その豪傑ぶりは話半分にせよ、尋常ではない破天荒なものでした。
「伊藤御春の書く艶ダネは円く書くという信条に揺ぎをみせず、誹謗のごときは勿論のこと、馬鹿という文字さえ攻撃だといって用いません、したがって登場人物のうち女は花柳の巷のものに限り、素人女は断じて登場させませんでした。(…) その頃の名士で御春の才筆愛するもの多く、野間清次は早くも御春に目をつけ、その才能を小説にのばそうとしたが、成功の作というほどの物を出さぬうちに亡くなりました。平山蘆江は艶ダネでは御春に及ばざること遠かったが、流行の解説と批判では、御春の遠く及ばぬものがありました。この二人ともある程度の蕩児だったので、新コもその仲間相当に、遊びにいこうといえば、ウンという以外の返辞をつかったことがありません。」*24
このあたりは、同じくやんちゃな同世代として蘆江によって愛情を込めて語られている松崎天民や石割松太郎などと共に、同時代、かつ同世代の新しい知性の質を感じさせるものだったのでしょう。それらを評するもの言いとしては「書生気分」といったやや手垢のついた言い方が、ひとまず最もふさわしいものだったようです。*25維新以前、武士的なリテラシーの中核にあった漢文脈の知性はまだ脈打っていても、それを支える生身の主体には新しい時代の呂律が宿り始めていた。それは個々の生活歴を超えたところで、時代の情報環境に規定された部分、具体的にはまず、読み書きのあり方と話しことばの位相がそれまでと急激に変わりつつあったことに根を持つものでもあったはずです。今のもの言いだと「現場」と言っていいような、とにかく〈いま・ここ〉を身体ごと何とか紙の上に引き寄せようとする意志、それは当時、若い世代の間にある気分として横溢していたものと推測されます。
「ふたりの男が何やらあやしげな物腰で道端にたたずんでいる。
ひとりは中国の人民帽のような帽子をかぶって背中丸めて身構え、もうひとりはこれまたチューリップハットのようなものを頭に乗せて鉄縁眼鏡でしゃがみこむ。ふたりの間には肩からかつぐうどん屋の箱屋台。屋号は「大和屋」とある。その後ろには割竹の垣根をめぐらした建物。草履ばきのふたりの足もとの道は、もちろん舗装などしていない地道だ。
明治四十二年の暮、東京市内のどこかの道端の風景である。男は伊藤みはると平山蘆江。ふたりとも都新聞の記者だ。
夜泣きうどん屋に扮しての探訪記事を狙ってのこの出で立ち。後の蘆江の思い出話に、「出入りの弁当屋から出前持ちの鯉口半纏を借り、鍋底帽子をかぶり、さらに鍋やきうどんやから荷箱を借り……」とあるから、この場の扮装は全部借りものだったらしい。とは言え、「ダシ入れの罐がダブついて、どうにも天秤棒が肩にめり込んで困るので、十歩あるいては休み、五歩歩いては交替し、たった一二町の道を三十分もかか」る始末で、売り声すらまともに出せず、最後はおでん屋の婆さんに「この有様を親が見たら泣くだろう」と涙ながらに意見されてチョン。仕込んだうどん百人分に雑煮十人分は無駄になったが、しかし、記事の方は十日あまり連載されて大当たりをとったという。」*26
今なら潜入ルポ、突撃リポート、といった煽りがつけられるような企画ですが、しかしそれは生真面目な使命感や大上段の社会正義を前提にしたものではない分、横山源之助や村島帰之などの「底辺ルポ」系記述とは一線を画すものだったはずです。今で言えば「お笑い」タレント的な自意識と身体とで敢えて「現場」に赴く、といった気分こそが、彼らの共通感覚であり正義だったのでしょう。外交記者が探訪の真似ごとを敢えてする、つまり多くは文字のリテラシーの埒外にあった探訪たちの現実の側に、曲がりなりにも文字の側にいたはずの外交記者が敢えて身躍らせて飛び込んだ、しかも嬉々としてそれをやってのけていたのですから、社内はもちろん、一部同業者間の顰蹙も買ったでしょうが、しかし、自らを笑い飛ばしながら何かを伝えようとする、この洒落の感覚が読者に支持されたことは、何よりも彼らの得意であったことでしょう。
「その頃、中華そばなんぞなかった。私は一方の荷箱に鍋やきうどんを一そく用意し、一方の荷箱にだし入れの罐をすえ、威勢よく出かけたが肩がめり込むほどの重みだ。五十ぐらいにしたらいくらか楽だからと、土橋の際のくらがりにしゃがんで、まずつづけさまに二鍋すすりこみ、露月町の知合の洋服屋で五つ六つ食べてもらった。少し軽くなったつもりで烏森の花柳界を流したがまだ宵の口だし、第一、鍋やきうどんという呼び声がどうしても出て来ない。恥かしくてたまらないのだ。」*27
これ以外にも、同じくみはると「初夢のおたから賣り」をやった他、長谷川伸と組んで「私は庄屋の小旦那、山野芋作(長谷川伸……大月註)は村役場の書記という心持」で、上野駅周辺でどのようにお上りさんが騙されてゆくのか、についての体験取材までやっています。(写真資料A.、B参照) いずれも紙面では大好評だったと言っていますから、読者の側もすでにこういうやんちゃな企画を楽しむだけのメディアリテラシーが備わっていたということになります。
4.「艶ダネ」と「ナマ師」――長谷川伸との距離感
このような、平山蘆江の生身の身体とそこに宿った感覚を探ってゆこうとする時、長谷川伸との比較がひとつ、わかりやすいものさしになると思われます。
言うまでもなく、長谷川伸は劇作家。蘆江と同じ時期に都新聞記者として在籍し、その後劇作家として一本立ちを志し、勃興する大衆文学の領域で大きな名前になっていった人です。後にはさらに沈潜し、「紙碑」と言い、無告のままの、多くは無名の現実を自ら取材しことばにする、その営みに何か大きな使命感をひそかに抱えるようになっていたのが、少なくとも敗戦後、晩年の長谷川伸、でした。付け加えればそれは敗戦後、GHQの指令によってまげもの、股旅もの一般が排除されていた時期、ものを読み書く知性としての自分を真摯に反省せざるを得なくなっていた時期の彼がとった進路ではありました。*28
