ネット発、新「脱亜論」のこと

 まこと、隣人というのは厄介であります。

 個人ならば引っ越しという手もあるけれども、こと国家同士となると気に入らないからと言っておいそれと宿替えもできず、といって、19世紀までの古典的帝国主義全盛期のように、いきなり力まかせにねじふせることももはやままならない。

かくて、国家の手による「外交」とは、あまた国民の気分や感情をどこかで棚上げにしたままの官僚的調整が自動的に本領となってゆき、草の根に鬱積したさまざまな水準の不満や違和感はあらかじめそれらと乖離した、常に“表立っては語ってはいけないもの”のままにされてゆきます。

 別に今始まったことでもない、近代国家とは本質的にそういうものだ、と言ってしまえばそれまでのようなものですが、しかし、その「そういうもの」に何度も足すくわれ続けてきた近代というのもあるわけで。それを“政治的正しさ”(ポリティカル・コレクトネス)などと横文字の能書き、杓子定規な理屈一発で抑え込もうとしても、なにせことは感情の領域、うまく心ゆかせもできず語られぬままでいればいるほど、その反動は当の本人たちでさえも予期できぬもの、予想外のかたちをとってあらぬ現実になったりもすることは、それこそ歴史がいくらでも教えてくれています。

 民俗学者の眼というのは、政治学者や経済学者などの語る大文字の近代の内側にもおそらく宿命的にはらまれる、そのようなある意味で人間世間の本質にまで関わる微細なずれや予測外のモメント、時に言葉本来の意味での「文化」の水準にまでうっかり届いてしまうようなとりとめない現われについて、等身大の現実から焦点を合わせてゆくことで、どこかよそよそしいものになってしまっている〈いま・ここ〉の全き回復、あるべき近代の〈リアル〉を散文の運動力で描き直してゆこうとする性癖を持っています。


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 その意味で、日本人拉致問題に端を発した近年の北朝鮮問題についての国民化・大衆化は、かなり興味深いものです。

 それは単に北朝鮮問題についての認識を深めるというだけでなく、同時に、韓国という国もまた、かの国と同じ民族によって成り立っていることを、改めて学習する国民的な機会になっています。特に、いわゆるマスメディアがそのような“政治的正しさ”に配慮することが無自覚な習い性となってしまっていて、拉致問題に限らず、こと北朝鮮がからむ案件についてはその真相について触れないような傾きがあたりまえになっていたことまで明らかになってきたこともあって、「ほんとうのことは知らされないようになっている」「なんだか知らないけど、自分たちの気持ちとかけ離れたところでタテマエが動いている」といった感覚は、その濃淡こそあれ、多くの国民にとってデフォルトになりつつあるようです。

 言い換えれば、それらマスメディアなどによって演じられている“政治的正しさ”が言わばかりそめの「公」として、日々の暮らしの上に天蓋のように覆いかぶさっているような感覚が国民的規模で共有されるようになっている、ということです。

 もちろん、そのかりそめの「公」がどのような来歴で今あるような偏頗で抑圧的なものになってきたかを知るためには、また別の周到な準備が必要なわけですが、少なくとも今この場で、それは単にマスメディアの問題だけでなく、それらの背後になだらかに連なっているはずの偏差値教育以降の学校的言語空間のありようが、それらかりそめの「公」をここまで強固な空中楼閣にしてきた最大のエンジンであることは指摘しておきたいと思います。ことは、ただ朝日新聞やNHK、あるいは何であれそのようなメディアを「偏向」と批判してすむようなものでもありません。

 そして、その“政治的正しさ”に縛られたかりそめの「公」は、まさに学校的言語空間の浸透力によってメディアの生産点はもとより、いまや霞が関や永田町までも均質に覆ってしまっているところがあります。

