作家の音読と朗読、「読む」と「書く」の関係


 いわゆる作家が自分の書いた作品を同人誌の仲間に披露する時、自ら原稿を朗読する習慣が、かつてあたりまえにあり、そしてそれはずいぶん後まであったらしいことは、以前も何度か触れました。それは小説であっても、それこそ流行歌の歌詞においても、それが「作者」と「作品」という組み合わせで、ある特別な意味を附与されている限りは同様だったらしいこと、さらに、それは詩や短歌など、広義の「うた」にまつわる「民俗」レベルも含めた何らかの「そういうもの」という認識の上のことだったらしいことも。

 今のように黙読があたりまえになる以前、「読む」には音読が伴うもので、明治以降の近代の過程でそれが黙読へと移り変わっていった――これはもう、広く共有されている知見だと思います。そして、かつてあたりまえだった音読は、それを「聴く」耳のリテラシーを介して社会性・共同性を組織するものであり、黙読へと移行してゆく過程でそこから社会性が引き剥がされ、自省的な「個」の内面を伴う自意識が晶出されてくるようになった、というあたりもまた、本邦の近代の来歴を考える上で共有されている理解でしょう。たとえば、こんな具合に。

 「こうした吟誦は学校、寮、寄宿舎などの共同体で集団的に享受され、連帯意識の高揚に役立っていたと考えられる。文章を暗記し、人前に披露する吟誦は音読のさらに一歩進んだ形であり、唄に近い性質を持っている。実際、土佐自由民権運動では土佐民権唄という唄も存在しており、吟誦と唄は同様の目的で享受されていた。」(森洋久「明治の声の文化」、木下直之吉見俊哉・編『ニュースの誕生』所収、東京大学出版会、1999年)

 音読には、近世以来の漢語・漢文脈での素読など、教育的な意味あいから、「人前に披露する」というある種芸能的な「関係」と「場」に向かう目的までも身体技法として引き受けてゆく幅があり、その限りで「唄」にもなだらかに連なってゆくところがあった。「吟」も「誦」もそのような文脈で、あらかじめ音読に含まれ得る要素、属性でもあったということになりますし、この場でずっとこだわっているような意味での「うた」もまた、それら全てをゆるやかに包摂したものとして考えようとしています。

 ただ、それでもなお、まだよく見えてこないところはある。

 たとえば、作者がその原稿を雑誌なり単行本なりの担当編集者との間でやりとりする場合は、相手に単に紙媒体を手渡すだけで、その場で原稿を朗読して見せたといった挿話は、あまり見かけたことがない。もちろん、これはこちらが不勉強、本邦「文学」と呼ばれてきた領分の広大無辺で茫洋とした蓄積の、そのごくごく一端を、それも好き放題勝手次第にあれこれ千鳥足でつまみ喰いしてきただけの身の上ゆえの、単なるもの知らずであるかも知れないことを十二分に踏まえた上でのこと、ではあるのですが、それにしても、音読から黙読へという過程が近年、分野を越えた本邦近代の来歴にまつわる問いとして共有され、またそれに伴う仕事も着実に蓄積されてきているらしい中、「読む」と「書く」、そして「聴く」と「話す」も含めた、生身の身体を足場にした「関係」と「場」におけるそれら身体技法の「まるごと」のありようについての、可能性も含めた問いの補助線は、未だ十分に引かれているとは言えないようです。

 例によってのささやかな挿話から、敢えてまた立ち止まってみます。

 明治10年代末、巌谷小波は早熟で、10代半ばですでに湯島聖堂の中にあった帝国図書館に入り浸って手当たり次第に濫読していたそうです。「読む」という作法における黙読の習慣があたりまえになってゆく、未だその揺籃期だった当時、世間ではまだ音読が一般的だったはずですが、ならば、そこでの彼は、果して黙読の習慣をすでにどのようにつけていたのか。