とは言え、蘆江自身が長谷川伸について言及したものは、実はそれほど多くありません。都新聞在籍当時、同じ時代をやんちゃな若い衆として疾走した仲間のうち、伊藤みはるや松崎天民などについては、稚気愛すべしといった風情で何度も筆にし、また行間から愛情が感じられるものになっています。*29けれども、長谷川伸についての記述は思ったより少ないし、どこか素っ気なくもある。それも書かれた時期的に戦前がほとんどで、これは『大衆文芸』を立ち上げた同人としてのつきあいが一時期深かったことからでしょうが、昭和14年頃に蘆江が世を離れて飯能山中に隠遁してから戦後にかけての過程では、長谷川伸の名前がどんどん世に出て大きくなっていったのに反比例するように、彼のことを筆にしたものがなくなってゆく印象があります。
実際、戦後に蘆江が没した際の追悼文でさえも、長谷川伸のものからは微妙な距離感が察知されます。もっとも、この距離感は「人が悪い」と蘆江自身も評していたような彼、長谷川伸独特のものでもあるのですが。
「平山蘆江といふ人は江戸ッ子がってゐますが、長崎人の地ガネが出てゐますよ、それでは長崎人かといふと江戸風ですね、ああいうのを“長崎製江戸ッ子”といふのでせうか、同じ長崎人でも福地櫻痴居士は、長崎が跡方なしで江戸ッ子そのものだったといひますね、と言葉づかいは違ふが、かういふ意味のことを私に言ったのは松居松翁(松葉)である。(…) 蘆江は江戸趣味家で、私が知るやうになってからの永い間といふもの、彼の好みは江戸的で、袴を嫌ひ羽織も好かず、股引もシャツも嫌ひで、好むで着流しの角帯の取ッ手を心もち長くした結び方が好きであった。柄の撰み方などもうまかったが、伊藤みはるといふ彼の親友にいはせると、あいつの好みは箱丁だよであった。或る日のこと伊藤は蘆江が洒落た恰好で現はれると、いけねえ、太鼓持のナリだといった。或る日のこと彼が紋付に袴といふキラビヤかな姿で現はれると、伊藤はちえッ太神楽の手間とりだといった。伊藤は生粋の江戸人で、いつも鼈甲屋の職人が外出といふかたちをしてゐたが、そのころ二人とない艶ダネ記者で、乙(オツ)なことの信奉者であった。」*30
気の置けない若い頃からの友人ゆえの、でしょうか、どこか軽い揶揄と親しみとがないまぜににじみ出ています。
いつもの着流しは箱丁めいて、洒落たつもりが幇間のなりで、いっそ紋付き袴に威儀を正すと太神楽の雇われ助っ人にしか見えない、という喩えは、伊藤みはるの口を借りての形になってはいても、長谷川伸自身の感覚としても微笑ましくも苦笑いするしかない、まさに彼の同時代人としての、江戸「趣味」に健気に寄り添おうとしていた蘆江像が浮かんでいることが伝わってきます。と同時に、最後の「乙なことの信奉者」という部分には、巷間「通人」と呼ばれることの多かった蘆江とその周辺の気分を、ある距離感と共に示しています。
そう、たとえ三羽烏、三雲助と人からひとくくりに呼ばれていても、長谷川伸には、蘆江やみはるらとは違う、という自意識が、良くも悪くもあったようです。少なくとも、戦後の晩年、この蘆江への追悼文が書かれた時期の回想を介した自省としては。*31艶ダネ記者としての彼らの腕前を素直に認め、自分にはないものとして称賛しながら、しかしそれとは確かに異質なものを自分自身の中に認めてもいた。
ならば、そんな自分自身をどのように規定しているかというとひとこと、「ナマ師」だと言っています。
「そのころの私は俗にいうナマ師で、人殺しそのほかなンでも来いの傍ら、銀座上野の歳末風景も書くし、青山赤坂の新兵入営風景も書くし、正月松の内の警視庁前などという物も書いた」*32
「ナマ師」とは何か。いくつかの断片や資料を重ねてみたところでは、どうやら「ナマもの」を扱う記者のことのようです。今だと事件ネタ、殺伐とした犯罪がらみの現場を渉猟する事件記者、といったところでしょうか。
いずれにせよ、市井に転がるナマの事実、とりわけ事件にまつわるものを現場に即して拾い集めてくる、勃興期のジャーナリズムとしては最先端、まさに前衛に位置する存在に対する呼称でしょう。さらに加えて、必要に応じて市井の雑報を拾い、何でもありに口八丁手八丁に対応する、そんな便利屋的な追い回し、後の遊軍といった役回りも白状しているあたり、少なくとも「艶ダネ」記者として居場所の確定しているように見えていた蘆江やみはるに対してどこか一段下、いや、それと同時にある種の優越感もないまぜにした、いずれにせよ違和感を抱いていたようです。
「私はナマ師であって、劇評どころか花柳・演藝どちらもダメ、蘆江も伊藤もナマ師としては一人前でなかったのと同様に私もその方にかけては遠く二人に及ばなかった。」*33
書き手としての輪郭を明確にしてゆく前に、まず都々逸作者としてそろって都新聞紙上に名前を売り出してゆくほどの三人だったにも関わらず、そして何より「劇作家」としての自分を最も誠実に世に出そうとしていった書き手であるにも関わらず、長谷川伸は、少なくとも晩年の彼は、「花柳」も「演芸」もどちらも自分の表芸にはならなかった、と述懐している。これは後者の「演芸」よりもその前の「花柳」に重心のかけられた違和感の表明、と解釈していいように思います。
対して、蘆江はというと、新聞記者としての経歴をそのような現場の「ナマ師」としては始めていない。演芸、花柳界方面の「艶ダネ」記者として居場所を見つけてゆくまでの過程は、最初は学芸面に張りつけられての外国記事の翻訳の下作業などから始まり、一年ほど後に「軟派」と呼ばれる社会部に異動に、といったもの。どちらにしても最初は机の上、市井の雑多な現実に何でもありにまみれることから一歩引いた場所には違いない。「ナマ師」はその向こう側にあらかじめ生きる存在で、だからこそ蘆江の眼の高さからもどこかまぶしく見えていたようです。
けれども、彼は彼なりに「ナマもの」に近づいていった。事件や犯罪ではないものの、「ひと」に近づいて「はなし」に耳傾けることに寄り添ってゆきました。自分でテーマを決め、独行しながら生身の「ひと」から「はなし」を引きほどいてゆき、最後に「読みもの」という形式にまとめて盛りつける。この一連の手続きを自分の手もと足もとでおさえこんでゆくことが、先に触れたエスノグラファーとしての身体にも通じる彼、蘆江の生身の修行過程だったようです。
「ナマものとは、市井の殺し種や泥棒もの等である。ナマものを扱へば記者としての立場が引立つのだが、でないと、与えられた仕事だけでは記者生活がパッとしない。地種とは、警察種でも通信種でもなく、自力でひろひ出して来る社會種で、讀みものといふのは名人奇人や、社會人の懐舊談や、内幕話や、興味専門の物語である。殊に、私の立場が讀みもの係専任の様になりはじめたのは、入社後三四年目からであった。」*34
