耳の〈リアル〉と「事実」の関係


 大正12年の秋、というと、あの関東大震災が起きた年の、まさにちょうどその頃、ということになります。ただし、これは被災地東京ではなく大阪でのこと。当時、朝日新聞社企画部にいた高尾楓蔭が、ひとりのアメリカ人を会社に連れてきました。この高尾楓蔭という御仁、教会を介して高野岩三郎とも交流があり、社会的には箕面を根城として活躍する童話家として「お伽芝居」の興行に尽力、宝塚歌劇の黎明期にも参加したという、その頃の大阪の文化人のひとりでなかなか面白い人なのですが、それはまた別の話。ともあれ、その彼の連れて来たアメリカ人、「ラジオの放送機と受信機」をそれぞれ1台ずつワンセット、持ち込んできたそうです。

 「ラジオ」といいますが、当時はまだ、第一次大戦で一気に実用化の進んだ一対一の無線電話(無電)から、不特定多数の受信を想定する本格的な放送局形式のラジオ放送がアメリカでようやく可能になって間もない頃。「この頃の受信器といえば、長さ二尺余、幅一尺ほどの長方形の大型箱で、その箱の上に直径一尺ほどの朝顔型ラッパの拡声器が置かれてあった。価格は一台三千円ともいわれていたから、大阪で所持するものはホンの一部の富豪か研究家に過ぎなかった」そうですから、このアメリカ人もこの「ラジオ」機械のセールスに訪日したものの、売れずに困った挙句、伝手を頼って先の高尾に、無料で貸すから試しに使ってみてくれ、と頼み込んだ。条件は、電気代だけそっち持ちで半月ばかり。その頃の電気代で2~300円だったそうですが、これを朝日新聞社が好奇心まかせに使ってみることになった。


「三階の社員宿直室前の廊下に放送機械を据付け、東側に隣接する大広間に受信器を設置し、社屋中央の高塔時計台にアンテナを張って受信することにした。今から考えると馬鹿げた話で、扉一枚開けば受信器も放送機もなく肉声で聞けるものである。」

 つまり、廊下にマイク側を置き、アンテナはわざわざ建物の外の高所に張り、それでいてスピーカー側はその廊下に隣接する大広間に置いたということですが、このあたりは「無線」で「通信」できる、ということ自体が、興味関心としてまずあり、そして次に、一対一の「対話」でなく、スピーカーを介して不特定多数に「同時に」伝わるのが重要だったということでしょう。

 そうしたら、果してどういうことが起こったか。

 「夕刊の編集が終るころからこの急設の放送局へ有志が参集した。いずれものどに満々たる自信のある連中ばかりで、流行歌、俗謡、都々逸、端唄、常磐津、浄瑠璃、軍歌、唱歌、詩吟、浪花節などが順次選手によって放送され、これを広間で社員が聴いてヤンヤの拍手を送った。」(篠崎昌美『浪華夜ばなし』朝日新聞社、1954年)

 つまり、社内の廊下でかわるがわる、宴会の隠し芸大会みたいな事態が自然発生的に出来し、またそれを社内の人間たちが聴いてうれしがった、というお粗末。

 その具体的な範囲や人数はともかく、そして社内の人間限定であったにせよ、まずは不特定多数の「みんな」に対して何か聞かせねばならない、という状況になった場合、「ことば」ではなく、何であれいずれ芸ごとにあたる表現、それこそまさに「うた」の係累でなければならないという縛りが、どうやら無意識のうちに「そういうもの」として当時の人々の間にあったらしいことがうかがえます。と同時に、「隠し芸」とひとくくりにされて、昨今ではもう忘れられかかっている身ぶりにひそむ、かつて「そういうもの」としてあり得ていた背景や理由についての何らかの「歴史」についても、また。