 ある種の政治家や官僚たちの世界観がマスメディアが考えなしに発する“政治的正しさ”ときれいに同調してゆくような現われを見せることは、すでにわれわれの経験的に見知っていることですが、しかしそれは、マスメディアが彼ら政治家や官僚に影響力を行使しているから、といった単純な解釈に任してしまっていい現象でもありません。それら“政治的正しさ”に過剰に同調し、うっかりと共鳴してしまうような身体を共有している、そんな者たちがマスメディアの現場にも、官庁にも国会にも、効率的に配分されるような構造がすでに確立されている、そのことの方がおそらく、より本質的です。誰かひとにぎりの者が情報を操作して〈その他おおぜい〉「洗脳」してゆく、といった古典的な大衆社会論経由のマスメディアや情報環境に対する認識は、少なくとも〈いま・ここ〉のわがニッポンにおいてはすでに現実と乖離したものになっています。そんな現実を招来した高度経済成長の「豊かさ」のもたらした「選良」のありようというのも、なるほどこの程度に難儀なものです。

 ただ、その一方で、インターネット環境の普及は、それらかりそめの「公」を日常の側から相対化してゆく動きをよくも悪くも加速させるように働いてきています。自分が実際にパソコンを叩いてインターネットに接続できるかどうかに関わらず、少なくともインターネットというものの存在と普及とが、目に見えないところでわれら日本人の情報環境を大きく変えつつあるらしい、ということについては、誰であれうすうす感じ始めていることでしょう。

 問題は、その実際の影響の度合いがどのような規模のどの程度のものなのか、何よりそれが既存のメディア――新聞や雑誌、テレビなどのマスメディアは言うに及ばず、日常的なコミュニケーションの範囲に至るまでのこれまでのありようと、どのように関わり、どのように反響しあっているのかについて、穏当に認識できる回路がまだうまく設定されていないということです。だからこそまた、ネットについて言及する言説自体がそのようなかりそめの「公」を“政治的正しさ”の習い性としてしまっているからくりに規定されて出てきてしまうという自縄自縛の構造もある。

 たとえば、インターネットが「右傾化」している、というようなことが最近、よく言われます。特に、何かネットを民主的なメディアと勝手に決めつけ、ネットを介した投票だの意思表示だのを最も理想的な民主主義の実現だと妄想し、それが裏切られると今度は一転、ネットを敵視し始めるといった「民主的」「リベラル」を自認する方面にそのようなもの言いは顕著です。ためしに、これらネットの「右傾化」を嘆くもの言いの発信源をたどって見れば、ものの見事にそのような「民主的」「リベラル」とされる御仁やメディア界隈があぶり出されてきます。つまり、これまで述べてきたようなかりそめの「公」を司っている立場にあぐらをかいている側からすれば、ネットは自らの権威=“政治的正しさ”を足もとからつき崩してゆくようなまがまがしい存在として映っているらしいのです。


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 ただ、ネット上のこういう書き込みなどを見れば、なるほどそういう「右傾化」の懸念も一瞬、ああ、なるほど、と思えてしまうかも知れません。

雨にも恨み 風にも呪い

雪にも夏の暑さにも妬む

丈夫なエラをもち 慾は果てしなく

決して静まらず いつも大声でどなってゐる

一日にコーリャン四合とキムチと少しのコチジャンを食べ

あらゆることを自分の勘定に入れ

半ば見聞きし分かったつもりになり そしてすぐ忘れ

半島の禿山の陰の小さな萱ぶきのあばら家にゐて

東海に日本の竹島あれば行って旗を立てて威張り

西に宗主国あれば行ってそのご機嫌を伺い

南に死にそうなベトコンあれば武器を向けてこわがらなくてもいいと殺し

北に旱魃や飢饉があればつまらないものですがと日本の米を送り

日照りの時は謝罪を求め 寒さの夏は賠償を求め

みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 尊敬もされず

そういうものに わたしは なってるニダ

        ∧__∧   ________ 

      <丶`Д´>/ ̄/ ̄/ 

      ( 二二二つ / と) 

      |    /  /  /  

  __  |      ̄| ̄ ̄   

  \   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\  

  ||\             \

  ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄

  ||  || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||

     .||             ||


 あるいはまた、こんな替え歌も。

(「犬のおまわりさん」のメロディーで)