とは言え、蘆江も伸も、事実の断片に焦点を合わせる手癖は共通しています。大衆文学系の書き手の多くがそのような断片を集積してゆく手癖を持っていたのと同じく、共に素材としての事実の断片を「逸話」という単位を目安に集積していった。長谷川伸にせよ子母澤寛にせよ、蘆江にせよ、残された著作の中でそのような事実の断片への執着が反映されたものには、未だに読み返すたびに新たな発見があったりします。
蘆江もまた、初期の花柳ものをまとめた本の前書きに、小説を書く手控えとして書き綴ったもの、といった説明を加えています。言わば創作ノート、素材の書き付けのような意味で彼は「読みもの」をまとめてゆく習性を獲得していったらしい。それはまずは「おはなし」ではありつつ、しかし確実にある具体的な分量のことばと、盛りつけられる皿である新聞紙面という間尺によってその外延を決定されるようなテキストの形式ではありました。随筆といい、情話と呼び、後には短編小説やコント、笑話などにも枝分かれしていったような、ある比較的短いまとまりの新聞紙上の「おはなし」=「読みもの」。そう言えば、大衆文学がそのように呼ばれる直前には、「読物文芸」というもの言いも一時期とは言え、つきものになっていました。
社会部記者として、しかし時には本来畑違いの現場にもかり出されることもありました。1914年(大正3年)、シーメンス事件の取材に助っ人で出た時、裁判という現場で彼は独自の工夫をしたといいます。
「普通の記事の體裁を一切よけて法廷の内容の急所々々を写生文にして記事をつくった。でも、それが好いか悪いかは判らない。書き上げた記事を黙って遅塚氏のところへ出して何といはれるか様子を伺ってゐると、それが案外好評だった。(…) 考へて見ると、新聞記事の中に會話を書き込んだのは私の知る限り、あれが始めてであったらしい。」*35
話しことばによって切り開かれる〈リアル〉の相を、それまでの定型におさまっていた新聞の紙面に「会話」という規格外を持ち込むことになったこのエピソードは、社内で認められたという若き蘆江の得意と共に、当時の新聞読者のリテラシーがすでにそのような可視化された話しことば=「会話」を介した新しい形式の〈リアル〉を紙面に欲するようになっていた、という意味でも見逃せません。
ともあれ、「花柳」を間にしたものらしい、この蘆江らと長谷川伸との微妙なずれ、は、個々の性格の違いや社内での人間関係にまつわる立ち位置などと共に、蘆江の最初の妻だった女性と長谷川伸との関わりあいもまた、微妙な影を落としているのかも知れません。*36
もちろん、長谷川伸とてそのような世界に疎いわけではない、それどころか、品川宿の遊郭の下働きをやり、チンピラ記者時代には当時流行っていた廃娼運動に身体を張ったこともある彼のこと、性的領域も含めた人間世間の真実についての感受性は人よりも鋭敏だったことは言うまでもない。*37また、そんな彼だからこそ若い頃、蘆江たちと「三羽烏」と称されることも甘んじて受け入れていたはずです。
都々逸運動から「みやこ講話」と題された「読みもの」欄の創設とそこでの活躍、それらを介して読物文芸から大衆文芸へと変貌を遂げようとしていた大衆文学の領域への足がかりを獲得することになった経緯も、講談社の野間清次が新たな書き手として彼ら三人に眼をつけ、早世してしまったみはるを別に残った蘆江と伸に眼をつけた、ということを考えあわせても、後に案外大きな距離を生じることになったこのふたりの書き手の、しかしそのはじまりの場所において共有していただろう「まるごと」の場がどのようなものであったのか、さらに静かな省察と検証とが必要だと思われます。
ひとつ、仮説として言えそうなことは、蘆江の「通人」ぶり、そのような見られ方を自らよしとしているかのように見える処世も含めて、長谷川伸にとっては違和感だったのかも知れない、ということでしょう。同じ同時代のもの言いとして、はたまた現実として眼前に広がる「花柳」の意味が蘆江と伸とでは少し異なるものに見えていた。それは違う角度から言えば、「道楽」に素直に同調できる身体かそうでないか、あるいはもっとくだけた言い方をすれば、書き手としての誠実をどの水準で持してゆくのか、といったところにも関わるように思えます。
「紙碑」の建立、に使命感を持つようになり、どこか宗教的な真摯さすらはらませながら「歴史」へと向かうようになった、個人的には正しく民俗学的知性と呼びたい晩年を迎えた長谷川伸と、それに対して最後まで「通人」「粋人」と見られるような生き方を通した、しかしながらそれでもなおこれも別個の民俗学的知性としての風格を示しているように見える平山蘆江との間には、戦後の言語空間という大きな変数が介在していることも含めて、案外に深く大きなものが横たわっているような気がしています。それはおそらく、「趣味」「道楽」といった領域と自分自身がどのように関わる性癖を持っているのか、知性としての自覚といった部分を否応なしに引き出してゆくだろう予感があったりします。
そのような「趣味」「道楽」の色あいがわかりやすく出ていただろう、蘆江の江戸趣味ぶりに対する軽い揶揄の気持ちは、長谷川伸だけでなく、同じく彼に対する追悼文をものしている本山萩舟も共有していたようです。
「いわゆる江戸趣味にあこがれて、つとめて身につけようとするのは、明治時代に出京した文學好きの田舎っぺいに共通する心理状態であった。しかしそのこと自体が「田舎くさい」といわれて観ると、末輩のわたくし共もそうだと思い、大先輩の江戸賛美者で、いまの東京人から権化のようにいわれる泉鏡花でさえ、例外ではないと感じている位だから、實は蘆江の江戸趣味に対しても、世間でいうほど高くは買わない」
*38
「粋人」というもの言いが晩年、特につきまとっていたくらいだから、彼自身「文弱」の典型のように思われるのも仕方なかったでしょう。実際、体格も小柄でなで肩、声は自ら胴間声と称していたようですが、もともとふだんからもの静かな性質ではあったといいます。童貞を破ったのも24歳の時、吉原で。後の「通人」「粋人」蘆江のイメージからすれば意外かも知れませんが、性的領域に対する自覚のありようは、とっかえひっかえ女を漁ったらしいみはるや天民ら、同じやんちゃ連とはやはり異質なものがあったようです。