 「我が国最初の官立図書館として明治五年に湯島聖堂内に開設された書籍館では、雑談と音読が禁止された。開設当初からの「書籍館書冊借覧人規則」には「館内ニ於テ高声雑談不相成者無論看書中発声誦読スルヲ禁ズ」とある。そして、その後に開館したすべての図書館に音読禁止の規則は受けつがれていった。 しかし、音読に馴染んだ学生が黙読することは難しかったようで、音読の違反に対して、徹底した取締りを行う図書館もあった。実際、音読規制があるということは、逆に音読の文化がいかに大きかったかを示していると言えよう。」

 同じくその時期、彼は手すさびの創作を試み始めていて、草稿も残っているのですが、ならばそれを「書く」段においては、自ら音読しながら書いていたのだろうか。むろん、朗々と詠じるようなものではなかったにせよ、その頃の世間一般その他おおぜいのように、脳裏に浮ぶ文言を口もとで低く唱えつつ書いていたりはしなかったか。図書館という、黙読の習慣を世に先駈けて根づかせようとしていた当時最先端の施設において、その場にふさわしい身ぶりとしての黙読を励行し、またある程度習慣化していたとしても、同時に幼い頃から寄宿制の漢学塾をいくつか転々とし、近世以来の素読から始める音読主体の教育を受けていた彼の生身の裡にすでに始まっていただろう「読む」の分裂が、「書く」の側にもさて、どれくらい対応し、反映されていたものだろうか。

 その小波はまた同じ頃、人目に触れては困るような内容のことを兄に手紙で伝える際、ローマ字で書いたという挿話が伝えられています。これも時期的には、ローマ字による日本語表記の運動が立ち上がったそのごく最初、まさに黎明期にあたり、10代の彼がその頃からローマ字による表現を自然に試みていたことは、後年、作家として本格的に活躍してゆく中でも積極的にローマ字表記への関心を示していたことなどを考えあわせても、その非常に早かったことに驚きますが、ただ、そこでの「書く」は、同時にその書かれたものに対して想定されていただろう「読む」も含めて、当時まだあたりまえだった音読を介したものとはちょっと考えにくい。

 ローマ字による日記ということならば、少し後の石川啄木のものはすでに有名ですし、また考察や分析その他も汗牛充棟の感がありますが、あれもまた、「日記」という個人の内面との照応によって成り立つような形式の表現において、しかも性的生活も含めた内的日常を記録するという極めて私的な領域に関わる内容ゆえに選ばれたもののはずで、「書く」段でも、またそれを「読む」際においても、啄木が音読を想定していたとは思えません。なぜなら、音読されてその「場」で聴かれることを想定していたら、そこで秘匿されるべき中身が露わになってしまう。「日記」という形式自体、黙読の習慣がある程度浸透していた情報環境を担保にして成り立っていった、と考えていいでしょう。


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 小波にとっての「書く」という身体技法のありようは、昨今の「読み聞かせ」にまで連なるとも評価される、彼の「お伽噺」「口演童話」との関係を補助線にして考えると、作家による原稿の音読の習慣に関する問いにもヒントを与えてくれるように思えます。

 彼も若手として加わっていた硯友社は、いわゆる同人誌の始まりともされる「我楽多文庫」をつくったことでも知られますが、その体裁はどのようなものだったか。


 「詩、俳諧、短歌など、一首一類に偏することなく、およそ文筆の技に属するものは全て網羅し、小説、戯曲、詩歌、都々逸、川柳、冠付けに至るまで、遍く同好の士を集め、隔月に1回これを雑誌形式のものに編集して投稿者同士回覧し、(…)回覧の際は、どんな批評も勝手ということに決まった。」(巌谷大四『波の跫音――巌谷小波伝』、新潮選書、1974年)

 「文筆の技」とくくられていますが、要は当時の彼ら若い世代が新たに手にした「文学」という西欧由来の解釈枠で、身のまわりにある言語表現を個々のたてつけの違いを越えて得手勝手に、それこそ何でもありに試み、束ねることにした、そしてそれを「雑誌」というこれもまた当時新たな紙媒体の形式に盛り合わせ、互いに「回覧」し「批評」しあうことにした、ということでしょう。ならばさて、そこでの作品はどのような過程を踏んで、紙媒体の上に形にされていったのか。後の同人誌などで普通になったらしい原稿の音読、朗読を編集の席上行なうといった作法は、果して「我楽多文庫」の段階で、すでにあり得たのか。