迷子の迷子の在日クン

あなたの国籍 どこですか

祖国を聞いても わからない

ふぁんふぁん ファビョーん*1

ふぁんふぁん ファビョーん

タカってばかりいる 在日君

犬の 7割半

喰われて しまって

わんわん わわん

わんわん わわん

 思わず笑ってしまうくらい、これはこれでよくできたものだと思いますが、それはともかく。

 ネット上の書き込みに対して「便所の落書き」と呼ぶ向きもあるようですが、確かにこれらは落書き並みの差別的もの言いに過ぎないでしょう。ただ、これらに対して差別的、というのはひとまずもっともで、また簡単なことですが、ならばなぜ、部落や障害者などに対する、その他現実に存在し得る差別的言辞に比して、韓国/朝鮮関連のものがネット上ではことさらに増幅、強調されて語られるのか。ネットは「右傾化」していて差別を助長するメディアである、といったたてまえの「公」=“政治的正しさ”の側からのレッテル貼りだけでは、その間の微細な事情は相変わらずうまく説明されないままです。



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 先月上旬には、ネット上でちょっとした国際摩擦がありました。

 例の竹島の記念切手が韓国で発行されることをめぐって日韓政府間に軋轢が生じたことに関連して、韓国のサイトから日本のサイトに対して「攻撃」が加えられたのです。

 主体となっていたのは学生など比較的若い世代が中心だったようですが、韓国のマスメディアは新聞以下、これを「サイバー攻撃」と呼んでむしろ学生たちを煽るような報道をしていました。もともと「サイバーデモ」など、ネットを介したそのような示威行為をことさらに何か意味あるものとしてもてはやしてきた経緯も「IT先進国」であるかの国にはあるわけで、今回も向こう側の文脈では間違いなくある種の「正義」をはらんでいたもののようでした。言わば、かの国での“政治的正しさ”を体しての「攻撃」だった。

 自分たちを「ネチズン」=「ネット上の市民(シチズン)」と称していたあたりも、そのような意識の現われでしょう。このへん、インターネットを無前提に「市民」や「自由」の象徴ともてはやしてきた日本の「民主的」「リベラル」界隈と、そのひとりよがりで言葉本来の意味での差別的な性癖には、基本的に相通じるものがあります。ちなみにこの「攻撃」について、日本のメディアはスポーツ紙やワイドショーがゴシップ的に取り上げた程度で、大手の日刊紙で正面からとりあげられることはほとんどありませんでした。

 もっとも、「攻撃」と言ってもネット上でのこと、連続して相手のサイトにアクセスを繰り返して相手のサーバに負荷をかけてダウンさせてしまう、というだけの、死人もケガ人も出るわけではない、まあ「いやがらせ」みたいなものですが、これを人海戦術で、しかもそういうプログラムを組んで半ば自動的に行なうとなると、これは立派に威力業務妨害まがい、少なくともサーバを貸して商売している側からすれば犯罪なわけですし、何よりユーザー側からしても、言わば機嫌よく仲間うちで語らっていた居酒屋に「あいつら気に入らない」「オレたちの悪口を言っているに違いない」というだけで大挙してチンピラが乱入してくるようなもので、素朴に迷惑であることは間違いありません。

 攻撃対象になったのは、個人の開設していた韓国文化のパロディサイトと、何かと話題になる巨大掲示板2ちゃんねる」の中の主にニュース関係掲示板と、韓国/朝鮮半島関連の掲示板。一昨年、サッカーのワールドカップ日韓共催で開かれたあたりを境にして、これらの掲示板を中心に韓国や北朝鮮をネタにする書き込みが急激に増えたと言われていて、それらの中には前記のようなひとまず明らかに差別的に見えるものから、素朴にこれまでの韓国/朝鮮半島報道に対する違和感の表明に至るまで、表現はさまざまでも、少なくとも“政治的正しさ”のかりそめの「公」に対する不信感という点において共通するものがありました。そのような雰囲気が、このところ一般化していた翻訳エンジンを搭載した掲示板サイト(日本語とハングルとを翻訳して掲載してくれる掲示板。完全ではないがおおむね意味が通じる程度の翻訳は充分可能になっている)などを介して向こう側にもどんどん伝わるようになっていた、そのような最近のネット環境の変貌が事件の前提としてあったと言っていいでしょう。

 当然、こちら側では反発がありました。

サイバーデモじゃなくて、嫌がらせのテロだろ?