同様に、長谷川伸の「孤独」が自身の性的領域に対する深く屈折した自覚の仕方とからんでいる、という指摘を以前からしています。*39うっかりとそのようにめんどくさい内面を持ってしまった「個」であった、だからこそ彼は際だった「孤独」を抱え込み、その分鋭く、かつ容赦なく「紙碑」の建立作業へと向かうことになりました。
だが、その脈絡で言えば、蘆江もまた、同様の屈託を抱えていたと言えなくもない。
「花柳」界に沈潜してゆくのも、斎藤緑雨や岡鬼太郎など、先行世代の「花柳小説」本流の書き手たちが描き出した花柳界の〈リアル〉とはまた少し違う、誤解を招く言い方ですがあらかじめヴァーチャルな、半ば虚構のような感覚を伴いながらのものだった可能性もあると、いまは思っています。 *40それはきっと、女という存在をどのように見ていたか、単なる視覚の問題というだけでなく、対象の裡にうっかりと内面を、それも他でもない自分自身と照らし合わせることのできるような何ものかをあわせ見てしまうような身体をこちら側が持っていたかいないか、という問題にも関わってくるはずです。
「情話」「情歌」などの「情」という表象は、そのような脈絡においても明治から大正にかけての情報環境の変貌の中、同時代にもそれと気取られないうちにその内実を変えていった可能性があるのかも知れません。内面という領域の理解に関わる意味では、それはやはりすぐれて「都市」の文芸であり、だからこそ都々逸を「情歌」からさらに「街歌」と言挙げしようとした蘆江たちの感覚は、改めて正当だったと言わざるを得ません。
「粋人とは生粋の粋であり、心かまえに気ざなまじりっ気もなく、おのれは生れてそのままの本質を清浄にみがき上げた人という意味で、通人とは万事に精通して知ったふりをせぬ人という意味である」*41
と同時にまた、天民やみはるのようなある意味天真爛漫、直球一本勝負のような遊興ぶりにも一定の距離感を保ちつつ、同時代の知性としての共感も表明している。その距離感の本質は、蘆江自身の性格や性質に根ざしたものであると共に、時代のうつりかわりの中で結果として消え去りつつあるようなものとしても感じられていたようです。
大正期に自己形成をしていった書き手である彼にとっては、第一次世界大戦と関東大震災という二度の大きな節目をはさんだ社会の変貌の過程が、そのような距離感を醸成する前提になっていたらしい。芸者遊びがカフェーの出現によってどれだけ変貌していったか、移り変わりゆく中で取り残され、消え去りつつあると感じられるものやことについ焦点が合ってしまう資質。
しかし、時に辟易しながらも、共に同時代の若い衆として疾風怒濤の中、そのようにつきあってきた経験は、「おはなし」の生成者、見聞の語り部として絶好の立ち位置を、結果として彼、平山蘆江に提供しました。ですから、みはるや天民、松太郎らをはじめ、先輩格にあたる青々園や春潮、麗水といった人々の行状に対する筆致でさえも、ただ昔日を遠く懐かしむという距離感が先に立ってのことに感じられない。むしろ、たとえその時その場に居合わせ、同時代の〈いま・ここ〉として見聞、体験したことであっても、同時にすでにどこかこの世のものでない現実離れしたものとしても感得されていたのでは、と思わせる部分があります。コミットメントとデタッチメントの均衡、すぐれたエスノグラファーとしての資質が期せずして、ここに現れています。
「その頃はまだまださう云った風の人が、そこら中にうようよしてゐた。理論だの観念だの、智性だの理性だのと、そんな言葉だってなかつた。年數にしてたった二十年ぐらゐの隔たりだが、それにしても、第一次欧州戦争が、日本人を随分面倒なこだわりに多い歯切れのわるい、手前勝手な人間につくり上げたものだ。」*42
戦前と戦後、震災とその後、あるいはその他の指標でもここは全く構わないでしょう、いずれそのような「節目」と感じざるを得ない時代の変わり目を〈いま・ここ〉として生きるめぐりあわせになった生が、とりとめなくうつろいゆく眼前の〈リアル〉を何らかの形で自分のものにしようとあがき続け、それによって自分が何者であるかを確認しようとする営みのひとつの証しとして、平山蘆江の書き残した「花柳もの」は豊かな可能性と共に、今も静かにそこにあります。
参考資料
平山蘆江 著作一覧
蘆江の著作は、古書市場で高騰しているとは言えないが、それでも明治期から大正期のものは稀覯本としてそれなりの価格になっていて、正直、なかなか入手しにくい場合も少なくない。単行本を原則に、できる限り現物が確認できるものだけをリストアップしてみたが、その限りで不完全なものであることをお断りしておきたい。もちろん、この他にも新聞、雑誌等に書かれて単行本にも収録されていないものが数多くあること、言うまでもない。
平山蘆江・伊藤みはる『みやこ講話 男と女』1911年
平山蘆江・伊藤みはる『人情本 さしむかひ』啓業館 1912年
平山蘆江・伊藤みはる『人情本 枕もと』啓業館 1912年
平山蘆江『おつくり上手』練達堂書店 1916年
平山蘆江『まじなひとえんぎ』藤間山陽社 1917年
平山蘆江・伊藤みはる『さしむかひ人情話』博信書房 1920年 ※再編集したもの
平山蘆江・編『新選都々逸』都新聞社出版局 1924年
平山蘆江『唐獅子の眼』至玄社 1925年
平山蘆江『西南戦争』1926年
平山蘆江『つめびき』1926年
平山蘆江『唐人船』1926年
平山蘆江『唐獅子の眼』1926年
平山蘆江『煩悩道中記』1927年
平山蘆江『遠出髷』南宋書房 1927年
平山蘆江『平山蘆江集』現代大衆文学全集第22巻 平凡社 1928年
平山蘆江『平山蘆江集』現代大衆文学全集続第5巻 平凡社 1930年
平山蘆江『妖艶淪落實話』明治大正實話全集第六巻 平凡社 1930年
平山蘆江『五月雨日記』岡倉書房 1930年
平山蘆江『軟尖春風曲』(煩悩道中記 改題) 曙書房 1931年
平山蘆江『夫婦読本』岡倉書房 1931年
平山蘆江『左り褄人情』岡倉書房 1933年
平山蘆江『続篇・左り褄人情』岡倉書房 1933年
平山蘆江『血風呂・一番船』新進大衆小説全集20 平凡社 1934年
平山蘆江『13対1』1937年
平山蘆江『藝者繁盛記』岡倉書房 1933年
平山蘆江『藝者花暦』岡倉書房 1934年
平山蘆江『花柳行状記』岡倉書房 1934年
平山蘆江『三味線情趣』岡倉書房 1935年