 このあたりは、書き手によるところもあったようではあります。明治の硯友社「我楽多文庫」の時代からはだいぶ下りますが、たとえば吉行淳之介あたりになると、こんなことを言っている。

 「神田小川町の目黒書店ビルの屋根裏部屋に行ってみると、数人の眉目秀麗な青年たちが、意気軒昂とした態度でたむろしていた。彼らは、屋根裏の天才と自称し、ほとんどそう信じている様子にみえた。(…)同人の原稿の採否は、屋根裏部屋での朗読によって決定された。自分の原稿を朗読することは、私にはくすぐったい気持がつきまとったが、他の同人たちはむしろ気負って朗読していた。もっとも、それが最も簡便な方法に違いない。」(吉行淳之介『私の文学放浪』、講談社、1965年)

 昭和21年のおそらくは始め頃、当時の『世代』の編集会議の場でのこと。彼らは同時に「懇談会」と称して読者との相互関係を意識的に設定していましたが、それは同人誌の「合評会」をさらに開いたものにしようという意図だったようです。

 「集まった原稿を前にして、その採否を討議する編集会議も同様である。そこではそれぞれの読書目録を背景として、話芸と討論の技巧が優劣を決める。場数を踏み、社交性に富んだ都会秀才は、そうした場面で圧倒的強みを発揮する。逆に頭の回転ののろい口下手な田舎者は、それだけで圧倒され気おくれのために自信を喪失し、また内心反撥する。」(粕谷一希『二十歳にして心朽ちたり』、新潮社、1980年)

 その誌面に掲載するものは、創作だけでなく、翻訳であっても朗読して披露されることになっていたようです。

 「あるとき、ラモン・フェルナンデスの翻訳の朗読がおわり、一瞬座が静かになり、いいだ・ももが発言する気配になった。彼の発言は、一種ご託宣のおもむきがあった。開口一番、彼はこういった。「誤訳はないようだね」 私はおもわず笑ったが、同時にうーむとうなる心持だった。」(吉行、前掲書)

 こういう「場」、それを編制している「関係」とは、果して何か。素朴に、たとえば大学のゼミ、演習の「場」に親しいもののようにも見えますし、あるいは、カラオケルームでの親しい関係の「場」のようにも思えます。いずれにせよ、その限りである種の権力構造が内包されていることもわかる。ならば、明治の「我楽多文庫」の編集の「場」は、果してどうだったのか。当時としては明らかに恵まれたごくひと握りのエリート層の子弟たちであることは、社会的な文脈においては同じでも、「作者」が「作品」を音読、朗読して「みせる」ことが自明に「そういうもの」として成り立っていた背景にも、すでに何らかの歴史的過程、「民俗」レベルも含めた生身の身体性とからんだ「まるごと」の来歴もまた、あたりまえに隠されているはずです。


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 「印刷の発達によって語り部たちはつぎつぎと世に躍り出た。円朝の語りが速記に写しとられ、さらに印刷で「高座」を読むことができるようになった。その円朝の語りを評価した坪内逍遙は小説の新たな理論を打ち立て、新潮流をもたらそうとした。その逍遙に傾倒する二葉亭四迷が世に問うた『浮雲』に連動するがごとく、賤子の『小公子』が誕生したのである。かくして出版物が影武者のように語り部となって読者のもとに参上することになるのである。賤子の『小公子』を逍遙がつぎのように認めたのは「伝達」のメディアを考えた場合、また意を尽すという言語確立の時代の流れの中でとらえた場合、必然の動向であった。」(高橋康雄「子どもへの眼差し――若松賤子『小公子』」、『冒険と涙――〈童話以前〉』所収、北宋社、1999年。)

 早逝したものの、その残された仕事の可能性は、その後の情報環境と言語空間においてその豊穣が改めて証明される高橋康雄の炯眼。女性の語り文体が後の「童話」へ連なっている可能性について言及された一節ですが、「言文一致」の時代の情報環境において、立体的かつ複合的なメディア相互の関係や、読み手を介した「読み」の「場」の浸透なども含めて、すでに視野に入っています。