新聞とかでやってるのがネチズンって出てるよね

ネット+シチズンネチズンって造語だったそうだけど、テロを行う香具師等をシチズンとは言いたくない!!


ネット+テロリストで「 ネ ロ リ ス ト 」と命名する!

ネロリと粘着質な感じもするし。どうよ

ネチョリストでもいい


韓国はお隣の国なので出来れば仲良くしておいた方が

いいんじゃないかな、と今まで思っていたのだが・・・

今回の件でそんな気持ちは吹っ飛んだね。

プライドばかり高い、身勝手で嫌な思考の持ち主だと思った。

 韓国側はこれを「サイバー壬申倭乱」とまで名づけて盛り上がっていたようですが、こちらでは「2ちゃんねる」の管理人である西村博之氏(本誌昨年 月号にインタビューが掲載されています)が「反撃禁止」を宣告したこともあって、一部の小競り合いを除いて、サイバー攻撃による日韓全面戦争という泥仕合だけはひとまず避けられました。それこそ「民主的」「リベラル」な向きが言うように、ネットは「右傾化」していて韓国や北朝鮮に対する民族差別的な感情が渦巻いている剣呑な場所だとしたら、今回の一件が全面戦争に発展せず、是非はともかく、ほとんど自主的にこのように収束していったことの内実は、さて、どう説明したらいいのでしょうか。


 同様に、「嫌韓厨」という言葉が一気に表面に浮上してきたのも、今回の「サイバー壬申倭乱」のひとつの効果でした。

 この「厨」というのは「厨房」の略称で、もともと中学生を呼ぶ「中坊」という呼び方がネット上で変換されてこのような表記に転じていったものです。まあ、「小僧」「ガキ」といったニュアンスが含まれていると思ってもらえれば間違いないでしょう。モティベーションはさまざまであれ、最近増えてきた何かと言うと韓国や北朝鮮に反感を示すような書き込みをする連中に対して、それはそれでなんだかなあ、といった違和感や反感を抱いている層が同じネット上にはかなりの比率でいたわけで、彼らを称するもの言いとしてこの「嫌韓厨」というのが以前からネット上の言わば隠語としてささやかれていたのですが、今回このもの言いがある種のキーワードになったことは象徴的です。

 「ひろゆき」と呼ばれる管理人、西村博之氏は管理人として、韓国側の「攻撃」を煽ったサイドと交渉、事態の収束を図りました。その経緯もまた、ネット上の複数の回路で断片的にほぼリアルタイムでもれ伝わってゆくことで、ネット上の人間=「国民」たちの間にそれら「外交」を見守り、批評してゆく態度もまた備わっていることが明らかになりました。紙幅の関係もあってこの場では詳細は省きますが、全く顔の見えない、しかしおそらくは学生ないしは学生に毛の生えた程度とおぼしき韓国側の「攻撃」首謀者に対して、「ひろゆき」はひとまずビジネスベースの管理者としての沈着さで対応、時にハッタリめいた言辞も弄しながら、事態を不拡大の方向に導いていったようです。

 知識人や文化人の空中戦のような大文字のイデオロギー沙汰とは別のところで、たとえば財界人から無名のサラリーマンに至るまでの言わば「経済」に就いた常民たちの無告のリアリズムが、見えないところで高度経済成長期の日本を支えていたことは、それこそ『プロジェクトX』に対する幅広い共感などに見られるように、すでに国民的規模での常識となりつつあるようですが、それら戦後日本の言語空間の構造はネット上にもそこそこ適用できるらしい。その程度にはネットもまた、正しく社会の内側に抱かれている存在ということでしょう。

 ただ、いささか大げさなもの言いを敢えてするならば、たとえば満州事変勃発時の幣原喜重郎が不拡大の方針を抱きながらも「従来満州問題に関し比較的冷淡であった一般民衆の態度が、今や日清、日露戦争当時の状況を彷彿させるにいたった」と判断、民衆レベルでの戦争への熱狂が「革命」を導き出す懸念からその制御に躊躇したのと同じようなジレンマが、今後「ひろゆき」を襲わないとも限らない。事実、韓国側の「要請」に応じて「2ちゃんねる」内での「嫌韓厨」をおさえこむようなシフトを敷くようになったことについては、すでにもう批判や異論、あるいは「ひろゆき」自身に対する不信感なども含めて結構表明されているところがあります。いまの情報環境で政治を取り沙汰しようとすると必然的にまつわってくるポピュリズムに対して、果たして距離をどのようにうまくとってゆくのか、という課題は、ネット上でも案外切実なもののようです。