平山蘆江『女人覚え帖』岡倉書房 1935年
平山蘆江『左り褄人情(普及版)』岡倉書房 1935年
平山蘆江『情話集 五月雨日記』 1935年
平山蘆江『蘆江怪談集』岡倉書房
平山蘆江『人間道場』岡倉書房 1934年
平山蘆江『考証読物集 巻貳』岡倉書房 1933年
平山蘆江『東京四季』(今様源氏抄 再訂)岡倉書房 1933年
平山蘆江『蘆江歌集』岡倉書房 1935年
平山蘆江『花柳風景』岡倉書房 1936年
平山蘆江『藝者の國』岡倉書房 1937年
平山蘆江『馬賊の旗』岡倉書房 1939年
平山蘆江『菩薩祭』岡倉書房 1939年
平山蘆江『勅使下向』岡倉書房 1941年
平山蘆江『飯能随筆』読切講談社 1941年
平山蘆江『続・飯能随筆』読切講談社 1942年
平山蘆江『薩摩兵児』1942年
平山蘆江『亜細亜太平記 黄竜旗』1942年
平山蘆江『日本の藝談』法木書店 1942年
平山蘆江『飯能戦争』新正堂 1943年
平山蘆江『随筆からふと』婦人之家社 1944年
平山蘆江「戦争と生活」『経済倶楽部講演』20 1944年11月15日 東洋経済新報社出版部(非売品)
平山蘆江『花柳千夜一夜(左り褄人情 改題)』平山蘆江著作集刊行会 1946年
平山蘆江『糸みち』(つめびき 改題)一聯社 1946年
平山蘆江『ひだり褄』一聯社 1946年
平山蘆江『衿おしろい』一聯社 1947年
平山蘆江『吉原文庫』かに書房 1947年
平山蘆江『ひだり褄』住吉書店 1947年
平山蘆江『女優展望』世界書房 1947年 ※平山清郎(子息)三橋章八と事実上共著
平山蘆江『小説 長崎物語』民衆社 1947年
平山蘆江『情話集 しぐれ情話』蒼土社 1947年
平山蘆江『蘆江情話 春雨日記』利根屋書店 1947年
平山蘆江『日本の芸談』(再版) 和敬書店 1949年
平山蘆江『長崎出島』住吉書店 1952年
平山蘆江・編『堀派小唄集』文雅堂 1952年
平山蘆江『白鷺物語』住吉書店 1952年
平山蘆江『東京おぼえ帳』住吉書店 1952年
平山蘆江『新いせ物語』住吉書店 1952年
平山蘆江『三味線藝談』住吉書店 1952年
平山蘆江『小説 つめびき』住吉書店 1952年
平山蘆江『小説 ひだり褄』住吉書店 1952年
平山蘆江『吉原文庫』住吉書店 1953年
平山蘆江『小唄解説』住吉書店 1953年
平山蘆江『随筆 日本神話』住吉書店 1953年
平山蘆江『きもの帖』住吉書店 1953年
主な参考文献 (文中、引用、言及したもの以外)
中谷 博『大衆文学』桃源社 1973年
大村彦次郎『時代小説盛衰史』筑摩書房 2005年
金川文楽『素ッ裸人生』金剛書房 1963年
竹下英一『岡鬼太郎傳』青蛙房 1969年
尾崎秀樹『文壇うちそと』筑摩書房 1975年
木村直恵『〈青年〉の誕生――明治日本における政治的実践の転換』新曜社 1998年
永嶺重敏『〈読書国民〉の誕生――明治30年代の活字メディアと読書文化』日本エディタースクール出版部 2004年
*1:平山蘆江「小説「ひだり褄」について」『住吉だより』陽春号 1952年 pp.10-11
*2:松崎天民『記者懺悔・人間秘話』成光館 1929年(土方正巳『都新聞史』p.242より
*3:菅原寛『随筆・演劇風聞記』世界文庫 1965年 p.188 前者は「蘆汀」を「蘆江」と誤植されたのをそのまま名乗るようになった、という話に、後者は、『演劇界』などの記者をやっていた渥美清太郎が本人より聞いた話、とされている。瀬川菊之丞は歌舞伎の世界で女形の大名跡。何代目の絵をもとに言ったことかは不明だが、少なくとも本人もそのような自分自身にまつわる、女形に通じるようなある柔らかい雰囲気について十分自覚があったということになる。
*4:とは言うものの、都々逸の愛好家の間では半ば伝説的な作者であり、都々逸運動を主導した指導者として語られているし、また、その劇評や見識が取り沙汰されることも折に触れてあるようだが、いずれも狭義の「通人」「粋人」的な理解が前提になっていて、もの書きとしての全体像などを論じるような仕事はまず見かけないし、正直言って、大衆文学系の作家というよりも、同時代的な視線からは「花柳随筆」「情話」作家、といった一段下がった、“軽い”見られ方の方が強かったと言えるだろう。戦後、晩年にさしかかると先に触れたような「通人」「粋人」といった言われ方がさらに強調されるようになったが、それは一方で都々逸(街歌、情歌)の作者としても知られていたことが、戦後の言語空間でまた別の角度から光を当てられるようになったことも作用していただろう。今だと雑誌その他に何でもありに執筆する雑文書き、マルチライターといった感じだろうか。このへん、戦前から戦後にかけての言語空間、情報環境の変貌の中で、同じ書き手がそれまでと異なる相貌で同時代の想像力の銀幕に姿を投影してゆくさまは、他にもたとえば、サトウハチローや徳川夢声、三木鶏郎や佐々木邦、正岡容、石黒敬七など、ちょっと思い起こすだけでも結構名前があがってくる。それこそ永井荷風や今東光、後の金子光晴などまで含めて、このような同じ知性にとっての情報環境の戦前/戦後の落差での表象のされ方の違い、はいろんな意味で興味深い。蘆江のみならず、一時期多かった新聞や雑誌の芸能・雑報系の記者からもの書きへ、という経緯の知性は、活字メディアの伸長の中でこれら雑文系ライター的な立ち位置を占めてゆく。特に「戦後」の言語空間において彼らの一群は、活字メディアから発してラジオその他の新しいメディアにも進出、すでに活字メディアの中で権威として存在するようになっていたいわゆる「文学」の間尺とはまた違った広がりで、わが同胞の読み書き能力、少なくとも日常の生活感覚をことばにしてゆくという意味でのリテラシーの涵養に実は大きな役割を果たしたと思っている。多くの場合、「情」「ユーモア」「軽」「笑」「艶」「粋」といった表象を伴いつつ、おおむね「趣味」「道楽」「好事家」といった方向で彼らの仕事がパッケージされていったことも含めて、現代民俗学としても今後、考えてみなければならない課題である。