 「芸」を介することで初めて、個人の私的な表現も何らかの社会性を持つようになるものだし、それをひらたく言い習わす語彙として「うた」もまた、あったらしいこと。そして、「おはなし」というのも、ことばによる表現が想定されてはいても、どこか「芸」や「うた」と同じ種類の属性も含まれる語彙として認識されていたらしいこと。だから、「芸がない」「話にならない」といった慣用的なもの言いにも、立ち止まってほどこうとしてみるならそのような茫漠とした「民俗」レベルも含めた経緯来歴が、眼前の〈いま・ここ〉にひそむ「歴史」としてはらまれているらしいこと、などなど、問いの種は広がります。

 この趣向の企画、「初めの四、五日間は大入満員であったが、一週間も続くと、歌手は疲れるし、聴取者は同じものばかり聴かされるので、興味も薄れて次第に社員の足はまばらになった。」 「もっともこの間の機械の操作は米人がやっていた」そうなので、使用料として彼の日当込みで三千円を要求され、社内ですったもんだになり、持ち込んだ責任をとって先の高尾氏が退職金で払うとタンカを切って辞表を出す出さないの騒ぎにまでなったとか。結局、当時の社長、村山龍平の鶴の一声で支払うことになり一件落着したといいますが、しかし、その後、さらに思わぬおまけが。

 「ほどなく外国航路の郵船、商船の船長から「これまで本船の無線電話に入るものは、ペラペラの英語か訳のわからぬ洋楽ばかりであったところ、数日前から突如として夢にも思わぬ日本の俗謡が聴えてきた。槍さび、奴さんをはじめ地方の民謡俗歌、とりわけ浪花節に至っては船員達を狂喜せしめた。(…)末尾に朝日新聞放送といったが、大阪の本社か、外国にある支社か、いずれにしても満腔の謝意を船員一同に代って述べる」という書簡や電報が届いた。この宛名はいずれも社長宛であったから忽ち社内上層部の大問題となった。」

 新聞社の身内・内輪による、それこそ宴会の「隠し芸」のノリでうれしがっていたものが、うっかり船舶無線に受信されていた、と言うことらしい。これが果して本当だったかどうか、この時持ち込まれていた「ラジオ」機器がどれくらいの強度の電波を発するものだったか不詳ですし、そもそも技術的に当時、そのようなことが可能だったのかなど、いろいろと要検証な挿話ではありますが、仮に事実だとしたら、直接でなくとも外洋を行く船舶無線で受信できるような「放送」になったということにはなる。そういう意味ではその際、「朝日新聞放送」という自称のコールサインまで勝手に名乗っていたらしいのは、新聞社員の隠し芸大会程度のものであれ、その現場では「ラジオ」を介した「放送」という認識はすでにあったのか、その洒落っ気も含めて、なかなか愉快ではあります。いずれにせよ、これが期せずして「放送」を介した「素人のど自慢」の嚆矢になった、ということらしい。

 「ことば」よりも「うた」が、「芸」こそが、表現においては先行していたこと。個人の私的な表現もそういう形式に変換しなければ、不特定多数の世間一般、つまり「社会」に対して何らかの有意義なものにはならないという認識があたりまえに共有されていた、そんな時代の趣きある挿話だと思いませんか。

 この後、無線放送の通信機関としての有用性を認識した朝日新聞は、大正13年1月、今度は正式に社の主催で「無線電話大展覧会」を開き、さすがにこの時は社員の隠し芸では恰好がつかないというわけで本職の女義太夫浄瑠璃を呼んで、一日三回、一時、二時、三時に「放送」させています。送信所は本社三階大広間、聴取所は長堀橋高島屋八階演芸場に設定したといいますから、直線距離でざっと2㎞半。いずれにせよ、このように「居ながらにして、まるでその場に居合わせるかのような」体験のできるある種疑似体験の道具、言わば「耳の見世物」といった体で「ラジオ」もまた、世間一般その他おおぜいを相手どる新しいからくりとして周知されていったことは、これまでもさまざまな挿話や逸話を貸して触れてきていますが、ここでもまた、その時その場で稼動していた「耳」とは、「うた」に、そして「おはなし」や「芸」に、まず鋭敏に合焦してゆくようなものだったこと、を改めて確認しておきましょう。