 このような「おはなし」を主眼とした語りもの文芸を見ようとする際、まずその「語り」という部分に対するパースペクティヴが方法意識と共にある程度しっかりと輪郭確かなものになっていないことには、旧来の文学研究、とりわけ文学史や文芸批評といったたてつけを介したもの言いの、茫漠とした分厚い蓄積の側に容易にからめとられることになりますが、高橋はそうはならない。

 「福澤はその口調をそらんじ、これに倣って全編を七字五字の体裁に綴ったので、初学の児童にも朗誦しやすく、非常な歓迎を受けて夥しい売れ行きを示し、そのうちに一種のメロディが生まれ、子守唄にまで謡われるようになったという。そのメロディが後に軍歌調の濫觴となったと伝えられている。またこの書の売れ行きの盛んなのに着眼した書肆が、この口調を模倣した「何々づくし」「何々往来」と題する類書を夥しく出版し、七五調の口誦本の流行を生じ、それがやがて明治十四年頃の新體詩出現の素地を成したと見られている。」

 彼は巌谷小波を評価するに際して、子どもの記憶に利するために七五調を、講談などの語りもの文芸の文体や話法を積極的に取り入れたと言います。つまり、語りものは記憶のために有利な形式であり、そのように語ることは今日のわれわれが前提とする「記録」とはまた別の「記憶」が、人々の社会性を編み上げる際の重要な紐帯になっていた情報環境のことを思い起こさせてくれます。

 また、この「記憶」というのは、「写実」「写生」とも親しいものだったらしい。「記憶」による備忘の仕方には、細部の個別具体の正確さや実証性などへの配慮は二次的なものとして後景化している代わりに、「記憶」という備忘の仕方に独自に属している定型としてのたてつけの裡に宿る個別具体が、必然的に前景化されます。加えて、さらにそれら個別具体がそのまま、眼前の実体と重ね合わされるものでもなく、定型としてのたてつけの裡にある〈リアル〉を立ち上げてゆくための、言わば触媒のような役割を与えられて初めて、そこにあるような形をとります。

 たとえば、犬が二匹、という個別具体とおぼしき描写があったとしても、それは個体の犬が二匹いるという「事実」としてよりも、「おはなし」の裡で立ち上がるイメージとしての犬二匹という色合いが濃いものになる。その眼前の犬二匹がそれぞれどれくらいの大きさなのか、オスなのかメスなのか、毛色はどんなものか、黒いのか茶色いのか、それともブチか、毛足は長いのか短いのか、顔つきはどんな感じか、など、眼前の犬の個別具体の特徴その他は現実にあったとしても、その描写に接する側、読み手の裡に〈リアル〉の立ち上がる最初の水準はあくまでも「おはなし」であり、その限りでの定型としてのたてつけと、それに対応することばを介した舞台であるはずです。例によってまた面倒なことを言っているようですが、このように生身の裡に〈リアル〉が実際に立ち上がってゆくであろう過程と経緯について、しつこく立ち止まりながら確認してゆく作業は、われらの裡の「うた」の原初的発生地点を探ってゆく上で必要であり、また重要です。

 絵画の「スケッチ」「写生」についても、おそらく事情は同様でしょう。眼前の事物をそのものとして紙の上に描き出すことは、眼に映ずる事物をそのものとして見る以前に何らかの定型、それゆえに「おはなし」に収斂してゆくようなフォーマットを介してまず見る訓練を日常からしてきたであろう当時の多くの人々の意識にとっては、眼前の事物の「写生」とは、それらすでに自身の裡にインストールされている「おはなし」ベースのフォーマットをあらかじめカッコにくくって機能停止させねばならなかったはずです。その意味で、それは異文化理解の際の手続きに等しいものだったでしょう。文字よりも絵が、いまどきのもの言いでいうなら「ビジュアル」が、より具体的に「見える」分、想像力を刺激したという事情もあるにせよ、生身の身体の裡に宿る何らかのものの、その初発のありようというのを改めてことばにして取扱可能な形にしようとすることは、かように手仕事的な迂遠を必然として求めてくるもののようです。