*5: 初めてその名前を見知ったのがいつ頃だったのか、今となってはもうはっきりしないけれども、長谷川伸に関するしらべものを進めてゆく中で、『都新聞』の艶ダネ記者の同僚として名前を知ったのが最初だったと思う。長谷川伸については、拙著『無法松の影』の作業のために集中的に読んでいた時期があったから、その頃のことかも知れない。だとすれば、今から二十年ほど前のことになる。『無法松の影』の作業で初めて意識的に、「歴史」の相における身体とセクシュアリティの問題に取り組もうとした。長谷川伸のテキストに目線を落としていったのもそういう脈絡からだったのだが、それらの関係から、長谷川伸とある時期盟友とも言える関係にあった平山蘆江に出会い頭にぶつかった、という感じだった。「硬」の長谷川伸に対する「軟」の平山蘆江、それは単にテキストの印象としてだけでなく、その向こう側に確実に存在していた生身の主体の気配までまるごとひっくるめての次第であることが、最初の遭遇から不思議に察知できたのは、こちら側にもまた蘆江の生身に通じる何ものか、が多少なりともあったということなのかも知れない。蘆江に比べるとはるかに汗牛充棟の長谷川伸の評価についても、逆に蘆江の仕事を介して眺めなおすことで相対化することができたのは確かである。
*6:拙稿「「民俗誌」というささやかに初志について・ノート」赤坂憲雄・編『現代民俗誌の地平・2 権力』朝倉書店 2004年 P.214)
*7:エスノグラフィー、とは何か、という問いに対しては、日本語を母語とする広がりに関する限り、〈いま・ここ〉を散文的に記述してゆくスタイルのひとつ、とまず定義しておきたい。その上で、それは単なる記述されたテキストでなく、またその記述のスタイルや技法にだけ規定されるものというだけでなく、テキストを形にした書き手の身体のあり方、ひいてはその生身の主体が「現場」に身を置くことでもたらされるさまざまな関係のもたれ方などまでもひっくるめて、「まるごと」として論じられるべき領域、ということも敢えて付け加えておく。
*8:最近、わずかながら蘆江の名前が思い起こされることがあるとしたら、その怪談集などが文庫版で復刻されたことだろうか。(『蘆江怪談集(復刻版)』『東京おぼえ帖(復刻版)』ウェッジ文庫 2009年)都市伝説や噂、怪談といった民俗学周辺の知性のひとりとして、ひとめぐりもふためぐりもした今の時代にささやかな光が当てられるようになったことは、ひとまず喜ばしい。web界隈で検索をかけると、そのような文脈でのヒットが多いし、また実際、曾孫の平山瑞穂が新進作家として世に出ていて、写真で見る限り風貌も蘆江の面影がどこかにあるのも微笑ましい。もうひとつ蘆江を語る際に重要なのは都々逸。これもまた別途展開する用意があるが、「街歌」と称して都々逸運動に熱心だった蘆江の姿は、「うた」を介したリテラシーがどのような身体を前提に可能だったか、という考察を導き出すはずである。
*9: 「いわゆる「外柔」と見える蘆江が實は案外「内剛」であった――率直にいって大變な強情張りであったことは、近親者をはじめ知友の間にも、後年にはだんだんわかって来たやうだけれど、一般にはまだ一種の先入観から、通人ないし粋人肌の軟かい方面を、本然の姿のように思っている人が多いのではあるまいか。わたくしの見るところは逆なのである。強い言葉でいえば本来一種の「反逆児」であったのが、世路の辛酸に遭うて漸く圭角が除かれた――意識して努めた修行の結果に違いない。(…)成長してだんだん圭角はとれ、洗煉されるに随っていかにも通人的風格は備わったが、やはり三つ児の魂というか、先天的な強情はついに一生變割らなかった。毀誉交錯したり、世間的にいわゆる「損」をした場合の多かったのも、原因はすべてそこにあるが、しかしそれこそ蘆江の生命であったことを疑わない。」(本山萩舟「「詩人」平山蘆江」『幕間』和敬書店 1953年 P.51〜52)「村松梢風君が曾ていったことがある。平山蘆江は逢はずにゐると逢いたくなる、逢ふと腹が立つ、逢はずにゐると逢ひたくて仕様がない、さういふ男だ、と。彼は好かれもするが嫌はれもする。嫌ふものは近づかなくなるが、好くものは狂信かと思ひ誤まるぐらゐ好きになる。どこか大きな魅力があったのだらう。」(長谷川伸「平山蘆江」和敬書店 1953年『幕間』p.53)
*11:与謝野晶子については「腰をどっしり落し、わらひを含んだ顔を傾け気味にくづれかかるやうな姿勢で、肩までもかぶさるやうな乱れ髪で殆ど聞きとれないほどの声で親しげにものをいひかける人だった」(「むかし話(三)」『住吉だより』三 1952年 p.60)と記している。また、後に佐々木喜善を柳田國男に紹介する水野葉舟ともこの時期、新詩社を媒介に結構濃密に行き来していたらしい。養父との折り合いが悪くなり勘当され、結果として学業も中途で中断することになったが、もしそのまま順調に推移していれば、いわゆる正規の大正文壇の一隅にでももう少し違う仕事で名を残す存在になっていたかも知れない。もちろん、それが今のわれわれにとっての福音となったかどうかはまた別である。
*12:鉄道網の整備とツーリズムの伸長、新聞縦覧所や図書館などの「読書装置」の普及による読書空間の全国化、情報環境の変貌ぶりについては、永嶺重敏『〈読書国民〉の誕生』などで近年、詳しく展開されているが、時期的に見ても、ここで言う硯友社的リテラシーに裏づけられた教養はこの拡大過程で大きな恩恵を被っただろう。同時代の〈リアル〉を規定する読み書きのスタイルはこのような情報環境との関わりで規定されてくる。また、「壮士」(ここでの脈絡では「書生」も同様) が明治20年代の情報環境に胚胎したものの、その後「青年」という新たなカテゴリーによって「非政治化」され、後退していった、という木村直恵が『〈青年〉の誕生』で提示した解釈枠組みもまた、蘆江の立ち位置についてもおおむねあてはまるものと言える。「壮士」「書生」ぶりを相対化してゆく「青年」、さらに「少年」を生んでもゆくような自意識のあり方に、若き日の蘆江の「自分」もまた連なっていた。「書生」ぶりが本来、先行者世代の「壮士」の身体に宿った身振りであったとしても、後発である蘆江たちの世代にとってのそれはすでに自分自身の生身の感覚から一歩ずれたところにあるものになっていた。大石鹿之介という母方の末弟にあたるふたつ年上の、絵に描いたような「書生」ぶりに「九州男児」イデオロギーが重複したような叔父に連れ回され閉口しつつも、そんな「書生」ぶりをうまくいなしてつきあってゆく手立ても見い出していたらしいことをあわせて書き記しているのは、後のみはるや天民らの「大ワランベ」な「書生」ぶりとのつきあい方とも通底している。