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 同時にまた、「ことば」から「うた」の側へと身を寄り添わせてゆく道筋もありました。それも、多くはあの「おはなし」というたてつけを介して、話し言葉としての「ことば」が「おはなし」のたてつけに沿って整えられてゆく。いわゆる「民話」と雑にひとくくりにもされ、いずれある定型として流通していたさまざまな口承伝承の渾然一体な貯水池から、上演に際しての輪郭が整序され、「語りもの」と呼ばれるようにもなってゆく。その意味で、それら「語りもの」もまた、そのような耳にとっては「うた」として響くものでもありました。それはいま、それら「語りもの」を理解しようとする場合に当然のように媒介される「物語」というあの鹿爪らしい漢字二文字に鋳固めてしまうには、とりとめなくも豊かな拡がりや、かけがえのないふくらみを、われらの日々の生にもたらしてくれるものでした。

 とは言え、そのような「語りもの」的な「おはなし」の話法、文法というのは、必ずしも話し言葉を介してだけ稼動するものでもない。書き言葉もまた、それら「語りもの」の骨法を下地に「おはなし」に整えられてゆくところがあった。なぜなら、書き言葉もまた、それを操るのは他でもないこの同じ生身、「自分」という意識を持つ主体でしかないのだから。「語りもの」に対する感受性を宿してしまった耳を持つ、感情や官能も共に同じ生きものとして「ことば」の縛りの裡にある、このおのれの身を頼りにようやくかたちになり、表現として眼前にあらわれてゆくものなのだから。

 ですから、あの「言文一致」という術語で引き出される膨大な「歴史」の問いの領域にしても、書き言葉としてできあがった文字列というだけでなく、それらを手と筆記用具とを介して紡ぎ出していった生身の書き手の、その営みの刹那の身の裡の感覚や感情、そこに宿っていった〈リアル〉の過程などまで含めて「まるごと」の対象として敢えて見据えてほどいてゆこうとするならば、問いの根は同じところにあることに、必ず理会するはずです。

 いつも事例は具体的な方がいい。たとえば、「語りもの」の代表格かもしれない「講談」について、とあるSNSでのやりとりの断片。

「戦時下の新聞は、一緒に戦争を盛り上げた側面も大きいです。戦意高揚の事業もありましたし。負け戦でも題材を探し虚構でも盛り上げるのが使命という人も多かったと感じます。(…)当時の戦況報道は講談そのものですね。玉砕した部隊の記事など(目撃者が残っていないのだから)書けるはずがないのに。思い出したのは、先日話題になったアナウンサーの「テレビが安心を伝えるメディアじゃダメなんですか」という発言です。当時の新聞は作り物の安心だけを届けていたわけで……」

 かつてのマスメディアであった新聞は戦時中、「講談」のような「作り物の安心」だけを届けていたじゃないか、その結果、当時の国民は事実を知らず「安心」するだけだったから、あんなひどい敗戦に導かれることになったのだ――ざっとこのようなトーンが背後にあるらしかった。

 ならば、その「安心」とは何だろう。「世間一般その他おおぜいに対して納得ゆくように説明、ないしは解釈を提供してもらう」ということでもあるのなら、それは常に「作り物」という意味での「おはなし」から逃れられないのではないか。いや、そうじゃない、どこかに「本当の」安心があるはずだ、という発想は、それ自体ある種のイデオロギー、まさにその「講談」という比喩で明らかにネガティヴに設定された考え方の裏返しを自明の正義としてフリーズさせることになってゆくのではないか。「講談」という比喩で「おはなし」をネガティヴにだけとらえるこのような気分は、「ことば」と「うた」、そしてこの場合は「ジャーナリズム」と「芸能」の地続きにも連なってゆくだろう、われら人間存在のあやしくもとりとめない領域について、その感受性を鈍麻し、遮断して行くことにしかならないように思えます。

 問いの焦点は、「事実」から書き手の記者の内面、ココロの裡に、あるひとつの光景なり情景が「自然に」広がってくるからくりであり、ことばとそこから想起される個人の裡のイメージの「歴史」についてです。そして、そのようなイメージが宿ってゆく過程で、それまでの情報環境において醸成され、伝承もされてきたらしい「語り」の話法や文法に、それまでと異なる「力」を、言わばある種の不用意な喚起力を付与していったかも知れないことも。