 しかし、見誤ってはいけないと思うのは、「ひろゆき」のそのような動き方があるイデオロギーや政治的立場によって導き出されている、と、これまたうっかりと即断してしまうことでしょう。事実、そのような解釈はすでにひとり歩きし始めてもいる。

 彼は、韓国や半島と仲良くすることがイデオロギーとして正しいと判断したから、ではなく、おそらく、「2ちゃんねる」の管理人という立場で、言い換えればまさにビジネスベースの経済人としてのリアリズムから、そしてもう一方では、これは彼自身自覚しているかどうかわかりませんが、彼がその出自背景や世代性から確実に身につけている80年代的な価値相対主義の最も良質なバランス感覚から、ネット上の有能な官僚として今回の事態を「外交」で収束させようとし、事実、「国民」たちに対してもそのように納得させたということなのだと思います。そのことの評価は、今後また別の水準で行なわれねばならないことでしょうが、少なくともそのような「自治」のメカニズムが発動してしまうのもまた、いまの日本のインターネット空間のおもしろいところなわけで、何にせよ、ネットに対する一方的な「右傾化」「保守化」のレッテル貼りは、裏返しに何かというと「サヨク」「アカ」と言いつのる脊髄反射的な考えなしと同じく、今のこのかりそめの「公」と化した“政治的な正しさ”を結果として補強するようにしか作用しません。その限りでそれらは共に乗り越えられるべき〈いま・そこにある不自由〉なのです。

嫌韓厨」というもの言いは、そのようなからくりに対して無自覚なまま、韓国/半島に対する違和感をただおのれの感情に任せて垂れ流す、そんな方法的鈍感さに対して表明されたもの、と考えるべきでしょう。そういう意味でネットには、かつて国民国家が形づくられてゆく過程で、素朴なナショナリズムの発露から排外主義的熱狂を宿していった草の根の、まさに生身の近代常民たちとはまた違う、本質的にはむしろ彼ら近代常民のパトスを吸い上げて結果として「戦争」の方向に再編成してゆくことになった中間層イデオローグ的な部分の方が、巷間考えられている以上に濃厚に共存しているようです。ネットの動向がそのまま世間の風向きというわけでもない、という、その限りでは当たり前のようなことも、ブロードバンドに代表される常時接続環境の普及によってここ数年で飛躍的に拡大したネット人口のありようなども含めて、このように重層的になっているネットにおける自意識の表現と個別具体でつぶさに対峙してゆくことからしか、本当に実のあるものにしてゆくことはできないでしょう。


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 ともあれ、そんないまどきの常民そのものであるかも知れない「嫌韓厨」も、いまやいつまでもそのままでいるとは限らない。素朴な「嫌韓」から「嘲韓」「怒韓」、さらに「呆韓」「笑韓」へとわが国民感情が“進化”してゆくさまが、ネット上ではそれぞれの段階に応じて格好な事例が存在しています。

 今回の「サイバー壬申倭乱」の一件も、ネットを介して韓国のナショナリズムとナマな形で直面することになったという意味で、大きな教育効果があったと言えます。とは言え、かつて近代黎明期にアジアのナショナリズムと直面し、西欧文明との対抗意識からこれを扶けようと東奔西走したような、かつての大陸浪人的な激烈なエートスは、一部の「リベラル」方面が懸念するような形では、いまのネット上にはまず宿りにくいでしょう。むしろ、逆に「アジア」そのものを相対化してゆくことで、新たな脱亜論、大陸や半島から戦術的に距離を置くことで日本の主体性を確保しようとする方向が、まだ萌芽的なものながら、一部で新たな形になりつつあるようにも思えます。