*14:「私のゐる見世へ、疲れ切ったやうな老人が、ちょいちょい出入りし始めた。いつも羊羹色のフロックコートを着、丸帽をかぶり、握り太のステッキをつき、トボトボとやって来てくどくどと何か云っては淋しそうにかへって行ったが、その老人こそ自由民権論で、明治初年の日本中をあばれまはった政客大井憲太郎のなれの果である。大井憲太郎はその自分、営口で屑物賣買業元じめの権利を持ってゐたので、それを私のゐる見世へ賣りに来たのだった。」平山蘆江「三十年前の満州浪人」『花柳風景』所収、P.245〜6
*15:平山蘆江「三十年前の満州浪人」『花柳風景』所収、P.249
*17:彼ら三人に鶯亭金升も加えて「都々逸四歌仙」と呼ぶこともあったことを、岡本文弥が記している由。都々逸を明治的知性の典型であったはずの黒岩涙香の「情歌」の枠組みから解放する、ある意味新たな定型詩運動として、大正初年以降、都新聞の紙面を介して展開することになった彼らの気分もまた、大正的なものであり、その限りでモダンなものだったと言えよう。
*18:長谷川伸『自伝随筆――新コ半代記』宝文館 1956年 p.217 社内の先輩で「硬派」記者の典型のような存在だったという大谷誠夫の眼から見た彼ら「三羽烏」に対する違和感の表明として、きわめて興味深い。特に、日常使う彼らのことばやもの言い自体が際だって別のものであったというあたりには、舞台のせりふに異色を出していった長谷川伸や、会話をはさんだ「花柳もの」に新たな〈リアル〉をもたらした蘆江のその後の仕事ぶりが、単なる技術などでなくことば遣いから身体のあり方まで含めての、それまでの活字リテラシーを宿した生身との「違い」に規定されていたことがうかがわれる。
*19:遅塚麗水は蒲州の書いたものを評して、「斯う申しては失礼でありますが、学問の方には大した造詣があった人ではありませんが、艶種を書かして見ると、筆路婉麗、時の流行や、世相やを文章のうちに熔かし入れて、豊富の詞藻を駆使し、巧みに読む人の心を捉へて恍惚自忘の境に入らしむるの妙が逢ったのであります。誠に天才的の軟文家でありました。」と記しているという。(土方正巳『都新聞史』日本図書センター 1991年 p.159) 蒲州の艶ダネ記事についてはまだ調べがあまりついていないが、みはるや蘆江たちの世代のそれとの比較検討は、どこか機会を得てやってみたいと思っている。
*20:土方正巳『都新聞史』 日本図書センター 1991年 p.161
*21:伊藤みはるが根津遊郭の大籬だった「大八幡」に生まれたという、この断片は、その真偽と共に、そのように彼自身の“おはなし”になっていたということも含めて、彼のその独特の個性や文体、世渡りの作法などの背景を考える場合、重要な細部になると思われる。坪内逍遙の妻はこの「大八幡」の遊女花紫だったことは、すでに知られているが、書生の逍遙が通っていた頃、それより十歳ばかり年下のみはるも同じ場所にいた可能性などは、文体と生活史的背景の重層性を「歴史」の相で考えようとする際などに、いい補助線を提供してくれるはずだ。
*22:「明治四十二年頃から、この三段(内勤、外交、探訪、の区別……大月註)の段階はとりはらはれたが、それでも探訪は飽くまで自分を卑下、外交は逆に内勤を侮どるやうな風になった。」(平山蘆江「新聞記者修行」『三味線情趣』所収、岡倉書房 1935年 p.262) 明治42年頃から、と数字に関して結構ルーズな蘆江にしてははっきりと年代を確定する書き方をしているのは、自分たちの探訪ルポが外報記者の存在を知らしめるようなものであった自覚とプライドの上にある、と解釈したい。とは言え、そのようになってもなお、「取材」システムの末端に位置する探訪は相変わらず自分を卑下していたという理由には、文字の読み書き能力を持つ「記者」と探訪の間には超えがたい壁がある一方、同じ「記者」の間の上下関係は読み書き能力の埒外と思われていた探訪との距離によって逆転していったことが推測される。「現場」がそれ自体として優越していったのでなく、外交記者という「文字」のリテラシーを持った立場との接触によって「記者」の側にコンバートされることによって、あくまでも「文字」の内側で優越していったらしい。同時に、そこには「文字」の知性の側の世代差、本稿の脈絡で言えば明治と大正の知性の格差もはらまれていた可能性も指摘しておきたい。
*23:平山蘆江「新聞記者修行」『三味線情趣』所収、岡倉書房 1935年 p.262〜263。これに関連して記されている「内勤記者がお奉行で、外交記者は与力か同心のやうなもの、探訪はホンの岡っ引のやうなものであった」という表現は、当時勃興期ジャーナリズムの現場のヒエラルキーを的確に評している。
*24:長谷川伸『自伝随筆――新コ半代記』宝文館 1956年 p.218
*25:「往来から呼びかけて書生っぽのやうに私を訪問して来るのは、松崎天民と水谷竹紫の二人きりだった。」(「暗示・皮肉」『飯能随筆』所収、p.70) そのくせ、自身九州育ちのくせにこの「書生」気分に対する距離感も確実に持っていたことは明記しておきたい。
*26:拙稿「着流しで眺めた世間」『武蔵野美術』103 武蔵野美術大学出版局 1992年)
*27:平山蘆江「うどんや」『粋人随筆』所収 内外タイムス社 1952年 pp.194〜195
*28:「歴史」の記述、といった方向に問いを導くことは、ひとまず禁欲しておく。それは、民俗学における民俗誌、文化人類学や社会学におけるエスノグラフィーなどの記述を論じることと同じような意味で、それ自体が自転を初めて空中に飛翔してゆくばかりになる末路が見えかねないがゆえに、いまの日本語を母語とする知的言語の広がりにおいては生産的ではないと思うからだ。語ってみたいものがあるとすればそれらでなく、彼、長谷川伸がどうしてそのような水準の「歴史」に晩年、急速に惹きつけられていったのか、知性の情報環境や置かれている状況、時代のあり方などとの関わり、ある関数の気配について、である。