 それは、個々の文字や言葉が辞書的な理路に沿って導き出してくるイメージというだけでなく、それより素早く瞬間的に「浮かぶ」シーン、情景としてのイメージの鮮烈さと、それが書き言葉の側にまでもたらす強制力でもあります。ある意味詩的でもあり、その限りで審美的でもあり、さらにその先にはおそらくあの「うた」などとも隣接してくるであろうココロの動きの領域。それこそ、浪曲浪花節を「眼をつぶって」聴くのが作法となっていった、おそらくは大正末期から昭和初期あたりを境とした、本邦常民その他おおぜい的なココロの作法の変貌の過程などとも関わってくる問いになります。

 うっかりと瞬間的に「浮かぶ」視覚的な情景、というのがその「感動」をそれまで以上に強くしてゆき、文字のリテラシーを介して表現してゆくことを半ば自動的に要求してゆくようになる過程。それまでならば「夢見がち」程度のその場の状況的な、そしてその分個人的に「処理」されてもいたような種類のココロの傾きが、視覚的な情景を介してうっかりと誰にも共有される領域に通底し、その結果、ただの「夢見がち」に収まることのない現実への環流の回路までもが広汎に開かれてしまってゆく情報環境の問題。眼はいらない、ココロに「浮ぶ」情景と、「おはなし」そして「うた」に合焦する耳があれば、そのような官能を実装した生身がその場にいれば、それだけでかけがえのない〈リアル〉は、ほら、そこに目の当たりに立ち上がる。

 「大和の沖縄特攻の記事では、大和が敵艦を攻撃して撃沈する様子を見て喜んでいる沖縄の兵士の談話とか載っています。すさまじいばかりです。そりゃ、兵隊が「天皇陛下万歳」と叫んだことになっていても全然おかしくない。こうだろうとイメージした記事のなんと多いことか。」

 そのような〈リアル〉には、すでに時も場所も必要ない。だから、この世の生身に付随する名前など、個別具体の要素や属性が後景化してゆくのは必然です。たとえ、書き手がそのように意識してのことでないにせよ、結果としてこのように。

 「ガダルカナル島の記事を見て思ったんですが、主語(部隊名とか)も日時も伏せ字なら、何だって書けるということですよね。検閲とか言論統制という面からしか考えたことがありませんでしたが、ある意味で全能感を持って、本気で講談を書いてもいたのかも。国民の不安を取り除くのが仕事だと思って。」

 伏字で匿名性が保証される、ということは、単に「事実」との紐付き方を制限することで重要な機密が漏れないようにする、という現実的な実利のレベルだけでなく、それによって「おはなし」の話法・文法が「語り」の方向へと解き放たれてしまうことを許容するトリガーにもなったでしょう。匿名だから「事実」との紐付き方も自由度が高まる。だから、もともと内包されていたにも関わらず、「事実」や「報道」に関する現実的な実利の約束事が拘束具として働いてもいたものが、一気にその内包されていた「語り」の方向へと動き始める。「おはなし」は「語り」の調子、それらの呂律に動かされ始め、書き言葉が話し言葉と融合した「語りもの」の領域に遷移してゆく。つまり、「講談」になってゆく。

 「事実」と「報道」という実用性の枠内で自らの仕事を律することを求められていた現場の記者たちにとって、のっぴきならない現実にまるごと身体ごとで直面し、「事実」を全身で受け止めようとし続けてゆく中で、同じ生身の中の官能や身体性などもひっくるめた領域が実用性の枠内にだけ収まっていられるものでもなかっただろう、というところに、さて、どれだけ留保してゆけるか、それがおそらく「歴史」という干涸らびたもの言いに新たな息を吹き込み、〈いま・ここ〉の日常性身体性の水準と身近に切り結んでゆけるようないきいきとした相貌を垣間見せてやるために、重要な試金石になってくる。単に「報道」の話法・文法だけの問題ではないこと、言うまでもありません。