 以下の「脱亜論」の一節は、書かれてから120年、いまのネット上でこそ改めてリアルなものになりつつあるようです。

「輔車唇歯とは隣國相助くるの喩なれども、今の支那朝鮮は我日本のために一毫の援助と爲らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三國の地利相接するが爲に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの價を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。(…)左れば、今日の謀を爲すに、我國は隣國の開明を待て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず、寧ろその伍を脱して西洋の文明國と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ。惡友を親しむ者は共に惡友を免かる可らず。我は心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり。」

 「亜細亜東方の悪友」――奇しくも、ネットの「国民」たちの間では最近、「極東の三馬鹿」といったもの言いもされ始めています。朝鮮半島の南北国家に「宗主国支那を加えた三国をひとからげに観るこの視点は、「リベラル」を自称する向きがうつろな眼で言いつのるあの空虚で顔の見えない「アジア」でも、あるいはまた、かつてのアジア主義にも共通するいささか自制を失した浪漫主義に裏打ちされた茫漠たる八紘一宇の「アジア」でもなく、無意識ながらも地政学的な認識を前提にした平衡感覚を内包したものになっているように思えます。それはいわゆる華夷秩序の序列の周縁に歴史的・地理的に位置してこざるを得なかったわれわれ日本が、その経緯をようやく地力で裏返しに相対化してゆける、それだけの条件が整い始めている、と言うことなのかも知れません。立場が何であれ、日本語を母語とする広がりの中での「アジア」というくくり方そのものにまつわってきたさまざまな不自由。右も左もその不自由を自ら乗り越えることができないまま、同じ桎梏に苛まれてきたこれまで自体を、すでにひとつの歴史として観ることのできる覚醒が現実のものになり始めている、そんな想いさえ抱かせてくれます。

 グローバリズムもIT革命も、それこそ「地球市民」などという妄想と共に、何やら「民主化」「リベラル」の旗印のように扱われてきたこれまでというのがあり、実際また、そのように「国際化」してゆくことが正しい、というイデオロギーもいまどきの“政治的な正しさ”の要素のひとつとして組み込まれてきたところがあります。しかし、今のネット空間がこのように重層化、複雑化してきて、良くも悪くも、言葉本来の意味でのメディアリテラシーを国民に備わらせてゆく重要なメディアになってきていることで、それらのスローガンを必死に持ち回る装置となってきた“政治的な正しさ”の天蓋の向こう側に新たな現実を見ようとし始めているのは、思えば皮肉なことです。

 かつてポーツマス講和会議から帰国する途中、中途半端な講和で手を打ったこと対して日本の常民たちが怒りをたぎらせ、中には暗殺しようとする動きまであることを耳にした小村寿太郎は、「偉いなあ、日本国民は。僕は心からたのもしいと思った。……意気さ。知らざるものに罪はない。焼打したり、僕を殺そうとしたりする意気、この意気が非力な相撲に勝ったのだ」と言ったそうです。

 竹島の切手問題についてもそうですが、その小村のような国民に対する信頼、〈いま・ここ〉に澎湃と起こりつつあるらしい新しい現実について穏やかに視線を落としてみようとする器量、そんなものを初手から持ち合わせていないかのような“政治的正しさ”に呪縛された官僚たちの立ち居振る舞いは、ネットも含めたいまの情報環境の中で、開かれた批評の前に情け容赦なくさらされてゆきます。

 たとえ、つれづれなるままの落書きに等しかったり、あるいは時に感情任せの暴走に過ぎなかったりもする「嫌韓厨」に代表されるネット上の書き込みの断片からでさえも、さて、現実世界においてはわれらが選良であるはずの政治家や、まごうかたない秀才であろう外交官諸兄などは、さて、かつての小村の述懐のように、ここで図らずも表現されている“表立っては語ってはいけないもの”の何を、どう読み取って、現実の政治や施策に反映してくれるのでしょうか。そしてまた、そのような回路はこれから先の日本の民主主義にとって、どのように保証されるべきものなのでしょうか。 

*1:ファビョーん」というのは、韓国人特有の精神的疾患と言われる「火病」(Hwapyung)を下敷きにしている。強いストレスをうまくコントロールできず胸苦しくなる症状とされる。「九六年、米国の精神科協会では、この火病を韓国人にだけ現れる特異な現象として精神疾患の一種として公認し、文化欠陥症候群の1つとして登載している」とも。