*29:彼らについては、それぞれ素敵な筆致でそのやんちゃぶりを愛惜する文章を残している。以下、主なものをあげておく。平山蘆江「小弁慶――蒲州遺稿を纂むるとて」『さしむかひ人情話』所収、博信書房 1920年 pp.220〜233 平山蘆江「人間石割」『夫婦読本』所収、岡倉書房 1931年 pp.182〜193 平山蘆江「松崎天民」『人間道場』所収、岡倉書房 1934年 pp.162〜pp188 平山蘆江「みはる供養」『花柳行状記』所収、岡倉書房 1934年 pp.280〜289 それぞれに含まれる逸話は、その他の随筆などに分解され、再録されてヴァリエーションができている。これらの比較考証も今後の課題である。
*30:長谷川伸「平山蘆江」『幕間』8-6 和敬書店 1953年 p.53
*31:蘆江自身によれば、最初の「三羽烏」にはもともと長谷川伸は入っていなかったという。蘆江とみはると、石割松太郎の三人が「誰れいふとなく都の三羽鴉といふ名がついてゐた。一、二年遅れて入った長谷川が加わると、伊藤は三羽鴉の称を自ら改めて四神剣とも、けだもの聯とも云ったやうだった、どこへゆくにも四人づれ何をするのも四人が力を揃へてやるくせがついてゐたので、私はいつの間にか心が驕って来たらしい。」平山蘆江「新聞記者修行」p236 なるほど、これならば「三羽烏」のおさまりがしっくりくる。逆に言えば、長谷川伸はそれだけまたもうひとつの異質、別格の何ものかを持っていたということでもあるのだろう。これはまた、蘆江をこのように読むことで長谷川伸に対して、生身も含めた異なる読み方を導き出すという意味でも、豊かな可能性をはらんでいると思う。
*32:長谷川伸『我が「足許提灯」の記』時事通信社 1963年 p.273
*33:註(29)に同じ、p.53
*34:註(22)に同じ、p.263
*35:註(22)に同じ、p.260
*36:この間の経緯について、長谷川伸は最初、半自伝的な作品『ある市井の徒』では仮名で記しているが、後に蘆江の死後に出された『自傳随筆――新コ半代記』では実名に直して明らかにしている。このあたりのことについては、その経緯なども含めて別途、詳細に考察を加えてみたい。
*37:「新コのやうに幼いときに横浜の銘酒屋の女達と口をきき、それから品川の妓夫や二階廻しや仲どんやの仲に寝起きし、神奈川の神風楼の女達を知ってきたものには、娘の美しさは路傍の草の花か塀越しの枝の花か、そんなものの程度にしか思へませんでした、その為でせう新コは一代を通じて、堅気の家の娘と恋愛をやったことが一度もない、これを新コの潔癖だとみる人もあらうし、偏執の一種だとする人もあらう」「御春は書く物の風流さに似ず、打算が出来るのと物の見方に平板さがあるので、一ツところに煮凍るのを避けるので、いつも恋愛までに昇らず遊戯になります、蘆江はそれと違って一点に集中しやすいので、たちまち遊戯でいられなくなり、恋愛になってしまいます」長谷川伸『自伝随筆――新コ半代記』宝文館 1956年 p.218
*38:本山萩舟「「詩人」平山蘆江」」『幕間』8-6 和敬書店 1953年 p52
*39:「たとえば、かつての男にとって、異性である女を直視する、見つめる、ということは、どれだけ日常の中であり得たのだろう。(…)おおっぴらに女の顔を、容貌を、身体を見つめ、それを過不足なくある言葉の水準に置き換えて記憶してゆく、という作業について、今のわれわれからはすでに計測しにくくなっているような意識せざる不自由が、相当にまつわっていたりしなかったのだろうか。長谷川伸がそうなのだ。(…) 細部に執着し、流麗な場を立ち上げる技については手練れの彼が、女の容貌について語り、記述する言葉が不自然なほど乏しい。(…) 性的存在として意識しないですむ、ということは、他でもない自分自身もまたそのように性的存在であるということを思い知らされるような関係を強要してこないということだが、いずれにせよ、そんな助成ならば比較的あたりまえに対面できるし、平穏に記述もしている。けれども、何かそのような厄介な思い入れが介在したら最後、「そッと見る」ものでしかなくなり、だから同じ見てはいてもロクに見届けたことにならず、あげく「顔はよく覚えていない」になる。」(拙著『無法松の影』毎日新聞社 1995年 pp243-246)
*40:「花柳小説」という分野は、いわゆる近代文学研究、文芸評論といった界隈において定番の研究対象でもあり、また最近改めて注目されてもいるらしい。モダニズムから都市化・大衆化の現実を反映するテキストへの嗜好は、単なる知的関心の移り変わりという以上に、それらにある種地続きの共感を持てる生活体験を共有する高度経済成長以降に生まれた世代が多数派になってきていることにも規定されているわけだが、同時に、だからこそそれら「花柳小説」の規定が〈いま・ここ〉であらかじめ縛られたものになり、鏡花や荷風、さらに狭義の花柳界からカフェー時代に至って広津和郎や川端康成、といった流れがすでにルーティンのようにできあがっているような状況を呈している。蘆江も「花柳小説」作家と言われたりするわけだが、しかし、大正末から昭和初期にかけての大衆小説が屹立してくる時期の情報環境においてのそれが、明治大正期のものと同じわけもない。たとえば、明治期の著名な劇評家であり新聞記者であった岡鬼太郎の「花柳小説」が、芝居と芸界(花柳界)とが未だ一体のものとしてあった時代の情報環境での、言わば“ムラ”の内側の住人によるムラの記述であり、比喩的に言えばムラの肝煎り級の「常民」による閉じた生活世界の記述だとすれば、蘆江のような立ち位置と視線から描かれた芝居の世界や「花柳界」とは、良くも悪くもムラが外部との摩擦で変貌してゆく中の、言わばモダニズムと大衆化の中でそれらの「ムラ」があらかじめ観光化されてゆかざるを得ない流れの中に宿るものだったとは言えないだろうか。蘆江が世に出てゆく時点ですでに、それまでの既成の「通人」「粋人」の手による「花柳小説」に比べて、蘆江の視線はそれらムラの外からやってくる来訪者のそれであり、正しく民俗学的知性が出現すべき情報環境と同時代性を持つものでもあった。その意味で、それまでの「花柳小説」と明らかに異なる質を、蘆江の「花柳もの」ははらんでいると思う。それら「花柳小説」はその後、さらに大衆小説の側に吸収されてゆき、その一方ではユーモアやコント、さらには「艶笑随筆」といった方向にさらに拡散、溶解してゆく過程をたどってゆくのだが、それはまた別の話だ。