「学校」問題、という難儀

 世に、「学校」問題というのがあります。

 「教育」問題、と翻訳される場合もあり、また「子供」「青少年」問題といった色合いが強調される場合もあり、さらに、対抗的に「家庭」が補助線として加えられることもありますが、いずれにせよ「学校」が、それらの問題設定の中心から外されることは、まずありません。

 で、この「学校」問題、同じく新聞やニュースその他でとりあげられても、政治や経済、国際関係などと違い、世間一般その他おおぜいな普通の人がたでも、何かひとこと言いたくなるものらしい。それだけ敷居が低い、悪い言い方をすれば誰もが気兼ねせずに「いっちょ噛み」しやすい、また事実、そうできるように思えてしまう「身近なネタ」ではあるようです。
 
 なぜか。そりゃ誰もが「学校」に通った経験があるから。まさに「当事者」として「体験」「見聞」をみんな持っているからに他なりません。かつてある時期までの「戦争」のように、われら国民同胞がひとまず平等に経験したこととして、「学校」はいまや、数少ない共通の話題になるらしい。

 だからこそ、「学校」をめぐる問題は厄介です。だって、誰もがそれぞれの個人的な「学校」体験をもとに、何か言う権利を持っているように思い、またそこで論じられ語られていることの解釈もまた、それら個別具体の「学校」体験を介してになりがちで、まさに政治や経済における床屋政談、市井の素人の感想が無意識の集合体としても常にそこに介在してゆき、百家争鳴にはなれど、何か生産的な結論なり解決手段なりにたどりつくことは、まずないのがお約束。小中学校の義務教育であれ、高校や大学レベルであれ、「学校」問題としてくくられてしまった瞬間から、そのようなルーティンに落とし込まれる不自由が、常に「学校」という問題設定にはつきまといます。

 まして、近年のように大学進学率が全国的に6割程度に至り、かつ、その男女差も事実上なくなってきている現状では、同じ「学校」問題でも、小中、あるいは高校までの学校体験ベースの床屋政談でなく、大学までもひとくくりに「学校」としてイメージする世間の体験ベースの想像力が強く関わってくる。加えて、それらの「体験」も当然、〈いま・ここ〉現在進行形のものではなく、自分たちおとながそれら「学校」にいた頃、若くても10年、おおむね20年から30年前の体験や見聞をもとに、さらにその後の人生経験も上書きされたところでの「学校」一般にあっぱれ転換、生成されたところの個別のご意見、ということに普通はなっているのですが、しかし、「学校」問題が語られる場合のそれらのバイアスというか、考えてみればあたりまえな、それら情報環境との相関における〈いま・ここ〉と乖離した内実というのは、そこらの世間一般の人がたのみならず、専門家であるはずの学校教員や教育分野関連の学者研究者、文科省教育委員会その他、「学校」「教育」行政の当事者たちでさえも、同じように巻き込まれたまま、相対化して言語化することはまずないようです。

 「大学」問題も当然、同じことで、少子化や家計の困窮その他で、何らかの形で世にある大学の類の整理再編、淘汰は避けられない必然であり、早急に何らかの政策的な判断による手当てをしなければならないことは概ね誰もが認識していながら、しかし、いざ議論になるとそこで語られる「大学」は、先に触れたような〈いま・ここ〉の現実から見事に乖離した絵空事、それも首都圏や京阪神その他、人口集中した大都市圏にある「眼に見える」大学だけを下地につくりあげられる空中楼閣のようなものになるのが大方です。

 このような〈いま・ここ〉から乖離した語彙と内実でしか、重要な問題が語れない、世間一般の知恵も見聞も集約できない難儀は、何も「学校」問題に限らず、政治や経済その他、大文字のアジェンダ一般に関しても鈍く広く共有されている、実は本質的な「衰退の病根」だと思っています。